天武天皇、長皇子、百済王

父は田村皇子(舒明天皇)、母は宝皇女(斉明・皇極天皇)。 

中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇皇后)の同母弟。ただし出生を疑う説もある。 

子供たち

 正妻は初め大田皇女 

 
大津皇子と大伯皇女(母は大田皇女) 

 
菟野皇女草壁皇子をもうけた

 他に、 

 
高市皇子(母は尼子娘)、
十市皇女(母は額田姫王)、
長皇子・弓削皇子(母は大江皇女)
舎人皇子(母は新田部皇女)
新田部皇子(母は五百重娘)、
穂積皇子・紀皇女・田形皇女(母は蘇我赤兄の娘)、
忍壁皇子・礒城皇子・泊瀬部皇女・多紀皇女(母は宍人大麿の娘)、
但馬皇女(母は氷上娘)などがいる。 

漢風諡号は天武天皇、和風諡号は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇。万葉集には明日香清御原宮(御宇)天皇とある。

百済王氏

百済ウィジャ王の息子である善光に持統天皇が「百済王氏」の姓を下賜した記録があり善光の子孫も百済王慶福などと記録されている。

長皇子 ながのみこ 

天武第7皇子。『皇胤紹運録』によれば母は大江皇女(天智天皇の皇女)。弓削皇子の同母兄。子に栗栖王・長田王・智努王邑知王・智努女王・広瀬女王らがいる。『皇胤紹運録』は川内王も長皇子の子とする。

704(慶雲1)年1月、封を200戸加増される。この時二品、天武皇子で序列はトップ

大原真人

生没年 未詳。おそらく生まれは慶雲年間(705~708年)以前。死去は772(宝亀3)年以後。 

父は未詳。高安王桜井王などの説がある。母は大伴女郎(04/0519大伴女郎歌一首題脚「今城王之母也。今城王後賜大原真人氏也」)。大伴女郎は不詳(旅人の妻大伴郎女と同一人とする説、及び坂上郎女と同一人とする説は成り立ち得ない)。大原真人賜姓以前の名は今城王。

『新撰姓氏録』によれば敏達天皇の孫、百済王より出ず。しかし天平11年に大原真人を賜姓されたのは以下3名

  1. 高安王 『皇胤紹運録』は長皇子の孫で、川内王の子とするが、長皇子は天智2年(663)生まれの天武第3皇子大津皇子より年少であり、高安王は初叙の年(和銅6年=713年、従五位下)から693年以前の生まれになるので、高安王を長皇子の孫とするのは年代的にかなり苦しい(長皇子は30歳以前に孫をもうけたことになってしまう)。『新撰姓氏録』より敏達天皇の裔とするのが正しいか。
  2. 桜井王 高安王の弟、714(和銅7)年無位より従五位下。天平16年恭仁京留守、この時の名は大原真人桜井。天平勝宝8歳11月23日、「大原桜井真人、佐保川邊に行きし時作れる歌」を大原今城が伝読。
  3. 門部王(かどべのおおきみ) 高安王の兄弟。710(和銅3)年、無位より従五位下。天平17年卒。
  4.  他に大原真人賜姓の例としては、

  • 忍坂王(おさかのおおきみ) 系譜未詳。「後賜姓大原真人赤麻呂」。続紀に見える忍坂王(天平宝字5年無位より従五位下)と同一人か。但し続紀に大原赤麻呂の名は見えず。

百済王

百済王(くだらのおおきみ/くだらのみこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。百済親王とも記される。敏達天皇のまご。父は押坂彦人大兄皇子と推定される。

押坂彦人大兄皇子妃糠手姫皇女の子多良王(たらのみこ、舒明天皇同母弟)である可能性(「久多良王」の「久」が脱落したか?)とする説、妃大俣王の子茅渟王(皇極天皇・孝徳天皇の父)と同一人と推定する説がある。『新撰姓氏録』に系譜と名が記載されるのみ。

日本高僧伝要文抄』所引の「音石山大僧都伝」は平安時代初期の元興寺明詮の伝記であるが、その冒頭に「和上明詮。俗姓大原氏。左京人。彦人皇子之後也。祖弾正尹従四位下桜井王天平十一年賜姓為大原氏。」とあることから、明詮は本姓が大原(真人)氏で、押坂彦人大兄皇子の子孫であったことが分かる。この系譜記述が正しければ、『姓氏録』に大原真人の祖とされる百済王は必然的に押坂彦人大兄皇子の子でなければならない。「百済親王」の表記も、兄弟の田村王(舒明天皇)即位の史実に基づき、 養老継嗣令皇兄弟子条の「凡そ皇兄弟皇子、皆親王と為す。」(原漢文)という規定を適用したことによる修文と見られる。