三種の神器、剣は草薙剣

三種の神器

  • 三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ))は、日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣のこと。
  • また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物のこと。
  • 八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣を指す。

伊勢神宮において鏡・剣・玉を三種の神器としています。
『古事記』には天照大神が天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊に「八尺の勾璁(やさかのまがたま。八坂璁曲玉、やさかにのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)と、草薙剣を神代として授けたと記され、『日本書紀』の「神代下」にも皇孫瓊瓊杵尊が、アマテラスから三種の神宝(神器)を授けられて天孫降臨したと書かれています。しかし、同じ『日本書紀』の「継体天皇元年二月条」と、持統天皇四(六九〇)年正月条には鏡と剣の二種を神璽とする記事があります。「四年春正月戊寅朔、物部麻呂朝臣樹大盾。神祗伯中臣大嶋朝臣讀天神壽詞(よごと)。畢忌部宿禰色夫知奉上神璽劒鏡於皇后。皇后卽天皇位。公卿百寮、羅列匝(あまねく)拜、而拍(うつ)手焉」。また、養老令(七五七年施行)の神祇令に皇位継承の践祚には、中臣氏は天神の寿詞(よごと)を奏し、忌部氏は神璽の鏡と剣を奉ることが規定されています。惟宗直本による養老令の注釈書である『令集解』(八六二年頃。全五〇巻うち三六巻が現存)の古記は、大宝令(七〇一年)の注釈であり現存しない大宝令の本文を知ることができます。ここから、大宝令にも皇位継承の践祚の規定が同じくなされていたと思われます。

三種の神器のうち鏡と剣は大和の笠縫邑から伊勢神宮に遷され、剣は日本武尊のときに尾張の熱田神宮に祀られます。

持統天皇四(六九〇)年正月、大極殿に出御した新帝が高御座について即位の儀礼を行います。このときに皇位を象徴する神璽としての鏡と剣が、忌部氏によって奉上されます。「神璽の剣、鏡を皇后に奏上」とあるように、鏡と剣の二種の神璽となっています。忌部氏の事跡を書いた『古語拾遺』(八〇七年)も鏡と剣の二種神宝とあります。これを忌部の鏡剣二種説、中臣の鏡剣玉三種説といいます。養老令の規定からしますと、原則的には二種であったといわれ、玉が神器に入って三種になった時期は不明といいます。オホド大王(継体天皇)以前は、允恭天皇の「璽符」、雄略天皇の「璽」と見えるだけで、継体天皇のときに始めて二種の神器としたのは、王統断絶の危機に瀕して正当性を持たせるためといいます。

草薙剣、天叢雲剣か

『日本書紀』では「草薙剣」、『古事記』では「草那芸之大刀」「草那芸剣」と表記される。「天叢雲剣」の名称は、日本書紀の注記で、異伝(一書・一云)として二か所のみに記される。熱田神宮では、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)としている。

スサノオ(素戔嗚尊)が、出雲国において十拳剣でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。その尾から出てきた剣が草薙剣である。日本書紀の注には「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。大蛇の居る上に常に雲気が掛かっていたため、かく名づけたか」とある。スサノオは「これは不思議な剣だ。どうして自分の物にできようか」(紀)と言って、高天原の天照大神(アマテラス)に献上した。剣は天孫降臨の際に、天照大神から三種の神器としてニニギ(瓊瓊杵尊)に手渡され、再び葦原中国へと降りた。Wikipedia

草薙剣の形代は、崇神天皇の時に神器と同居するのは畏多いという理由で作られ、現在は皇居の「剣璽の間」に勾玉とともに安置されているが、かつて水没、偽造、消失と様々な遍歴を辿った。

まず平家滅亡の折に、平時子(二位の尼)が腰に差して入水しそのまま上がっていない。『吾妻鏡』の壇ノ浦の戦いの元暦2年(1185年)3月24日の条で「二位ノ尼は宝剣(草薙剣)を持って、按察の局は先帝(安徳天皇)を抱き奉って、共に海底に没する」とあり、戦いの後の同年4月11日の条に、戦いでの平氏方の戦死者、捕虜の報告に続いて「内侍所(八咫鏡)と神璽(八坂瓊曲玉)は御座すが、宝剣(草薙剣)は紛失」と記されている。また、安徳天皇の都落ち後に即位した後鳥羽天皇はその後も宝剣の捜索を命じたが結局発見されず、以前に伊勢神宮の神庫から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣とした。ついで、一説によると南北朝時代に後醍醐天皇が敵を欺くために偽造品を作らせたことがあったという。また室町時代には南朝の遺臣らによって勾玉とともに強奪されたことがあったが、なぜか剣だけが翌日に清水寺で発見され回収された。これが現在の皇居の吹上御所の「剣璽の間」に安置されている剣である。Wikipedia
侍従長であった入江相政の著書によると、太平洋戦争当時に空襲を避けるために木曾山中に疎開させようとするも、櫃が大きすぎて運ぶのに難儀したため、入江が長剣用と短剣用の2種類の箱を用意し、昭和天皇の勅封を携えて熱田神宮に赴き唐櫃を開けたところ、明治時代の侍従長・山岡鉄舟の侍従封があり、それを解いたところで明治天皇の勅封があったという。実物は検分していないが、短剣用の櫃に納めたという。Wikipedia

第一二代景行天皇のとき草薙剣は、倭姫命から東国の制圧へ向かう日本武尊に渡されます。伊勢神宮でこれを拝受した日本武尊は、東征の途上の駿河国(『古事記』は相模)の焼津で賊の火攻めにあい、この神剣によって草を薙ぎはらい野火の難を逃れたことから、草薙剣という別名ができました。現在の静岡県には焼津・草薙など、この神話に由来する地名が残っています。日本武尊は東征の帰りに尾張国で結婚した宮簀媛の元に剣を預け、そのまま伊吹山の悪神を討伐しに行きますが、山の神によって病を得、途中で亡くなってしまいます。伊吹山の毒気に斃れたのですが、この説話は尾張氏の裏切りを暗示するともいいます。熱田神宮は尾張氏が祭祀を行っています。その残された草薙剣は、宮簀媛が建てた熱田神宮に祀られました。

草薙剣は『日本書紀』などの記載からしますと鉄剣といわれますが、江戸時代の神官が神剣を見た記録があり、それによりますと長さは二尺八寸(八五㌢)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、全体的に白っぽく錆はなかったとあります。この江戸時代の実見録により銅剣とも考えられています。また、草薙剣は盗難にあったことがあります。

天智天皇七(六六八)年に、新羅の僧である道行は熱田神宮の神剣を新羅に持ち帰ろうとしましたが、船が難破して取り戻されました。その後は宮中で保管されていましたが、朱鳥元(六八八)年六月に天武天皇が病に倒れると、神剣の祟りだということで熱田神宮に戻されたのです。

剣名の由来
諸説ある。都牟刈大刀(つむがりのたち)、都牟羽大刀(つむはのたち)、八重垣剣(やえがきのつるぎ)、沓薙剣(くつなぎのけん)ともいう。 『海部氏系図』、『先代旧事本紀』の尾張氏系図、津守氏古系図等に載る「天村雲命」との関係も推測され、また外宮祀官家の渡会氏の祖先にも「天牟羅雲命」の名が見える(『豊受大神宮禰宜補任次第』)

即位と神器

『日本書紀』には、三種の神器、あるいは璽(みしるし)について以下のように記述される。

允恭天皇元年十二月の条、「是に、群臣、大きに喜びて、即日に、天皇の璽付(みしるし)を捧げて、再拝みてうえる」。
清寧天皇前記十二月の条、「大伴室屋大連、臣・連等を率て、璽(しるし)を皇太子に奉る」。
顕宗天皇前記十二月野上、「百官、大きに会へり。皇太子億計(おけ)、天子の璽(みしるし)を取りて、天皇の坐に置きたまふ」。
継体天皇元年二月の条、「大伴金村大連、乃ち跪きて天子の鏡(みかがみ)剣(みはかし)の璽符(みしるし)を上りてまつる」。
宣化天皇前記十二月の条、「群臣、奏して、剣(みはかし)鏡(みかがみ)を武小広国押す盾尊に上りて、即天皇之位さしむ」。
推古天皇前記十一月の条、「百寮、表を上りて勧進る。三に至りて乃ち従ひたまふ。因りて天皇の璽印(みしるし)を奉る」。
舒明天皇元年正月の条、「大臣及び郡卿、共に天皇の璽印(みしるし)を以て、田村皇子に奉る」。
孝徳天皇前記六月、「天豊財重日足姫天皇、璽綬(みしるし)を授けたまひて、位を禅りたまふ」。
【参考】天智天皇七年(668年)是歳の条、新羅の僧による草薙剣盗難事件が起こる。
持統天皇四年(690年)正月の条、「物部麿朝臣大盾を樹て、神祇伯(じんぎのかみ)中臣大嶋朝臣天神の寿詞を読み、畢(おわ)りて忌部宿禰色夫知神璽の剣鏡を皇后に奉上り、皇后天皇の位に即く」。
上記のうち最後の持統天皇四年条によれば、持統天皇即位時に臣下の忌部氏が剣と鏡の二種を献上した。とある。『日本書紀』は歴代の即位記事において奉献の品を璽・璽符・璽印と漠然と表現している。

鏡と剣との名をあげたのは、継体紀と宣化紀の2つのみ。
これによって「宝物は元は2つであり後に中臣氏が三種説を主張して勾玉が加わった」のではないかという説もあった。

また近江令までは3種であったのをなぜか飛鳥浄御原令で2種としその後また3種に戻されたとする説もある

吾妻鏡の後鳥羽上皇

『吾妻鏡』によれば、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いで、安徳天皇が入水し草薙剣も赤間関(関門海峡)に水没したとされる。
この時、後鳥羽天皇は三種の神器が無いまま、後白河法皇の院宣を根拠に即位している。

南北朝時代以後の神器

足利尊氏は後醍醐天皇の建武の新政(建武の中興)に離反し、1336年(延元元年/建武3年)に光明天皇の北朝を立てて京都に室町幕府を開くが、後醍醐天皇は、北朝に渡した神器は贋物であるとして自己の皇位の正統性を主張し、吉野(奈良県吉野郡吉野町)に南朝を開き南北朝時代が始まる。正平一統の後に南朝が一時京都を奪還して北朝の三上皇を拉致する際に神器も接収したため、北朝の天皇のうち後半の後光厳天皇・後円融天皇・後小松天皇の3天皇は後鳥羽天皇の先例にならい神器無しで即位している。南朝の北畠親房は『神皇正統記』で、君主の条件として血統のほかに君徳や神器の重要性を強調したが、既に述べたように、神器無しでの即位は後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位した先例がある。

南朝保有の神器は、1392年(元中9年/明徳3年)に足利義満の斡旋による南北朝合一の際に、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に渡った。

室町時代の1443年(嘉吉3年)に、南朝の遺臣が御所へ乱入し神器を奪う「禁闕の変」が起こり、剣と勾玉が後南朝に持ち去られたが、剣は翌日に早くも発見され、玉はその後1458年(長禄2年)に奪還された。

明治時代には、南北両朝の皇統の正統性をめぐる「南北朝正閏論」と呼ばれる論争が起こるが、最終的には明治天皇が、三種の神器保有を根拠に南朝を正統と決定する。

今上天皇は1989年1月7日に宮殿松の間での「剣璽等承継の儀」にて神器を継承した。

天智天皇の時代(668年)、新羅人による盗難にあい、一時的に宮中で保管された。天武天皇の時代、天武天皇が病に倒れると、占いにより神剣の祟りだという事で再び熱田神宮へ戻された。

近江令

近江令(おうみりょう)は、日本の飛鳥時代(天智天皇の治世)に制定されたとされる法令体系。全22巻。古代日本政府による最初の律令法典に位置づけられるが、原本は現存せず、存在を裏付ける史料にとぼしいことから、存在説と非存在説の間で激しい論争が続いている。両説とも、律が制定されなかったという点では、ほぼ見解が一致している。