庵原国、庵原氏、日子八井耳、吉備津彦の末裔

書紀自体が既に孝霊帝二年春二月条
妃、倭国香媛(またの名は絚某姉)、倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭芹彦命(またの名、吉備津彦命)、倭迹迹稚屋姫命を生む。
またの妃、絚某弟(はえいろど)、彦狭嶋命、稚武彦命を生む。弟、稚武彦命は、これ吉備臣の始祖なり

豊国の地名由来と豊国直の菟名手:豊後風土記

景行天皇の時代に、豊国を治めていた菟名手(うなで)という人が、豊前国の仲津郡(なかつのこほり)の中臣村(なかとみのむら)にたどり着くと、そこで日が暮れたので、宿を取った。明朝、白い鳥が北から飛んできて、中臣村に集まった。菟名手が従者に命じてその鳥を見張らせていたところ、その鳥たちは餅となり、また、何千株ものサトイモになった。それは冬でも花や葉を生い茂らせていた。
菟名手はそれを見て驚き喜び、「化けて芋になるなんて、いまだかつて見たことがない。本当に神徳による天地からのめでたいしるしだ」と言って、天皇にこのことを奏上した。天皇は喜んで、菟名手に「天からのめでたいしるし、地の豊穣を表すものである。お前が治める国を、豊国と呼ぼう」と仰せになり、菟名手を豊国直(とよくにのあたへ)とした。それで豊国という。

大分(おほきだ)と呼ばれるようになった由来である。

廬原国(後の駿河国)廬原郡

現在の静岡市清水区を中心として、富士川と大井川に挟まれた範囲。

白村江の庵原氏

663年中大兄皇子の外征「白村江の戦い」では、この一族の廬原君臣が一軍の将として戦った。天智紀二年條に「大日本の救将廬原君臣が健児万余を率い、正に海を越えて至る」との記述があり、常時かなりの勢力を誇っていた。後に菴原の字を用い、後世は多く庵原の字を用いた。室町時代になると今川氏傘下に入るものの、地方豪族としての勢力は衰えなかった。
廬原国造(いおはらのくにみやつこ・いおはらこくぞう)は駿河国西部を支配した国造。五百原国造とも。

『新撰姓氏録』によると孝霊天皇の皇子稚武彦命で笠氏と同系。『古事記』では孝霊天皇の皇子日子刺肩別命の子で利波氏・国前氏などと同系

寛永諸家系図伝や江戸時代の幕臣録などでは庵原家系の本姓を越智氏と記しているものが多いが、これは古事記にある系譜に基づいたためと考えられる。また、意加都彦命の父を日子刺肩別命とし、孝霊天皇の裔であるとする説もあるが、孝霊天皇皇子については稚武彦彦狭島を混同している例もあり、孝霊天皇裔説は信用できないとする記述が後年の姓氏録などの資料にある。「国造本記」には「廬原国、吉備建彦命の児、伊加部彦命を以って国造と定め賜う」と記述があり、駿河庵原氏に関しては吉備氏族とするほうが自然である。日本武尊の庵原地域伝承とも合致している。

廬原國造 (静岡県廬原郡)
思加部彦命 【池田坂井君の祖・吉備武彦命の子】、志賀高穴穂朝(成務天皇)の頃

日子刺肩別命 ひこさしかたわけのみこと

「古事記」にみえる孝霊天皇の皇子。母は意富夜麻登玖邇阿礼比売(おおやまとくにあれひめの)命(倭国香媛)。高志(こし)(越)の利波氏,豊の国前氏,五百原氏,角鹿(敦賀)の海氏の祖であるという。

大分県(豊国)の国造
国造では、豊前三国、豊後二国 あわせて五国です。

    豊国造 とよ 宇那足尼(成務天皇期) 豊氏(直)豊前国北部

    宇佐国造 うさ 宇佐都彦命(神武天皇期) 宇佐氏(公)豊前国東部

    国前国造 くにさき 午佐自命(成務天皇期) 国前氏(臣)豊後国北部

    大分国造 おおいたおおきだ (記載なし) 大分氏(君)豊後国東部

    比多国造 ひた 止波足尼(成務天皇期) 豊後国西部

国前国造
国前国(現・大分県国東市、豊後高田市、東国東郡、杵築市周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、吉備臣(きびのおみ)と同祖・吉備都命(きびつのみこと)の6世孫にあたる牟佐自命(むさしのみこと、午佐自命)を国造に定めたことに始まるとされる。日本書記の景行天皇の項、九州巡幸説話には国前臣の祖・菟名手の名が登場しており、豊後国風土記によると菟名手は景行天皇より豊国直の姓を賜姓されたとある。また史料としての初見は古事記の孝霊記にあり、国前臣は高志(北陸)の利波臣(となみ)・角鹿海直らと同じく、孝霊天皇の子・日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)の子孫であるという。

吉備津彦

第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛(絚某姉はえいろね/意富夜麻登玖邇阿礼比売命)との間の皇子である。

同母兄弟として、『日本書紀』によると倭迹迹日百襲媛命(夜麻登登母母曽毘売)、倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)があり、『古事記』では2人に加えて日子刺肩別命の名を記載する。異母兄弟のうちでは、同じく吉備氏関係の稚武彦命(若日子建吉備津日子命)が知られる。

子に関して、『古事記』『日本書紀』には記載はない。

倭国香媛
 
 
 
7孝霊天皇
 
 
 
絙某弟
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦五十狭芹彦命
(吉備津彦命)
稚武彦命

    『古事記』孝霊天皇段では、稚武彦命は大吉備津日子命(彦五十狭芹彦命)とともに吉備国平定に派遣されており、針間(播磨)の氷河之前(比定地未詳)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として平定を果たしたという。

    国前国造の祖は、景行紀十二年九月条に見える国前臣祖菟名手で、景行天皇に仕え熊襲親征の時に随行して功績があり、その子の乎左自命(一に午左自命)が志賀高穴穂朝(景行の子の成務天皇の時代)に国前国造を賜ったとされます。菟名手は吉備氏族日子刺肩別命の子とされております。
    『豊後国風土記』総記の部分には、景行天皇は豊国直の祖菟名手を派遣して豊前国仲津郡中臣村で起きた慶事を報告して豊国直の姓を賜ったという説話が記されており、「国造本紀」豊国国造条には志賀高穴穂朝に宇那足尼(菟名手と同人)が国造を賜ったと記載されています。
    以上のことから、国前国造・豊国国造は同族だと伝えたことが知られますし、九州には同じ吉備氏族という葦北国造(肥後国葦北郡)がおり、三井根子命の後裔とされます。
    日名子氏、日子臣姓

    豊国国造の領域に豊前の日名子があり、葦北国造の領域に肥後の日奈久があって、両地ともに日名子氏が起こり、また大分国造の領域の別府辺りに紀姓とも称する日名子氏が居住したことが理解されます。 
    すなわち、古代国前臣一族の流れである。
    菟名手命の後裔の黒麻呂は難波朝廷(仁徳朝)に仕えて日子臣姓を賜り、その玄孫長谷部彦(泊瀬部彦)は継体天皇朝に奉仕して日子直姓を賜った。この長谷部彦には、叔父の砥並仙人に依り仙方を伝え、豊州の処々に温泉を創るという所伝も別書にあり、肥後の日奈久温泉も想起されて興味深いものがある。
    長谷部彦の子孫は日子県主・日子郡領を世襲し、初め日子、後に日名子を苗字とした。すなわち、日子太郎次郎清国は鎌倉将軍家に仕え、その子小次郎清治は大友氏に仕えて豊後別府に住み、その子の日名子太郎左衛門尉清元は国東臣と号し大友大炊助頼泰を主として温泉奉行となり弘安年中に死去した。清元の後は、その子の「清輔(勘兵衛)-清豊(太郎左衛門)-清成(勘兵衛)-清三(勘助)-清船(官三)」と室町前期の人々まで見えており、清輔の弟又八郎清行の孫の太郎清秀は菊池氏に仕えた。

    日子県主・日子郡領が居た地とは、もともと豊後の別府辺りの地域、速見郡朝見郷の一帯を指すことが考えられるという。別府市では、いまは埋め立てられた流川の流域で別府駅前の別府温泉の旅館街がある辺り(現在の別府市元町・秋葉町一帯)が日名子と呼ばれていました。

    多氏は日子八井耳の系譜

    多氏は神八井耳の系譜とも言われるが、茨田連が多朝臣と同祖とあるので、古くは吉備津彦につながる日子八井耳に近い系譜であったと思います。

    『古事記』では、日子八井命について茨田連・手島連らの祖とする。

    『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。

    • 右京皇別 茨田連 – 多朝臣同祖。神八井耳命男の彦八井耳命の後。
    • 山城国皇別 茨田連 – 茨田宿禰同祖。彦八井耳命の後。
    • 摂津国皇別 豊島連 – 多朝臣同祖。彦八井耳命の後。
    • 摂津国皇別 松津首 – 豊島連同祖。
    • 河内国皇別 茨田宿禰 – 多朝臣同祖。彦八井耳命の後。同条では、子に野現宿禰の名を挙げる。
    • 河内国皇別 下家連 – 彦八井耳命の後。
    • 河内国皇別 江首 – 彦八井耳命七世孫の来目津彦命の後。
    • 河内国皇別 尾張部 – 彦八井耳命の後。

    日本書紀では神武天皇の長子の神八井耳の子孫が多臣ということになっている。ところが、新撰姓氏録では豊島・茨田連がカムヤイミミの息子の日子八井耳の子孫ということにされた。

    『古事記』開化天皇の条に、息長日子王は針間の阿宗君の祖

    「国造本紀」 神八井耳命の子孫、速後上命(はやのちあがりのみこと)、成務天皇の時代に伊予国造に任命
    伊予神社(伊予市): 月夜見尊 愛比賣命 神八井耳命 速後上命
    伊予神社(松前町): 彦狹嶋命 配祀 愛比賣命 伊予津彦命 伊予津姫命 大日本根子彦太瓊尊、細媛命 速後神命 伊予親王 藤原吉子

      

    阿蘇の領有をめぐって、吉備・国前国造・葦北国造一派と神八井耳一派の争いがあったように思える。

    景行天皇の時代は、吉備系統が優勢であったが、応神天皇の時代から息長、武内宿禰、基肄・紀氏が優勢となったようである。

    毛野氏

    毛野氏族はその分布からみて、大阪湾岸の茅渟地方にその起源をもち、血沼之別の流れとみられる。御諸別命より以前の系譜は難解であるが、三輪君一族との同質性がかなり濃く見られる。
     毛野前代の系譜については、世代などから推定して、磯城県主の支流で彦坐王と同祖とみられる多芸志比古命に出て、その孫が豊城入彦命(能登国造の祖・大入杵命にあたるか)、その子に八綱田命(吉備氏族の祖・彦狭島命と同人)であり、これが御諸別命の父ではないかとみられる。また、八綱田命の兄弟が能美津彦命、その子が能登国造となった彦忍島命(大矢命)か。
      なお、彦狭島命とは吉備下道系の祖たる稚武吉備津彦命と同人であり、毛野は吉備の分流であることが分かってきて驚いている。毛野氏族は当初から二流あって、上野東部から下野に展開した御諸別命の系統と、その弟の夏花命の系統であり、夏花命後裔は上野西部に展開して物部君・朝倉君等の諸氏となったとみられる

    景行天皇記の夏花命

    日本書紀 景行天皇
    9月5日に周芳(すは)のサバに着きました。その時、天皇は南の方を見て、群臣たちに「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない。」と言いました。そこに留まって、まずは多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)と国前(くにさき)の臣の祖のウナテと物部の君の祖の夏花(なつはな)を遣わして、その状況を調べさせました。そこには女人がいて、神夏磯姫(かむなつそひめ)と言い、人民も大勢いました。姫は一国の首長という存在でした。神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津(しつ)の山の榊を抜き取って、上の枝には八握の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊(に)を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて言いました。