国造、年代順

大和朝廷の行政区分の1つである国の長を意味し、この国の範囲は令制国整備前の行政区分であるため、はっきりしない。地域の豪族が支配した領域が国として扱われたと考えられる。
朝廷への忠誠度が高い県主とは違い、国主(くにぬし)と言われた有力な豪族が朝廷に帰順して国造に任命され、臣・連・君・公・直などの姓(カバネ)が贈られ、軍事権、裁判権など広い範囲で自治権を認められた。

国造が大王から与えられた姓(カバネ)は、

畿内及び周辺諸国の直姓国造
吉備や出雲の臣姓国造
山陽道の一部と南海道の凡直(おおしのあたい)姓国造
東海・東山の御名代の伴造(とものみやつこ)姓国造
東の毛野(けぬ)、西の筑紫・豊・肥の君姓国造
など、さまざまで、一律に行われた編成ではない。

9世紀成立の「国造本紀」(『先代旧事本紀』巻10)には、全国135の国造の設置時期と任命された者らの記録がある。

神武天皇の時代

山城国造 やましろ 阿多根命(神武天皇期) 山背氏(山代氏)(直) 山城国
倭国造(大倭-) やまと 椎根津彦(神武天皇期) 倭氏(直) 大和国中部
葛城国造 かずらぎ 剣根命(神武天皇期) 葛城氏(直) 大和国東部
凡河内国造 おおしかわち 彦己曽保理命(神武天皇期) 凡河内氏(直) 河内国・和泉国
紀国造 きい 天道根命(神武天皇期) 紀氏(直) 紀伊国西部 日前神宮・国懸神宮社家
素賀国造 そが 美志印命(神武天皇期) 遠江国北部
宇佐国造 うさ 宇佐都彦命(神武天皇期) 宇佐氏(公) 豊前国東部
上県国造 建弥己己命(神武天皇期) 津島県氏(直) 対馬島
下県国造 (記載なし) 対馬下県氏(直)

次期、氏名の記載がない畿内の国造

闘鶏国造 つげ (記載なし) 大和国西部
都下国造 つげ (記載なし) 都祁氏(直)摂津国

疑問1.遠近江の国造、素賀国造は早すぎるが?

開化天皇の時代

三野前国造 みののさき 八瓜命
(開化天皇期) 三野氏(美濃氏)(直) 美濃国中西部

時期の記載のない美濃の国造
本巣国造 もとす (記載なし) 三野本巣氏(直) 美濃国中西部
牟義都国造 むげつ (記載なし) 牟義都氏(君) 美濃国北中部

崇神天皇の時代

阿蘇国造 あそ 速瓶玉命(崇神天皇期) 阿蘇氏(君) 肥後国北東部
火国造 ひ 遅男江命(崇神天皇期) 肥氏(君) 肥後国中部
波多国造 はた 天韓襲命(崇神天皇期) 波多氏(君) 土佐国西部
波久岐国造 はくき 豊玉根命(崇神天皇期) 周防国北部
吉備中県国造 きびのなかつあがた 明石彦(崇神天皇期)三使部氏(直) 備中国東部
石見国造 いわみ 大屋古命(崇神天皇期) 石見国
出雲国造 いずも 宇迦都久努(崇神天皇期) 出雲氏(臣) 出雲国 出雲大社社家
高志深江国造 こしのふかえ 素都乃奈美留命(崇神天皇期) 越後国北部
久比岐国造 くびき 御戈命(崇神天皇期) 越後国西部
科野国造 しなの 建五百建命(崇神天皇期) 科野氏(直)のち他田氏(舎人) 信濃国
知々夫国造 ちちぶ 知々夫命(崇神天皇期) 武蔵国北西部

景行天皇の時代

甲斐国造 かい 臣知津彦公(景行天皇期) 甲斐国
那須国造 なす 大臣命(景行天皇期) 那須氏(直) 下野国北部
吉備穴国造 きびあな 八千足尼(景行天皇期) 備中国北部
阿武国造 あむ 味波波命(景行天皇期) 阿牟氏(公) 長門国東部
穴門国造 あなと 速都鳥命(景行天皇期) 穴門氏(直) 長門国西部
葦北国造 あしきた 三井根子命(景行天皇期) 葦北氏(君)(刑部靫部) 肥後国南部
襲国造 そ 市鹿文(景行天皇期) 日向国臼杵

疑問点 日本書紀では景行皇子弟豊戸別皇子に火国別とありその豊戸別皇子は襲国の御刀媛みはかしの兒である。

同じ景行紀のなかで、火国造に熊襲梟帥の弟市鹿文となっている神八井耳命の流れと景行帝の流れは、九州ではどうなっているのか?

成務天皇の時代

筑前国 筑紫国造 つくし 日道命(成務天皇期) 筑紫氏(君・公) 筑前国・筑後国
豊国造 とよ 宇那足尼(成務天皇期) 豊氏(直) 豊前国北部
国前国造 くにさき 午佐自命(成務天皇期) 国前氏(臣) 豊後国北部
大分国造 おおいた (記載なし)大分氏(君) 豊後国東部
比多国造 ひた 止波足尼(成務天皇期) 豊後国西部
筑志米多国造 つくしのめた 都紀女加命(成務天皇期) 筑紫米多氏(君) 肥前国東部
末羅国造 まつら 矢田稲吉命(成務天皇期) 肥前国北部
葛津国造(葛津立-) ふじつ 若彦命
(成務天皇期)
天草国造 あまくさ 建嶋松命(成務天皇期) 肥後国天草
古事記の神武記には神武天皇の子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とし、その第2子で火君・阿蘇君・筑紫連三潴と兄弟である建弥阿久良命(たけみあくらのみこと、建彌阿久良命)が初代(高屋)大分国造だろうと考えられている。

参考

通称白髭大明神と言う。伊賀国阿拝郡の式内社。 『古事記』安寧天皇記に「師木津日子命の子、二王坐しき。一の子孫は、伊賀の須知の稲置・那婆理の稲置・三野の稲置の祖。」 とあり、この伊賀の須知の新たな開墾の地即ちアラキの祖神を祀ったものと見られている。(『日本の神々6

書紀・古事記をみると「安寧第三子磯城津彦に二柱ありて、一柱は伊賀・三野の稲置の祖、一柱は和知都美といい淡路宮に坐す。その子二柱ありて蝿某姉・蝿某弟という」とある。この「和知都美」の名こそ倭知津美すなわち知津彦に違いないと思う。中原氏系図がその元十市氏の祖を安寧第三子磯城津彦の後というのは、すなわち書紀のこの記事に符合するのである。

これが安寧第三子という一点を除いて、かつ磯城津彦の表示も含めて正確と思うのは、ほかならぬ蝿某姉・蝿某弟の姉妹の亦名を、書紀が「倭国香とその弟」といい、古事記も「意富夜痲登玖邇阿禮比売」と記録するためである。大倭は大倭氏すなわち椎根津彦氏にほかならない。
ちなみに蝿某姉・蝿某弟の名は葉江に由来する。そもそも子の諱はその産土に由来する。すなわちこの姉妹は椎根津彦が磯城の宗家葉江の妹を娶ってこれを生んだのである。
珍彦・椎根津彦・槁根津日子・神知津彦・和知都美が同一人物であり、倭国造であるとい。
大倭氏はその本拠地を山辺の大和郷にある大和坐大国魂神社に置いた。その祭司は椎根津彦の後裔市磯長尾市でもとは磐余の出とみられた。椎根津彦の倭国造とhttp://www9.plala.or.jp/juraku/csoki1_3.html