富本銭と無文銀銭そして和同開珎

古い順に、
無文銀銭–>富本銭–>和同開珎
「無文銀銭」は「初唐」の頃に造られたものであり、当初は中国の「五銖銭」との互換性を考慮したものですが、その後唐の「開元通宝」が鋳造された以降については、「小片」を「付加」して「開元通宝」と互換性を保つために重量を合わせる改造をおこなったものである
その後「無文銀銭」は「富本銭」「和同銭」にその流通の主役の座を奪われようとされますが、それら「銅銭」に対する一般大衆の不支持により「銀」の使用(流通)が継続されていたと推定されること。新「度量衡」制度の導入により「銅銭」のインフレが発生し、銀は「流通量」が激減したと考えられる

富本銭(ふほんせん)は、683年頃に日本でつくられたと推定される銭貨である。708年に発行された和同開珎より年代は古く、日本で最初の貨幣とされる。この貨幣が実際に流通したのか、たんなる厭勝銭(えんしょうせん:まじない用に使われる銭)として使われたに留まったかについては学説が分かれている。

戦後の遺跡調査の進展もあって、富本銭の出土が相次ぐことになる。

1969年(昭和44年)に平城京跡から、1985年(昭和60年)には平城京跡の井戸の底からも出土した。
1991年(平成3年)と1993年(平成5年)には、さらに古い藤原京跡からも相次いで出土された。
これにより、今まで最も古い貨幣とされてきた708年発行の和同開珎よりも古い可能性がでてきた。

1995年(平成7年)には、群馬県藤岡市の上栗須遺跡から1枚出土している。
1999年(平成11年)1月、飛鳥京跡の飛鳥池工房遺跡から33点もの富本銭が発掘された。それ以前には5枚しか発掘されていなかった。
33点のうち、「富本」の字を確認できるのが6点、「富」のみ確認できるのが6点、「本」のみ確認できるのが5点で、残りは小断片である。完成に近いものの周囲には、鋳型や鋳棹、溶銅が流れ込む道筋である湯道や、鋳造時に銭の周囲にはみ出した溶銅である鋳張りなどが残っており、仕上げ段階に至っていないことから、不良品として廃棄されたものと考えられる。

富本銭が発掘された地層から、700年以前に建立された寺の瓦や、687年を示す「丁亥年」と書かれた木簡が出土していること、『日本書紀』の683年(天武天皇12年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」との記述があることなどから、発掘に当たった奈良国立文化財研究所は、同年1月19日に、和同開珎よりも古く、683年に鋳造されたものである可能性が極めて高いと発表し、大々的に報道された。これにより、「最古の貨幣発見」「歴史教科書の書き換え必至か」などとセンセーショナルな報道がなされた。

その後、4月以降の追加調査では、さらに不良品やカス、鋳型、溶銅などが発見された。溶銅の量から、実に9000枚以上が鋳造されたと推定され、本格的な鋳造がされていたことが明らかになった。アンチモンの割合などが初期の和同開珎とほぼ同じことから、和同開珎のモデルになったと考えられる。

2008年(平成20年)3月には、2007年(平成19年)11月に藤原宮跡から地鎮具として出土した平瓶(ひらか)の中に水晶と共に富本銭9枚が詰められていたと発表された。これらのうち、少なくとも8枚が従来のものと異なる書体「冨夲」(「冨」字の「一」も省略)であることが確認され、飛鳥池遺跡発掘のものより厚手であった。このうち4枚は富本銭の特徴とされてきたアンチモンの含有が確認されなかった。

2012年 テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」で個人所有の冨本銭が鑑定依頼品として出された。 藤原宮跡から出土したものと同時期に鋳造されたと判明。

流通貨幣説
富本銭が『日本書紀』の683年(天武天皇12年)の記事の記述に沿っていること。
国家主導の都市や寺院の建設には莫大な費用がかかり、動員された人々への支払いに充てる通貨が必要とされていたこと。初期の和同開珎を含め、初期の貨幣発行は国家の支払手段として必要上発行されたもので、一般的交換手段としての機能は副次的に位置づけられていた
すでに民間では、無文銀銭が通貨として使われていたと考えられること。
日本の歴史上に残る貨幣発行は全て流通貨幣であり、厭勝銭という宗教的な目的の貨幣発行を示す記録が存在せず、富本銭だけが厭勝銭として造られたとするのは不自然であること。
実際の取引で使われない厭勝銭であれば、ここまで精巧に造る必然性が無いこと。
国家が流通貨幣として発行したのにも拘らず、受け取った人々が国家の意図に反して宗教的な利用を行うことはあり得ることで、宗教的な遺構で出土することが即ち厭勝銭であることの証明とはならない(和同開珎にも厭勝銭として利用されたことを示す出土例がある)
などから、天武天皇が新しい国家建設のために計画的に発行したものであるとする。

『日本書紀』巻第二十九。
天武天皇十二年夏四月壬申(4月15日)

詔曰 自今以後 必用銅銭 莫用銀銭 

四月乙亥(4月18日)

詔曰 用銀莫止

 その3日後の4月18日に「用銀 莫止」「銀を使うのまで、やめなくてもいい」というのである。これは銀貨を使うなと命令したが3日後に使ってもいいと朝令暮改したのではない。

 15日の命令は「銀貨」で18日のは「銀」そのものなのだ。

無文銀銭
日本最古の貨幣といわれている私鋳銀貨。実際には地金価値で取引されたと考えられ秤量貨幣または計数貨幣とされる。江戸時代など後代にも豆板銀や丁銀等の銀の秤量貨幣が西日本では使用されている。

直径約3センチメートル、厚さ約2ミリメートル、重さ約8-10グラム(古代の1両の1/4にあたる6銖に相当(1両=24銖))。今までに大和で7遺跡、近江で6遺跡、摂津・河内・山城・伊勢の地域で1遺跡ずつの合計17遺跡から約120枚出土している。

厭勝銭説論
政治と宗教の関係が密接であった当時の事情から『日本書紀』の記述が、厭勝銭に関する規定として置かれた可能性も否定できないこと。
和同開珎発行後に旧貨幣(富本銭)との交換基準が定められたという記録が発見されていないこと。
奈良時代中期の文献の中には初めての通貨発行を和同開珎が出された708年(和銅元年)と記述するものがあること。
飛鳥池遺跡そのものが飛鳥寺の傍に存在しており、同寺または「造飛鳥寺司」と称される同寺造営のための臨時の官庁(造寺司)の関連施設と考えるのが適当であること。
などから、流通目的で富本銭が造られたとは考えにくい、と主張している。

九州説
 この「富本銭」に続いて鋳造されたとされる「古和同銅銭」については、その成分分析によりいずれも多量の「アンチモン」を含んでおり、かなり近似していることが指摘されています。
 「古和同銅銭」というのは「和同開珎」の初期鋳造品をいい、「文字」の形や「鋳造」の具合がその後の「和同開珎」(新和同)と異なっているものです。
 この「古和同銅銭」の主要な産地(銅と鉛)として候補が挙がっている中には「豊前」(大分県)の「香春岳」の銅山があり、成分(「鉛」の放射性同位体の比率)が近似しているという報告があります。(ただし、この銅山がいつ頃開かれたかは史料がなく不明となっています)
 また「アンチモン」は「伊予」からの産出ではないかと考えられています。それについては「市の川アンチモン鉱山」

「和銅年間」に「大宰府」から「銅銭」が献上された記事

「和銅三年(七一〇年)春正月壬子朔丙寅条」「大宰府獻銅錢。」

『日本書紀』顕宗紀の銀銭記事

顕宗天皇二年十月癸亥条「冬十月戊午朔癸亥、宴二群臣一。是時天下安平、民無二 徭役一。歳比登稔、百姓殷富。稲斛銀銭一文。馬被レ野。」(冬十月の戊午の朔 の癸亥に、群臣に宴したまう。是の時に、天下、安く平にして、民、徭役わる ること無し。歳比に登稔て、百姓殷に富めり。稲斛に銀銭一文をかう。馬、野 に被れり。)

『日本書紀』天武紀の銀・銅銭記事

I:天武十二年夏四月壬申条「詔曰、自レ今以後、必用二銅銭一。莫レ用二銀銭一。」 (詔して曰わく、今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること莫れ。) II:同月乙亥条「詔曰、用レ銀莫レ止。」(詔して曰わく、銀用いること止むる こと莫れ。)

『日本書紀』持統紀の鋳銭司任命記事

持統八年三月乙酉条「以二直広肆大宅朝臣麻呂・勤大貳臺忌寸八嶋・黄書連本実 等一、拜二鋳銭司一。」(直広肆大宅朝臣麻呂・勤大貳臺忌寸八嶋・黄書連本実等 を以て、鋳銭司に拜す。)

『続日本紀』文武紀の鋳銭司任命記事

文武三年十二月庚子条「始置二鋳銭司一。以二直大肆中臣朝臣意美麻呂一為二長官一。」 (始めて鋳銭司を置く。直大肆中臣朝臣意美麻呂を長官とす。)
史料E『続日本紀』和銅元・二年の銀・銅銭記事
I:和銅元年二月甲戌条「始置二催鋳銭司一。以二従五位上多治比真人三宅麻呂一 任レ之。」(始めて催鋳銭司を置く。従五位上多治比真人三宅麻呂をこれに任く。) II:和銅元年五月壬寅条「始行二銀銭一。」(始めて銀銭を行う。) III:和銅元年八月己巳条「始行二銅銭一。」(始めて銅銭を行う。) IV:和銅二年正月壬午条「向者頒二銀銭一、以代二前銀一。又銅銭並行。比姧盗逐レ 利、私作二濫鋳一、紛二乱公銭一。自レ今以後、私鋳二銀銭一者、其身没官、財入二告 人一。」(向に銀銭を頒ちて、前の銀に代えたり。また銅銭並び行う。比姧盗利 を逐い、私に濫りに鋳ることを作して、公銭を紛乱せり。今より以後、私に銀 銭を鋳る者は、その身は没官、財は告人に入れよ)

 和同開珎は710年にはじまる平城京(へいじょうきょう)の造営工事(ぞうえいこうじ)の賃金(ちんぎん)とすることを目的でつくられました。最初の頃は一日の労賃(ろうちん)を和同開珎1枚(1文(もん))で支払っていましたが、その後は貨幣価値が下落(げらく)しました。天平(てんぴょう)8年(736)頃には土器の椀2個で1文であったことが出土した木製の値段表からわかります。当時の政府は位階(いかい)を銭で買う蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)などで銭貨(せんか)の普及を図りましたが、畿内(きない)を除いて十分ではなく、地方では米や布で交易(こうえき)をおこなう従来からの方法が一般的でした。

 和同開珎がつくられたのは平城京に近い京都府南部や当時の銅の鉱山があった山口県(やまぐちけん)などでした。京都府加茂町(かもちょう)の鋳銭司(ちゅうせんし)遺跡から出土した銅をとかす堝(るつぼ)やふいごの羽口(はぐち)は、銅銭の鋳造につかわれていました。銅滓(どうさい)のこびりついた堝や羽口のとけ具合から高熱をともなう作業のようすがしのばれます。

 幾つかの銀銭抑制策の後、銀銭は和銅三年(710年)に使用禁止されました。
銀銭が流通している間は、銅銭が流通しない事を悟った朝廷は、ついに銀銭を使用禁止にしました。
ここで初めて、銅銭の価値は稲殻や布をもって表示する事になりました。
朝廷は、銅銭の価値=銀銭の価値 を諦め、銅銭の価値を銀銭の五分の一に相当する稲殻にまで妥協して公定したようです。
それでも、唐の銅銭の50倍ほどの価値を与えることができたので、朝廷としてはこの政策は成功でした。

 ところが、銅銭重視という政策を進めた結果、今度は銅銭価は市場原理に巻き込まれる事にもなりました。
銅銭を流通させる為に銀銭を禁止した事は、銀銭の価値をよりどころに銅銭価を安定させる事を困難にし、その結果、朝廷の力では固定できなくなり、銅銭価は低下し始めました。

 そこで、政府は、和同開珎の発行から13年後の721年に銀、銀銭と再び連動させる事にしました。
銀銭は、禁止されてもその価値は安定して存在していたので、それを基軸として利用して、変動しやすい銅銭価の安定を図ることにしたわけです。
「銀銭一枚=銅銭二十五枚 銀地金一両=銅銭百枚」
それでも、この段階ではまだ、銅銭価は幾分かでも実勢レート(銅の地金としての価値)より高くし、銀銭を実際の重量以上の価値を持つように公定しようという旧来の政策に未練を持っていました。

しかし、翌年には、銅銭を銀銭に連動させたにも拘らず、銅銭価は更に半分に下落してしまい、銀銭が地金価値で流通する事を黙認せざろうえなくなったと思われます。
「銀地金一両=銅銭二百枚」 (銀銭・銅銭の交換率については触れられていない)
この時点でも、日本の銅銭は、まだ、唐の銅銭の五倍という高値に公定された名目貨幣でしたが、ようやく世の中に受け入れられるようになりました。

 さて、名目貨幣が世の中に受け入れられるようになると、銀が商品として銅銭で売買されようになりました。
銀と銅銭が、地金の価値として市場に原理で交換されるようになると、価値の安定した銀は売買に使用されずに貯蔵され、銅銭ばかりが市場に出回りました。
したがって、銀は他の物品の価値を表示する力を持つ本位金属となりました。

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 滋賀県(しがけん)の崇福寺跡(すうふくじあと:668年創建)から出土した金・銀・銅の舎利容器(しゃりようき:お釈迦(しゃか)様の骨とされる粒を入れた容器・国宝)とともに「無文銀銭(むもんぎんせん)」と呼ばれる11枚のコインが出土しました。

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