日本、継体天皇、百済 武寧王

日本の初見

継体三年(509年)「久羅麻致支彌、日本より来る。」の一文は、日本書紀に見られる日本国号最古の使用記録という。また、日本天皇の初見は、継体天皇28年の記事である。

百済の武寧王墓碑が明らかにした歴史的事実は、『日本書紀』年代記述の中で、「百済本記を取りて文を為れるなり」と記す継体天皇紀の年代が正しいことをしめしている。

久羅麻致支弥 くらまちきみ

6世紀前半の百済(くだら)(朝鮮)への使者。百済本記(久羅麻致支彌は日本から来た)。継体天皇3年(509)に派遣された日本人という。任那(みまな)の日本県(やまとのあがた)の村に逃亡してきて戸籍のなくなった人を,本国に送還して戸籍につけたとされる。「日本書紀」引用の「百済本記」にみえ,日本名を倉(車)持君と推定する説もある。

<春二月に、使いを百済に遣わす。(本注:百済本記に曰く、久羅麻致支彌(くらまちきみ)、日本より来るといふ。未だ詳らかならず。)任那の日本の県邑(あがたのむら)に在(はべ)る、百済の百姓(たみ)の、浮逃(に)げたる(浮浪逃亡した)と、貫(へ。戸籍、本貫)絶えたるとの、三四世なりたる者(三、四代を経た者)をさえ括(ぬ)き出して、並びに百済に遷して、貫に付く。>(継体紀三年条、509年)

この時期百済の斯麻(武寧)王は即位したもののたいへん苦しい状況にあった。長年にわたる高句麗・新羅からの圧迫によって百済の民は任那に逃げていたようです。それで大王年の命によって久羅麻致支彌が任那に派遣され、三・四世代に遡って百済の民を探し出し本国へ返した…ということでしょうか?。

書記の日本天皇、継体王の死の謎

 或本云 天皇廿八年歳次甲寅崩 而此云廿五年歳次辛亥崩者取百済本紀為文 其文云 太歳辛亥三月 軍進至于安羅営乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨 由此而 辛亥之歳當廿五年矣 後勘校者知之也

これが日本書紀の原文である。

ある本に云う 天皇二十八年の歳とし甲寅の時崩じた それであるのにここに二十五年の歳とし辛亥に崩じたと云うのは百済本紀の文によっている。その文に云うには「太歳辛亥三月、百済軍は進み于安羅に到り乞乇こっとく城に陣をとった。 この月、高句麗の王、安が殺された。又聞くところによると日本天皇および太子、皇子ともに崩くなった」ということだ。 天皇の崩じたと云う辛亥の年は継体二十五年にあたるのだ。このことは後に良く考えた者がこの真実を知る事ができるであろう。

仏教公伝と今城塚古墳の三種類の石棺
百済の聖明王が仏教を日本に伝えたのは欽明十三年(552年)のこととするが、元興寺縁起などでは欽明七年戊午(538年)としており、戊午という干支は欽明天皇即位を539年とするならあり得ず、百済本記に記す継体天皇・安閑太子・宣化皇子3人とも死亡の531年の翌年に欽明即位であれば合うのです。
そして、驚いたことに99%継体天皇陵とされる高槻市の今城塚古墳から、三種類の石棺(二上山白石・兵庫竜山石・阿蘇ピンク石)が発掘されたのです。

武烈6年(504)百済国が麻那王を遣わして、調を奉った。天皇は百済は永く貢物を持ってこなかったことを思って、王を留めておいて帰さなかった

武烈7年(505)百済王が斯我君を遣わして、調を奉って「前に調を奉った使の麻那は、百済の国王の一族ではありません。ゆえに謹んで斯我を遣わして朝廷にお仕えさせます」という。その後、子が生れて法師君という。これが「倭君(やまときみ)」の先祖である。(和氏は姓氏録や日本書紀によると、6,7世紀にはなんの見るべきものはないが、和新笠が光仁天皇の夫人となり、桓武天皇を生んでから、急速に台頭する。一族の家麻呂は帝の外戚との理由で、中納言に抜きん出られ、日本後紀はわざわざ「蕃人(外国人)相府に入るはこれより始まる」と注記している。)

と述べている。

継体紀によると、百済に直接遣わされた人物は三年(509年)の久羅麻致支彌を始め、六年(512年)任那4県割譲の穂積臣押山、九年(515年)と二三年(529年)津割譲の物部連至至、二一年(527年)近江毛野臣とあって、帰国時に死亡し枚方で妻に引き取られた毛野臣以外の人物は、みな三島所縁の軍族の長と考えられる。

継体6 ( 512 ) 年 4 月 穗積臣押山を百済に遣使。筑紫の国の馬40匹を賜った。  

12 月 百済が遣使して貢調する。百済へ任那四県を賜る。これを知り大兄皇子が勅宣を改めようとしたがすでに遅かった。大伴大連と穗積臣押山は百済から賄賂を受けた、といううわさが流れた。  

 継体7 ( 513 ) 年 6 月 百済が五經博士段楊爾を献上した。また、伴跛国が己汶之地を奪ったので取り戻して欲しいという。百済本記(穂積臣押山を「委意斯移麻岐彌」とする)。       11 月 己汶・帯沙を百済に賜う。  

継体 8 ( 514 ) 年 3 月 伴跛が小呑・帯沙に築城し日本に備える。 

継体 9 ( 515 ) 年 2 月 百済使者文貴將軍が帰国を請うたので、物部連を副え遣わした。百済本記「物部至々連」  

 継体10 ( 516 ) 年 5 月 百済が物部連を己汶に迎えねぎらう。9 月 百済、己汶を賜ったことへ謝意。五経博士を交替。百済が高麗使安定らを副え、灼莫古將軍・日本斯那奴阿比多を遣わし、好みを結んだ。 

継体 17 ( 523 ) 年 5 月 百済武寧王薨る。

継体  18 ( 524 ) 年 正 月 百済太子明が即位。  

継体 21 ( 527 ) 年 6 月 近江毛野臣が南加羅・[口彔]己呑を復興し任那に合わせようとするが、筑紫国造磐井に阻まれる。 

継体 23 ( 529 ) 年 3 月 百済王が加羅の多沙津を請う。下哆唎の国守押山臣これを許諾。是月 多沙津を百済に賜う。加羅は日本を怨み、加羅王は新羅王女を娶るがその後新羅と仲違いする。 是 月 近江毛野臣を安羅に遣わし、新羅に南加羅・[口彔]己呑を建てることを勧告。  

継体二十三年(529年、実は安閑朝という説もある)任那四県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)割譲の現地責任者の穂積臣押山は、哆唎国守となっており、更なる割譲を迫る百済王との癒着が露わで、「大伴大連金村と共に百済の賄賂を受けた」という流言もあった。
継体23 (529)年3月 百済王が加羅の多沙津を請う。下哆唎の国守押山臣これを許諾。
是月 多沙津を百済に賜う。加羅は日本を怨み、加羅王は新羅王女を娶るがその後新羅と仲違いする。
是月 近江毛野臣を安羅に遣わし、新羅に南加羅・[口彔]己呑を建てることを勧告。
4月 任那王 己能末多干岐が来朝し、新羅の来侵に対し救助を乞う。 是 月 毛野臣は熊川にいて新羅(王佐利遲)と百済の国王を召集する。王自ら来なかったことを怒るが、これに対し新羅が武装してきたため、毛野臣は任那の己叱己利城に移る。新羅の上臣は四村を略奪し帰る。ある人は、これは毛野臣の過ちである、という。

 継体24 ( 530 ) 年 9 月 毛野臣は久斯牟羅に留まり、任那復興に努めなかった。任那は新羅と百済に兵を請い、新羅と百済は毛野臣と交戦。二国は引き上げるとき五城を落とした。  

    10 月 調吉士が任那から来て、毛野臣が政治に未熟であり、加羅に争乱を起こしたことなどを上申した。そこで目頬子を遣って毛野臣を召した。  

  継体24 ( 530 ) 年是歳 毛野臣は召されて対馬に到ったが病にあって死ぬ。送葬に川をたどって近江に入った。  

 継体25 ( 531 ) 年 12 月 百済本記(軍が安羅に至った。是月、高麗がその王・安を殺した)。 
安閑天皇 元 (534)年5月 百済が遣使し常の調を貢った。
宣化天皇2 (537)年10月 新羅が任那に冦したので、磐と狭手彦を遣って任那を助けた。磐は筑紫に留まり、三韓に備え、狭手彦は任那を鎮め、百済を救った。

欽明天皇元 ( 540 )年 8月 高麗・百済・新羅・任那が遣使し、貢職を修める。秦人・漢人ら諸蕃の帰化したものを国郡に安置し戸籍に編成した。

 欽明2 ( 541 ) 年 4 月 安羅・加羅・卒麻・散半奚・多羅・斯二岐・子他・任那日本府の官が百済に赴き、共に詔書を聴く。百済聖明王が皆で力を合わせ任那を復興しようと説く。 

 7 月 百済聖明王は安羅日本府と新羅が通じていることを責め、百済と任那の昔からの関係、新羅への警戒、任那日本府が任那復興に努力すべきことなどを強く語る。百済本記(河内直らについて、加不至費直・阿賢移那斯・佐魯麻都)。

日本書紀の継体大王

507年 継体王元年 三月五日 に継体王と仁賢大王の皇女で、母が雄略大王の皇女(その弟が武烈大王である)の手白香王女と婚姻した。即位したこの年には継体大王は五十才にはなっていたようである。即位する前に地方の王として妻を多く持っていたという。しかし、大和の血筋を大事にして手白香皇女を正室に据えたのである。やがて継体王と手白香皇女との間に男の子が生まれた。天国排開広庭尊王(欽明大王)という。
この男子が王となるのは前妻の子である二人の兄が天下を治めた後の事である。
三月十四日 八人の妃を召し入れた。
(中略、主として妃と生まれた子供の記)

508年 継体二年十月三日 武烈王を葬った。

509年 継体三年二月 使いを百済に遣わす 百済本記に言うには久羅麻致支称日本より来たると。
このようなことが書いてあるのは何故なのか未だに良く判らないことだ。(現在の百済本記には509年に日本より来ると言う文はない。この文は、古事記以前にあったと言われる古文書から引用したか)
任那の日本の県邑にいる逃亡して逃げ込んだり浮浪しているものを三代にもわたって調べ上げ百済に送り返した。

511年 継体五年 十月 都を山背の筒城に移した。

武寧王と加唐島、日本書紀
日本書紀、武烈帝の条の書紀原文、武烈帝の悪行を列記したさなかに、武寧王の記事が現れる。

百済の武寧王、武烈帝の条の書紀原文
百済新選云末多王無道暴虐百姓国人共除武寧王立諱斯麻王是琨支王子之子則末多王異母兄也琨支向倭時至筑紫嶋生斯麻王自嶋還送不至於京産於嶋故因名焉今各羅海中有主嶋王所産嶋故百済人号為主嶋今案嶋王是蓋鹵王之子也末多王是琨支王之子也此曰異母兄未詳也

訳 百済新選に云わく末多王無道で百姓に暴虐である国の人は協力して除いた武寧王立つ諱 斯麻王は末多王の異母兄の琨支王子の子である。 琨支が倭に向かい筑紫に至るとき欺麻王が生まれた。(生まれそうになったら戻ってこいと云われていたので)筑紫より返し送ったが百済の京に至らずに筑紫近くの嶋で産れてしまったのだ。それゆえ嶋と名づけた。今各羅の海の中に主嶋にむりしまという嶋が有るが王が生まれた嶋なので百済人は主嶋にむりしま(にむりは国王という意味がある。つまり国王島という意味)と呼んでいるのだ。ところで今考えるに嶋王は蓋鹵王の子であり、末多王は琨支王の子である。それであるのに異母兄というののは詳しくわからないことである。

三国史記によれば21代蓋鹵王22代息子の文周王23代その息子の三斤王と続き、そこでその血筋から文周王の兄弟である琨支の、その息子、24代東城王に王位が移り、25代にその息子武寧王と王位が繋がっている。上記の書紀の記録は、失われた「百済新撰」によるもので有る。

武寧王は王墓の墓誌石によると在位二十三年に六十二才で死去したという。生誕は461年と言うことで、書紀の記事とあっている。書紀によれば501年39歳の時王として即位するために百済に倭国から戻った様な事が書いてある。武寧王の事を伝える「百済新撰」は失われていて、書紀にその記事が転載れているのみである。

百済の状況が悪化して、その配下の将軍が百済を乗っ取った。百済国内に王位争いの騒乱が渦巻き、その末に、【王統に繋がる】ということで倭国から王子がやって来て王となった。しかも倭国で生まれたというその王子はすでに三十九才になっていた。

雄略天皇と百済の王

 東城王(末多王)が即位する事情「日本書紀」、雄略天皇二十三年(479年)四月の条
その前記に浦島伝説が書かれている

「雄略二十二年七月丹波の国の端江浦嶋子みずのえのうらしまのこ船に乗りて釣りをしていた。そして遂に大亀を捕らえてしまった。亀は捕らえられると、たちまち女になった。それで浦嶋子は、それを妻とした。二人は相伴って海に入っていった。そして遂に蓬莱山とこよのくに(東の大海底にあるという仙境)に至った。…」

雄略二十三年四月の東城王

「百済文斤王もんこんおうが急死した。その時、日本に人質となっている百済の昆支王こんきおうとその五子がいた。第二子の末多王またおうが幼年であるのに聡明なので天王〔書紀原文である〕(雄略)は内裏に呼んで、天王みずから、末多王の頭をなで、ねんごろに言葉をかけて、百済の王とさせよう。よって武器を与え、あわせて筑紫の国の軍士五百人を遣わして、護衛して、百済の国に送らせると言った。これが、東城王なのである。この年は百済の国よりの貢ぎ物が例年より多かった。筑紫の臣たちは軍船を率いて高句麗を撃った。」

末多王(東城王)
筑紫、倭国の軍勢に守られながら百済に戻った末多王(後の贈り名が東城王である)は、三斤王を暗殺した解仇と闘った真老を一等官に任命して、百済軍の総司令官とした。
たびたび侵略をくり返す高句麗の長寿王が活発に中国の北朝、南朝と親和政策を取るのに対抗して、百済は南斉に朝貢して、肩書きを得ようとするが、あまり良い効果がなかった。一方で、新羅と融和するために使者を派遣する。493年にはその功が実って、新羅から高官の娘が嫁いで来た。494年には高句麗が新羅を攻めたところに救援を送り高句麗兵を退けた。それでいながら、新羅に対して油断をせず、新羅方面に城を築きもする。
このように百済復権のために努力した末多王であったが、在位の晩年には大干ばつ(499年)に対しての無策と王宮の贅沢が庶民の感情を荒立てることになり(前記した)ついには高級武官の白加はっかの刺客に刺され(501年)死去した。
百済の東城王が軍師の白加はくかに殺された後、白加が誰によってか判らないが、鎮圧される。筑紫海上の加羅かから島で生まれたから嶋王と諱いみな(貴人の本名を呼ぶことははばかれた。それでいむ名と言われる)がつけられたが諡おくりな(帝王などの貴人の死後に、王の業績などに基づいてつける尊称)は武寧王とよばれた。書紀によれば武寧王の誕生の事情は以下のようである。

蓋鹵王は弟の昆支に告げて言った。「汝は日本に行って、天皇に使えなさい」昆支は答えて言った。「王の命と違うことは出来ません。お願いが出来るなら、王妻の一人を頂いて、そののちに派遣させて下さい」王は孕んだ妻を昆支に嫁として与えて言った。「私の孕んだ妻は、すでに産月になろうとしている。もし旅路の途中で生まれてしまったら、その女と子供を同じ船に乗せて、到着したところから船で送り返して欲しい」昆支は王と別れて日本に向かった。

六月一日 孕んだ女は王の言葉のように、筑紫の各羅島で子を産んだ。それによってこの子を名付けて嶋君といった。そして王の言葉通りに百済に送った。百済の人々は、この島を主嶋(王島)と呼んだという。

七月に昆支は平城京に入った。すでに五人の子がいたという。

百済本記
659年までに現われる『三国史記』「百済本紀」中の倭関係記事は意外と少なくて、9箇所である(応神天皇に該当する時代に7箇所、推古天皇・孝徳天皇に該当する時代に各1箇所)。

●(百濟・阿莘王)六年〔397〕夏五月。王與倭國結好。以太子腆支爲質。
●(百濟・阿莘王)十一年〔402〕夏。大旱。禾苗焦枯。王親祭橫岳。乃雨。五月。遣使倭國求大珠。
●(百濟・阿莘王)十二年〔403〕春二月。倭國使者至。王迎勞之特厚。秋七月。遣兵侵新羅邊境。
●(百濟・腆支王元年)〔405〕腆支王(或云直支)。梁書、名映。阿莘之元子。阿莘在位第三年立爲太子。六年出質於倭國。十四年王薨。王仲弟訓解攝政。以待太子還國。季弟碟禮殺訓解。自立爲王。腆支在倭聞訃。哭泣請歸。倭王以兵士百人衞送。既至國界。漢城人解忠來告白。大王棄世。王弟碟禮殺兄自立。願太子無輕入。腆支留倭人自衞。依海島以待之。國人殺碟禮。迎腆支即位。
●(百濟・腆支王)五年〔409〕。倭國遣使送夜明珠。王優禮待之。
●(百濟・腆支王)十四年〔418〕夏。遣使倭國、送白綿十匹。
●(百濟・毘有王)二年〔428〕春二月。王巡撫四部。賜貧乏穀有差。倭國使至。從者五十人。
●(百濟・武王)九年〔608〕春三月。遣使入隋朝貢。隋文林郎裴清奉使倭國。經我國南路。
●(百濟・義慈王)十三年〔653〕春。大旱、民饑。秋八月。王與倭國通好。
つまり、この中に百済三書26の記事の一つと同じ内容をもったものがあることになるが、それが
●(百濟・阿莘王)六年〔397〕夏五月。王與倭國結好。以太子腆支爲質。
であり、その百済三書とは『百済記』のことで、『日本書紀』の
○(応神天皇)八年[397]春三月、百濟人來朝。【百濟記云、阿花王立无禮於貴國。故奪我枕彌多禮、及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。】
である。また『三国史記』「百済本紀」の次の
●(百濟・腆支王元年)〔405〕腆支王(或云直支)。梁書、名映。阿莘之元子。阿莘在位第三年立爲太子。六年出質於倭國。十四年王薨。王仲弟訓解攝政。以待太子還國。季弟碟禮殺訓解。自立爲王。腆支在倭聞訃。哭泣請歸。倭王以兵士百人衞送。既至國界。漢城人解忠來告白。大王棄世。王弟碟禮殺兄自立。願太子無輕入。腆支留倭人自衞。依海島以待之。國人殺碟禮。迎腆支即位。

○(継体天皇廿五年〔531〕十二月)或本云、天皇、廿八年歳次甲寅崩。而此云廿五年歳次辛亥崩者、取百濟本記爲文。其文云、大歳辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。由此而言、辛亥之歳、當廿五年矣。後勘校者、知之也。
◇(高句麗・安臧王)13年〔531〕夏五月。王薨。號爲安臧王。(以下略)