塩の神

塩土老翁という神
 塩土老翁については、塩椎神・塩筒老翁など多くの表記方法があり、記紀の神話伝承に世代(年代)を超えて登場する。具体的には、
(1) 山幸彦と海幸彦の日向三代伝承のなかにあらわれ、山幸彦が兄海幸彦から借りた釣針を失って困っているとき、小船を作り海宮への行き方を教示した(記紀)、
(2) 神武天皇の東征にあたり、九州の日向で、東方に美き地があり大業をはじめるにふさわしいことを教示した(神武即位前記)、
(3) 天孫瓊瓊杵(ににぎ)尊が降臨したとき、吾田の長屋笠狭之御碕にあって国土を奉献した事勝国勝長狭(コトカツクニカツナガサ)という神も、またの名を塩土老翁という(書紀の一書)、
と記述される

 全国の塩釜神社(113社)の祭神とされる神について、単一神ばかりでなく複数の祭神もあって、祭神として現われる頻出度数を整理したところ、次のようなものとされる。すなわち、塩土老翁の過半(約64)を最多に、猿田彦命がこれに次ぎ(約26)、さらに武甕槌命・経津主命・味高彦根命がほぼ同数(約13)、大海津見命(約7)ということである。このうち、武甕槌・経津主二神は陸奥平定(陸奥開拓)の神とされ、この二神を案内してきてこの地に留まったという塩土老翁が本来の祭神とみられる。塩竈市の塩竈神社は塩釜六所明神とも称し、猿田彦・事勝国勝・塩土老翁・岐神・興玉命・大田命の六座の神を祀るが、これらは同体異名の神であるといわれている。その場合には、「鼻節神=塩竈神」ということにもなる

伊勢の宇治土公の祖の大田命があり、興玉命は猿田彦神とも、一説に大田命ともいわれる

 伊勢神宮(皇大神宮)の大切な年中行事となっている御塩殿祭(みしおどのさい)。同祭は、神宮の供物自給のため毎年10月5日、三重県度会郡二見町(現伊勢市の一部)荘の御塩殿神社で行われる。この神社の西北方の同町字西の御塩浜で夏期土用に汲みあげた鹹水を御塩汲入所に運び、御塩焼所で御塩山の松の薪により「荒塩」に焚き上げ、さらに御塩殿の一角で「堅塩(かたしお・キタシ)」として焼き固めて、御塩として奉納されてきた。この御塩堅固めが最初に行われるのに先立って、同日執り行われるのが御塩殿祭であり、御料御塩固めの安全と日本塩業の発展を祈願して、塩にゆかりの人が参集して盛大に行われている。
 その起源は、垂仁天皇の皇女・倭姫命が皇大神を奉じて二見浜に巡行した際、国神の佐見都日女(さみつひめ)が堅塩を献上したことによるものであって、その際、倭姫に随行した大若子命がこの地に御塩浜と御塩山を定めたといわれる。倭姫が伊勢に居たことは疑問があり、また大若子命も伊勢に居たことは疑問があるから、後世に作られた起源伝承であろうが、一応の参考にはなろう。なお、大若子命とは、一般に度会神主の遠祖とされ、その系譜は中臣連の同族で伊勢国造家の人とされる。佐見都日女の素姓は国神(この土地の神)とあるだけで、あとは不明である。
 伊勢南部の勢田川(宮川)下流の二見・浜郷の地は、古来製塩業が盛んに行われ、伊勢市北部にある大湊も、古くは塩の集散地として発達したといわれる。古代のこの地域に居住したのが宇治土公(ウヂノツチキミ)氏であり、度会郡の宇治・二見郷、すなわち勢田川下流北岸の磯町や宇治を含む伊勢市から二見町にかけて勢力をもっていた。二見浦の有名な夫婦岩の対岸にある興玉(おきたま)神社は、宇治土公の大祖・猿田彦大神を祀ったものといわれる。猿田彦神や興玉神は、塩竈神社の祭神としてもあげられる