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讃岐の神社 – 古代史Wiki by tokyoblog より 讃岐 神名 ○阿野郡城山神・賀茂神・神谷神・高…
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京都府京田辺市宮津佐牙垣内
祭神--佐牙彌豆男神・佐牙彌豆女神
延喜式神名帳に、『山城国綴喜郡 佐牙乃神社 鍬靫』とある式内社だが、今は“佐牙神社”と称している。社名は“サガノ”と訓むが、“サカノ”・“サケノ”・“サメノ”などと訓む資料もある。
JR学研都市線(片町線)・JR三山木駅の南約600m(近鉄京都線・近鉄宮津駅の東約500m)
※由緒
「社伝には、敏達天皇2年(573)始めて祭られる。造酒司(サケツクリノツカサ)の奉幣があったと伝えられている。また、東朱智とも言ったらしい。
当社は昔、山本村にあったのが、桓武天皇・延歴13年(794)現在の地に創建されたと伝えられ、平城天皇・大同元年(806)神領寄進あり、醍醐天皇・延喜5年(905)撰集の延喜式神名帳に記載された式内社である」
とある。
また特選神名牒(1876)・酒屋神社の項に引用する“佐牙神社神記”(延喜式内佐牙神社本源記-1185-か)には、
「敏達天皇2年、勅して酒部連友三と云う人に命じて、佐賀弥豆男神(サガミツオ)・佐賀弥豆女神(サガミツメ)を咋岡(クイオカ)の山本に鎮座なし玉ひて、大内酒造司官人毎年幣帛を奉る神社となれり」
とあるという。
これらによれば、当社は、敏達天皇2年に旧山本村に創建され、桓武天皇・延歴13年に現在地に遷座した、となるが、それを証する史料はない。
ただ、今も生きている伝承として、当社の北東約1.3kmにある三山木垣内の地内に“大神宮跡”との区画があり、ここが佐牙乃神社の旧跡という。
・延喜式神名帳・宮中神の中に
「造酒司坐神六座大四座小二座 大宮売神社四座大月次新嘗
酒殿神社二座 酒彌豆男神・酒彌豆女神」
・特選神名牒(1876)に
「社伝に祭神・天津神吉田大明神とあれど、佐牙神社神記というものには酒彌豆男神・酒彌豆女神の二神なりと云えり。由緒ありげなり猶よく考べし」
とあり、佐牙彌豆男神・佐牙彌豆女神を酒彌豆男神・酒彌豆女神と同神とみている(読みは同じ)。
また当社由緒略記にも
「造酒司の奉幣があったと伝える」
とあることからみて、酒造りに関係する神であろう。
南北朝時代、嫡家の河野通盛は足利尊氏に属して終始武家方として活躍、貞和六年(1350)に伊予守護職に任じられた。通盛から家督を譲られた通朝は伊予への進出を狙う細川頼之の攻撃を受け、通朝は防戦につとめたが敗れて討死、さらに通盛も逝去してしまった。残された通堯は劣勢挽回に努めたが、ついに進退窮して南朝方に転じ九州征西府の懐良親王に帰順した。以後、通堯は南朝方として活動、武家方と戦いながら積極的に伊予の失地回復を目指した。そして、応安二年(1369)、細川氏勢力を撃退したのであった。
かくして、伊予を回復した通堯は良成親王を迎えて、四国の武家方征討戦に明け暮れた。ところが、康暦元年(1379)、幕府管領職にあった不倶戴天の敵細川頼之が失脚、讃岐国に引き籠った。この政変に際した通堯は宮方と袂を分かち幕府に降伏、反細川派に属して将軍義満から伊予守護職に任じられたのである。やがて、頼之追討の御教書が発せられ、通堯のもとにも頼之討伐の御教書が届いた。これに対する頼之はただちに伊予に侵攻、通堯も諸将を配して細川勢を迎え撃った。しかし、たくみな頼之の作戦に河野方は劣勢となり、ついに敗れた通堯は居城高外木城で一族ともに討死をしてしまった。通堯はいまだ三十二歳、これからというときの無念の死であった。生き残った一族は、周防の大内氏を頼るなどして諸方に逃散してしまった。
通堯には長男通昌、次男亀王丸、三男鬼王丸、四男村上通康、そして五男に通近の五人の男子があったという。将軍義満は河野氏に同情的で、翌年、亀王丸を取り立てて伊予守護職に任じて旧領を安堵した。さらに、長男通昌には播磨国の揖東郡と中条郡の地頭職を与え、通近は讃岐の三木郡の地頭職を与えられたのであった。
内海 の中央部燧灘 の奥 まった ところの沿岸 に位置す る。 この地 は初め にも説 明 した ように,古 くか ら中央 との
連携があ り,足 利時代 には,何 故か讃 岐 の国 を重視 し, 鎮守府将軍平良兼 の末裔 であ る香川景政に讃岐 の西半分 を統治 させ ている。香川景政 の10代 目に当 る香川之景 中務亟 は,讃 岐 国三野郡 の弥谷山系中聖山 といわれ てい た天霧 山に城塞 を築 き領地 を治めていた。余談 であ るが 天霧城 は天正13年(1585)豊 臣秀吉 の四国 征伐時 に降 代 して天霧城 四代250年 に して滅亡 したが,在 世中香川 一族は,き わめてよい治世を行い,住 民は安堵し地域は 繁栄 したこ とが,多 くの記録 で偲ばれ る
西讃府志(丸 亀 城主京極高朗 が天保10年(1839)頃,那 珂郡櫛梨神社の神官に命じて作らせた幕末期唯 一 の記録書)巻50に は 『室本村 ノ人,古 ヨ リ是 ヲ製 ル
ヲ業 トシテ,国 内ニ売 レリ,香 川氏ノ時 ヨリ,三 野郡ヨ リ西ノ諸村二,醴 又,味 噌ナド造ルニ,此 村ヲ除キテ 外ニ製ルコト許サズ,香 川之景ノ制書,今 尚彼村ニ伝ヘリ。』とあって,良 質の麹が永録年(1558~1570第14代足利義輝)
の 頃か ら室本浦 の人 の生業 として認め られ 専売権を与えられていた。
伝承によれば、大宝年間(701年 - 704年)に、法相宗の日証が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。この老人が八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。その神宮寺として建立され神宮寺宝光院と称していた。
寺伝によれば、行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年 (807)空海(弘法大師)が第7世住職として入山し、奈良の興福寺を模して、中金堂に聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、西金堂、東金堂など七堂伽藍を整備し、名称も観音寺と改め札所のひとつにしたという
山号 七宝山
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 聖観音
創建年 (伝)大宝3年(703年)
開基 (伝)日証上人
正式名 七宝山 観音寺
別称
札所等 四国八十八箇所69番
丸亀に流れ込む「土器川」の上流に「天川神社」がある。神社の創建は731年(天平2年)
琴南町の天川神社には、酒部黒麿と星になった女神が祭られている。
この天川の里に住む綾黒麿の屋敷に、一つの星が降ってきた。
その星は、たちまち美しい姫君となり、成長した姫は酒造りがとても上手で、その酒はくめども尽きず、
極上の味であった。病人を癒し、長生きをさせるという不思議な力をも持っていた。
このうわさは都に伝わり、天皇に献じたところ大いに褒められ、「酒部」の姓を賜り、
黒麿は讃岐酒造りの始祖となった。
黒麿に酒造の秘伝を授けた姫は、清流土器川のふちに身を沈め、星神となって再び天に帰ったという。
同郡造田村郷社 天川神社の舊記には、讃岐国造の始祖『神櫛王』の遠裔の『益甲黒丸』が那珂郡神野郷に住み、その女が上手に酒を醸造した。これを、孝謙天皇に奉りて、姓酒部を賜うとあり、神野郷(後の真野郷)の矢原氏家記に、『神櫛王』三十五世の孫『酒部黒麿』とあるのに一致する。
この天川神社舊記、矢原氏家記等は讃岐国官社考証にも引用されている。
-縣神社史より
◆酒部益甲黒麿が地元では『城山長者』と呼ばれている。
城山長者是なり武殻王四世孫綾の真玉の子也。名を益甲と称す。初め家に井水なきを憂へ其居の東北の隈に栗樹あり、鵜が之に集まる鵜地を一日跑ると、清水が涌く。夜中星光相照らし玉光如し、因って玉井と名つく。其傍に居る者、皆富めり。郡を名て鵜足と云い邑を號けて隈玉或いは栗隈と称す。七月七日夜、益甲の夢枕に、神女が現れ井上に瑞現し水精玉(直径五寸)なるを与え、曰く『汝、謹んで祠を建てこの玉を奉ぜよ』是に於いて祠が井上の建つ。星光映射す。ゆえに名を星宮と云い里人是を仰ぐ。この水で益甲が小麦を醸し酒を造ると其の味は甘烈黒して清し、之を名て黒丸酒と云い、允恭帝に献上す。帝之を嘗て大いに喜び、遂に姓字を賜いて酒部益甲黒丸と名乗る。
鳥居の横に「宇閇神社古墳」があることから、古い神社ということは想像できる。
道路側からぐるりと回り込むように、参道を進み、少し薄暗い鳥居をくぐり境内へ。お参りをすませた後、境内端にある公園のような場所で昼食。
由緒を読むと、西側の敷地を役所に売却したようで、社叢は今よりもっと大きかったようだ。
丸亀市からまんのう町にかけて、酒部黒麿の伝説を伝える神社は、多い。
酒部黒麿は、讃岐國の始祖神櫛王の末裔。酒造りが上手で「酒部」の姓を名のることを許された。
宇閇神社建築神苑整備記念碑より写す
祭神は鵜羽葺不合命。由緒は日本武尊の子武殻王の六代目にあたる酒部益甲黒丸の創祀と伝えられ延喜神名式に列している。神域に泉がなく栗の大樹があった。
ある朝鵜のむれが栗の下をほると清水がわき出た。夜は星影が水に映って王の井と言われた。
鵜足郡・栗隈・隈玉の名もあり。その後幾星霜鎮守の神として祭られた。
平成二年綾歌町が西谷・定連線改良のため神社用地一五九〇平方米を町に売却した。
神社の拝殿幣殿の老朽化、参道の整備、御旅所の拡張等により神社建築及び神苑の整備をすることになり、境内売却代金の収入と氏子各位のご賛同をいただき、その工事費は約四千万円で関係者各位の熱意により完成した。
神櫛王の陵墓は、牟礼町王墓にあるが、琴平町下櫛梨の櫛梨神社 は神櫛王を祀る神社である。 櫛梨神社の入口.
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 讃岐国 那珂郡「櫛梨神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
社伝によれば、第12代景行天皇の命を受けた神櫛皇子が、大魚を討つために土佐国から、舟に乗って当地へ来た時、雲が厚く、雨が降り、何も見えない状態になった。
そこで、皇子は小山に登り、天に乞うたところ、天から火が降りて来たという。
皇子はそこに舟をとどめ、祓戸神を祀った。これを般磐大明神という。船磐の地名は今も残り、舟形の大岩がある。
また、当地の神を祀るため、翁に、この地の神について尋ね、大麻神・大歳神、さらに、山下明神・諏訪明神を祀った。
船装束する時に、経津主神・武甕槌神を祀った。これを赤坂大明神という。
当地には、関連して、船の苫を干した苫干場、櫂屋敷、船頭屋敷などが地名として残る。
その後無事に、大魚を討ち取って当地に城山を築き、讃岐国国造となった。
第14代仲哀天皇8年9月15日に120歳で亡くなった皇子を櫛梨山に葬り、廟を建てて祀ったのが当社の起源となる。
神櫛皇子の伝承は、県内の東かがわ市にある白鳥神社や、坂出市の城山神社、善通寺市の大麻神社(前述の大麻神か?)にも残る。その墓は、高松市牟礼町にある。
往古は皇宮大明神とも、大宮とも称された。もとは標高158メートルの如意山の山頂に鎮座していた。
その後、火災に遭い、現在地の如意山の西南麓に遷座したという。現在は、境内から如意山まで遊歩道になっている。
戦国時代の天正7年(1579年)、長曽我部元親の戦火で焼失。江戸時代になり、元和元年(1615年)、讃岐高松藩4代藩主生駒高俊が社殿を造営した。
寛文5年(1665年)には氏子中により、社殿が再建されている。
社伝によれば
「景行天皇の二十三年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り
御船ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という
船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり、付近の稍西、
此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、櫂屋敷、船頭屋敷の地名も今に残れり
悪魚征討後、城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任ぜられる
仲哀天皇の八年九月十五日、御年百二十歳にて薨じ給う
国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という
社殿は壮麗、境内は三十六町の社領
御旅所は仲南町塩入八町谷七曲(直線距離およそ15km)に在り」
とある。
言い伝えでは、神櫛王の墓は如意山山頂にあったが
応仁の世、宇多津聖通寺山に居を構える奈良備前守元吉の出城として櫛梨城が築かれた際山頂部を平坦に整地した為破壊されたのだという
城跡は全ての痕跡を消し去り沈黙し真実は歴史の闇の中へと消えている
岩石祭祀のプロセスによって光が差し込むことになるだろうが
今はまだ夜明け前である
目指す船磐は、山頂ではなく本殿前の道路を北へ300mほど進み
東に入った所の民家へ続く脇道の門に鎮座していた
名前に船がつく岩石だが周辺にも船にまつわる地名が多い
神櫛王の時代は現在より海が近かったのであろうか?
如意山(与北山)
善通寺市与北町にあります。
登山口は鉢伏山と同じ所にしました。登山道ですが、きつい藪扱ぎではありませんが明らかな登山道は有りません。途中小ピークがあり山頂と間違わない注意が必要です。所々にある町境界杭を頼りに歩きまた。訪れる方の無い侘しい里山です。
山名情報は新編香川叢書考古篇だったと記憶しております。その本の記述によれば善通寺市の東部あって櫛梨町と与北町にまたがる小丘陵である。最高点は126m。と記載されていました