好太王・広開土王 碑文

廣開土王、(好太王)は高句麗の王。374年生~412年没。391年即位。
廣開土境平安好太王と、その子長壽王の二代は高句麗の最盛期であった。

石碑は中国吉林省輯安県にあり、高さは約6.3メートル、幅約1.512メートルの四角い石柱である。
その四面に推定総数1,802字の碑文が刻まれている。

論争:英文のWikipediaより
この石碑は391年から413年に即位した広開土大王に捧げられたものである。一面は高句麗の伝説の基本的な部分、もう一面は大王の墓が永続するものであることが書かれている。碑文の残りが最も議論が盛んである大王統治の概要と彼の業績についてである。
日本の学者は間もなく391年の辛卯年の王の出征の記述に最も熱心になった。最も論争を生んだのは「辛卯パッセージ」として知られる部分である。日本の学者はその文面が最初に訳された時、8世紀に書かれた日本書紀で最初に登場する「4世紀における朝鮮半島での日本の存在」という、これまでは根拠のない伝説であった記録が、ここで確認されたことに興奮した。この「辛卯パッセージ」で完全に読める文字は以下である:

「而倭以耒卯年來渡海破百殘XX[x斤]羅以爲臣民」

このような時に倭国が大陸に侵攻する391年の出来事を類推してみよう。

390年9月、百済が高句麗の都押城を占拠した。高句麗は新羅に使者を送り協力を仰いだのである。新羅は高句麗の要請を受け、早速出陣した。百済軍主力は都押城に赴いていたため、百済の首都漢城は手薄であった。新羅軍は漢城を占領することに成功したのである。漢城が落ちたとの情報を得た百済は、動揺し、高句麗の攻撃を受けて総崩れとなって敗退した。漢城を失った百済は戻る地を失い倭国に救援要請をした。

好太王碑文の391年の出来事

百済からの救援要請を受けた応神天皇は倭国軍を急遽朝鮮半島に送ることにした。加羅に上陸した倭国軍は、軍を二手に分け、一隊は洛東江を遡り、卓淳国から新羅の首都金城を襲撃しこれを落とした。本隊は半島西海岸を北上し、百済軍と合流し新羅軍が占拠している漢城を奪い返した。そして、高句麗軍を北に追いやったのである。

好太王即位

このような時に高句麗で好太王が即位した。好太王は戦略に優れた人物であった。即位した直後の好太王は、まず、後燕と戦って遼東を奪取し、百済に対しては礼成江を境に百済に対しては攻勢を取った。続く392年、石硯城(黄海北道開豊郡北面青石洞)を含めた10城を奪取し、関彌城を陥落させた。漢水以北の諸部落をたちまちにしてほとんど落としたのである。好太王は圧倒的強さで領地を拡大したのである。

その強さに恐れ入った百済の辰斯王はとても対抗できないと高句麗に服属し、新羅は王子実聖を人質として送った。好太王はたちまちにして朝鮮半島の覇者となったのである。392年のことである。

この情報を得て怒った応神天皇は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・木菟宿禰を派遣して百済を責めた。百済国内では高句麗に従うより倭に従おうという意見が主力であったが、辰斯王は高句麗に従ったのである。百済国の重臣たちは倭に従うことを望んでおり、その重臣たちが辰斯王を殺害して、倭に対して陳謝した。紀角宿禰らは阿花を王として帰ってきた。

好太王は折角服従させた百済が、また倭についたので、394年、倭に書簡を送った。その上表文に「高麗の王、日本国に教う」とあったため、応神天皇皇子の菟道稚郎子は怒って、高句麗の使いを責め、書簡を破ってしまった。おそらく、「倭国は百済に手を出すな、高句麗の意向に従え」というようなことが書いてあったのであろう。

393年、倭についた百済は奪われた開弥城を奪回しようと高句麗に対して攻勢をかけた。新羅が百済の背後を狙っているのを知った応神天皇は倭国軍を新羅に向けて金城を包囲し新羅の動きをけん制した。倭国軍は百済を背後から援護したのである。倭国軍に金城を包囲された新羅軍は動きが取れなかったが、高句麗軍は強く、百済は奪われた土地を奪回することができなかった。

394年、百済は水谷城の奪回を諮って攻勢に出たが、奪回に失敗している。翌395年百済は、高句麗に攻勢をかけ大同江(平壌市内を流れる川)の上流まで攻め登って戦ったが、好太王の戦略の前に敗退した。好太王は百済軍を礼成江まで後退させ、百済との接境に7城を築いて防備を強化した。

第一面

惟昔始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降出生子有聖■■■■■■命駕
巡車南下路由夫餘奄利大水王臨津言曰我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王爲我連浮龜應聲即爲
連浮龜然後造渡於沸流谷忽本西城山上而建都焉永楽世位因遣黄龍來下迎王王於忽本東岡黄
龍負昇天顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業■至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王
二九登祚號爲永楽太王恩澤■皇天威武柳被四海掃除■■庶寧其業國富民殷五豊熟昊天不
弔卅有九晏駕棄國以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勲績以永後世焉其■曰

永楽五年歳在乙未王以碑麗■息■■躬率往討富山負山至鹽水上破其丘部洛六七百當牛馬群
羊不可稱數於是旋駕因過平道東來■■力城北豊五遊観土境田而還百残新羅舊是屬民
由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百残■■■羅以爲臣民以六年丙申王躬率水軍討科(=百?)残國軍■■
首攻取壹八城臼模盧城模盧城幹弓利■■■城閣彌城牟盧城彌沙城■■蔦城阿旦城古利城■
利城■彌城奥利城勾牟城古模羅城頁■■■■■分而能羅■場城■■城■■城豆奴城沸■■

第二面
利城彌鄒城也利城大山韓城掃加城敦抜■■■城■婁實城散■城■婁城細城牟婁城弓婁城蘇■
城燕婁城支利城巖門至城林城■■■■■■■■城就鄒城■抜城古牟婁城閨奴城貫奴城彡穰
城■■■■■羅城仇天城■■■■■其國城賊不服氣敢出百戦王威赫怒渡阿利水遣刺迫城横■
■■■便國城百残王困逼獻出男女生白(=口?)一千人細布千匝歸王自誓従今以後永爲奴客太王恩赦■
迷之録其後順之誠於是■五十八城村七百将残王弟並大臣十人旋師還都八年戊戌敎遣偏師観
帛愼土谷因便抄得莫新羅城加太羅谷男女三百餘人自此以來朝貢論事九年己亥百残違誓與倭和
通王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人満其國境潰破城池以奴客爲民歸王請命太王恩後稱其忠■
時違使還告以■訴十年庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退
■■■■■■■■來背息追至任那加羅從抜城城即歸服安羅人戍兵抜新羅城城倭満倭潰城■
■■■■■■■■■■■■■■■■■九盡臣有■安羅人戍兵満■■■■■■■■■■■■■

第三面

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■辭■■■■■■■■■■■■■潰
■■■■安羅人戍兵昔新羅安錦未有身來朝貢■■■■■開土境好太王■■■■■■■■■■
■■■■朝貢十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界■■■■■石城■連船■■■■■■■■■平穰
■■■■相遇王要截刺倭寇潰敗斬殺無數十七年丁未敎遣歩騎五萬■■■■■■■■■城
■■合戦斬殺湯盡所稚鎧一萬餘領軍資器械不可勝數還破沙溝城婁城還■■■■■■■■■
■城廿年庚戌東夫餘舊是鄒牟王属民中叛不貢王躬率往討軍到餘城而餘城國■■■■■■那
■■王恩晋虚於是旋還又其慕化随官來者味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧■立婁鴨盧粛斯舎■■■■■

■盧凡所攻破城六十四村一千四百守墓人烟戸賣勾余民國烟二看烟三東海賈國烟三看烟五敦城
■四家盡爲看烟城一家爲看烟碑利城二家爲國烟平穰城民國烟一看烟十連二家爲看烟住婁
人國烟一看烟二谷二家爲看烟梁城二家爲看烟安失連廿二家爲看烟改谷三家爲看烟新城三
家爲看烟南蘇城一家爲國烟新來韓穢沙水城國烟一看烟一牟婁城二家爲看烟豆比鴨岑韓五家爲
看烟勾牟客頭二家爲看烟永底韓一家爲看烟舎蔦城韓穢國烟三看烟廿一古家羅城一家爲看烟
古城國烟一看烟三客賢韓一家爲看烟阿旦城雑珍城合十家爲看烟巴奴城韓九家爲看烟各模廬
城四家爲看烟模盧城二家爲看烟牟水城三家爲看烟幹弓利城國烟二看烟三弥旧城國烟七看烟

第四面
■■■■■■■■三家爲看烟豆奴城國烟一看烟二奥利城國烟二看烟八須鄒城國烟二看烟五百
残南居韓國烟一看烟五大山韓城六家爲看烟農賣城國姻一看烟一奴城國烟二都烟廿二古牟婁
城國烟二看烟八城國烟一看烟八味城六家爲看烟就咨城五家爲看烟彡城廿四家爲看烟散那
城一家爲國烟那旦城一家爲看烟勾牟城一家爲看烟於利城八家爲看烟比利城三家爲看烟細城三
家爲看烟國岡上廣開土境好太王存時敎言祖王先王但敎取遠近舊民守墓洒掃吾慮舊民轉當劣
若吾萬年之後安守墓者但取吾躬率所略來韓穢令備洒掃言敎如此是以如敎令取韓穢二百廿家慮
其不知法則復取舊民一百十家合新舊守墓石國烟卅看烟三百都合三百卅家自上祖先王以來墓上
不安石碑致使守墓人烟戸差錯惟國岡上廣開土境好太王盡爲祖先王墓上立碑銘其烟戸不令差錯
又制守墓人自今以後不得更相轉賣雖有富足之者亦不得檀買其有違令賣者刑之買人制令守墓之

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広開土王碑(全釈文)

第一部
  昔、「始祖鄒牟王」(始祖 東明聖王)〔在位 紀元前37年~19年〕は、「高句麗」
 を建国した。その出自は「北扶余」(中国東北部(旧満州)の「松花江」の北)の天帝の
 子で、母は河伯(河の神の娘)であった。「鄒牟王」は卵を割いて生まれてきて、生まれ
 ながら徳のあるお方であった。王は御輿に乗って王城から南下した。途中、扶余の奄利
 大水を渡り、港に着いたとき、王は初めて接する人々に、『汝は天子の子で母は河伯(河
 の神の娘)であり、名は「鄒牟王」である』と名乗った。(続けて)『葭(葦)と亀に向
 って、自分のために出て、浮き橋をかけよ」と言われた。(すると、葭(葦)と亀が出て
 きて、浮き橋を掛け、王は無事、渡ることができた。(その後、王はしばらく国を治めた
 が)この世(人間としての世)を楽しまなくなったので、天の神が黄龍を遣わされ王を
 迎えに来られた。王は王都のある東側の山の上から黄龍の首にまたがって天に昇ってい
 かれた。天子(始祖「鄒牟王」)の遺言に従い、世子(太子)の儒留王(第2代「琉璃王」)
 が後を継ぎ、善政を行った。「大朱留王」(第3代「大武神王」)は前王の政治を承継した。
 昔(初代)から王位が続き、十七世孫の「廣開土王」に至って、王号を永楽大王とし、
 王の威光は広く天下に轟(とどろ)いた。(王〔廣開土王〕)は良からぬことを取り除き、
 庶民が安心して生業に励み、(その結果)国が富み、民衆も豊かになった。(ところが)
 天の神は王(廣開土王)に憐れみを持たず、王は39歳にして天に召された。(長壽王
 〔土王〕)は414年9月29日に、王(廣開土王)の遺体を山の陵墓に置き、ここに碑
 を立て、王(廣開土王)功績を銘記する。ここに、王(廣開土王)の功績を後世に伝えよ。

第二部
 ① 永楽5年(396年)条
  王(廣開土王)の永楽5年乙未の年(396年)、無礼を働いてきた稗麗(契丹)を、
 王(廣開土王)自ら軍を率いて討伐した。そして、富山・負山を過ぎ藍水に至り、そ
 の3部落、6,700集団を破り、牛、馬、羊の群、無数を捕獲した。王は自ら率い
 て来た軍隊の方向を転じ、□平道を過ぎて、東来・□城・力城・北豊・五備猶を通っ
 て(自国内に入り)(戦いは成功裏に終ったので)、遊覧しながら自国で、狩猟しなが
 ら帰ってきた。
 ② 辛卯年(331年~)条
   (高句麗は)百済・新羅を古くから属民にし、彼らも(高句麗に)朝貢してきた。
  しかるに331年以来、倭が海を渡ってやって来て百済を破り、また新羅を侵略し、
  服従させてしまった。
 ③ 6年丙申条(397年)
   永楽6年(廣開土王の在位6年丙甲年〔397年〕に、高句麗王(廣開土王)が自
  ら大軍を率いて百済軍を討伐した。王(広開土王)は「壹八城」以下58城(城を含
  む町)を攻撃したが、百済は正義の高句麗に屈服しないばかりか戦いを挑んで来た。
  王(廣開土王)は激怒し、漢江を渡って先鋒部隊を百済の王都に迫らせた。(これを見
  た百済軍は恐れおののいて)百済の王都に逃げ帰った。そうして(而)百済王(第1
  6代「阿?王」)は困り果てて、男女の奴隷千人、上質の布千匹を差し出し、王(廣開
  土王)の前に跪いてこれからは永遠に王(廣開土王)の臣下になりますと誓った。王
  (廣開土王)は先に迷っての過ち(「百済」が「高句麗」に叛いて「倭」と同盟したこ
  と)を許し、王(廣開土王)は58城、村700を奪い、残主(「百済」)の弟および
  大臣10人を人質にして都に帰った。

 ④ 永楽8年(399年)条
   永楽9年(廣開土王の在位9年己亥年〔400年〕)、「百済」が「永楽6年丙甲」条
  の誓を破り「倭」と同盟した。王(廣開土王)が(「倭」・「百済」の侵攻を警戒して)
  平壌を巡視していた(ちょうどその時)、「新羅」の使いがやって来て、「倭」が「倭」
  と「新羅」の国境に大軍を差し向け、(さらに)「新羅」の国内にまで侵攻し、城を取
  り囲んでいる濠を破壊し城を乗っ取りました。(そして)わが王(第17代「奈勿王」
  を臣下としてしまいました。「新羅」はあくまで「高句麗」に従いますので、王(広開
  土王)のご命令を願いいたすとともにそのご命令に従います。王(廣開土王)はその
  忠誠心を称賛し、「新羅王」が派遣した使者を自国に帰らせて、密計を授けた。
 ⑤ 永楽10年(401年)条
   永楽10年(広開土王の在位10年庚子年〔401年〕)、高句麗王(広開土王)は
  歩兵・騎兵5万を遣わし新羅を救援に赴かせた。途中、男居城から新羅城までその中
  に「倭軍」が満ち溢れていた。高句麗軍はそこに至ると、高句麗軍を恐れて背走した
  が、高句麗軍はなおも追撃し任那加羅にある従抜城に攻め入ると「倭軍」は降伏した。
  それで(途中で「倭軍」とともに連合していた)安羅人(を降伏させ)の彼らを守備
  兵として従抜城を守らせた。(「高句麗軍」新羅城および塩城を打ち破り「倭軍」を潰
  滅させた。新羅城内の10人中9人までもが「倭軍」に従うのを拒絶し、また、安羅
  人の守備兵をしてそこを守らせた。昔から新羅王は高句麗に従い、朝貢することはな
  かったが、(これにより朝貢するようになった-欠字部分を推測)。王(広開土王)は
  新羅を臣下に加え、その証として-欠字部分を推測)新羅王(奈勿王)は「ト好」
  (「實聖」)を王(広開土王)に人質として差出し、朝貢するようになった」となる。

 ⑤ 永楽14年(405年)条
   廣開土王の在位14年甲辰年〔405年〕)、不法にも「倭軍」は「百済」と共に帯
  方界にまで侵攻し「石城」にまでやって来た。「倭軍」は船を連ねて侵攻して来たので
  ある。(この知らせを聞いて)王(廣開土王)が自ら軍を率いて平壌から出陣した。先
  鋒部隊が「倭軍」らと遭遇し、「高句麗軍」は王の旗印を翻して侵略者「倭軍」(倭寇)
  と戦い、これを壊滅させた。惨殺したもの無数に上った。
 ⑥ 永楽17年(408年)条
   永楽17年(408年)条」全体としての解釈は、「廣開土王の在位17年丁未年〔4
  08年〕)、王(廣開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし、(倭軍)の討伐に向わせた。
  (倭軍)との戦いは、相手を総て斬り尽くし、捕獲した鎧は1万余領、軍用物資・兵器
  は数知れなかった。帰還の途中、沙□城婁城□留城など多くの城をも攻め立て
  破壊した。
 ⑦ 永楽20年(411年)条
   「東扶余」は、始祖「東明聖王」以来属民であったが、途中で謀叛を起こし、朝貢
  しなくなった。そこで、永楽20年(廣開土王の在位20年庚戌年〔411年〕)、王
  (廣開土王)は自ら兵を率いて「東扶余」の都に攻め上った。すると、「東扶余」は驚
  いて国を挙げて降伏し、王(廣開土王)に服従した。王(廣開土王)の恩恵が広く行
  き渡り、王(廣開土王)は(目的を果たし)軍隊を巡らして帰還した。「味仇婁鴨盧」、
  「卑斯麻鴨盧」、「揣奢社婁鴨」、「粛斯舎鴨盧」、「□□□鴨盧」の5人は、王
  (廣開土王)の徳を慕い、ついて来た。この戦いで、おおよそ、攻め取った城は64、
  村は1400に上った

第三部
  王(廣開土王)の「守墓人」として、従来から「高句麗」に所属していた地域から「國
 烟」と「看烟」に分けて任命する。「賣勾余民」については「國烟」2戸、「看烟」3戸、
 「東海賈」は「國烟」3戸、「看烟」5戸、「敦城」は「看烟」4戸、「于城」は「看烟」
 5戸、「碑利城」は「國烟」2戸、「平穣」は「國烟」1戸、「看烟」10戸、「□連」は
 「看烟」2戸、「俳婁」は「國烟」1戸、「看烟」43戸、「梁谷」は「看烟」2戸、「梁
 城」は「看烟」2戸、「安夫連」は「看烟」22戸、「改谷」は「看烟」3戸、「新城」は
 「看烟」3戸、「南蘇城」は「國烟」1戸、とする。
  新たに「高句麗」の民となった「韓人」・「穢人」は、「沙水城」は「國烟」1戸、「看
 烟」1戸、「牟婁城」は「看烟」2戸、「豆比鴨?韓」は「看烟」5戸、「勾牟客頭」は
 「看烟」2戸、「求底韓」は「看烟」1戸、「舎蔦城韓は「看烟」1戸、「舎蔦城韓穢」は
 「國烟」3戸、「看烟」21戸、「古須耶羅城」は「看烟」1戸、「莫古城」は「國烟」
 1戸、「看烟」3戸、「客賢韓」は「看烟」1戸、「阿旦城」・「雑珍城」は合わせて
 「看烟」10戸、「巴奴城韓」は「看烟」9戸、「臼模盧城」は「看烟」4戸、「若模盧城」
 は「看烟」2戸、「牟水城」は「看烟」3戸、「幹弖利城」は「看烟」3戸、「弥鄒城」は
 「國烟」1戸、「看烟」7戸、「利城」は「看烟」3戸、「豆奴城」は「國烟」1戸、
 「看烟」2戸、「奥利城」は「國烟」2戸、「看烟」8戸、「須鄒城」は「國烟」2戸、
 「看烟」5戸、「百残南居韓」は「國烟」1戸、「看烟」5戸、「大山韓城」は「看烟」
 6戸、「農賣城」は「國烟」1戸、「看烟」7戸、「閏奴城」は「國烟」2戸、「看烟」
 22戸、「古牟婁城」は「國烟」2戸、「看烟」8戸、「琢城」は「國烟」1戸、「看烟」
 8戸、「味城」は「看烟」6戸、「就咨城」は「看烟」5戸、「彡穣城」は「看烟」24戸、
 「散那城」は「國烟」1戸、「那旦城」は「看烟」1戸、「勾牟城」は「看烟」1戸、
 「於利城」は「看烟」8戸、「比利城」は「看烟」3戸、「細城」は「看烟」3戸、とする。

  始祖、先王たちは遠いところ、近いところの古くからの「高句麗」の民だけを王墓の
 守墓人としたが、王(廣開土王)は存命のとき、その旧民の生活が困窮していくことを
 心配し、私が亡くなった後は、私が自ら出陣し捕虜として連れて来た「韓人」・「穢人」
 を墓守人とし、220戸をそれに当てよ。そして、彼らが墓守の規則を知らないことを
 心配るので、新旧合わせて「國烟」30戸、「看烟」300戸、合計330戸を墓守人と
 するようにと命じられた。
  始祖(上祖)・先王以来、墓の上に石碑を置かなかったので、守墓人の「烟戸」が記録
 されず、間違いが起きていた。そこで、王(廣開土王)は守墓人の「烟戸」に関する記
 録を碑に銘記して間違いが起きないようにした。これからは、自ら守墓人の地位を転売
 してはならず、たとえ裕福な者がいたとしても、守墓人の地位をってはならない。
 それに違反して守墓人を売る者があれば、買った者に刑罰を科し、自ら守墓人にならなければならない。