三井寺、大津京、大友皇子、葛野王

滋賀県の三井寺(みいでら)は当時、園城寺(おんじょうじ)と呼ばれ、壬申の乱で敗れた大友皇子の菩提を弔うため、686天武15年、建立したと伝えられます。与多王の屋敷である田園城邑(田畑屋敷)を寄進し、天武天皇により「園城寺」の名を授かったといわれています。その後、一時、近江朝没落とともに衰退しましたが、御井寺として再興されたといいます。その後、三井寺となりますが、これは天智、天武、持統3代の天皇の産湯として遣われた井戸があるとされたことによります。

貞観年間(859~877)になって、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)和尚が、 園城寺を天台別院として中興されてからは、 東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられ、 南都北嶺の一翼を担ってきました。 円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、 正暦四年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。 この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されました。

近江の三井寺である園城寺は全国白山神社の総本山とされるそうです

京都の白山神社こと三井寺は、与多王が私財をなげうって建てた大友皇子のための寺です

百済(Baekjae)の王家の墓が残る古代王国の首都公州(Gongju)に太白山がある。

加賀國石川郡 白山比咩神社 加賀國一宮 旧國幣中社

御祭神
白山比咩大神(菊理媛神) 伊弉諾尊 伊弉冉尊

伊弉諾尊 「元享釈書」「諸神記」
伊弉冉尊 「大永神書」「神名帳考證」「神祇志料」
伊弉諾尊 伊弉冉尊 「神社霊応記」
伊弉冉尊 菊理媛神 「神社覈録」「諸國一ノ宮神名帳」「諸國一ノ宮記」

六六七年、近江大津宮

大津京成立と同時期に建てられたと思われる古寺四ヶ寺の遺構も発掘された。 都を取り囲むように、北から穴太廃寺、崇福寺、南滋賀廃寺、そして園城寺(三井寺)である。 いずれの寺でも白鳳時代の瓦や貴重な文物が出土している

672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が 皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。 壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために 「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して寺を創建し、 天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことが園城寺の始まりとされています。勝利をおさめた大海人皇子は再び飛鳥に遷都し、近江大津京はわずか五年で廃都となりました。 

大友皇子の即位説

壬申の乱で死んだ皇族は大友皇子と山部王の二人だけであり、他の天智系皇族は大友の子葛野王をも含めて全員が残って朝廷を構成した。その他中・下級の官人まで含め、存命のものは多かった。彼ら皇族・臣下は『日本書紀』の想定読者でもあるので、よく知られた事実を否定するような操作は難しかったのではないかという指摘もある。

672年 大友皇子の最後

672天武1年7月23日、山前(やまさき)で自害されました。この地の特定はなされていません。大友皇子の首は村国連男依(むらくにのむらじおより)らによって、天武天皇の待つ不破宮に運ばれました。後に、自害峰と呼ばれる3本杉の下に葬られたと当地の伝承にあります。御陵候補地としては茶臼山古墳(大津市秋葉台)や御霊神社(大津市鳥居川)があるますが、現在は「弘文天皇長等山前陵」とされる円城寺境内の亀岡古墳(大津市御陵町)が認定されていますが定かではありません。

葛野王と淡海真人

葛野王らは自分が大友皇子の子供というより、天智天皇の孫であることを強調していました。その結果、淡海真人姓が葛野王の子孫に与えられました。751天平勝宝3年三船に賜姓されたことに始まります。淡海の氏名は、近江国(滋賀県)の地名に基づきます。

葛野王:持統天皇の孫でもある軽皇子の皇位継承に貢献

持統朝にて浄大肆・治部卿に叙任される。持統天皇10年(696年)に皇族の筆頭であった太政大臣・高市皇子が薨去した後、持統天皇が皇族・公卿・官人を宮中に召して皇太子の擁立について議論させた。しかし、群臣はそれぞれ自分に都合の良い意見を言い合い、議論は紛糾した。この時、葛野王は前に進み出て直系による皇位継承を主張した(藤原不比等が入れ知恵したのだとする意見もある)。

日本では神代から親子間での皇位継承が行われており、兄弟間での継承は争いの元である。どの皇子が最も皇太子に相応しいかとの天意を議論しても、その天意を推し測れる者などいない。血筋や長幼から考えれば、皇嗣は自然に定まる。これ以上誰も余計なことを言うべきではない。
ただし、実際には古来から兄弟間での皇位継承の実例は多く、それについて天武天皇の皇子である弓削皇子が葛野王に問いかけようとした矢先、葛野王は弓削皇子を一喝したため、弓削皇子は何も言えなかった。その結果、数ある天武天皇の皇子達は退けられ、前皇太子・草壁皇子の子で持統天皇の孫でもある軽皇子(のち文武天皇)が皇太子に定められた。葛野王はその意見により国家の基本が定まったとして、持統天皇から称賛されたという。