大日霊女貴、向津毘売、天照大神、素戔嗚

日本書紀、古事記以前の名称は、大日霊女貴であり、諡は、撞賢木厳御魂天疎向津毘売。
宮崎県の東端、阿波岐原町で生まれたと考えられる。この地方の豪族、伊弉諾いざなぎ、伊弉冉いざなみの子として生まれる。

●大日霊女貴の五男三女

八王子

天忍穂耳 (第一子)=正哉吾勝勝速日
天穂日 (第二子)
田心姫 (第三子)=多紀理姫・美穂津姫(=木花咲耶姫)
瑞津姫 (第四子)=多岐津姫
市杵島姫 (第五子)=厳島姫・狭依姫
天津彦根 (第六子)=火瓊瓊杵
活津彦根 (第七子)=火火出見
熊野楠日 (第八子)=鵜茅草不合

記紀では、天忍穂耳ー-火瓊瓊杵-火火出見ー-鵜茅草不合
を直系とする。

大日霊女貴を祀る神社
枚聞ひらきき神社 (鹿児島県揖宿郡開聞町) 大日霊女貴おおひみこむち
と五男三女
揖宿いぶすき神社 (鹿児島県指宿市東方) 大日霊女貴と五男三女
開聞岳が爆発したとき枚聞神社が避難した跡に祀った。
天岩戸神社 (宮崎県西臼杵郡高千穂町) 大日霊女
日原神社(島根県大原郡) 大日霊女貴
日御碕ひのみさき神社 (島根県簸川郡大社町) 天照大日霊女貴
等弥とみ神社 (奈良県桜井市鳥見山) 大日霊女貴

市杵島姫は宗像に住み、神武が立ち寄ったとき、海神として玄海町神湊に祀られた。建長年間に田島に遷宮された。松尾大社(京都嵐山)祭神の大山咋は、市杵島姫の子と伝えられる。

==[仮説]==
大日霊女貴の子は、五男三女の八王子とされながら、(第六子)(第七子)(第八子)の事跡がないのは、日向三代に充てられているからである。また(第三子)( 第四子)(第五子)が同一神と見なされるのは、大国主=大物主とされ、また、加夜奈留美では都合が悪かったのである。==1997.12.20(木屋)==

●大国主と多紀理姫(美穂津姫・木花咲耶姫)の子
日向で多紀理姫=木花咲耶姫。出雲で美穂津姫。

 出雲の国譲り以後、大国主 = 大物主とされたために、多紀理姫 = 美穂津姫 = 木花咲耶姫の名は大国主と分離されて伝えられ、天津彦火瓊瓊杵の妃、阿多津姫 = 木花咲耶姫とされた。

都万つま神社
(宮崎県西都市)
(大隈、大崎町) 木花咲耶姫 =多紀理姫≠阿多津姫
「鹿児島藩地理纂考」都万神社、
今下穂北村大字の専#木原に在り妻万宮という。
あるいは日向総廟と呼ぶ。「続後記」承和4年官社に列し、延喜式に載る。
蓋し、都農神の妻神である。

オシホミミの提案どおりにニニギが降る
原文
此の御子は、高木神の女、万幡豊秋津師比売命に御合して、生みませる子、天火明命。次に日子番能邇邇芸命なり。是を以ちて白したまひし隨に、日子番能邇邇芸命に詔科せて、「此の豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さし賜ふ。故、命の隨に天降るべし。」とのりたまひき。
現代語訳
アメノオシホミミが 高木神(タカギノカミ)の娘の万幡豊秋津師比売命(ヨロヅハタトヨアキツシヒメノミコト=タクハタチヂヒメ)と
結ばれて生まれたのが 天火明命(アメノホアカリノミコト)。
次に日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)。

というわけで、 (アメノオシホミミが提案したとおりに) ヒコホノニニギ命に

「この豊葦原水穂国(トヨアシハラミズホノクニ=日本)は
あなたが統治するべき国です。
命令に従い、地上に降り立ってください」
と言いました。

日本書紀
天火明と天津彦根火瓊瓊杵根尊
解説
万幡豊秋津師比売命 。日本書紀では一書でタクハタチヂヒメと掛かれます。
天火明命
アメノホアカリはここではニニギの兄ですが、日本書紀ではニニギとコノハナサクヤヒメとの間の子としても名前が登場します。 ただし天火明命ではなく火明命。「天」があるとないで別の名前ととることもできますが、おそらく「同一」かと思われます。

日本書紀
第九段一書 天照國照彦火明命
原文
一書曰、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、娶高皇産靈尊之女天萬栲幡千幡姬、爲妃而生兒、號天照國照彥火明命、是尾張連等遠祖也。次天饒石國饒石天津彥火瓊瓊杵尊、此神娶大山祇神女子木花開耶姬命、爲妃而生兒、號火酢芹命、次彥火火出見尊。

ある書によると…
正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)は高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の娘の天萬栲幡千幡姬(アマヨロズタクハタチハタヒメ)を娶って妃として生んだ子が天照國照彦火明命(アマテルクニテルヒコホノアカリノイコト)といいます。
この神が尾張連(オワリノムラジ)の娘の木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)を妃として生んだ子は、火酢芹命(ホノスセリノミコト)と言います。次に生んだ子が彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)です。

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日向神話
その範囲については諸説があるが、ここでは、高天原から日向の襲(ソ)の高千穂の峰に天降った皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコ ホノニニギ)から、御子・彦火火出見尊(ヒコホホデミ、火折尊-ホオリ)及びその御子・彦波瀲武鵜葦草不合尊(ヒコナギサタケ ウガヤフキアヘズ)までの、いわゆる日向三代にかかわる神話をいう。

皇統譜としては、次のとおり。
アマテラス-オシホミミ-ホノニニギ-ヒコホホデミ-ウガヤフキアヘズ-カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)

日向三陵

ホノニニギ・ヒコホホデミ・ウガヤフキアヘズが鎮まる陵墓で、次の三陵をいう(日本書紀)。
・ホノニニギ--筑紫の日向の可愛之山稜(エノミササギ)
・ヒコホホデミ--日向の高屋山上稜(タカヤノヤマノウエノミササギ)
・ウガヤフキアヘズ--日向の吾平山上稜(アヒラノヤマノウエノミササギ)

 なお古事記では、ヒコホホデミの陵について「御陵は、高千穂の山の西にあり」と記すのみで、ホノニニギ・ウガヤフキアヘズについての記載はない。

延喜式諸陵寮(927撰上)には、三陵ともに、
  「在日向国、陵戸無し
   巳上神代三陵 山城国葛野郡田邑陵南原に於いて之を祭る。其兆域東西一町南北二町」
とある(陵戸=墓守)。

後段の記述は、この三陵が大和から遠い遠隔の地にあり現地での祭祀ができないため、山城国葛野郡(カドノノコホリ)の田邑陵(タムラノミササギ)で祭祀が行われていたことを示すという。

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