南北朝時代、吉野方

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。

鎌倉時代に皇統は後深草系統の持明院統と亀山系統の大覚寺統のふたつに分裂する両統迭立が起こる。両統は皇位を争奪し、鎌倉幕府が仲裁していた。文保2年(1318年)に践祚して親政を開始した大覚寺統の後醍醐天皇は倒幕計画を企て、1331年に三種の神器を持って笠置山へ入り挙兵すると、幕府の奏請により持明院統の光厳天皇が践祚する。

後醍醐天皇と足利尊氏

1333年、反幕勢力の結集により鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇は京へ戻り、光厳天皇と正慶年号を廃して建武の新政を開始する。1335年(建武2年)、7月に関東で中先代の乱が起こると後醍醐天皇は討伐に向かった足利尊氏を黙認するが、乱を平定した尊氏は鎌倉に留まり建武政権から離反する。宮方は京都に進撃してきた尊氏を撃破する。翌1336年、九州落ちしていた尊氏は持明院統の光厳上皇から院宣を受けて再び東上する。宮方では新田義貞、楠木正成らを迎撃に派遣するが、5月尊氏は湊川の戦いにおいて新田ら宮方を撃破して入京する。後醍醐天皇は叡山に逃れて抵抗するが、8月には光明天皇が践祚して北朝が成立し、11月に帰京した後醍醐天皇から三種の神器を接収した尊氏は京都に武家政権(のちの室町幕府)を成立させる。

後醍醐天皇は京都を脱出して吉野へ逃れて朝廷を開き、光明天皇に渡した神器は偽物であると主張し、南北朝が成立する。以後、吉野の朝廷は南朝、京都の朝廷は北朝と呼ばれる。後醍醐天皇は、新田義貞に恒良親王、尊良親王を奉じさせて北陸へ、懐良親王を九州へ派遣し、北畠親房は常陸国へ赴いて、それぞれ諸国で南朝勢力の結集を図る。新田義貞、北畠顕家らはそれぞれ撃破されて戦死し、1339年(延元4年/暦応2年)には後醍醐天皇が崩御して後村上天皇が即位する。一方、尊氏は1338年(延元3年/暦応元年)に北朝から征夷大将軍に任じられる。後醍醐天皇の崩御後は北畠親房などが南朝を指揮するが、1348年(正平3年/貞和2年)には楠木正行らが四條畷の戦いにおいて足利方の高師直に敗北し、さらに吉野も奪われた南朝は賀名生へ移る。

足利政権の分裂と正平一統
足利政権では将軍尊氏や足利家執事の高師直と実質的政務を任された尊氏実弟の足利直義が対立し、やがて全国的な争乱に発展する観応の擾乱が起こり、これを契機に南朝は再び勢力を回復する。1350年12月、師直のクーデターで失脚した直義は京都を脱出し、師直打倒の兵を募る。北朝は直義討伐の院宣を下し、南朝は直義の帰服に応じる。直義は師直を追い、さらに摂津で尊氏を撃破して和睦する。1351年(正平6年/観応2年)、巻き返しを図る尊氏が南朝に講和条件を出して和睦し、正平一統が成立して年号の統一が行われる。尊氏は鎌倉で直義を追い謀殺するが、南朝はこの機会に京と鎌倉を同時奪還する軍事的進攻を行い、北朝神器の接収、北朝の光厳・光明・崇光三上皇と皇太子直仁親王の拉致を行い一統は破談となる。京と鎌倉は足利方に奪還され、北朝は神器と治天が不在であったが後光厳の践祚により再建される。

南朝方

南朝の方では、新田義貞・北畠顕家らが次々と戦死後醍醐天皇も吉野でなくなり、その勢いが振るわなくなりました。
しかし、そののち南朝側も、かなり勢いを取り戻しました。
吉野では北畠親房や楠木正成の子の正行が、南朝のために力を尽くしまた、九州では懐良親王が活躍したからです。