少彦名神、スクナヒコナ

少彦名神は鵝の毛皮(鷦鷯〔さざき〕の羽ともいう)を服として登場し、鳥取部の祖とされるなど、鳥類についても関係が深かった。
少彦名神は大国主神に協力して国土経営をした神として有名であるが、医薬の神、温泉神、酒造の神(松尾大神)、粟の神である。

少彦名神後裔の鴨県主一族。
スクナヒコナの父、五十猛命

五十猛命は、北九州に渡来して妻神(宗像女神、瀬織津姫神)を娶り定着して、そこに天稚彦らの子孫を残し、天稚彦の一族は筑後川中流域の筑前国の上座郡(三島郷)から夜須郡にかけての地に居住した。天稚彦は「高天原」(『魏志倭人伝』に見える邪馬台国で、筑後川中・下流域を主領域とした)の王家の一員として、博多平野の海神国(奴国)との軍事交渉に派遣され、そこで海神国王の妹・豊玉姫を妻として、その間に天目一箇命・少彦名神の兄弟を得るが、派遣元の高天原に敵方との内通を疑われ殺害されてしまう。

天彦根命(少彦名神兄弟の父で天若日子)。天若日子と豊玉媛は夫婦神。
高天原と海神国との勢力争いはかなり長く続いたものの、最終的には高天原側の勝利となり、二世紀前葉頃の天孫・瓊瓊杵命の降臨につながる。瓊瓊杵命は高天原王家の庶子であり(嫡子は残って本国を継いだ)、派遣されて筑前国怡土郡(福岡県前原市一帯)に遷住し、この地に伊都国を建てた。この地が記紀にいわゆる「日向」であり、ここで数代(二~三代)を経た二世紀後葉に、伊都王家の庶子の彦五瀬命・神武天皇兄弟は新天地をもとめて、畿内大和に向け東遷することになる。
『出雲国風土記』には、少彦名神は青幡佐草日子命(あおはたさくさひこ)など別の名前でも登場している。

父神は天稚彦(天津彦根命)、母は海神豊玉彦命の妹の豊玉姫という系譜をもっていた。
五十猛命と同神とも言う。素盞嗚命は牛頭天王・三宝荒神(竈神)ともされる。少彦名命は金剛蔵王菩薩(蔵王権現ともいう。金属神的側面)・薬師菩薩(医薬神的側面)という呼称でもあらわれ、事代主命としては恵比須神にも通じる神である。
島根県松江市和田見町の売布神社

メフ神社。白潟大明神・橋姫大明神ともいう。

意宇郡の式内社であった。その十月の例大祭には「致斎の初日禊し、海藻を刈って社頭に復り、清火を鑽って神饌を炊ぐ」という神事が行われるという(『神道大辞典』)。同社はいま速秋津比売を主神とし、五十猛命兄妹を配祀するといわれる。速秋津比売は罪穢を祓いきよめる水戸(みなと)の神で、瀬織津比嘩(五十猛神の妻神)に通じるようでもあるが、豊玉媛と同神か、あるいは本来の豊玉媛(海神の女で、天若日子の妻)が転訛したもの
和布刈神社は式内社ではないが、神功皇后に関わる伝承をもつ古社であり、皇后が潮の干満を起こすため用いた満珠・干珠は、社地の北東方五、六キロの奥津島・津島(いま干珠島・満珠島で、式内忌宮神社の飛地境内)に納められたといわれる。
和布刈神事は、早鞆瀬戸の対岸にある長門国豊浦郡の式内名神大社・住吉荒御魂神社(下関市一ノ宮)でも同日同時刻に行われる

住吉神社といい、住吉三神荒魂を主神に応神天皇・武内宿祢・神功皇后・建御名方命を配祀するが、長門一ノ宮たる同社は穴門国造一族によって奉斎され、その祖神天目一箇命(天若日子の子)を本来祭祀するものであった。住吉神社の祠官家は神功皇后紀に見える穴門直の祖・践立(ほむたち)の後裔であり、神田直のち賀田宿祢という姓氏で、山田・中島などを苗字とした。
和布刈神社の祭神は彦穂々出見命・草葺不合尊・豊玉比売命・宗像三女神等とされている。しかし、例によって彦穂々出見命は天若日子の訛伝であり、本来は天若日子・豊玉媛の夫婦神を祀った神社と考えられ、全国の売布(めふ)神社に通じるものがある。
塩竈神社

塩土老翁がスサノヲ神・少彦名神・天目一箇命と密接に関連することを示している。豊前国門司の和布刈神社から長門国豊浦郡、さらに出雲国の出雲・意宇郡へとつながる線は、少彦名神一族の出雲への移動経路だったのである。
古代の製塩法である土器製塩にあっても、土器製造の職業部たる土師部(はじべ、はにしべ)を管掌したのが、出雲国造の支族の土師連。
鳥取県八頭郡船岡町中央部の大江川右岸の塩上に鎮座する塩野上神社

本殿には日子火々出見命と塩椎神(塩上老翁命)の二座が祀られている。日子火々出見命は一般に神武天皇の祖父とされる皇祖神であるが、各地の祭祀例からいえば、天若日子(天稚彦)という本来の祭神が転訛した例が多い。この塩野上神社(塩ノ上大明神)でも同様とみられ、塩椎神は天若日子の子の少彦名神にあたることが多いから、塩関係の父子神を祀ったのが、この式内社ということになる。この地の古伝に、昔、塩ノ上の神は「ちまき」を食べる時に笹の葉で目を突き、片目が不自由になった、といわれる。「片目の神」とは鍛冶神の象徴であって、多くは天目一箇命を示唆し、この神も塩椎神に通じるのである。
宇治土公氏の一族磯部氏は、磯町一帯に居住していたとみられるが、その一族が居た志摩国答志郡伊雑郷の磯部邑(いま三重県志摩郡〔現志摩市〕磯部町一帯)には、皇大神宮別宮伊雑宮やその付属社としての佐美長神社がある。佐美長神社については、出口延経の『神名帳考証』は延喜式神名帳に掲げる粟島坐神乎多乃御子神社に比定していた。粟島神とは、少彦名神を指すことから、「佐美」がこの神に関係深い語であることが推される
宇治土公氏の具体的な起源については、海神族系統の大和の磯城県主・三輪君の一族に出自しており、崇神朝の大田田根子の大叔父の久斯気主命について、伊勢ノ宇治土公・石辺公・狛人野等の祖と記される系図がある。