弥生以前からの稲作と米、遺伝子解析

米と稲作の伝播について、考古学の研究が進み、次第に支那南部から直接伝来した説が有力になって、現在ではほぼすべての学界で定説になっている。また支那の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。

縄文米= 熱帯ジャポニカ米

従来考古学者達は、縄文時代に稲作があったということをなかなか認めようとしなかった。これは遺跡から水田跡が発見されないからであるが、稲作=水田稲作という図式は実は正しくない。インドシナ半島辺りで行われている焼き畑での稲作(陸稲)などは非常に高い 生産性を上げているし、我が国の初期の稲作もこの焼き畑、或いは直播きによる稲作であろうと考えれば、水田はなくて当然なのだ。
そして、縄文時代に栽培されていた稲は、現在の温帯ジャポニカではなく、熱帯ジャポニカといわれる種類のものだった。
ここに、縄文時代=熱帯ジャポニカ、弥生時代=温帯ジャポニカという稲作史論が登場したが、弥生遺跡に於ける稲のDNA鑑定の結果では、これも疑わしい。
青森県・高樋Ⅲ遺跡から出土した炭化米のDNA鑑定によれば、熱帯ジャポニカに特徴的な「7C6A」という配列を示していた。上記以外にも、弥生時代の遺跡として有名な以下の遺跡群からも熱帯ジャポニカは出土し、その割合は決して少なくないし、また調査した遺跡もほぼ全国に渡っている。

・下の郷遺跡(滋賀県守山市)・唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)・池上曽根遺跡(大阪府泉大津市)・菜畑遺跡(佐賀県唐津市)・妻木晩田遺跡(鳥取県淀江町)・登呂遺跡(静岡県静岡市)等々

この範囲は東北北部から九州地方北部に及んでおり、このことは、弥生時代日本列島の大方の場所では、水田で熱帯ジャポニカが栽培されていた事になる。

伝播ルートの研究

遺伝子工学の分野からの研究の成果、もう1つは中国政府機関が20年以上かけて満州で行った品種の調査だ。この2つが決定打になり朝鮮半島経由で米が伝来した可能性がなくなった。

順を追って説明すると、米には品種特性を決定づける遺伝子が7種類ある。このうち古代から現代に至るまで日本で発見された米の遺伝子は2つしかない。日本に存在する遺伝子をNO.1とNO.2とする。

NO.1とNO.2の遺伝子はそれぞれ温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカという品種の特有遺伝子だ。

次に稲作の発祥地である支那はもちろんNO.1からNO.7まですべて揃っている。
朝鮮半島の米はNO.2からNO.7までの6種類が揃っているが、NO.1だけは存在しない。これは気温が低いと存在できない遺伝子のため支那北部より北では存在できないためだ。
この辺の事情は「栽培稲に関する種生態学的研究」(松尾孝嶺著)に詳述されている。

往来が盛んになればなるほど、多くの種類の遺伝子を持つ米が入る確率が高まるが、日本には2種類しかないのが確認されていて、これが稲作開始の初期から広く分布していることから、米の伝来はごく限られた回数で特定の地域から伝来したと考えられる。

近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきている。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。

これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。支那政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。

また、支那南部の日本の米の起源と推定される地域は熱帯ジャポニカも温帯ジャポニカも同時に存在しているので、両者を1品種ずつ持ってきたと考えられる。

往来回数が多くなると別遺伝子品種が紛れ込む可能性が高くなるので、古代人が遺伝子選別技術を持っていない限りはこの地域だけから流入したと考えるしかない。

また朝鮮半島の米はNO.2の遺伝子が70%を占めるので、米が朝鮮半島に導入された初期段階でNO.2の遺伝子が多く伝わっていなければならない。日本から2種類の遺伝子を持った米が朝鮮半島に渡ったものの、NO.1の温帯ジャポニカ種は朝鮮半島に根付かずNO.2の遺伝子のみが広まり、そこに満州から米が入ってきて、NO.2の遺伝子を持つ米と交雑したと考えると朝鮮半島の米に遺伝子的な説明が付く。

支那にはすべての遺伝子が満遍なくあるので、特定の種類の遺伝子だけを多くして朝鮮半島に伝えるのは無理だ。

韓国の学界には古代朝鮮人が日本に米を伝えたとする説を唱える学者もいるが、この説は誤りのようです。

伊勢神宮にはこれを裏付けるような伝承がある。
「米は斉の御田から天照大神が持ってきた」というもの

さらに台湾の学者が鵜飼に着目した研究をしている
鵜飼の風習は支那の楚の国(現在の湖南省と湖北省とその周辺)とその稲作文化圏である四川省、雲南省、広東省など中国南方の地方によく見られる。日本でも普通に見られる。

ところがこの鵜飼は朝鮮半島では古来まったく見られない。台湾や琉球文化圏でも鵜飼の習慣はない。このことは最初に米を日本へ持ってきたのが、支那南部の楚に起源を持つ人たちで経由なしで直接日本に伝来させたことを裏付けている。その人達が伝えた鵜飼が日本に広まった可能性が高い。

なお、日本の品種改良技術は奈良~鎌倉時代に飛躍的に伸びたが、飛鳥時代にも籾の選別技術等が確立しており、5世紀頃には単位収量がアジアでトップクラスになっている。

日本が朝鮮を併合した時に朝鮮に日本の耕作技術が移出され、単位収量が併合前に比べて2.2倍という爆発的増加をみたが、これは灌漑設備の他、植物防疫、施肥法の伝授によるものだ。単位収量の増加は挑戦における生活の安定をもたらし、食料計画の研究資料によると摂取カロリーが一日あたり併合前に比べて一人あたり400カロリー、摂取タンパク質量が一人あたり7グラムも増えた。栄養状態の大きな改善などにより併合後の朝鮮の人口は2倍以上に増加した。

支那も朝鮮と同程度の収量であったことなどをみると日本の稲作技術は20世紀初頭のアジアでは飛び抜けてトップであったことが伺える。

出典:Yahoo!掲示板

人気ブログランキング
http://blog.with2.net/in.php?671525

くつろぐブログランキング
http://kutsulog.net/index.php?id=66431

1日(0:00~24:00)1回以上クリックよろしくお願いします

  ∧_∧
 ( ・∀・) よろしく ↑
 ( ∪ ∪
 と__)__)