応神天皇、山守、屯田、屯倉

神功皇后の三韓征伐の帰途に宇瀰(うみ、福岡県糟屋郡宇美町)で生まれたとされる。神功4年(204年)に立太子。応神天皇元年(270年)に71歳で即位、同41年(310年)に111歳で崩御。『古事記』に130歳。

『古事記』に「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。また新羅人参渡(まいわた)り来つ。ここをもちて建内宿禰命引い率て、堤池に役ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき」。『日本書紀』にも同様の記事が見え、応神五年八月条に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、応神十一年十月条に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という。

「屯田」は書紀中に三回出現する。仁徳即位前紀、大化二年、天武元年である。次に原文と概略を記す。

 「是時、額田大中彦皇子、將掌倭屯田及屯倉、而謂其屯田司出雲臣之祖淤宇宿禰曰、是屯田者、自本山守地。是以、今吾將治矣。爾之不可掌。時淤宇宿禰啓干太子。々々謂之曰、汝便啓大鷦鷯尊。於是、淤宇宿禰啓大鷦鷯尊曰、臣所任屯田者、大中彦皇子距不令治。大鷦鷯尊、問倭直祖麻呂曰、倭屯田者、元謂山守地、是如何。對言、臣之不知。唯臣弟吾子籠知也。適是時、吾子籠遣於韓國而未還。爰大鷦鷯尊、謂淤宇曰、爾躬往於韓國、以喚吾子籠。其兼日夜而急往。乃差淡路之海人八十為水手。爰淤宇往干韓國、即率吾子籠而來之。因問倭屯田。對言、傳聞之、於纏向玉城宮御宇天皇之世、科太子大足彦尊、定倭屯田也。是時、勅旨、凡倭屯田者、毎御宇帝皇之屯田也。其雖帝皇之子、非御宇者、不得掌矣。是謂山守地非之也。時大鷦鷯尊、遣吾子籠於額田大中彦皇子、而令知状。大中彦皇子、更無如何焉。乃知其悪、而赦之勿罪。然後、大山守皇子、毎恨先帝廃之非立、而重有怨」(『日本書紀』仁徳即位前紀)

額田大中彦皇子が、屯田司の出雲臣の祖、淤宇宿禰に「この屯田はもともと山守の地である。私が治めるから、淤宇宿禰は掌る必要がない」と、倭屯田と屯倉の支配権を主張した。
淤宇宿禰は、仁徳に相談し、仁徳は倭直の祖、麻呂に尋ねるが、弟の吾子籠だけしか知る者がいない。しかし、吾子籠は韓國に派遣されている。そこで、仁徳は吾子籠を連れ帰るよう淤宇宿禰に命じる。
帰国した吾子籠が言うに、「垂仁の時代に、当時太子だった景行に命じて倭屯田を定めた」との答えであった。また、その時に「倭屯田は帝皇の屯田である。たとえ太子といえども勝手に掌ることはできない」との勅旨があった。この吾子籠の証言によって、「倭屯田がかつて山守の地であった」という額田大中彦皇子の主張が誤りであることがわかった。
大山守皇子は、自分が皇太子に立てなかったのを恨んでいたが、この屯田のことでさらに反感を強くした。

魏の屯田は、兵士が駐屯することで、平時は耕作に従事し軍糧にあて、いったん事あれば武器をとってその地を守護する役割を担っていた。特に、後漢滅亡後、三国時代に入って、魏の曹操によって実施された屯田経営は有名である。魏の屯田は、一九六年に新都許に開かれた後、いわゆる中原地方一帯に広がっていったが、その管理・経営方法は次のようであった。

1). 一般の郡県による支配から切り離し、いわゆる農林大臣に直属する典農部が管理する。

2). 耕作にあたって官牛を借りた者、自分の牛を使用した者の別に、異なった割合で収穫物を分配する