事勝國勝長狭、薩摩隼人、塩土老翁

天孫降臨の後、笠狭碕で瓊々杵尊に国を奉った事勝国勝長狭神

別名を塩土老翁といい伊耶那岐神の御子。

海幸山幸神話において、兄・火照命(海幸彦)の釣り針を無くして困っていた火遠理命(山幸彦)に 目無籠を作り、山幸彦を入れて海に投じ、海神の宮への到らしめた神。 塩椎は塩筒の意味とする説や、塩路をよく知る意に解して航海の神とする説がある。

『日本書紀』の一書では、老翁が袋から櫛を出し地に投げると竹林となって、老翁はその竹で籠を作ったとある。 また別の一書では、山幸彦が海浜で悲しんでいたときのこと、ワナにかかって苦しんでいる川鴈をみつけ、 憐んで解き放ってやると、やがて塩土老翁があらわれたとある。

『神武紀』でも五瀬命と神武天皇の兄弟は塩土老翁から「東に良い土地がある」と大和の話を聞き、東征を志したとある。

神武天皇に従軍した大住隼人と阿多隼人は大和朝廷の警護に当たった。

阿多といえば、阿多隼人の祖、木花開耶姫命(このはなさくやひめ)
木花咲耶姫命、神吾田津姫(かみあたつひめ),鹿葦津姫(かあしつひめ)

阿多といえば、神武天皇の妃の吾平津姫(あひらつひめ)。『古事記』では阿比良比売(あひらひめ) 吾平津姫の兄が阿多小椅である。

多くの隼人研究などで隼人舞は服属儀礼などと書いているが間違いでしょう。

天孫を出迎えたのは海神族阿曇氏の祖の穂高見命(別名は宇都志日金拆命)であり、白髪明神や出雲の佐田大神としてもあらわれている
宇治土公の祖は三輪氏族の事代主命であって、大国主命との関係では近親の味高彦根命とも混同されている。古代の伝承や祭神としては、猿田彦神とは普通には佐田大神であるが、事代主命と考えたほうがよい場合もかなりあるようで、同神の分布は極めて広範である。

神武天皇の系譜

記紀によると天孫降臨した火瓊瓊杵尊が娶ひたのが大山祇神の女の鹿葦津姫で、 この二神は三嶋社の大山祇神・木花之開邪姫神である。木花之開邪姫は神吾田津姫ともいうから、その子の火闌降命は吾田 君小橋等の本祖、つまり吾田隼人の神だつたことになる。
姓氏録の山城神別の 阿多隼人は富乃須左利乃命の後とある。
次子の彦火火出見尊の妻は海神綿津見神の女豊玉姫で、武位起命と神武の父に なる鵜草葺不合命を生んだ。武位起命の名は記紀には出てこず、旧事紀の皇孫 本紀にのみ出てきて、大和国造祖というから神武東征の導きをした珍彦の先代 にあたることになる。神武と珍彦は従兄弟同志なのだ。
その神武が日向で娶ひたのが、祖父の彦火火出見尊が出た吾田隼人の女の吾平 津媛であった。記には阿多小橋君の妹の阿比良比売とあるから、火闌降命の孫 あたりになろう。だから神武東征はその子の手研耳命、つまり吾田隼人を連れ た海人の一行だったことになる。

大山祇神・木花之開邪姫神は海人によって祭られたが、この系 譜から判断すると吾田隼人の祭る神だったことにもなる。
この吾田隼人に注目すると、思わぬことに気づく。紀伊熊野に上陸した神武一 行が吉野から西へ行くと、取魚する者がいて、阿太の養鵜部であるという。阿 太は吾田に他ならず、和名抄の大和国宇智郡阿蛇郷、現在の五條市東部という。

山代国の神武の代の国造は阿多振命と国造本紀にある。祟神紀に武埴安彦が山 背国から反乱軍を興した記事があり、共に果敢に戦った妻の名は吾田媛である。 また「山背国隼人計帳」に阿多君古売の名がみえる。さらに『先代旧事紀』の 各巻に、神武の妃の媛蹈鞴五十鈴媛命の兄に天日方奇日方命の名が出てくるが、 巻四の地祗本紀には、又の名を阿田都久志尼命というとある。同母兄妹だから、 その親元の摂津国で大山祇神を祭る三嶋溝杭耳も吾田隼人かもしれず、そうだ とすると神武はここでも吾田の女に娶ひたことになる。

通説では吾田隼人は最も早く天孫族に服従したとされているが、こうした事例 をあげてみると話は逆さまであることが分る。

筑紫国に宗像神社を祭る宗像氏がいる。姓氏録の宗形朝臣は吾田片隅命の後と ある。また、大和国神別の和仁古も大国主六世孫の阿太賀田須命の後也とある のと同人であろう。和仁古は和迩氏に属する一族で、後世に大神朝臣を賜姓し ている。旧事紀の天日方奇日方命は大神氏の祖とあり、その子孫に阿太賀多須 命が位置づけられており、したがって姓氏録の宗形朝臣も大神氏の同祖とある。 神武東征の筑紫迂回は、こうした系譜をたどる航海だったのである。

海人と隼人は神武と珍彦が同道して倭国へ入った。宗像の海人は葛城山麓に宗 像の子神、味鋤高比古根神を賀茂神として祭った葛城国造である。後にその一 部は吾田隼人が国造の山背国の葛野へ移って山城賀茂となった。それは言い換 えると、「神武東征」の名において語られた奈良の倭国を構成する諸族の「謂 れ比古物語」であるにすぎない。
神武の倭国、それは海人と隼人の国だった。

1.ニニギ(天津日高彦火瓊瓊杵尊)の陵は可愛山陵 – 薩摩川内市の新田神社

2.ウガヤフキアエズ(天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊)とタマヨリビメ(玉依姫)の陵は、吾平山上陵 – 鹿屋市(旧吾平町)

3.ホオリ(天津日高彦火火出見尊)は、高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ) 霧島山山麓(現・鹿児島県霧島市溝辺町麓)

ウエツフミには、ウガヤ王朝の首都は「二上(ふたのぼり)の大宮」であると書かれています。通説では、これは現在の高千穂町であろうと解釈しています。しかし、高皇産霊神(高木神)は鷹の神紋の英彦山(日の御子の山、日子山)で天照大神の御子の天忍穂耳尊を育てている。英彦山神社の神、天忍穂耳尊であるので、首都の大宮は英彦山の辺りと考えられる。

「日本書紀」によると、「一説」として、天孫降臨の地とは「日向の襲の高千穂の添(そほり)の山の峯〈第六、一書〉」であると書かれています。「そほりの山」とは、明らかに「祖母山」のことと思われます。

ウエツフミにおける山稜

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古事記に

迩々芸能命於笠紗御前遇麗美人。爾問誰女、答白之、大山津見神之女、名神阿多都比売、亦名謂木花之佐久夜毘売

日本書紀 『神代上 第9段』「第4の一書」には、

膂宍(そじし)の空國(そらくに)を、頓丘(ひたを)から國覓(くにまぎ)ぎ行去(とほ)りて、吾田の長屋の笠狹の御碕に到ります。時に彼處(そこ)に一(ひとり)の神有り。名は事勝國勝長狹と日ふ。
故、天孫、其の神に問ひて曰はく、「國在りや」とのたまふ。
對へて日さく、「在り」とまうす。因りて日さく、「勅(みことのり)の随(まま)に奉らむ」とまうす。故、天孫、彼処に留住(とどま)りたまふ。
其の事勝國勝神は、是伊奘諾尊の子なり。亦の名は塩土老翁』(紀上 156頁)

『天孫』の『瓊瓊杵尊』が到着した『吾田の長屋の笠狹の御碕』に、『事勝國勝長狹』と言う『国主』が居て「国」を献上し、そこで『阿多都比売』と所帯を持って『天皇家や隼人』の先祖となった、とあって、その『吾田の長屋の笠狹』の『国主事勝國勝長狭』は『伊奘諾(いざなぎ)尊の子で、亦の名は塩土老翁』とかたられている。

『事勝國勝長狭』を「祭神」とする『神社』が『3社』もある県は『鹿児島県』だけで、その「鹿児島県」でも『薩摩半島南岸部の指宿・坊・笠沙』だけだったのである。

「日本書紀」が『亦の名』として揚げる『塩土老翁』が『塩椎神』として『古事記』に見えるのである。

塩の神
塩土老翁とは、塩の生産と交易を行なった国主であろうか?
薩摩隼人の軍の長官
衛門府・靱負の司・隼人司にかかわる隼人の長官、『事勝國勝長狭』であろうか?
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隼人(はやと)とは、古代日本において、薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々。「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「隼(はやぶさ)のような人」の形容とも[方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも(あくまで隼人は大和側の呼称)。風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。兵部省の被官、隼人司に属した。

『延喜式』巻28(隼人司)には、元日・即位・蕃客入朝などの大儀には、「大衣2人、番上隼人20人、今来隼人20人、白丁隼人132人が参加した」と記されており、遠従の駕行には、「大衣2人、番上隼人4人、今来隼人10人が供奉した」とあり、隼人の呪力が大和政権の支配者層に信じられ、利用されていたと見られている
熊襲が反抗的に描かれるのに対し、隼人は仁徳紀には、天皇や王子の近習であったと早くから記されている
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新田神社
鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2
主祭神 天津日高彦火邇邇杵尊
天照皇大御神
正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
社格等 薩摩国一宮 旧国幣中社 別表神社
社伝によると「天津日高彦火邇邇杵尊」(ニニギノミコト)の墓を祀ったのが創始」とされるが、新田神社のことを書いた最も古い史料は永万元年(1165年)のもので、これには「貞観のころに再興」とあり、また「藤原純友の乱のときに国家鎮護を祈願し5か所建てた八幡宮の一つ」とする史料もある。『延喜式』に全く名前が見えないことから見て、当初の地位はかなり低いものだったと考えられている。

文治年間(1185年-1190年)、新田神社筆頭職の執印職に守護島津氏と祖を同じとする鹿児島郡司の惟宗康友が就き、康友の子孫が執印氏を名乗り(元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が新田宮執印職の当知行を安堵)明治に至るまで、代々俗体で世襲することになる。

惟宗氏(これむねうじ)の系統から執印氏がでている。
平安時代に始まる氏族で、秦氏の子孫。中央では明法家(律令の法律家)として栄えたほか各地の在庁官人などに名が知られ、島津氏などの祖先ともされる。

惟宗直宗・直本兄弟らに始まる惟宗朝臣である。彼らは讃岐国香川郡(高松とその近隣)を本貫とする秦公(はたのきみ)であったが、本貫を京に移し、883年に同族の秦宿禰・秦忌寸とともに惟宗朝臣の姓を賜った。

惟宗直本は律集解と令集解の著者として名高い。彼の子孫は明法家あるいは医家として知られ、『本朝月令』を書いた惟宗公方、『政事要略』を書いた惟宗允亮(律令にちなみ「令宗(よしむね)朝臣」を賜った)が有名。
対馬の宗氏も惟宗氏の子孫とされる(のち桓武平氏を称する)。そのほか神保氏や長宗我部氏、安芸氏などが惟宗氏の出とされる。
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大隅國馭謨郡 益救神社 ヤクジンジャ

御祭神
天津日高彦火々出見命(山幸彦)
配祀
大山祇命 木花開耶姫命 塩土翁
豊玉彦命 豊玉姫命 玉依姫命
屋久島の北東部、宮之浦港にある。
鹿児島からは、フェリー・高速船・飛行機の便。
飛行機を利用し、40分ほど。空港は宮之浦の東10Kmの位置。
社名の「益救」は、現在では「ヤク」と読むが、
以前は「マスクヒ」「スクヒ」とも読んだ。また、以前は「一品宝球大権現」という呼名もあった。
当社の神が、竜宮城より一品、宝珠を持ち帰った故事による
式内社調査報告に以下の説がある。
島内各道路の道標には、塩土翁を祀ったものが多い。
屋久島は、九州第一の高山を有し、南方航路の道標。
航路標識としての機能は当然備えている。
航路標識、澪標(みおつくし)の標(つくし)がツクイと変化し、スクヒとなったのではないか。

牛床詣所 うしどこもいしょ

屋久島は、古くから「山岳信仰の島」でした。
 ここは、山岳信仰の重要な行事である「岳参り」の 折りに、家族が山に詣でた男たちを出迎えた場所です。 女人禁制のため、岳参りに参加できない婦人や子ども たちは、日ごろここで遥か山奥の御岳を拝みました。
 詣所は、いわば里における信仰の聖地であり、詣所 内には、厄病退散や大漁祈願、安全祈願などさまざま な石塔が、六十余基ほど奉納されています。
 中央にある石塔は、信仰の神である「彦火々出見尊(山幸彦)」を表わし、正しくは「一品宝珠大権現」と 示すものが「一品法壽大権現」と刻まれています。 このことは、法華宗(日蓮宗)の屋久島布教により、 古来の信仰から、法華宗が混合した形の信仰へ移り変 わったと考えられます。その石塔の銘文を読むと、法 華僧も厄病退散のために、祈願をしていたようです。
牛床詣所は、屋久島の山岳信仰の実態と、石塔の銘 文や形状から各時代の社会状況を示すものとして、民 族的、宗教的に貴重な史跡となっています。
-案内より-
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紫香楽宮跡と蒲生野探訪

阿賀神社(通称:太郎坊宮)
滋賀県東近江市小脇町2247番地

御祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
天照皇大神の第一皇子神・天孫瓊瓊杵尊の御父神
由緒記 (境内石碑)
当社は今から約千四百年前の創祀と伝えられている。鎮座地の赤神山(太郎坊山)は岩石が露出し、見るからに神秘的な神宿る霊山であると信じられてきた。天地万物を崇め、自然の恵みに感謝をする神道の教えの中で最も典型的なのがこの神体山信仰・磐座信仰であり、今も山上には奥ツ磐座、山麓には辺ツ磐座としての祭祀場が存在している。

人々の信仰が深く広くなるにつれ、このお山で修行をする修験者が多く現れ、その姿は太郎坊天狗として今に伝えられている。一般に当社を太郎坊さんと称する様に、天狗は御祭神の守護神となっている。

聖徳太子も当大神の霊験が顕著である事を聞こし召し、国家の安泰と万人の幸福を祈願した。また伝教大師も当社に参籠し、灼としたご神徳に感銘し、五十有余の社坊を建立して守護された。

ご神名から知られる様に、「吾れ勝ち負ける事が無い。なお勝つ事の速い事、日の昇るが如し。」で、殊に勝運の神として霊験あらたかであり、男子屈強の荘厳たる神を祀る現世利益・神験即現のお社である。
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吾平津姫は手研耳命(たぎしみみのみこと)を産んで、次の位に手研耳命がついた。
手研耳命は神武の元后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と結婚して、手研耳命は媛蹈鞴五十鈴媛命三人の子を殺そうとして、反対に殺されてしまった
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「薩摩国」の朱印が押されている『736年の薩摩国正税帳』に、『元日朝拝刀禰国司以下少毅以上惣陸拾八人』(大日本古文書一 13頁)と載せられる『少毅』からも、『薩摩国』に『軍団』があった。

 『元旦には、律令に基づいて』、四等官「守、介、掾、目」の『国司』は、「郡司」や『軍団の将であった「大毅・少毅」などの属僚』を率いて、「宮中の大極殿」のことである『庁』に向かって朝拝をし、その後、『長官』である「国守も皆からの挨拶を受け、祝賀会をするよう」に定められていた。

町村名に初めて用いられた「笠砂」・「笠沙」は、『古事記』『日本書紀』の神話に基づくもので、本来この地方に残存していた地名ではない(笠沙町郷土誌 上巻 292~3頁)
とある

『隼人・はやひと』の呼称の由来を、『弓道』の『初めに射る第一の矢』が『甲矢・兄矢・早矢』と表記されて『はや』と称された、そのことに由来する『はやひと・隼人』であろうか

羽矢人かもしれない。

 『弓』を持つ『左手』に対して、『弓』を引くほうの『右手』が『勝手』と称され、その由縁は『(右手)勝手』は、とりわけ「馬上」にあって『長い弓に拘束されないで自由勝手に使える右手

「馬を操り、思いのままに山野を跋渉」できた

 その時代の『歴史』の「証拠」が「815年」に成った『新撰姓氏録』の、中でも『諸蕃』の「項(帙)」に結実した、と。

 つまり、『帰化人・渡来人系』で処理してきたかに見せる≪大和朝廷≫の『諸蕃』は、例の『軍機』にかかわる『諷歌倒語(そへうたさかしまごと)』の類で、

『諸蕃』の真相は、文字通り『蕃兵』
「白村江の敗戦」で「半島からの撤退」を余儀なくされるまで、『列島の有力氏族』は『権益保持』の「拠点」を「朝鮮半島」に求め出兵した

「古事記」は『金銀を本(はじめ)と為て、目の炎耀(かがや)く種々の珍しき宝多(さわ)に其の国に在り』(記 237頁)と載せる

「日本書紀」には、『眼炎(まかがや)く金・銀・彩色(うるはしきいろ)、多(さは)に其の國に在り』(紀上 327頁)と載せられる

「続日本紀」に見えない『勝手』は『白村江敗退』以前の歴史で、「新撰姓氏録」の『諸蕃』の内に見える『上勝・不破勝・茨田勝・秦勝・木勝』など、 「日本書紀」の「大化以前の記録」にはあるが「続日本紀」には見えない『百八十種の勝(すぐり)』(紀上 494頁)なる『勝』が付されて『帰化人、とか、渡来人』などと説かれてきた「族人」があった『歴史の事実』がかかわっているように思われるのである。

現実、『先祖・隼人』の影が、その『歴史の記録』には認められるのである。

『薩摩』の「勝手神社や勝手ヶ城跡」など、「神代」から『ゆげひのつかさ(衛門府)の先鋒』となって活躍してきた『倭国軍・隼人』の歴史を示すか?

『隼人』と「秦勝」の『秦氏』

先ず「国史 日本書紀 雄略天皇15年」条に、

詔(みことのり)して秦の民を聚(と)りて、秦酒公(はたのさけのきみ)に賜ふ。
公(きみ)、仍(よ)りて百(ももあまり)八十種(やその)勝(すぐり)を領率(ひき)ゐて、庸調(ちからつき)の絹?(かとり)を奉献(たてまつ)りて、朝庭(みかど)に充積(つ)む。因(よ)りて姓(かばね)を賜ひて禹豆麻佐(うつまさ)と曰(い)ふ (紀上 494頁)

『秦造酒』が、『百八十種の勝(すぐり)』を率いて租庸調の内の庸調としての『絹』を「うず高く」積んで朝廷を喜ばせた。それで、『秦酒公』に『禹豆麻佐』と言う姓が与えられた、とある。

翌「雄略天皇の16年」条には、

桑に宜き國縣にして桑を殖ゑしむ。又秦の民を散(あか)ちて遷(うつ)して、庸調を獻(たてまつ)らしむ (紀上 494頁)

と、「桑の育ちのよい地方」と『秦の民』の話が載せられている。

「新撰姓氏録」に、

『雄略天皇』の命令で「小子部雷(ちいさこべのいかづち)」なる人物が「秦氏の民」を『隼人』に集めさせたと、

『秦氏』が自らの歴史を告げる記録に『隼人』とのかかわりを伝えているのである。

新撰姓氏録の「山城国 諸蕃 秦忌寸」条に、

天皇、使(つかひ)、小子部雷を遣(つかは)し、大隅阿多の隼人等を率て、捜括鳩集(まぎあつめ)しめたまひ、秦の民九十二部、一万八千六百七十人を得て、遂(つひ)に酒(人名)に賜ひき。
 爰(ここ)に秦の民を率て、蚕を養ひ、絹を織り、筺に盛り、闕(みかど)に詣(まゐ)でて、貢進りしに、岳の如く山の如く。朝庭に積蓄みければ、天皇嘉ばせたまひて、特に籠命(あつきみこと)降したまひて、号(な)を賜ひて、禹都万佐(うづまさ)と曰(い)ふ
(新撰姓氏録の研究 考証編第五 279頁)

「日本書紀」が『雄略天皇』の段に「一度」だけ載せる『百八十種の「勝(すぐり)」』の『勝』が、「新撰姓氏録」に載せられる『上勝、秦勝、不破勝』等の『勝』が付く人々のことと考えられるのである。

つまり、「400年代の終わり」ごろ、『国史』は『雄略天皇』の死を悲しんで「殉死」した『隼人』の記録も載せるが、

 それから「300年」ほど経った「815年」に成る『秦氏の記録』には、その『雄略天皇』の下で「機織り」に従事した人々の歴史に『秦氏と隼人』がかかわったことが記録される。

大隅阿多の隼人
「新撰姓氏録 山城国 諸蕃 秦忌寸」条
天皇、使(つかひ)、小子部雷(ちいさこべのいかづち)を遣(つかは)し、大隅阿多の隼人等を率て、捜括鳩集(まぎあつめ)しめたまひ、秦の民九十二部(とものを)、一万八千六百七十人を得て、遂(つひ)に酒(人名)に賜ひき (新撰姓氏録の研究 考証編第五 279頁)

 『平安時代』の記録に『薩摩隼人』でもない『阿多の隼人』があるのである。

 『百八十種勝』は『事勝國勝長狭』を始祖とする「系譜」かも

 『百八十種勝』の「頭注」には、『百八十種は多種多様の意。勝には、諸説あるが、令制の伴部に当たる下級管理職か』(紀上 499頁)としてある
 また、「補注」には、『勝の訓は、通証はタヘ(肌膚)またはマサ(禹豆麻佐の略)かといい、集解はカチを採って「蓋優勝之義。諸秦之中、優勝織工者」とするが、スグリ(村主)とする信友の説に従う。勝は地名などの下に添えて姓の一種ともなっている』(紀上 636頁)などともある。

しかし、『朝鮮半島に遠征』したとされる『雄略天皇』の時代、『派遣された列島の兵士』と「その特殊な技能」故に現地で取り込んだ『渡来人』を仕分けした「歴史記録」などなく、新撰姓氏録」などが告げる「霊帝から阿智王」までの系図がわかる文献資料は中国にはない

 『出自秦始皇帝三世孫孝武王也』とある『秦氏』

『諸蕃』とは

「日本書紀 神武天皇元年正月」条が、『天基(あまつひつぎ)を草創(はじ)めたまふ日に、大伴氏の遠祖道臣命、大來目部を帥(ひき)ゐて、密(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能(よ)く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て』云々(紀上 214頁) と告げるその『倒語(さかしまごと)』の類で、

 『秦人・漢人等』は『諸蕃の投化ける者(ひと)』どもではなく、『倭国日本』の『ゆげひ(靱負)の大伴』の策謀によって、「半島」に於いて『先祖は秦人・漢人 ダヨ』と、その『倒語(さかしまごと)』を以てして『半島計略のために送り込まれた同胞』

つまり、「渡来人」とされる「2大族」の『秦(はた)氏』と『漢(あや)氏』は、『神武王統』以降の「半島計略」にあって、「列島」の『物部(もののふ)』として派遣 されていた「白丁」で、

「562年」の『任那官家滅亡』によって『帰島した人々』と考えるが、

鹿児島県民の先祖『隼人』も、「西暦400年代」の『履中、雄略天皇』と言う『倭の5王』の時代には「国史」の記録に登場し、

 「神話」が告げるその縁起のままに『奈良律令』の『隼人司』に属して『国家の大儀』に奉仕し、『九州西海道』にあっては『大宰府』に拠って『鎮桿・防守、蕃客・帰化』の任にあたっていた

「740年」の『広嗣の乱』関連の「続日本紀」の記録で明確に知ることができる。

 『雄略天皇』の時代にも同じように『水表(をちかた)の軍政』に関与していたことは、同天皇の『墓前で殉死した隼人』の「国史」の記録からも信じざるを得ず、

今の「揖宿神社」が、創建時には「葛城宮」という名称であったと伝えられゝば(指宿市誌 1130頁)、

 『和名抄』の『葛例郷』の名は、『薩摩国 阿多郡』と『大隅国曽於郡』の「全国で2郡」にしか認められず、古い『勝羅』に由来して『葛城』郷と同じ、としてきた。

より確かな「裏付け」は、次のような『考古遺品』の出土にある。

 去年後半(2012年9月29日~12月2日)に「大阪府立近つ飛鳥博物館」で開催された特別展『南九州とヤマト王権』の図録には

『岡崎18号墳1号地下式横穴からは鉄製の武器や農耕具と共に鉄?が出土しています。また農耕具の中にも朝鮮半島の影響が強いものがふくまれています。このことから岡崎18号墳に葬られた被葬者は、ヤマト王権との交流とともに、朝鮮半島へとつながる交流を独自に行っていたと考えられます』(図録 南九州とヤマト王権 73頁)

と、正しく所説を裏付けてくれる「考古学」上の見解が示され、

「同図録」に『地下式横穴墓とは何か』と題して「鹿児島大学の橋本達也準教授」も、

 『従来、地下式横穴墓はとかくローカルなものと位置づけられてきたが、この墓制は単に地域的な閉鎖性の中から独自に生み出されたものではない。そのことは、例えば初期の地下式横穴墓である鹿屋市岡崎18号墳に伴う地下式横穴墓において鉄?などの半島系鉄製品が出土し、竪坑上で初期須恵器を用いた祭祀が実行されていたことなど明らかである』(図録 南九州とヤマト王権 143頁)

と述べている。

『鹿屋市岡崎18号墳』の時期については、『出土した須恵器から5世紀後半の築造と考えられます』(図録 南九州とヤマト王権 74頁)とあるから、正しく『雄略天皇の時代』であり、

『雄略天皇』の命令で『大隅阿多の隼人』が『絹織物生産工』を集めて『秦氏』に預けた時であり、この「天皇の死」を悲しみ、飲まず、食わずにその墓前で死んだ『隼人』が「国史」に記録された時で、

 その『雄略天皇』は、『中国の国史』に『倭の五王』と解されていたうちで『朝鮮半島の権益』を大きく求めた『王』と解され、「日本書紀」にも関連する記録が認められる。

この「雄略天皇」の「父の兄弟」間の『皇位争い』に『近習隼人の曾婆加里(刺領巾)』が「践祚大嘗祭」の時殺されている。
『隼人』なる術語は、これ以前には「記紀」の『神代巻』に出てくるだけである。

『隼人』の系譜について、『神代巻の日向神話』にかたられ、『日向神話の初代』までは『天皇家の始祖と同じ系譜』とかたられている。

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阿多隼人(薩摩隼人) 
薩摩半島一帯に居住していた隼人族。薩摩国設置以前はこの一帯はアタ(阿多又は吾田と表記される)と呼ばれていた。『日本書紀天武天皇十一年』の記事に記される。薩摩国設置後は、『続日本紀』和銅二年709年で薩摩隼人の呼称が用いられる。

大隅隼人
後世、大隅郡(大隅半島北部、特に「大隅郷(現在の志布志市から曽於市大隅町)」周辺か)と呼ばれる地域に居住した部族、主領域を肝属平野とする部族であるとする説もある。『日本書紀天武天皇十一年(682年)』の記事ある。
多褹(たね)隼人
種子島と屋久島(多禰島)に居住した部族。大宝2年(702年)には多褹の隼人、征討軍を派遣して鎮圧する事態になった。

甑隼人
甑島に居住した部族。『続日本紀』神護景雲三年(769年)の条に記事。

日向隼人
日向国に居住した部族。『続日本紀』和銅三年(710年)に部族の首長である曾君細麻呂が服属し外従五位下(少納言や上国の守相当)に叙されたとの記事がある。ただし、これは、713年大隅国が分離される前の記事である。『宇佐神宮史』養老三年(719年)の条には「大隅日向隼人襲来打傾日本國」の記事(「隼人の反乱」の前哨か)が見られる。

隼人舞伝承地
京田辺市大住, 月読神社
 九州南部の大隅隼人が七世紀頃に大住に移住し, 郷 土の隼人舞を天皇即位にともなう大嘗祭のときなどに 朝廷で演じ, また月読神社にも奉納して舞い伝えてき た。隼人舞は岩戸神楽と共に日本民族芸能の二大源流 ともいわれ, 『古事記』や『日本書紀』の海幸彦山幸 彦の神話に起源するといわれている。文学博士志賀剛 氏(1897~1990)は能楽五座のうち外山座が 月読神社の外山神楽座であるという。
 更に, 隼人舞継承者牧山望氏(190
10月14日の夕刻、月読神社・天津神社の宵宮に奉納される