天智天皇、天武天皇の時代の倭京とは

日本書紀の600年代に、白雉、天智、天武期に、倭京の記述が出る。太宰府説まであり、倭京とは何か。遠の朝廷か、朝倉宮か?。やはり、定説の飛鳥京を含む広域か。

天智天皇、天武天皇

孝徳天皇代653(白雉4)年、皇太子中大兄が難波より倭京に遷ることを奏して許されず、皇祖母尊(前天皇皇極)・間人皇后らと飛鳥河辺行宮に移ったとき、これに同行する。この時の日本書紀の記事には「皇弟」とある。654(白雉5)年10月、天皇の不豫に際し、皇太子と共に難波に赴く。この年か翌年、長男高市が生れる。662(天智1)年、菟野皇女に次男草壁が生れる。664(天智3)年2月、天皇の命により冠位階名の改変などを宣伝する。この時以後、天武は「大皇弟」とある。
667(天智6)年、中大兄は近江大津宮に遷都。668(天智7)年1月、中大兄が即位。同月、即位を祝う宴で、大海人は長槍で敷板を刺し貫く。天智天皇は激高するが、中臣鎌足のとりなしで事なきを得たという(藤氏家伝。大海人の怒りの原因は不明。愛人の額田王を天智に召し上げられたことに怒ったとの見方は俗説にすぎまい)。
669(天智8)年10月、内大臣鎌足の病に際し、その邸に派遣されて大織冠・大臣位・藤原姓を授ける。この時「東宮大皇弟」とあり、皇位継承者であったことを明示している。
671年12月天智天皇が亡くなる。
672年、大海人の東国入りを知った近江朝廷は、東国・倭京・筑紫・吉備などに兵を起そうとするが、筑紫大宰栗隈王は挙兵を拒絶。この頃、大伴吹負は倭京に留まり、吉野側への帰順を決意、僅かに数十人の同志を得る。
673(天武2)年2月、飛鳥浄御原に即位(天武天皇)
673年6月、耽羅・新羅より即位を祝う遣使が来日。8月、高麗使来日、朝貢。
675(天武4)年1月5日、初めて占星台を建てる。2月9日、4月18日、麻續王を因幡国に配流。

麻続王 – 天武天皇4年(675年)4月18日、因幡に流される。
屋垣王 – 天武天皇5年(676年)9月12日、筑紫大宰、土佐に流される。
稚狭王 – 天武天皇7年(678年)9月没。
高坂王 – 天武天皇12年(683年)6月6日没。

678(天武7)年4月7日、倉梯の斎宮への行幸に出発。この時、十市皇女(天武第一子か。故大友皇子の妃)が宮中で急死し、行幸は中止される。
679(天武8)年5月5日、吉野行幸。この時、天武天皇の吉野宮に幸せる時の御製歌(01/0027)。
一説に、天皇の御製歌「み吉野の耳我の…」(01/0025・或本歌0026)もこの時披露されたかという。翌
6日、草壁・大津・高市・河嶋・忍壁・芝基を集め、「相扶けて逆ふること無」きことを盟約させる。
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日本書紀の白雉4(653)年から翌年にかけて、不思議な記事

皇太子の中大兄皇子たちが、孝徳天皇を放置して、倭の京に引っ越した。
見捨てられた孝徳天皇は、退位したいと言い出した。取り残された孝徳天皇は、さびしく病気になり、
白雉5(654)年10月1日には中大兄は、皇極上皇、間人皇后を連れて難波宮に来るが10日には天皇は崩御した。葬儀もないまま、12月8日に埋葬された。

『書紀』斉明 5 年(659)7 月庚寅(15 日)条に「庚 寅、詔二群臣一、於二京内諸寺一、勧二講盂蘭盆経一。」 とあることから、倭京内に少なくとも「諸寺」―複 数の寺院が存在しており、この時期に確実に完成し、 機能していた飛鳥近辺の寺は、飛鳥寺と豊浦寺があ げられる。したがって、飛鳥地域だけでなく小墾田 地域も倭京と呼ぶことが明らかとなり大化前代より 大王宮周辺空間は拡大している。また「狂心渠」と 考えられる飛鳥東垣内遺跡は、発掘調査により運河 と考えられる幅数十mの溝跡を検出し、その溝は酒 船石遺跡跡の東側から、飛鳥東垣内遺跡を経て奥山 久米寺の西側まで達すると考えられている。そして 斉明朝の方格地割は山田道を越え奥山久米寺付近ま で広がっていた14 とみられている。以上から斉明朝で は山田道を越えた北の地域まで大王宮周辺空間が拡 大した倭京という空間が形成されたとの見方がある。

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諸説ある倭京

    倭京は飛鳥に置かれた宮都を含む、大和にあった宮都と考えられ、通常「飛鳥京」のこととされる。

    倭京という言葉は都が大津や難波にあったときに限って使用されたものであることから、固有名詞ではなく、大和の外からみて、大和(=倭)に所在する京の意味で用いられたものである

    藤原京は『日本書紀』では「新益京」(あらましのみやこ)と記されているが、『日本書紀』にはそれに先だって「倭京」の名がみえ、その景観なども記されており、とくに壬申の乱における「倭京攻防戦」の記述などから、岸俊男は藤原京(新益京)に先だった条坊制都城としての「倭京」(新益京からみれば旧都)があった可能性を指摘している。(藤原京は、694年 持統8年 に正式に宮の遷された本格的な都城である。

条坊制都城へ移る前段階であるとする説

    仁藤敦史は、上述の岸の説に対し、「倭京」を条坊制都城とは原理的に異なるものと判断し、「天武朝以前において、地域に散在する継続的な支配拠点(宮・宅・寺・市・広場など)の総体を示す用語」であると主張している。この説は、飛鳥京以前の宮都同様にこのような遺跡群体としてまずあり、飛鳥の地への大王宮の集中が「倭京」をもたらし、従来の一代限りの事業を越えるような恒常的な施設の建造をもたらしたという見解をしめしている。

    小澤毅はまた、『日本書紀』天武5年(676年)条の「新城(にいき)」の語の初出、王卿を「京及び畿内」に遣わした記事に着目し、翌677年の「京及び畿内」での雨乞いの記事、680年の「京内二十四寺」への布の施入に関する記事、「京内諸寺」の貧しい僧尼と民への救済措置にかかわる記事、685年の「京職大夫」許瀬朝臣辛檀努(こせのあそんしたの)の死亡記事など、天武5年条を画期として「京」「京師」の語が頻出することを指摘し、一定の領域をもった「京」の存在、さらに「畿内」と併称することによる周囲に広がる「京外」の存在、さらに「京職」という官司の存在は、「京」という行政区画があったことを示すものであると論じ、676年以降の「京」はそれに先だつ「倭京」とは質的に異なる空間だったと結論づけている。

万葉集の「都となしつ」の都
676年以降の「京」に関連して渡辺晃宏は、

『万葉集』の 都の歌
「大君は神にし坐せば赤駒のはらばふ田ゐを都となしつ」(大伴御行)
「大君は神にし坐せば水鳥のすだく水沼を都となしつ」(作者不詳)

の両歌は、飛鳥浄御原宮のことではなく、新益京(藤原京)の造営を詠ったものとみてよい、と述べている。

本当にそうであろうか?

山上憶良大君(おほきみ) の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす

「新古今集」天智天皇 筑前朝倉なりし丸木造の行宮におわして

朝倉や木の丸殿に我居れば名告をしつつ行くわ誰が子ぞ

筑前の朝倉か、それとも伊予の今治の朝倉か?

朝倉宮の伝承

660年、斉明天皇は百済救援のために筑紫の「朝倉の橘の広庭宮」に遷都した・・・と、日本書紀にあります。

   朝倉のある越智郡は古代伊予の豪族・越智氏の本拠地であり、伊予の国府が置かれていた瀬戸内海の交通の要衝でもある。今治の島嶼部には来島海峡(くるしまかいきょう)を挟んで大島・伯方島(はかたじま)・大三島などの芸予諸島(しまなみ海道)が連なり、越智・河野・村上氏の奉祭した”和多志の大神”大山祗神社(おおやまづみじんじゃ)が鎮座する。また天智天皇の治世に因むと考えられる西条市河原津(かわらづ)の永納山(えいのうさん)山城遺跡も近く、この地の朝倉の伝承には看過できないものが多く含まれている。全国的にはあまり知られていないが、この地が斉明天皇661年の「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」に因む土地であった可能性があるという。 

九州王朝の説

古田武彦の提唱した九州王朝説では、九州年号「倭京」の存在などから大宰府の前身(筑紫館)およびその周辺の都市計画を、律令体制確立期以前の条坊の跡と考え、これを倭京と主張している。

九州年号に倭京がある。

『倭京(=蔵司内裏・政庁)』と『法興寺(=観世音寺の前身)の西院』は618年(倭京元年)同時に完成している。
北朝様式の『倭京』と『法興寺』が完成した618年に、隋は滅亡したことになる。 

壬申の乱に「倭京」の名がみえるが、太宰府であり、ここで乱があった。この時期に畿内日本には未だ「京」と呼べるような都市は無く「倭京」とは当時日本に存在していた唯一の都市である太宰府のこととする。

倭京2年 天王寺創建か?

『二中歴』所収「年代歴」の九州年号部分細注によれば、「倭京 二年難波天王寺聖徳造」とあり、天王寺(現・四天王寺)の創建を倭京二年(619)としています。

「7世紀初頭(九州王朝の倭京元年、618年)に、通古賀地区の字扇屋敷を宮域とする初期太宰府の宮殿(同地にある王城神社)、この「王城」を中心とする条坊都市初期太宰府が建都され、九州年号の白雉元年(652年)に前期難波宮(朝堂院様式・堀立柱)を副都として創設、その後に太宰府政庁(2期、朝堂院様式・礎石造り)が新設された。」との説がある。

太宰府と鴻臚館
大宰府(だざいふ)は、7世紀後半約1300年前、天智天皇が、九州の政治の中心として創建されました。九州の筑前国に設置された九州を治める役所地方行政機関 で和名は「おほ みこともち の つかさ」と言います。
大宰(おほ みこともち)とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわば地方行政長官です。大宝律令(701年)によって、九州の大宰府は政府機関として確立一般的に「大宰府」と言えば九州のそれを指すと言われています。
遺跡は国の特別史跡。なお現在、地元では史跡は「都府楼跡」(とふろうあと)あるいは「都督府古址」(ととくふこし)などと も呼称され ています。この時代は、首都たる奈良(794年以降は京都)で失脚した貴族の左遷先となる事例が多く例としては菅原道真や藤原伊周などがいました。
九州王朝説では、大宰府が、古代北九州王朝の首都(倭京)であったと主張して います。しかし査読のある学術雑誌において九州王朝を肯定的に取り上げた学術論文は皆無であり、九州王朝説および関連する主張は科学的な根拠の欠如したいわゆる俗説に過ぎないとの強い指摘が、専門家によりなされています が人類学が描く弥生人の広がりと九州王朝説の九州王朝勢力の拡大は極めてよく一致すると考える意見があります。
*九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)とは、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、大宰府(太宰府)がその首都であったとする説で本説は「多元的古代史観」の主要な部分を占める所論です。
古田武彦は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國」(「邪馬臺國」)は九州王朝の前身であるとし、その後、九州王朝が成立したが、663年(天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしています。

「大宰」の本来の意味は宰相(総理大臣)であり、「大宰府」とは「政治を行う所」つまり「首都」という意味に取れ古代において多賀城とともに「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれていましたが、「遠の朝廷」とは「遠くにあるもう一つの首都・外国の首都」という意味であり太宰府には「紫宸殿」「内裏」「朱雀門」といった地名字(あざ)が遺存し、太宰府に「天子の居処」のあったことをうかがわせます。

隋使裴世清が608年に訪れた倭国

608年(推古十六年/隋の大業四年/)、隋使裴世清が日本列島を訪れます。彼の行き先は、倭國の王都であった。

隋書イ妥国伝(註:隋書列傳第四十六 東夷 倭國は原作イ妥國)の記す倭の王都への行程記録を読む限り、近畿地方には到達できない。


原文:「又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。(中略)又經十餘國、達於海岸。」
(また東して一支(壱岐)國に至る。また竹斯(筑紫)國に至る。また東して秦王國に至る…また十餘國を經て海岸に達する。)

原文:「自竹斯國以東、皆附庸於[イ妥]。」
(竹斯(筑紫)國より以東は、皆な[イ妥]に附庸す。)
註:【付庸・附庸】宗主国に属して、その命令に従う弱小国。従属国。付庸国。

隋書イ妥国伝の記載の隋使の行程。
1 明年、上遣文林郎裴清使於[イ妥]國
2 度百濟
3 行至竹島
4 南望[身冉]羅國
5 經都斯麻國 、迥在大海中
6 又東至一支國
7 又至竹斯國
8 又東至秦王國
9 其人同於華夏、以爲夷州疑不能明也
A 又經十餘國
B 達於海岸
C 自竹斯國以東、皆附庸於[イ妥]
D イ妥王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角、來迎
E 後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞
F 既至彼都。

藤原京、天武が位置を決め持統天皇が完成させた。

この藤原宮跡は、北に耳成山、東に天の香具山、西に畝傍山、そして南に飛鳥地域の丘陵を望むことができる。この地がまさに四神相応の王城の地とまでは言わないが、大和三山に囲まれた景勝の地であったことが実感できる。

新しい都城をこの地に築くことを決めたのは、天武天皇である。彼は、672年の壬申の乱に勝利すると、都を大津から飛鳥に戻した。しかし、すぐに王都の建設に取りかかったわけではない。
なぜか母・斉明天皇の宮だった後飛鳥岡本宮のちのあすかおかもとのみやを一部拡張して、そのまま己の宮として使ってきた。

母の宮居を受け継ぐことで正当な皇位継承者であることを天下に印象づけたかったのであろう。その後飛鳥岡本宮を正式に己の宮として飛鳥浄御原宮と改名したのは、686年(朱鳥元年)7月20日、すなわち己の命運が尽きようとするわずか1ヶ月半前のことである。

天武天皇が新しい宮の建設を思い立ったのは、即位して12年後の684年になってからだとされている。
この年(天武13年)の3月9日、天武天皇が京師を巡行して宮室の地を定め給う、と『日本書紀』は記している。

天武天皇は2年後の686年9月9日、飛鳥浄御原宮の正殿で病没してしまう。彼の遺志を継いで我が国初の条坊制(*)に基づく新しい王都造りに心血を注いだのは、皇后の鵜野讃良(後の持統天皇)だった。彼女が藤原京への遷都を実現させたのは、694年の暮れも押し迫った12月1日である。夫が新都の建設を計画してから10年の歳月が過ぎていた