天山神社、天香具山

天山神社 肥前国三ノ宮
天山(1046m)は佐賀平野の北限に広がる天山山系の主峰で、広い範囲から仰ぐことができる。当社は3つある天山神社、下宮(岩蔵天山神社、晴気天山神社)。
古くから霊峰とされた天山の八合目には、「天山神社上宮」があります。
小城にはその下宮が二つあり、その一つが「晴気天山神社」、もう一つがこの「岩蔵天山神社」です。由緒について確かな記録はありませんが、同社のすぐ南にある平安初期創建の雲海山岩蔵寺との神仏習合が、古くから行われていたとみられています。天正18年(1590)に、鍋島直茂が社殿を再建。藩政時代の岩蔵天山神社は天山大明神と呼ばれ、小城藩の祈願所として崇敬されました。

毎年秋には、天衝舞(てんつくまい)が神前に奉納されます。これは、島原の乱の折りに小城藩が戦勝祈願をしたことに始まるとされる民俗芸能で、巨大な三日月形の被りものを頭に頂き舞う姿は、まさに勇壮そのものです。
天衝舞浮立は、背振・天山山系一帯にかけて催されている祭事で、その起源は極めて古く、室町・鎌倉時代にまでさかのぼるといわれています。中でも鳥巣天衝舞浮立は、素朴にして力強く、荘厳に古風を伝え、神慮を慰め、五穀豊穣・無病息災・国土安全を祈って行なわれる浜玉町唯一の浮立です。

佐賀県の徐福伝説

米の原産地は中国の東南部です。中国大陸から日本にやってきた人々によって広められたのです。
 徐福は不老不死の薬草を探すために日本にやってきました。司馬遷(BC145~86)が書いた『史記』によれば,秦の始皇帝に「東方海中の三神山にある不老不死の薬を求めてきましょう」と進言して出かけたのがBC210年のことです。2回目の航海で九州北西部に上陸し,この地で王となりました。
 佐賀県には金立山,浮盃,竜王崎など徐福に関係のある伝承地が数多くあります。
 『史記』では徐福は斉の国(始皇帝によって滅ぼされた国で現在の山東省あたりにあつた)の方士(ほうしと読む。呪術師であり,医薬,天文,他の学問にも精通していた。)という身分です。しかし,佐賀県の金立山に伝わる話では,徐福は大明国秦始皇帝の第3皇子で,宋無忌という老人の提案に従って不老不死の薬を求めて東方海中の蓬莱の国に行くことになったのです。 

天香具山
太古の時代には多武峰から続く山裾の部分にあたり、その後の浸食作用で失われなかった残り部分といわれている。山というよりは小高い丘の印象であるが、古代から「天」という尊称が付くほど三山のうち最も神聖視された。天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊予国(愛媛県)「天山(あめやま)」となり1つが大和国「天加具山」になったと『伊予国風土記』逸文に記されている。

天山神社
伊予の松山市
祭神:天照皇太神・
 社伝に云う天山神社は人皇十代崇神天皇五年(紀元前九十一年)天下饑疫す。天皇大いに懼れ群神を祀り給う時、久米麿「三輪田の祖」に勅して天櫛眞知命を久米吉井郷天山に祀らしめ神地神戸を給うとあり、続日本紀に称徳天皇天平神護元年(765)十一月使を天下諸國の神社に遣すと在り続いて神護景雲元年(767)2月天下諸社に神服を奉ると在り此の時も例に與り給う。徳川氏大政を奉遷し王政復古、明治五年(1871)五月神社沿革の際に当り村社に例せらる。 (境内由緒書より)

 八世紀前半に編集されたという地誌『伊予国風土記』逸文に、「伊与の郡。郡家より東北のかたに天山あり。天山と名づくる由は、倭に天の加具山あり。天より天降りし時に、二つに分れて、片端は倭の国に天降り、片端はこの土に天降りき。よりて天山といふ、本なり。その御影を敬礼ひて、久米寺に奉れり」と書かれている。
 この記述によると、まず、「天山」は、伊予郡にあり、郡役所の東北にある。また、名前の由来は、もと天上にあった山が地上へ落ちてきたところ、途中で二つに分割されて、片方が大和(奈良県)の天香具山となり、他の一つが天山となったという。その時の天山の絵図を久米寺に奉納したというのである。
 この久米寺の位置については、中ノ子廃寺跡、或いは国指定史跡来住廃寺跡の二説がある。
この天山の周辺には小丘陵が点在していて、皿ケ嶺を背景にして眺ある風景は、奈良県の大和三山に似ているともいわれている。 (松山市教育委員会)

伊勢神宮内宮においては、正宮(しょうぐう)と荒祭宮(あらまつりみや)という形で男神天照大神(筆者註:八代天神ワカヒト様、ウヒルキ様であって、その御子孫である、天火明命やニギハヤヒノ命とは全然異なる神です。男神だからという理由のみで、安易に同一視する方が多いので、要注意です。)と瀬織津姫の並祭は辛うじて保たれています。
 けれども、天照大神と瀬織津姫が長年居住されて、政(まつりごと)をされていた伊雑宮では男神天照大神と瀬織津姫並祭は平安時代に廃止され、一つに減らされた本殿には男神天照大神のみ祀られ、そして瀬織津姫の御神体は、近くの佐美長神社の小さな小さな摂社として祀られている。

ホツマツタエ
イザナキとイザナミの間に、めでたく元旦の初日とともにご誕生したのが男神アマテル神でした。
泣く御子の  声聞き取とれば
「あな嬉し」 これより諸が
名を請ひて  叔母より問へば
「ウヒルキ」と 自ら答う
御子の声   聞き切るときは
幼名の    ウは大なありと
ヒは日の輪  ルは日の内霊
キは杵ぞ   故ウヒルキの
尊なり    杵は女男の
男の君ぞ   
 聡明なシラヤマヒメはアマテル神の泣き声をお聞きになると、赤ん坊のアマテル神がご自分で「生まれてきてとても嬉しい」とおっしゃていることがわかったのです。それを一同に告げると、みなアマテル神のお名前をご自身にたずねてくれと頼みます。シラヤマヒメがお名前を
たずねると、ふたたびアマテル神は「ウヒルキ」とご自分でご自分の名前をおっしゃったというのです。

大日霊貴はアマテル神で男神
 アマテラス神(天照大神)は幼名を「ワカヒト」「ウヒルキ」と、また別名「大日霊貴(オオヒルメムチ)」とも呼ばれます。

天忍穂耳命を祀る八皇子神社が六甲山にあるそうです。瀬織津姫を主祭神として祀っていたと思われる祓御神社を摂社に持つ保久良神社もあるそうです。

ホツマツタエでは
瀬織津姫=向か津姫とその御子神である、天忍穂耳命のご関係はホツマを通じてしか判明しません。
瀬織津姫を祀らずし、天照大神を女神とし、その御子神、天忍穂耳命については、そのご業績をかき消すような記し方をしています。(記紀による日本神話では)

 ホツマによれば、天照大神の別の御名はワカヒト(若一)であり、ウヒルキ(大日霊貴)です。ですから若王子神社等でで若一(にゃくいち)さんを祀っているのは天照大神であり、大日霊(女)貴命として祀っている神社も天照大神であり、ニギハヤヒとは無関係という。

八代神社(やつしろじんじゃ)
熊本県八代市妙見町にある神社である。妙見宮(みょうけんぐう)、妙見さん。旧社格は県社。上宮、中宮、下宮の三宮からなるが、現在は下宮が本宮である。福島の相馬妙見、大阪の能勢妙見と並んで、日本三大妙見の一つといわれる。

795年(延暦14年)、横岳頂上に上宮を創祀。1160年(永暦元年)、中宮を建立。1186年(文治2年)に、後鳥羽天皇の勅願で、検校散位(けんぎょうさんみ)大江朝臣隆房により下宮が創建された。

1870年(明治3年)までは妙見宮と呼ばれた。妙見神とは、北極星・北斗七星の象徴である。神道と仏教の両部の宮寺で、広く崇敬を受け、八代、下益城、芦北三郡の一の宮として栄えた。1871年(明治4年)、神仏分離令により、天之御中主神、国常立尊を祭神とし、社名を八代神社と改められ、県社となった。

日本國の神となった天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、日本の神話に登場する最初の神様で、天の中心的存在の祖先神。
また、國常立尊(くにのとこたちのみこと)は、天と地が分かれて國土を形成し、國土を守る神様。

 妙見神の伝来には、中國伝来説と百済王帰化説がある。
中國説では、681年に中國の明州(寧波)から八代の竹原の港に着岸された。

百済王説では、百済国王の斎明と、第3皇子の琳聖太子が帰化された。となっている。2つの説とも、この八代の地に3年間仮座の後、約30km離れた下益城郡豊野村に移られ、約90年の月日を経て771年に再び八代の地に移られたとなっている。

 上宮・中宮・下宮の創建の時は、政権の交代の後であり、國家の安泰を願った。上宮は平安遷都の翌年。中宮は平治の乱の翌年。下宮は平氏滅亡の翌年。

妙見宮の神は、北辰・北斗七星の神格または仏格であった。北辰は北極星で、北斗七星は北極星をまわり、陰と陽を分ち四時(四季・朝昼暮夜)を定めるものとして道教の影響をうけて、天台宗・真言宗の教理に融合したものと言われている。
妙見神の来朝
天武天皇、白鳳九年(六八〇)、妙見神は、神変をもって、目深・手長 ・足早の三神に変し、遣唐使の寄港地、明州(寧波)の津 より「亀蛇」(玄武)に駕して、当国八代郷八千把村竹原の津に 来朝せり。
妙見宮(上宮)の創建
桓武天皇、延暦十四年(七九五)、乙亥、国司桧前(ひのくま) 中納言政丸、三室山横嶽にこれを創建す。

式内社 石見國迩摩郡 山邊八代姫命神社
旧村社

御祭神
天照皇大神
配祀
誉田別命 息長足姫命 玉依姫命 徳川家康

島根県大田市にある。山陰本線・大田市駅の南西約3Km。道ナリに5.5Kmほどの久利町久利に鎮座。

社伝によると、延暦二年(783)、大和国宇多郡山辺笹幡宮(宇陀郡・篠畑神社、元伊勢の一社)より勧請された古社。

式内社・山邊八代姫命神社の論社の一つ。

もとは、久利町と大屋町の堺にある鬼村八代谷にあったと伝えられ、宮跡(社殿跡)が現在も残っているという。そこから、氏宮の地に遷り、さらに現在地に遷座したという。もとの鎮座地・八代谷では、祭祀用の須恵器の壷が発掘されたらしい。
境内の右手に、境内社・粟島神社(少彦名命)がある。境内社にしては大きく、拝殿・本殿を持つ神社。婦女子の守護神、また医薬の神として崇敬され、一願成就の宮と呼ばれていたらしい。

現在の祭神は、天照大神。異説としては、単に氏神とするもの、大己貴命の后神とするもの、武田折命ものなど。

 米多浮立(めたふりゅう)
佐賀県上峰町に350年前から伝わる伝統の民族芸能で、2年に一度西暦の奇数年に開催される 老松神社の秋祭りで奉納されるものです。
浮立には面浮立、鉦(かね)浮立、天衝舞(てんつくまい)浮立など十数種類あり、米多浮立は天衝舞浮立と言われるものです。
 この天衝舞浮立は天衝と呼ばれる重さが約7~8Kgの大きな前立を顔につけ、鉦や太鼓に合わせて踊る浮立です。

この天衝舞浮立の代表的なものが上峰町の浮立と佐賀市富士町市川の浮立で、これらは佐賀県の重要無形民俗文化財に指定されています。

「肥前国風土記」によると,三根郡はもと神埼郡のうちにあり,神埼郡の三根の村を本拠とする海部直鳥が神埼郡を割いて三根郡を分立したとき,その本拠地の名にちなんで付けたものと記されている。海部直鳥は,その名からみて,有明海沿岸の漁民集団(部族)を統率し,海上交易を営み,大勢力を築いた豪族であったと思われる。町域内の直鳥はその本拠地の古代集落に縁故のある地名であろう。「肥前国風土記」には,神埼郡に9か郷があり,このうち三根・船帆・蒲田・宮処の4郷のみを記し,平安期の「和名抄」には,蒲田・三根・神埼・宮処(所)の4郷を記載している。蒲田郷は蒲田津付近(佐賀市蓮池町),三根郷は直鳥付近,宮処郷は境原付近,船帆郷は嘉納付近にそれぞれ推定されている。なお田手川と犬童川の中間一帯に条里制遺構の地名が顕著に残り,十条・又南里・乙南里・小直鳥里・竿田里・新田里・中島里・賛田里など構の地名が数多くある。また一ノ折・東ニノ坪・一ノ坪堀・八ノ角堀・十五ノ橋・六ノ坪橋という条里制にちなむ名称が,字名・堀の名・橋の名として散在している。

武雄
米多国は風土記や和名抄にもでる三根郡(今の三養基郡の西部)の米多(今の上蜂村米多)や神埼郡三田川町目達原(米多原)を中心とする地方である。目達原地方に存在(現在ほとんど消滅)した前方後円墳を中心とした古墳群はこの地方が米多国の中心であることと、国造家の存在を証拠だてるものである。初代の米多国造の米多君には志賀高穴穂朝すなわち成務天皇の代に、稚沼毛二俣命の孫の都紀女加王が任命されたと国造本紀は記している。古事記の応神天皇の条には椎野毛二俣王の子意富々抒王は筑紫米多君らの祖とあって、国造本紀の記事と符合している。しかし国造本紀の文の志賀高穴穂朝は誤りで、穴穂朝すなわち安康天皇の代が正しいらしい。
・ 米多国造の系譜や設置年代は疑問の点が多いが、古墳の大半は、形状、出土品などから六世紀の中期から末期ごろに編年されるもので、米多国造は六世紀中期ごろから強大化したものとみることができる。前の杵肄地方の優れた古墳(前方後円墳や壁画装飾古墳)も六世紀代に編年されるものがほとんどで、基肄国造の勢力も六世紀になって急速に拡大したようである。基肄国造家は前に記したように物部氏とのつながりがあり、米多国造も、風土記に三根郡に物部郷があって、そこの物部神社が物部若宮部によって祀られたと伝えられるように(時代は推古天皇十年(六〇二)来目皇子新羅遠征準備時ではあるが)物部氏との関係が認められる。このことほ継体天皇の代と伝えられる西暦五二七年の筑紫国造磐井の反乱の際に、米多国造家も杵肄国造家も、物部大連麁鹿火の軍に加担して、磐井を破る功績をたて、その功績によって勢力を拡大し、杵肄国造は物部氏との関係を深め、米多国造家は皇親氏族として待遇されるに至ったのでほないかと考えられる。