後漢の倭人、倭人字磚

後漢の時代に倭人は、遼東方面に住み、活動していた。

安徽省亳県所在の曹操宗族墓群の中の「元宝坑村一号墓」から、多量の字磚が出土した。
この「元宝坑村一号墓」は一族の曹胤(そういん)の墓と言われ、築造年代は後漢の建寧年間(168~172年)であることが分かっている。

「倭人有り。時を以って盟することありや否や」

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「盟する」とは「互いに神前において誓約して、盟約を結ぶ」ことである。

倭人が2世紀の半ば頃に確かに大陸の安徽省亳県に居て、後漢人(といってもやがて魏を建国するのだが)と同盟を結ぼうかと言えるような立場にあったことだけは史実と見てよい。

この古墳群の発掘は1974年から在地博物館の李燦(り さん)氏たちによって行われた。

史書のなかの倭人

蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。 「山海経」
成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢す。 「論衡」
海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という。「漢書」

注)「桓帝と霊帝の統治期間(147~189)には倭国において「乱れ(大乱)」が生じ、その結果、女王ヒミコが邪馬台国の王となって収まった。