忍坂大中姫、木梨軽皇子

允恭天皇の第一皇子、皇太子であった。母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかのおおなかつのひめのみこと)。同母弟に穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)、大泊瀬稚武皇子(おおはつせのわかたけるのみこ、後の雄略天皇)など。

『古事記』によれば、允恭23年立太子するも、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流される。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したといわれる(衣通姫伝説)。また『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたとある。

四国中央市にある東宮古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされている。


「日本書紀」の安康天皇元年十月条によれば、太子であった木梨皇子が非行により臣下たちの信任を失い、皆が穴穂皇子の側に着いたため、

  ここに太子、穴穂皇子を襲はむとして、密に兵を設けたまふ。穴穂皇子、また兵を興して戦わむとす。
  故、穴穂括箭(あなほや)、軽括箭(かるや)、始めてこの時に起こりぬ。

と伝え、允恭記は「この時、穴穂王子が作った矢は、今時の矢であり、これを穴穂箭と謂う」とも解説していますが、ここで言う「(カル)」は「銅製」の鏃(やじり)を指しており「古事記」が「今時の矢」だとする「穴穂矢」は、明らかに「鉄」の鏃を用いた殺傷力の強い武器(を持った勢力)を意味しているのです。「銅鉾」「銅鏃」に象徴される古い技術集団に支えられた旧支配層と、「鉄剣」「鉄鏃」「鉄冑」などで武装した、より新しい権力者たちの生々しい戦いが、継体帝のわずか一世代前(西暦450年頃)に展開されたのでしょうか?当時(五世紀中頃、古墳時代中期)河内で武威を振るった人物の墓として知られる大阪堺市の黒姫山古墳(全長114m)の石室に、24領の鉄製鎧をはじめ、おびただしい鉄製武器、武具が納められていた事実は、この推測を補強する材料になるのかも知れません。

(垂仁39年の条に、皇子の五十瓊敷入彦命が「大刀一千口」を造り、忍坂邑に蔵め、後に石上神宮に移した、という記述があるので、有力者たちが多くの武器を収蔵し、それが祭祀の対象にまで昇華したことは確かです。更に、武器庫が在ったとされる地名を冠した「忍坂大中姫」こそ、継体の祖父・大郎子の妹[大叔母]であり、木梨軽皇子の母親なのです。ただ、記紀が編集された時期、権力の中枢にあったのは、「」の地で栄えた蘇我氏を亡ぼし台頭した藤原氏であった点にも留意しなければなりません)