七夕伝説、米原、息長氏、京極氏

米原の蛭子神社と朝妻神社、天野川

古来より、7月1日から7日間、男性は蛭子神社の七夕塚を拝み、女性は朝妻神社の彦星塚にお祈りし、7月7日の七夕の日の夜、ひそかに二人の名前や願い事を短冊に書いて天の川に流すと想いが叶なった。との逸話も伝わっています。

蛭子神社に伝わっている古文書『世継神社縁起之叟(えんぎのこと)』によりますと、七夕伝説の天河の二星、彦星は雄略(ゆうりゃく)天皇の第四皇子の星河稚宮皇子(ほしのかわのわかみやおうじ)、織姫星は仁賢(にんけん)天皇の第二皇女の朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)とあります。古墳時代中期、天野川を隔てて仏道の修行を積んでいた二人はいつしか恋に落ちましたが、そもそも仁賢天皇のお妃は雄略天皇の娘で、その娘の朝嬬皇女と星河推宮皇子との間柄は叔父と姪にあたることもあり、会うこともままならぬ悲しい恋だったようです。その後の桓武天皇の延暦年間(782~806)に 、奈良興福寺の仁秀という僧が、この地に伽藍(がらん)を建てる際に、二人のことを知り、二人を牽牛織女(けんぎゅうしゅくじょ)に見立ててともに祀ったのが、七夕伝説のはじまりだそうです。
現在、その二人の墓が天野川を挟んで残っています。蛭子神社には、本殿の横に高さ1メートルばかりの自然石(朝嬬皇女の墓は元々天野川の上流に円墳の立派な古墳があったのですが、天野川の洪水で流れてしまい、残った自然石をここに祀ったそうです)があり、地元人は昔から「七夕石」とか「七夕塚」と呼ばれていた朝嬬皇女の墓が、対岸の朝妻神社境内には、「彦星塚」と呼ばれている石塔が竹薮の中に建っていて星河稚宮皇子が祀られています。

蛭子神社の祭神は、事代主命(ことしろぬしのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)で延暦年間に奈良興福寺の仁秀僧正によって建てられました。境内には「朝嬬皇女」の墓と呼ばれる自然石があります。もともと古墳で天野川の上流にありましたが洪水でわずかに残った石を、皇女が世継へ御幸されたことを後世に伝えたいという村人の願いから七夕石として祀られています。

息長氏と米原
日本書紀に、「オキナガ」の名で登場する人は7名しかいない。
気長宿禰王、気長足姫尊、息長真手王、息長足日廣額天皇、息長山田王、息長真人老である。
気長宿禰王と気長足姫尊は父娘の関係である。
息長真手王は継体帝に麻績郎女、敏達帝に広姫、娘二人を天皇に嫁がせていることになっている。継体帝と敏達帝は半世紀以上離れていると思われるので、どこかで伝の乱れがあると言われている。敏達帝に嫁いだ広姫は押坂彦人大兄皇子を生んでいる。押坂彦人大兄皇子は後に「皇祖大兄」と呼ばれて息長天皇家の祖と言われる存在である。

天野川の息長氏の古墳

米原市には姉川沿いに10基以上の前方後円墳が展開する坂田古墳群と天野川沿いに4基の前方後円墳がある息長古墳群がある。坂田古墳群は4世紀から5世紀末にかけて築造したと考えられる。息長古墳群は5世紀末から6世紀にかけての築造らしい。このエリアにおいて姉川沿いの地域に坂田古墳群を築造したと考えられる坂田酒人氏が最有力の豪族として君臨し、5世紀末になって南方約20kmの天野川沿いに息長氏が勢力を伸ばし逆転現象が起こったと考えられている。(大橋信弥著「日本古代国家の成立と息長氏」)

米原の息長氏の古墳
気長宿禰王:米原市能登瀬の山津照神社古墳
気長足姫尊:奈良県奈良市の五社神古墳(ごさしこふん)
広姫    :米原市村居田の息長広姫陵

継体天皇との関連

坂田古墳群の中には、伝稚渟毛両岐王陵といわれる垣籠(かいごめ)古墳がある。人骨・鏡・剣・刀・勾玉・管玉・小玉が出土したと言われ、5世紀初頭に比定されている。稚渟毛両岐王は記紀では応神帝の皇子となっているので、少し時期的に古い気がするが誤差を考えると許される範囲なのかもしれない。稚渟毛両岐王は息長氏など八色の姓で真人姓を与えられた氏族が始祖とする人物である。継体帝はこの皇子の直系に当たると言われている。垣籠古墳が稚渟毛両岐王陵だとすると、稚渟毛両岐王は坂田酒人氏と関係が深いことになる。

気長宿禰王と稚渟毛両岐王

近江町宇能登瀬は、豪族息長氏の本貫地といわれ、山津照神社古墳は、息長宿禰王の墓との伝承があり、前方後円墳で横穴式石室から貴重な遺物が出ています。同神社は、集落の北側の小高い山間に位置し、息長一族の租神が祀られている

記紀では気長宿禰王は気長足姫尊(神功皇后)の父親で、稚渟毛両岐王は応神帝の皇子として出てくる。気長宿禰王の墓は米原市能登瀬の山津照神社古墳で天野川沿いの息長古墳群の中にある。5世紀末から6世紀にかけての築造だと思われる。稚渟毛両岐王の墓は坂田古墳群にあって5世紀初頭に比定されている。古墳の比定が正しいか、記紀の説話が正しいかは不明だが、気長宿禰王と稚渟毛両岐王に関して言えば記紀の記述か墓の比定のどちらかが逆になれば辻褄が合うことになる。

7世紀の近畿天皇家から「皇祖大兄」と呼ばれた押坂彦人大兄皇子の墓所は奈良県北葛城郡広陵町の牧野古墳(ばくやこふん)と言われている。神功皇后を除けば、息長氏の関係者で最初に大和エリアに埋葬された人物である。

山津照神社と古墳
鎮座地 滋賀県米原市能登瀬390      国常立尊   御神紋 菊 桐

御由緒
創祀年代は詳らかでないが、「神祇資料」によると、「山津照神社、今能登瀬村にあり、称徳天皇天平神護2年、近江地6戸を神封に充奉る」とあり、又「近江坂田郡志」によれば、「興福寺官務牒疏」に「山津照神。在坂田郡箕浦之東能登瀬。供僧三人。神主二人。神人二人。宣化天皇三戌午年。影向勧請。金勝寺四箇處鎮守之其一也」とあり、延喜式の小社に列せられた古社である。天武天皇の御代奉幣あり、文徳天皇より、仁寿元年正六位に進められ、清和天皇より、貞観8年正四位下に敍せられた。宇多天皇の寛平9年金勝寺の鎮守として、近江国の国司から、この年に年分度者2人に許可を与え、それぞれ飯道名神(信楽)と山津照名神とに仕えさせたい旨奏上したところ、朝廷もその請願を許可された。又醍醐天皇の延長6年、位記の印を請け、光明天皇の暦応2年、祈願あって本社を修造された。後光厳天皇の文和3年、御祈願があるなど朝野の崇敬が厚く、社領の寄進などがしばしば行はれた。中世は青木の宮と称せられていたが、明治以降はもとの山津照神社に復称し、明治14年郷社に列し、大正10年県社となる。近郷の総社として27ヶ村(現在は20ヶ村)の氏神として崇敬されている。境内にある古墳は、明治15年参道拡張工事の際発見されたもので、神功皇后の御陵候補地で、当社と深い関係がある。
境内社(摂社・末社)青木神社 若宮八幡神社 春日社 北野社

滋賀県指定史跡 山津照神社古墳昭和44年9月12日指定
天野川右岸の丘陵上にある式内山津照神社境内に位置する当古墳は、明治15年に社殿の移転に際し、横穴式石室が発見された。
墳丘は一部が削平をうけているが、全長約63mと推定できる前方後円墳である。主体部には石棺を安置していたようで、内行花文鏡・獣文鏡・五鈴鏡・金銅製装身具残片・三輪玉・鹿角製刀子・馬具・勾玉・管玉・切子玉などと杯蓋・杯身・提瓶・長頸壺・大型器台などの須恵器類が出土している。墳丘からは朝顔形埴輪・円筒埴輪が出土している。これら出土品の大部分は滋賀県指定有形文化財に指定されている。
当古墳は天野川下流の古代朝妻郷内に所在する人塚山・後別当・塚の越・狐塚古墳など前方後円墳とともに息長古墳群を形成し、息長氏と推定される首長系譜を明らかにする古墳といえる。
平成4年3月 滋賀県教育委員会

日撫神社 ひなでじんじゃ

国土経営の神・医薬神・無病息災の神である少毘古名命と神功皇后の父である息長宿禰王と皇后の子応神天皇をまつっています。社宝として薬師如来の懸仏と小野道風自筆の下乗札が納められています。また、毎年9月第3月曜日に秋祭りである古式相撲(角力)が行われます。
所在地 〒521-0072  滋賀県米原市顔戸77

由緒
延喜式神名帳記載の坂田郡五座名神小の内の一にして、創始の年代は詳かではないが 、「神祇志料」では「新撰姓氏録を案ずるに、山田造火撫直あり、共に後漢需帝四世 の孫阿智使臣の族也と云へり、之によると、二氏の族、或は此處に居るもの其の祖先 を祀れるか」と、また「神社覈録」でも「祭神火撫直祖神歟」と記している。社伝お よび明治の神社誌によると、当地神功皇后の祖先代々住まれし地なるを以って、皇后 此の地を慕い給う事深く、三韓より凱陣し給うや、此の地に を建て、御父息長宿禰 王及び國土経営と医薬に功ありし小毘古命を祀り給いしを創始とす、とその創立の由 来を説いている。
中古は、社領六百石を有し、朝妻荘内十一ケ村大社であり数箇の大伽藍と十九の社坊 を数え、多くの社僧がいたことを記録に残している。歴朝の祟敬深く、村上天皇は宸 翰の額を奉納され、特に後鳥羽上皇はしばしば参詣され、應神天皇を祀り給う、その 時村人による角力を叡賢され給う。この角力が今日伝承され毎年奉納されている。ま た黄牛を奉納されたとも伝えられている。その他武門、武将の尊祟厚く、後小松天皇 の應永年中、京極高光の建立せし伽藍等蛾ありしが、数度の兵燹に罹りまた織田信長 の叡山諸院を焼亡するや、神官、僧侶等これをおそれて自焼し、古記録ことごとく焼 失する。
社殿は、亨保八年(一七二三年)三月に再建され、拝殿等は寛政年中に落成されたも のである。
明治十四年三月に列し、明治二十四年内務省より古社保存資金を受け、大正十年五月 県社に昇格せられる。

京極高光(きょうごく たかみつ)
室町時代中期の守護大名。室町幕府侍所頭人、出雲・隠岐・飛騨守護。京極高詮の嫡男で高数の兄。子に持高、持清、娘(細川持之室)。
応永8年(1401年)に父が亡くなり、出雲・隠岐・飛騨3ヶ国の守護を継いだ。応永12年(1405年)に出雲大社の造営を幕府から命じられ、出雲の豪族である松田掃部入道に、大社の宮司である出雲国造と相談し完了させる様に命じている。また応永年間には近江の日撫神社に伽藍を建立している。応永16年(1409年)に侍所頭人を務め、応永18年(1411年)に飛騨国司姉小路尹綱が幕府に背いた飛騨の乱が起きると、弟の高数を総大将として兵を出し制圧している。

岡神社[ヲカ]
坂田神明宮[さかたしんめいぐう]「天照大神、豐受姫命」垂仁天皇八、年天照大神を淡海甲可日雲宮より遷宮し二年の間奉斎した。滋賀県坂田郡近江町大字宇賀野835-2 阜嵐健
岡神社[おか]「皇産靈大神、不詳六柱」白雉三年勧請。滋賀県坂田郡山東町大字間田96
長岡神社[ながおか]「素盞嗚尊」滋賀県坂田郡山東町大字長岡1573 阜嵐健
彦根神社[ひこね]「活津彦根命」田中神社と呼ばれる。境内摂社に岡神社「素盞嗚尊」
滋賀県彦根市後三条町大字宮立122 阜嵐健

竹田神社[たけだ]
「天津彦根命、天目一箇命 配 大己貴命、石凝姥命、大屋彦命」
崇神天皇のとき水穂真若王が勅命によって「明神の森」に創祀。
由緒
人皇代十代崇神天皇の七年(皇、570 西前、91)水穂真若王が勅を奉じて御創 建遊ばされた二千年の古社にして、延喜式内の菅田神社は当社である。

成務天皇五年十月(皇、795 西、135)蒲生稲置管掌の地は、東北の境は愛知川及伊勢地方、西は三上山から湖辺に及び、南は伊賀に至る地域であったと云ふ。三磨は蒲生稲置中興の祖であり、智勇兼備、其の徳近江に く、欽明天皇(皇、120 5 西、545)綿向神社の祠宇を造営し、推古天皇十五年二月百七才にて帰幽す。

生前の徳を仰ぎて祖神の座に配祀す。
天智天皇七年五月(皇、1326 西、666)天皇当社に太刀打神事を行はしめ給 ひ、幣帛を奉り給ふ。当社からは祖神の造り給ひし剣一口、並に伝来の矛一本を献上 せり。又藤原鎌足公の命により朝日山より日陰蔓を採り朝廷に献ず、これより御即位の大甞会ある毎に献納するを例となす。