新羅、卵生、脱解王、瓠公、 阿達羅王、細鳥女

脱解王(在位西暦五七~七九)新羅の第四代の王

『三国史記』の最初は新羅本紀。その第一巻に出てくる出色の王だ。ところが、彼は日本列島側で生まれ、数奇な運命によって渡来してきた人物であったことが記されている。
脱解、本もと、多婆那たばな国の所生なり。其の国は倭国の東北、一千里に在り。

多婆那国王の妃は、女国の王女であった。ところが妃は大きな卵を生んだ。王はこれをきらい、棄てるよう命じた。しかし妃はこれに忍びず、帛(はく きぬ)をもってその卵と共に宝物をつつみ、[木賣*](とく はこ、ひつ)の中におき、海に浮かべた。その流れゆくところにまかせたのである。
[木賣*]は、木編に賣の異体字。JIS第4水準ユニコード6ADD
その[木賣*]は、朝鮮半島側の金官国(金官加羅。金海)の海辺に流れ着いた。金官の人は、これを怪しんでとらなかった。その後、辰韓(のちの新羅)の阿珍浦(あちんほ)に着いた。このときは、新羅第一代の国王、赫居世(かくきょせい 在位前五七~後三)の三十九年(前一九、前漢成帝の鴻嘉二年)のことであった。
時に海辺の老母が縄でこれを海岸に引きつなぎ、[木賣*]をあけてみると、一人の子供がいた。そこで連れ帰って養った。大きくなると、身長九尺、風貌も秀で、知識もすぐれていた。
第二代の新羅王、南解次次雄(在位四~二三)は、その賢いことを聞き、自分の娘をその妻とした。彼はやがて大輔(だいほ 最高級の官僚)の職につき、政治をまかされた。そして第三代の国王、儒理(在位二四~五六)の遺言によって、第四代国王となった。そしてその賢王としての治績の数々がしるされている。

瓠公

第一代から第四代にかけて活躍した倭人がいる。

第一代の新羅王、赫居世の三十八年(前二〇年)、彼は王の使者として、馬韓(のちの百済)王のもとに赴おもむいた。
馬韓王は難詰なんきつした。「辰韓(注=のちの新羅)・卞べん韓二国は小国だ。そしてわが国の属国であるのに、貢物を納めないではないか」と。
けれども彼はいささかもたじろがず、
「わが国(辰韓)は、国内は充実し、周辺の国々の人々から敬畏をうけている。しかも、このようにわが王は謙虚に使者を派遣されたではないか。しかるに、貴王がわが国に対し、兵をもって威嚇するのはまちがっている」
このように堂々とのべた。馬韓王は怒り、彼を殺そうとした。が、左右の者の諫止によって、帰ることを許された。
このあと、第四代の王、例の脱解のとき、二年、大輔に任ぜられた。のちの国王の姓、金氏や国号「鷄*林」の名をなす、その契機を作った。このように国事に数々の才腕をふるったようだ。

脱解と瓠公との間を語る、一種奇妙な説話がある。
“脱解は若い時代、学問に精進すると共に、地理(土地の吉凶)によく通じていた。楊山の下の瓠公の宅を望み見て、ここは吉地であることを知った。そこで詭計を設もうけてその地を取り、ここに住んだ。その地は後に「月城」となった。”

脱解が第二代の南解王の娘と結婚したのは、このあとの話だ。脱解の出世には、達眼の瓠公の支援があったのかもしれない。

瓠公の来歴について

 瓠公は、未だ其の族姓を詳つまびらかにせず。本、倭人。初め、瓠ひさごを以て腰に繋つなぎ、海を渡わたって来きたる。故に瓠公と称す。(『三国史記』新羅本紀第一)

『三国志』の魏志韓伝は、当時(三世紀)の新羅(辰韓)人について、次のようにしるしている。

 今、辰韓人、皆褊頭へんとう。男女、倭に近く、亦文身す。
『三国志』の魏志韓伝
157年 阿達羅王、延鳥郎と細鳥女

 新羅の第八代、阿達羅王の4年(157年)のことであった。
東海のほとりに、延鳥郎と細鳥女という夫婦が住んでいた。ある日のこと、夫の延鳥郎が海で藻を採っているとき、彼の乗っていた一つの岩が動き出して日本に向かった。日本人たちは彼を見ると、非凡な方だと思い王にたてまつった。

妻の細鳥は延鳥の帰りがあまりにも遅いので海に行って探してみると、岩の上に夫の履物が脱いであった。それを見つけた細鳥がその岩の上に登ると、岩は前と同じように動いて行き、日本へと向かった。
細鳥が着くと、そこの人々が驚いて王に報告し、夫婦は再会し、細鳥は貴妃になった。

一方、新羅では太陽と月の光が消えてなくなった
預言者の日官がその理由を、「我が国に降っていた太陽と月の精が、今、日本に行ってしまったので、このような異変が起こったのです」と新羅の王に告げた。
そこで、王は使者を日本に遣わしたところ、延鳥は新羅に帰ることを断り、その代わりに妻の細鳥が織った絹織物を渡し、持ち帰って天を祭るように言った。

使者は新羅に戻って王にそのことを告げ、言われた通りに天を祭ると太陽と月が元に戻った。

曾尸茂梨については『日本書紀』 卷第一第八段 一書第四のヤマタノオロチ退治の前段に記述がある。

一書曰 素戔嗚尊所行無状 故諸神 科以千座置戸 而遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯 時彼處有呑人大蛇

スサノオは子のイソタケルと新羅に降り曾尸茂梨に居た。スサノオ言うにはこの地に私は居たくない。埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸川上にある鳥上之峯に至った。

素尸毛犁については偽書とされる『桓檀古記』所収の「檀君世紀上編」の三世檀君 嘉勒の条に次の記述がある。

( 戊)申十年豆只州濊邑叛命余守己 斬其酋素尸毛犁自是稱其地曰素尸毛犁今轉音爲牛首國也 其後孫有陜野奴者逃於海上據三島僭稱天王

戊申十年(161年)豆只(ずし)州の濊邑(わいゆう)で謀反あり、その酋長の素尸毛犁(そしもり)を斬った。これよりその地を素尸毛犁と称す。今転音し牛首國という。その孫に陝野奴がおり、海上へ逃げ三島で、天王を潜称す

「桓檀古記」 檀君世紀 三世 檀君嘉勒は
三世壇君嘉勒が即位した己亥元年はBC2182と考えられる。檀君国家は広義では北扶余・高句麗を含めるが、狭義では北扶余以前の国家で、始祖・王検がBC2333に即位してから第47代・檀君古列加が即位し、北扶余の解慕漱が即位したBC238まで続いた国家である。

三世壇君嘉勒は陝野候の遠祖・そしもりについて次のように述べる。

戊申10年 豆只州の濊(かい・わい)邑が叛した。余守己に命じて其の酋・素尸毛犁を斬った。
これより其の地を素尸毛犁という。今 転音して 牛首国という。
その後孫の陝野奴(・幋命)は海上に逃れ、三島によって天王を僭称した。

★この記録は 北倭記(契丹史)とは逆に、韓(かん)氏族の立場からのもの。
★韓室の祖先は周の武王の弟

韓之先與周同姓[一]、姓姫氏。其後苗裔事晉、得封於韓原[二]、曰韓武子。武子後三世[三]、有韓厥,從封姓為韓氏。

曽志茂利社という名が関連する神社は、熱田神宮の末社(孫若御子神社の北に南面)に祭神は居茂利大神(スサノオ)とされる曽志茂利社がある。

檀君世紀 36世 檀君売勒条
甲寅38年 陝野候 ・幋命を遣わし、往きて海上を討たしむ。十二月三島悉く平らぐ。

帝 兵を遣わし、須臾の兵と燕をうたしむ。燕人急を斉に告ぐ。斉人大挙して孤竹に入り、わが伏兵に遭い、戦いて利あらず。和をこいて去る。

『宋史』卷四百九十一 列傳第二百五十 日本傳
彦瀲第四子號神(じん)武(む)天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮即位元年甲寅、當周僖王時也。甲寅 前六〇七年。

★・は長い衣のさまが語義で、裴の本字で、嬴(えい)氏の 支族の姓。
★通志 士族略に・氏は 嬴(えい)姓。伯益の後。秦非子の孫なり。
悲の下 口 巴 郷に封じられ、因りて以って氏となす。
★六代の孫・陵 周僖王のときに当たり、封じて★解邑の君となる。
すなわち邑を去って衣に従う。又 西域に 裴氏あり。
★周の僖王とは 平王の 四代位 後の人

『釈日本紀』(述義)にある陽成天皇による878年(元慶2年)の日本紀講筵の元慶度講書(878年(元慶2年)-881年(元慶5年))で、惟良宿禰高尚(惟良高尚)がソシモリを今の蘇之保留と解説し、その分注に「此説甚可驚云々」とされた。

スサノオは,次に,朝鮮半島南端部を経営したようである。「尾張名所図絵」等の資料によると,愛知県の津島神社の創始について,
「朝鮮半島に祭られていた素盞嗚尊の御魂が,七代孝霊天皇の時に,西海の対馬に遷された。」
とある。

那祖師神社の記録にも
「朝鮮半島東南部の経営のために対馬と朝鮮半島を往復した」
と記録されている

江戸時代から『日本書紀』の曽尸茂梨が現在のどこにあたるのか盛んに議論され、候補地をあげる説が次々あらわれ、その数は戦前の段階で朝鮮半島の各地に8ヶ所にも及んだ。

此の曾戸と言うのは朝鮮の古い言葉で牛のことであり茂梨は頭と言う事であって今の江原道春川府の牛頭山であろう。よってスサノオの別名を牛頭天王とも書いてある。

此の牛頭天王が朝鮮に居られる間に「此の國には金銀が沢山有る。これを日本に運ぶ船が無くては叶わぬ」と 仰せられて髯を抜いて散かれると杉の木となり胸毛は桧(ひのき)となり臀毛(しりげ)は披(まき)となり眉毛は樟(くす)となった。 そこで杉と桶とは船にせよと仰せられた。桧は御殿を作れ披は棺桶(くわんおけ)にせよと仰せられた。 御子の五十猛命は此等の木々の苗を沢山朝鮮から持ち歸って九州からだんだんと東へ植え付けられた。

牛頭天王の素戔鳴尊は吾は最早朝鮮に止まる事を好まないと仰せられて土で船を作り再び日本に帰って来られたのが 出雲の國安来であった。ああこれで心安くなったわいと申されたので安来の名が着いたとの事である。

饒速日尊祭祀

白旗山、笠木山山麓は饒速日尊がマレビトとして大和に率いた人々の旧跡地であり、大歳命に対する信仰の篤い地域である。磯光、剣、王 子、熱田、初子、太祖、羽高の地は、天神本紀にみえる二田、十市、弦田、贄田の物部の出身地である。佐野命は目尾を拠点としてこれらの地を回り、神武天皇 は天祖(饒速日尊)を祭った。これによりこの周辺の人々の協力を得ることができたのであろう。また、笠木山は瓊瓊杵尊の滞在伝承のあるところで、ここにも 立ち寄って饒速日尊を祀っている。佐野命は八田彦の案内で伊岐須、潤野、高田と進み各地で饒速日尊を祀っている。

伊岐須近辺が落ち着いたので、八田彦の案内により、潤野の地に進み、ここでも天祖の御霊を祭った。その霊跡には現在宝満神社があり、周辺を姿見或 いは日の原ともいう。この周辺も安定化できたので、佐野命は高田に進んだ。ここで、八田彦の伴った田中熊別に迎えられた。この周辺で祭祀をしていた時、反対の意思をあくまで貫く一団があった。根智山に本拠を置く打猿一族であった。話し合いも限界に達し、打猿を誅することになった。高田の丘で熊別と椎根津彦 に討伐の命令を下した。この霊跡に神武天皇と玉依姫を併せ祀ったのが高祖神社である。

椎根津彦が総大将となり、内野の川上で賊軍を打ち破り、皇軍は是を追撃した。その勝報が高田丘に伝わったので、佐野命は大分八幡宮に進み、そこに 滞在中打猿は、米の山まで退却したので佐野命は山口に移った。打猿は米の山も打ち破られ大宰府まで退却し、さらに退却し捕らえられて遂に斬首された。この 誅戮の地を打首といい、今訛って牛頸という、と伝えられている。