布忍入姫命、布忍、的臣、葛城氏

日本武尊の子が布忍入姫命(仲哀天皇の妹)

日本書紀巻第7 景行(けいかう)天皇 51年正月-52年5月」の段に、

「始め、日本武尊、両道入姫皇女(ふたち゛のいりびめのひめみこ)を娶(め)して妃(みめ)として、稻依別王(いなよりわけのみこ)を生(う)めり。次に足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこ)。次に布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)。次に稚武王(わかたけのみこ)。其の兄(いろえ)稻依別王は、・・・・・・。」

と、記されています。
両道入姫皇女は、垂仁天皇の娘であり。足仲彦天皇は仲哀天皇

 日本武尊の皇女として、布忍入姫命が記されていることが注目されます。同姫の記述はこれだけですが、父の日本武尊の白鳥陵が古市に、兄の足仲彦(仲哀天皇)の墓が藤井寺に所在すると伝えることから、布忍入姫命も布忍に関わりがあると推察されます。

 また、『新撰姓氏録』河内皇別の条に「布忍首。的臣同祖、武内宿禰の後なり。日本紀に漏れたり」とあるので、大和王権から律令制の時代、布忍の地を本拠とした布忍首という氏族がいたこともうかがえます。

平安時代に、布忍寺や布忍神社が歴史に名をとどめる以前から、布忍の名は存在していたと思われます。布忍のほぼ全域は、布忍・清水・高木・鍵田・南新町・東新町の各遺跡が広がり、縄文時代から近世に継続した遺構や遺物が数多く検出されています。

孝元天皇 ー 彦太忍信命 ー 屋主忍男武雄心命 ー 武内宿禰 ー 葛城襲津彦 ー

玉田宿禰 ー 円大臣 ー 韓媛(雄略天皇妃)

葦田宿禰 ー 蟻臣 ( 妹は黒媛で履中天皇妃)ー 荑媛(市辺押磐皇子妃)

第17代 履中天皇(りちゅうてんのう)
幼名・別称:去来穂別尊(いざほわけのみこと)
大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと)
去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)
生没年:?~405?
343? 立太子(大鷦鷯尊(仁徳天皇)皇太子)
在位期間:400?~405?
父:大鷦鷯尊(仁徳天皇)
母:磐之媛命(葛城襲津彦の女)
皇后:草香幡梭皇女(誉田別尊(応神天皇)の女) 中蒂姫命
妃:黒媛(葛城葦田宿禰の女)
市辺押磐皇子
青海皇女
御馬皇子
嬪:太姫郎姫(鯽魚磯別王の女)
嬪:高鶴郎姫(鯽魚磯別王の女)
皇居:磐余稚桜宮
陵墓:百舌鳥耳原南陵(大阪府堺市)

的臣の祖 襲津彦
葛城氏の始祖である葛城襲津彦(そつひこ)は、『古事記』には武内宿禰(孝元天皇の曾孫)の子の1人で、玉手臣・的臣(いくはのおみ)などの祖いとされる。
襲津彦以降の氏人としては、葦田宿禰・玉田宿禰・円大臣・蟻臣の名が知られ、その系譜は断片的に復元可能である。 ただ玉田宿禰については、『日本書紀』允恭紀が襲津彦の孫とする一方、雄略紀では子としていて、互いに矛盾する。 同様に円大臣についても、『公卿補任』は玉田宿禰の子とするが、『紀氏家牒』には葦田宿禰の子であることを示唆した記述があって、やはり互いに矛盾している。

『紀氏家牒』によれば、襲津彦は「大倭国葛城県長柄里(ながらのさと。現在の御所市名柄)」に居住したといい、この地と周辺が彼の本拠であったと思われる。

襲津彦の伝承は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀・応神天皇紀・仁徳天皇紀に記される。何れも将軍・使人として朝鮮半島に派遣された内容であるが、中でも特に留意されるのは、襲津彦の新羅征討を記す神功皇后摂政62年条であろう。本文はわずかだが、その分注には『百済記』を引用し、壬午年に新羅征討に遣わされた「沙至比跪(さちひく)」なる人物が美女に心を奪われ、誤って加羅を滅ぼすという逸話が紹介される。従来、この「沙至比跪」と襲津彦を同一人とし、『書紀』紀年を修正して干支2運繰り下げて、壬午年を382年と解釈すると、襲津彦は4世紀末に実在した人物であり、朝鮮から俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている可能性などが指摘されてきた。

葛城氏の隆盛、襲津彦の娘の磐之媛から
葛城氏の特徴として、5世紀の大王家との継続的な婚姻関係が挙げられる。記紀によれば、襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生み、葦田宿禰の娘の黒媛は履中天皇の妃となり、市辺押磐皇子などを生んだ。押磐皇子の妃で、顕宗天皇・仁賢天皇の母である荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)は、蟻臣の娘とされる。さらに円大臣の娘の韓媛は雄略天皇の妃として、清寧天皇を儲けているから、仁徳より仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母としていることになる

葛城氏の衰退 雄略期
允恭天皇の崩御後は、王位継承をめぐって履中系王統・允恭系王統の対立が激化したと推測される。この過程で葛城氏の円大臣は血縁的に近い市辺押磐皇子らの履中系と結ぶこととなり、允恭系との対立をますます深めたのであろう。允恭系の安康天皇の即位によって劣勢に立たされた円大臣は勢力を回復すべく、次期大王として押磐皇子の擁立を画策したらしい。

ところが安康天皇3年(456年)8月、天皇が暗殺され、円大臣がその下手人である眉輪王を自宅に匿う事件が起きた。大泊瀬皇子(後の雄略)の軍によって宅を包囲された大臣は、王の引き渡しを拒否し、娘と「葛城の宅七区」(記に「五処の屯宅」)とを献上して贖罪を請うたが、皇子はこれを許さず、宅に火を放って円大臣・眉輪王らを焼殺した(眉輪王の変)。大王家とも比肩し得る雄であった葛城氏は、雄略とその配下の軍事力の前に、完全に潰え去ることとなったのである。

的戸田宿禰 いくはのとだのすくね
的(いくは)氏の祖。仁徳(にんとく)天皇12年高句麗(こうくり)(朝鮮)からおくられた鉄の盾と的を,ただひとり弓で射とおしたので天皇からこの名をあたえられた。17年新羅に朝貢をうながす使節として派遣されたという。、

宮城十二門 的の門号

門号は、伊福部 ・壬生 ・海犬養 ・猪 養(又は猪使) ・佐伯 ・建部 ・山 ・丹治比 ・玉牛 ・的 ・大伴 ・若犬養の十二の氏族名である。的と玉手の ほ か の 十 一 氏 は 連 姓 、 的 と 玉 手 だ け が と も に 臣 姓 の 氏 族 な の で あ る 。

仁賢記に
的臣蚊嶋、穂念君 罪ありて皆獄に下る

布忍神社
大阪府松原市北新町2-4-11

祭神
速須佐男之尊、八重事代主之尊、武甕槌雄之尊
摂社 末広稲荷社 宇迦之御魂大神

由緒『大阪府全志』本地(大字向井)は古来は丹北郡に属し、もと布忍荘の内にして向井村と称す。字地に宮村といへるあり。河内志村里の條に「向井屬邑一」と記せるは、此の字地を指せるものならん。
 布忍神社は西方字坊中にあり、阿麻美許曽大神、事代主命、武甕槌命を祀れり。里老の口碑に依れば、社はもと八町許り北方なる字天見丘にありしを、白布を敷きて当所に迎え奉る。故に社名を布忍と号し、村名を向井と称すと社の近傍なる氏子の各村は毒虫の到ることなく、神霊の奇瑞なりと称して崇拝せり。明治五年村社に列し、大正四年八月神餞幣帛料供進社に指定せらる。境内は七百七拾壱坪を有し、本殿・幣殿・拝殿・絵馬舎・社務所を存し、末社に春日神社・水分神社あり。氏地は本地及び大字高木・同東代・同清水・同更池・天美村大字掘にして、例祭は十月十五日、夏祭は七月十三日に行はる。
近鉄南大阪線布忍駅 北西 400m

布忍(ぬのせ)と云う地名について
 『新撰姓氏録』の河内国皇別に、「布忍首 的臣同祖、武内之宿禰之後也」とあり、布忍神社とは何らかの関係があったと思われる。
 『景行紀』に、「日本武尊、両道入姫皇女を娶って、稲依別王・足仲彦天皇・布忍入姫命・稚武王を生んだ。」とあります。布忍入姫命と当地との関連は不明ですが、父親と兄弟の顔ぶれから河内が浮かぶのは事実。
 『布忍山東坊縁起』には、「人皇五十二代嵯峨天皇の勅願によって弘仁五年(814)弘法大師再建の伽藍・本堂薬師如来・金堂観自在尊・五重塔大日如来・鎮守牛頭天王・三宝荒神・春日大明神を布忍七ヶ村の産土神と崇め奉る」とあります。

田坐神社
祭神
依羅宿祢、呉服漢織の女神 または 豊宇気毘売神
由緒
  雄略十四年に呉織漢織に携わる人々が呉の国より渡来、住吉浦に泊り、勅して丹比の田坐の地に置かれた。この地で桑を植え蚕を飼い絹糸をつくる。 依羅宿祢がこれを管す。とある。
 新撰姓氏録には依羅宿祢は日下部宿祢同祖 彦坐王の後、依羅連は饒速日命十二世孫、壊大連の後也 と出ている。
石碑が建っている。これによると仁徳天皇の行幸の際、綾織を見られてその折り殿舎仮宮のゆわれより田坐と称す。我が国の養蚕製糸の発祥の地と記載されている。
さて、田坐神社は柴籬神社に合祀されてしまっているのだが、元地で村人はこの神社を祀ってきている。 布忍神社の宮司さんに聞いた所、この南河内の人々は神仏への崇敬の気持ちは篤いとのこと

一宮神社
神戸市中央区山本通1-3-5
田心姫命
摂社 伊久波神社、熊高稲荷神社
宗像大社から祭神を勧請したと伝わる。 一宮神社から八宮神社までは、神功皇后が出発前に祈願したとされる古社ということだが、全てが小さくまた式内社でもない。生田神の裔神とされているように、生田神社との関連はあるようだが、現在はそれぞれ独立した神社となっている。

伊久波神社について
 祭神は伊久波戸田宿禰命、的戸田宿禰命とも記す。
 古代(3~4世紀)この辺りに栄えた一族の布敷首により、この土地が開発された事等を敬って、その子孫達により当社に祭られていると伝えられている。
 伊久波は324年仁徳天皇12年7月高麗より鉄的と鉄的が献上された時、武内宿禰の子孫の葛城氏の一族の楯宿禰が献上の的を射通したので、的(伊久波)宿禰の名を賜った。
 布敷宿禰・生田首は武内宿禰の子孫であり、的宿禰は戸田宿禰の子孫がいたので、一宮神社境内に伊久波神社を祭ったのである。
 元禄十二年(1699)伊久波神社の鎮座していることを伝えている。
 『国際港都の生い立ち』より、として境内掲示があり、その概要。

『日本書紀』巻十応神天皇十四年(癸卯二八三)是歳◆是歳。弓月君自百濟來歸。因以奏之曰。臣領己國之人夫百廿縣而歸化。然因新羅人之拒。皆留加羅國爰遣葛城襲津彦。而召弓月之人夫於加羅。然經三年而襲津彦不來焉。

応神紀十四年 弓月君、百済より来帰り。因りて奏して曰さく。「臣、己が国の人夫百二十県を領ゐて帰化く。然れども新羅人の拒くに因りて、皆加羅國に留れり」とまうす。 ここに葛城襲津彦を遣して、弓月の人夫を加羅に召す。然れども三年経るまでに襲津彦来ず。

『日本書紀』巻十応神天皇十六年(乙巳二八五)八月◆八月。遣平群木菟宿禰。的戸田宿禰於加羅。仍授精兵詔之曰。襲津彦久之不還。必由新羅人拒而滞之。汝等急往之撃新羅披其道路。於是木菟宿禰等進精兵莅于新羅之境。新羅王愕之服其罪。乃率弓月之人夫。與襲津彦共來焉。
応神紀十六年 平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣わす。(中略)       乃ち弓月の人夫を率て、襲津彦と共に来り。

『新撰姓氏録』左京諸蕃上 漢
太秦公宿禰
 出自秦始皇帝三世孫孝武王也。男功満王。帯仲彦天皇(諡仲哀)八年来朝。男融通王(一云弓月王。誉田天皇(諡応神)十四年。 来率廿七縣百姓帰化。献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇(諡仁徳)御世。以百廿七縣秦氏。

反正天皇柴籬宮址

中高野街道を北に向かって上田7丁目を東に入ったところにある。仁賢天皇の勅令により創建され、仁徳天皇の第3皇子である反正(はんぜい)天皇を祭神とする古社。『古事記』や『日本書紀』によると、5世紀ごろ反正天皇が第18代天皇として即位した後、都を難波から河内の丹比(たじひ)に移し丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)を造営した。それが柴籬神社あたりにあったと伝えられる。同社の南門には、「反正天皇柴籬宮址」、西鳥居前には「丹比柴籬宮址」の石碑が大阪府によって建てられている。現在のところ、宮の存在を証明する遺構などは見つかっていないが、付近一帯には極殿山・学所・反正山(はじやま)などの伝承地が多いことから、ここが宮のあった有力な候補地であることは間違いないそうだ。
住所 〒580-0014 大阪府松原市上田7-12-22

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