大伴狭手彦、松浦 佐用姫、日本武尊の子 、若建王

大伴金村は子の狭手彦(さてひこ)を任那(みまな)に派遣して新羅と戦わせている。しかし、筑紫王朝の大臣としての大伴金村の失策は明らかで、責任を追及され失脚することとなった。

佐用姫伝説
 海原の 沖行く船を 帰れとか
  領巾振らしけむ 松浦佐用姫
      山上憶良(万葉集巻五874)
 任那に派遣される狭手彦(さてひこ)との別れを惜しむ佐用姫(さよひめ)は、玄界灘を見渡す領巾振山(ひれふりやま・鏡山)から、この岩に飛び移った。

和歌山市の刺田比古神社
道臣命 大伴佐氐比古命(狭手彦命)
延喜式内社、和歌山城の氏神、吉宗公拾い親の神社である。
岡(現在の和歌山市広瀬、大新、城北、吹上、芦原、新南地区)の産土神として、「岡の宮」の名で知られている。
神武御東征に御活躍の道臣命(大伴氏の祖先神)、百済救済の御武功で知られる大伴佐比古命をお祀りしている。
佐比古命(狭手彦命)は百済救済の武功により、道臣命の出身地たる岡の里の地を授かったという。

佐賀県唐津市和多田

宣化天皇の2年の冬、10月の1日に天皇は新羅が任那を攻撃している件で、大伴の金村大連に命じて、その子の磐(いわ)と狭手彦(さでひこ)を遣わして、任那を助けた。この時に、磐は筑紫に留まって、その国に政治をつかさどり、三韓に備えた。狭手彦は朝鮮半島に出撃して、任那を鎮め、また百済を救った。

唐津市と言えば、すぐ思いつくのが唐津城と虹ノ松原に鏡山だ。
この鏡山は別名領巾振山(ひれふりやま)とも呼ばれている。

遠つ人松浦佐用比賣夫恋いに領巾振りしより負へる山の名(万葉集巻五871)
海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫 (万葉集巻五874)
宣化天皇二年(537年)、朝廷の命を受け、隣国の新羅に侵略されていた朝鮮半島 の任那、百済を救援するための兵を率いて唐津へとやってきた大伴狭手彦(おおとも のさでひこ)は、出陣のための軍船の建造や準備の為にしばらくここ唐津に留まり、 その際、篠原長者の館に滞在することにしました。篠原長者には、佐用姫というとて も美しい娘がおり、佐用姫が挟手彦の身の回りの世話をするうち、二人はお互い惹か れ合って恋仲となり、やがては夫婦の契りを結びました。

 やがて軍船は出来上がり、いよいよ船出の日となりました。別れのとき、挟手彦は 佐用姫に「これを私と思って待っていて欲しい」と言って、銅の鏡を手渡しました。

そして、狭手彦の乗った船は松浦の港を出港。佐用姫は玄界灘を見渡す山(鏡山:唐 津市浜玉町~鏡)に登り、遠ざかり行く狭手彦の船に領巾(ひれ)を振りつづけまし た。(この山は別名、領巾振山と呼ばれるようになりました)

船が遠ざかるにつれ、狭手彦を慕うあまり船を追って山を駆け下りた佐用姫は、栗川 (唐津市久里(くり)、松浦川)を一気に飛び渡り、川岸の岩(佐用姫岩:唐津市和 多田)に飛び移りました。しかしその時、狭手彦からもらった大事な銅の鏡の緒が切 れ、鏡は川に落ち川底深く沈んでしまいました。(このあたりは「鏡の渡り」と呼ば れていました)

しかし佐用姫は、遠ざかる船をさらに追い、途中、川で濡れた衣を乾かし(衣干山: 唐津市西唐津)、呼子の浦まで追いかけ、最後に加部島の天童山に登って船の影を探 します。しかし海原にはすでにその姿は見えず、佐用姫は悲しみのあまり七日七晩泣 き明かし、とうとう石になってしまいました。
~肥前風土記・民間伝承~

肥前國松浦郡 田嶋坐神社 名神大
旧國幣中社

御祭神
田心姫尊 市杵島姫尊 湍津姫尊
配祀 大山祇神 稚武王尊(仲哀天皇の弟)

唐津から北上し、岬の先端、呼子の北にある加部島に鎮座。
呼子から呼子大橋を渡り、東へ進み、島を四分の一周したところ。
港に面して鎮座しており、鳥居は海に向かう

『古事記』では倭建命は、弟橘比売命との間に若建王をもうけた。

『日本書紀』では日本武尊は、 第十一代・垂仁天皇の皇女である両道入姫皇女(布多遅能伊理毘売命)を娶って、 稲依別王、足仲彦天皇(第十四代・仲哀天皇)、布忍入姫命、稚武王をもうけた。

呼子町加部島のにある肥前国最古の神社と言われる神社で、 田心姫尊・市杵島姫尊・湍津姫尊の田島三神が主祭神として祀られています。 境内社に、佐用姫伝説の松浦佐用姫を祀る佐與姫神社(佐用姫神社)があり、 佐用姫夫との別れを悲しんで石になったといわれる望夫石が祀られています。

松浦佐用姫は恋仲となった大伴狭手彦が出征する際、鏡山 の頂上から領巾(ひれ)を振りながら舟を見送り、 田島神社の神前に詣でて夫の安泰を祈りながら息絶えて神石となったと云われています。

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『日本書紀』によれば、宣化天皇2年(537年?)10月、新羅が任那を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救ったという
また同書によると、欽明天皇23年(562年?)8月、大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、多数の珍宝を獲て帰還した(一本には欽明天皇11年とする)

これらとほぼ同様の伝えは『日本三代実録』貞観3年(861年)の記事にも見えており、狭手彦の献じた高句麗の囚が山城国の狛人の祖となったいう

そのほか、『肥前国風土記』松浦郡条、『万葉集』巻五には、狭手彦と弟日姫子(松浦佐用姫)との悲話が載せられている

 肥後南部、八代海沿いに威勢を誇った火の葦北国造が在った。

国造本紀によると吉備津彦命の子、「三井根子命」は景行天皇の九州巡幸に吉備より随行、その功により葦北国造に任じられる。三井根子命は葦北君を賜り、継体期にはその子、「阿利斯等(ありしと)」が葦北国造になる

阿利斯等は、大連の「大伴金村」の命により、軍勢を率いて韓半島に渡る。
 そして阿利斯等は任那王を兼ねたといわれる。6世紀の初めのことである。阿利斯等の子、「日羅」は百済王に仕え、二位達率の高い官位を与えられている。「阿利斯等」の名も、朝鮮王から与えられた称号であったという。

三井根子命の子・刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけひありしと)は大伴金村によって朝鮮に使わされた国造で、その子・日羅は日本では刑部靱負の職(軍隊の長)、百済では達率(高官の1つ)となり、武人・賢人として知られる。葦北郡津奈木町にある将軍神社は日羅(将軍)を祀っており、逸話も多い。宇土半島にある鴨籠古墳の被葬者は、その棺の大きさから葦北国造の息子と考えられている。