出雲と武蔵国造、兄多毛比命、武蔵の神社

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武蔵国は、「夭邪志(むさし)」「胸刺(む(な)さし)」「知々夫(ちちぶ)」の各々の国造(くにのみやっこ)の支配下にあった。このうち「夭邪志」「胸刺」国造は出雲臣系氏族で、それぞれ兄多毛比命(エタモヒ命)とその子である伊狭知直(イサチノアタイ)を祖とする。

一方で、「知々夫」国造は大伴氏の始祖である高御産巣日命(タカミムスヒ命)の子である八意思兼命(ヤツゴコロオモイカネ命)の十世の孫である知知夫彦命(チチブヒコ命)を始祖とするから、違う系統である。

「夭邪志」「胸刺」両国の国造が古墳時代以来の有力豪族であったと考えられるなら、始祖が親子関係にあるため「夭邪志」がより有力な豪族であったと考えられる。

そうすると「夭邪志」国造は埼玉古墳群とその周辺の大古墳を築いた豪族と関係すると考えられる。縁戚にある「胸刺」国造の領域は、容易には推測できないが、南武蔵地域(多摩川流域)と考えるのが妥当か。

兄多毛比命とは

氷川神社を始め武蔵国のあちこちの神社で社伝ないし由緒に出てくる。

人見稲荷神社 府中市若松町

御祭神は倉稲魂命、天下春命、瀬織津比咩命三柱にして、武蔵国造兄武比命の祀られし社なと伝う。(社頭案内板)

小野神社 府中市住吉町

人皇三代安寧天皇ノ御代、御鎮座。祭ル所天下春命大神也・・・出雲臣祖二井諸忍野神狭命ノ十世兄武日命、始テ此懸ノ国造ト成玉フ時、御祖神タル故、此地ニ勧請鎮守トナシ給フ(式内社小野神社由緒、正和二年(1313)秋七月神主澤井佐衞門助藤原直久)

人見稲荷神社は小野神社を分祀したものか。稲荷神社を、後世、追祀したか?。

いずれも「兄多毛比命」を「兄武比命」と読み間違えあるいは書き間違えしている。「毛」の字は、ケ乙類とモ甲類があるようだが、万葉集ではほとんど「モ」と読むようだ。ケと読むのは毛野(ケノ)国ほかわずかだ。従って、兄多毛比は「エタモヒ」か?
兄多毛比命(武刺国造)の子に五十狭茅宿禰(海上国造)と大鹿国造がいる。

雄略朝の前代の允恭朝に、武蔵国造の系譜において忍敷命という名が見られ、忍敷(允恭御宇為 勝部・刑部 負刑部直祖)と記載されています。忍敷命は、勝部と刑部の職掌を負ったわけですが、兄多毛比命の次の代に現れる大鹿国直命が国造となった菊麻国の末裔は、刑部直を名乗っていました。

武蔵国造と氷川神社

兄多毛比命の8代前が天穂日命であるから、出雲国造とも祖が同じである。兄多毛比命の7代後裔が、武蔵国造の乱で有名な笠原直使主である。小杵とは従兄弟にあたる。将門反乱の時、武蔵国造の後裔武芝は、足立郡司判官代で、将門側につく。武芝の娘と菅原氏との間に生まれた正範が氷川神社社務を継承し、4代後氷川神社神主家大祝物部氏の血を入れ、武蔵国造家は現在に至る。

「氷川神社」社伝

成務天皇のとき、夭邪志国造である兄多毛比命が出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神としたとある。「夭邪志国造」は埼玉古墳群の豪族

のちの「武蔵国造」である丈部直(はせつかべのあたえ)氏は「武蔵国」を再編成した際の新興勢力(阿倍氏・物部氏系統)であり、新たに「氷川神社」を奉じた???。

聖徳太子の舎人として活躍し仏教に理解のあった物部連兄麻呂

633年に武蔵国造に任じられたといわれている。そして、埼玉古墳群をつくった豪族はこの物部連兄麻呂と関係があったとされている。物部氏やその系統にある阿倍氏らと地方豪族である武蔵の物部連氏(物部連兄麻呂)がつながっていたといえる。

武蔵国造職は丈部直(阿倍氏)や物部連などが務め、8世紀の律令時代の国造は氷川神社を奉斎していた足立郡の丈部直(はせつかべのあたえ)氏(のちの武蔵氏)であろう。

大麻止乃豆乃天神社 :(郷社・稲城市大丸鎮座)

祭神:櫛真智命
祭神の櫛真智命は記紀にはみえないが、高天原の天香久山の神とされ卜占の神とされている。江戸期には「丸宮明神社」と称していた。明治維新後に神仏分離令が出されたときに従来から延喜式内社候補とされていたため大麻止乃豆乃天神社の名前を申請。大和国十市郡に「天香山坐櫛真命神社」(大社)があって「大麻等乃知神」と元の名が注されていることを根拠にしているという。

櫛真知命とは天児屋根命の別名である。天児屋根命は藤原氏の先祖神である。

調神社 :(つき神社・調宮神社・延喜式内社・県社・浦和総鎮守)

御祭神 天照大御神(アマテラス大御神) 豊宇気姫命(トヨウケ姫)素戔嗚尊(スサノヲ神)
当社は、延喜式内社足立郡四座のうちの一座とされており、また古くから浦和の総鎮守として栄えていた。 社伝によると第九代開化天皇の時の創建。第十代崇神天皇の勅命により伊勢神宮の斎主である倭姫命(やまとひめのみこと)が参向し、清らかなる地を選び伊勢の神宮に献じる調物(みつぎもの)を納める倉を当地に建て、武蔵野の初穂米や調収納所として定めたと伝えられている。調宮(つきみや)とは調の宮(みつぎのみや)の事であり、諸国に屯倉が置かれた時、その跡に祀った社のことを一般に調宮と呼んだといわれている。

氷川女体神社(武蔵国一の宮・旧郷社)

主祭神 奇稲田姫命(クシイナダ姫命)
配祀神 大己貴命(オオナムチ命)三穂津姫命(ミホツ姫命・書記のみ記載の神・高御産巣日神の御子、大物主神の妻となる)

氷川女体神社は県内屈指の古社で大宮氷川神社とともに武蔵国一の宮といわれ江戸期には寺社奉行直轄神社として諸国大社19社の1つに数えられてきた由緒ある神社。社伝では崇神天皇のときに造られたという。大宮の氷川神社(男体社・クシイナダ姫神の夫であるスサノヲ神が主祭神)、大宮中川の中山神社(氷王子社・詳細不明)とともに当「氷川女体神社」(クシイナダ姫命が主祭神だから女体)は「見沼」と深い関係にあり、かつては祭礼の「御船祭」が見沼の船上でとりおこなわれていたという


出雲伊波比神社(武蔵国入間郡延喜式内社・埼玉県内最古の神社建築・国重要文化財)

御祭神  大名牟遅神(おおなむちのかみ)天穂日命(あめのほひのみこと)品陀和気命(ほんだわけのみこと・応神天皇)息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと他16柱

出雲を中心として国土経営・農事・産業・文化を興され、全ての災いを取り除かれたオオナムヂ神、天孫のために出雲の国土を移譲する国譲りに奔走し、オオナムヂ神が杵築宮(出雲大社)に入られたのち、そのみたまをいわい祀る司祭となられたアメノホヒ命(アマテラスの御子)の二柱を主祭神とした神社である。古くは出雲臣(いずもおみ)が祭祀する社であったという。景行天皇53年(123年)に倭建命(ヤマトタケル命)が東征凱旋の際に、景行天皇から賜った「比々羅木鉾(ひひらぎのほこ)」を神体として侍臣である武日命(タケヒ命=大伴武日)に命じて社殿を創建し、東北に向けて鎮座させたという。今も本殿内で鉾の先を東北にむけているという。

出雲祝神社 (旧村社・延喜式内論社・入間市宮寺鎮座)

祭神:天穂日命(アメノホヒ命・天夷鳥命(アメノヒナドリ命・アメノホヒ命の御子)・兄多毛比命(エタモヒ命=武蔵国造の祖)
由来:もと寄木明神。第十二代景行天皇の頃(約2000年前)、日本武尊が東夷征伐に当たられた時、当地に立ち寄り、天穂日命・天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波比神社と崇敬したことに始まる神社。 天穂日命の子孫が、出雲国より当地にやってきた際に樹種を携えて播種したのが、出雲祝神社の社叢で「寄木の森」といわれているという。
伊古乃速御玉比賣神社  (いこのはやみたまひめの神社・式内社・郷社・比企郡滑川村伊古鎮座)

祭神:速御玉比売神(本来の神)・気長足姫命(オキナガタラシメ姫命)・大鞆和気命(オオトモワケ命)・武内宿禰命(たけのうちすくね命)
 仁賢天皇の時、蘇我石川宿禰の子孫が当地を開き、君祖三韓征伐の応徳を仰いで、神霊を祀ったことに始まるというが創建は不明。当初は二ノ宮山(131.8M)上に鎮座していたが文明元年(1469)に現在地に遷座したという。山頂は豊作・降雨を祈る斎場を兼ね奥宮がある。
 当地の周辺は、滑川にそう細長い谷間。「伊古」は「渭後(いご)」、「沼乃之利(ぬのしり)」に通じるとされ、祭神の速御玉比売神は「渭後」に坐す姫神とされる。 また当社の神を「淡洲明神」とし、安房国一の宮「安房神社」の祭神・天比理乃咩命の異名という説もある。安産の神として比企郡内の「箭弓神社」ともども崇敬されている。

大国魂神社 武蔵国の総社

お祭りに「暗闇(くらやみ)祭」がある。祭りを始めるにあたり、品川区の荏原神社に行き、品川沖で「海上禊祓い」を行う。そしてその潮水を汲んで持ち帰り、宮司以下この潮水で毎朝身を清め、鑽火を起こして潔斎をする。何故、荏原神社なのだろうか。猿渡盛厚氏によると、「品川沖で祓の詞を唱え、四拝四拍手して、各々潮水に沐す」とある。

  荏原神社は和銅2年藤原伊勢人たかおかみの神を勧請して当所の鎮守としたという。後に天照大御神、豊受姫神、素戔鳴命、手力雄命を合祀する。武蔵国造の乱で屯倉が設置され、多摩郡にも置かれた

大國魂神社 (武蔵総社・旧官幣小社・東京都府中市宮町鎮座)
当神社は第12代景行天皇41年(111念)5月5日大神の託宣によって創立せられ、武蔵国造が代々奉仕して祭務を司ったという。その後、孝徳天皇の御代に至り、大化改新(645年)により武蔵の国府がこの地におかれて、当社を国衙の斎場して、国司が祭祀を奉仕して国内の祭政を司った。国司が武蔵国内諸社の諸神を配祀したので「武蔵総社」と称し、又両側に国内著明の神社六社を奉祀したので「六社明神」「六所宮」とも称された。 
本殿中殿には 
大國魂大神、御霊大神 、国内諸神 

本殿東殿は 
小野大神(一ノ宮小野神社・東京都多摩市)、小河大神(二の宮小河神社・東京都あきる野市) 、氷川大神(氷川神社・埼玉県さいたま市=旧大宮市) 

本殿西殿は 、
秩父大神(秩父神社・埼玉県秩父市) 、金佐奈大神(金鑽神社/かなさなじんじゃ・埼玉県児玉郡児玉町) 、杉山大神(杉山神社・場所不明) を祀る。 現在の本殿は徳川四代将軍家綱の命によって寛文7年(1667年)三月に完成したものである。  また明治18年には官幣小社に列せられている。 

し「武蔵一ノ宮」は「氷川神社」というが、どうやらここの神社では三ノ宮としての格付けらしい。武蔵国の一宮小野神社・二宮小川神社・三宮氷川神社・四宮秩父神社・五宮金鑚神社・六宮杉山神社も合祀。

武蔵国の大國魂神社の創立は景行天皇41年5月5日で、当時は武蔵国造が代々奉仕したが、孝徳天皇の大化の改新によって、武蔵国府がこの地に置かれたので、国司が奉仕するようになった。これが武蔵総社の起源である。宮司は猿渡(さわたり)氏である。猿渡氏は始祖が藤原藤左衛門兼延で、武蔵国橘樹郡猿渡邑に住んだことにより猿渡氏を名乗った

小野神社

小野神社は幾社かある。最も有力な説として多摩市にある小野神社が式内社・武蔵一の宮といわれているが、それでも「論社」でしかない。多摩市一之宮の小野神社は多摩川の南部、つまり「南多摩」に位置している。そして同じような対岸、多摩川の北部「北多摩」である府中市にも小野神社がある。

小野神社(府中市住吉町鎮座)

御祭神 天乃下春命(アメノシタバル命)瀬織津比売大神(セオリツヒメ大神)

創立年代は不明。小野神社に祀られている祭神のアメノシタバル命はニギハヤヒ命が河内国に降臨した際に供奉した神という。兄武日命が初めて、この県の国造となったときに祖神として多摩郡に勧進し祭守したと伝えられている。

武蔵大国魂大神の鎮座地は「小野」の県だった。「一の宮」の小野大神は国魂社成立以前の神だった。小野大神の由緒(正和2年<1313>成文)によると、同社の祭神は「天下春命」とされている。天下春命は饒速日命が河内国に御降臨の際供奉した。視二井諸忍野神狭命十世兄武日命がこの県の国造となった時、御祖神として勧請奉斉したという。

(国造本紀が兄多毛比命を国造としているのに対し、高橋氏文は大多毛比を无邪志国造の上祖としている。稲荷山古墳出土鉄剣にその名がないところを見ると今の埼玉県には居住していなかった?)