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tokyoblogは言いました:大王号を記す金石文としては稲荷山鉄剣銘、江田船山鉄刀銘があり、この人物画像鏡も大王号がいつ頃から使われたのかを知る手懸かりになるものである。また、いつヤマトの王が大王と称されるようになったかを解明する手懸かりになるものの一つとして注目される。隅田八幡神社の人物画像鏡は青銅製で径19.9cm。近世の地誌類にもこの鏡についての記載がある[2]ことから、古い時代に出土したものであることは確かだが、正確な出土年代や出土地は定かでない。鏡背は円形の鈕を中心に、内区には古代中国の伝説上の人物である東王父・西王母(とうおうふ・せいおうぼ)など9名の人物を表し、その周囲には半円形と方形からなる文様帯、その外側には鋸歯文(きょしもん)を表し、周縁部には漢字48字からなる銘を左回りに鋳出する。この鏡の原鏡(母鏡)となった画像鏡は、大阪府八尾市の郡川車塚古墳、同藤井寺市の長持山古墳、京都府京田辺市のトツカ古墳、福井県若狭町の西塚古墳、東京都狛江市の亀塚古墳などで、同型鏡または踏み返し鏡が知られている。しかし、手本となった鏡と本鏡とでは、東王父、西王母を中心として描かれた文様がすべてが逆に鋳造されている
大王号を記す金石文としては稲荷山鉄剣銘、江田船山鉄刀銘があり、この人物画像鏡も大王号がいつ頃から使われたのかを知る手懸かりになるものである。また、いつヤマトの王が大王と称されるようになったかを解明する手懸かりになるものの一つとして注目される。隅田八幡神社の人物画像鏡は青銅製で径19.9cm。近世の地誌類にもこの鏡についての記載がある[2]ことから、古い時代に出土したものであることは確かだが、正確な出土年代や出土地は定かでない。鏡背は円形の鈕を中心に、内区には古代中国の伝説上の人物である東王父・西王母(とうおうふ・せいおうぼ)など9名の人物を表し、その周囲には半円形と方形からなる文様帯、その外側には鋸歯文(きょしもん)を表し、周縁部には漢字48字からなる銘を左回りに鋳出する。この鏡の原鏡(母鏡)となった画像鏡は、大阪府八尾市の郡川車塚古墳、同藤井寺市の長持山古墳、京都府京田辺市のトツカ古墳、福井県若狭町の西塚古墳、東京都狛江市の亀塚古墳などで、同型鏡または踏み返し鏡が知られている。しかし、手本となった鏡と本鏡とでは、東王父、西王母を中心として描かれた文様がすべてが逆に鋳造されている
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日本仏教での法相宗は、南都六宗の一つとして、遣唐使での入唐求法僧侶により数次にわたって伝えられた。
653年(白雉4年) 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
658年(斉明天皇4年) 入唐した智通・智達等も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。
703年(大宝3年) 智鳳、智雄らが入唐した。
717年(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄昉も、ともに濮陽の智周に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。
8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。徳一は天台宗の最澄との間で三一権実諍論で争った。
元興寺には護命、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。平安末期以降にも蔵俊、貞慶、覚憲、信円らが輩出した。
1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱(1950年)し、また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。
玄昉は筑紫観世音寺に仲麻呂によって天平17年に左遷され、その翌年没した。その死亡原因は藤原広嗣の遺臣によって殺害されたというのが真相のようである。だが、後に玄昉の死は広嗣の怨霊によるものだという説が流布されるようになる。その一つとして臨済宗の僧である虎関師錬(1278年 - 1346年)が鎌倉時代に著した日本初の仏教通史といわれる「元亨釈書」に記されているという。以下は中公文庫 松本清張著「眩人」に記載されているものである。
松本清張著「眩人」が伝える玄昉伝説
「玄昉が筑紫観世音寺の造立供養の導師となって高座で読経をしている際、空がにわかに掻き曇って雷電し、黒雲が高座に舞い下りて彼の首をつかみ取って天に昇り、次の年の六月にその生首が興福寺の南大門に落ち、空にどっと笑う声がしたという。 (中略) 身首ところを異にした玄昉の首のほうはそれを埋めたという奈良市内の[頭塔]がいわれ、身体のほうは筑紫観世音寺境内にある「玄昉の墓」がいわれ、霊のほうは松浦宮に祀られたことになっている。玄昉は三つに分裂して、三箇所に葬せられているわけである。」
「6月18日、僧の玄昉が死んだ。玄昉は俗姓を阿刀氏といい、霊亀2年(716)に入唐して学問に励んだ。唐の天子は玄昉を尊んで、三品に準じて紫袈裟を着用させた。天平7年(735)、遣唐大使の多治比真人広成に隋って帰国した。帰国に際して仏教の経典およびその注釈書五千余巻と各種の仏像をもたらした。日本の朝廷でも同じように紫の袈裟を施し与えて着用させ、尊んで僧正に任じ、内道場に自由に出入りさせた。これより後、天皇の寵愛が目立つようになり、次第に僧侶としての行いに背く行為が多くなった。時の人々はこれを憎むようになった。ここに至って左遷された場所で死んだのである。世間では藤原広嗣の霊によって殺されたのだと伝えている。」・
宇治谷孟著 講談社学術文庫「続日本紀 全現代語訳」
天平9年12月27日の条に玄昉が聖武天皇の母である宮子の病を完治させたとの以下の記事を載せている。
「この日、皇太夫人の藤原氏(宮子)が皇后宮に赴いて、僧正の玄昉を引見した。天皇もまた皇后宮に行幸した。皇太夫人が憂鬱な気分に陥り、永らく常人らしい行動をとっていなかったためである。夫人は天皇を出産以来、まだ子である天皇に会ったことがなかった。玄昉法師が一たび看病するや、おだやかで悟りを開かれた境地となった。そうなった時ちょうど天皇と相まみえることになったので、国中がこれを慶び祝した。」
大宰府観世音寺、空海が訪問、玄昉の墓所がある
空海がこのお寺にやって来たのは、唐から帰国した時だけでなく、入唐のときも、観世音寺を訪問したとの話が残っているのを知りました。
空海の乗った第6次遣唐使船4隻は、延暦23年5月12日大阪を出港し、約1ヶ月かけて博多那ノ津に到着しました。西暦804年のことです。いよいよ東シナ海を渡る為の最後の準備をする補給基地で船は、十数日碇泊した。空海は大宰府鴻臚館に泊まり、観世音寺にも通ったそうです。そして、空海は入唐2年にして長安青龍寺の恵果和尚より阿闍梨の潅頂を受け密教を日本で広める為、大同元年10年10月(西暦806年)に帰国しました。
この時も大宰府鴻臚館に入ったものゝ、20年留学を2年で修めたのを怪しまれて入京は足止めになり、この観音寺に寄宿するよう命ぜられます。空海は大同2年から2年余り足止め生活をしていたのであります。
この度、観世音寺に参詣し「空海」が此処へ寄宿した痕跡の有無を訪ねましたが、お寺の関係者からは、”たしかに空海は、ここで生活した”と云われましたが、それを示す遺物・遺品は残っていないとの事でした。まあ、それも無理のないことで、空海が観音寺に滞在した2年間は、謹慎を申しつけられており、しかも、まだ、全くの無名私度僧の分際でありましたからです。でも、痕跡の有無は別にし、鑑真和上が最初に大宰府観世音寺に渡来し戒壇を造ったのは史実ですし、空海もここに留め置かれたのも事実です。
翌日たちまち暴風雨に襲われて難破し、2艘は沈没あるいは航行不能に陥ってしまいます。空海と遣唐大使一行の乗り込んだ第一船は、34日間の漂流の後に幸いにも福州ふくしゅうの付近に漂着しました。
しかし日ごろ、遣唐船の訪れない土地ゆえ上陸を許されず、大使の再三にわたる弁明の書簡も問題にされませんでした。遂に大使の依頼により空海がその書簡を代筆したところ、その筋道を尽くした文章と優れた筆蹟により疑いは一掃され、上陸が許されて遣唐使一行は首都長安に着くことができました。
翌年空海は留学生として、長安の西明寺に住し、6月青龍寺しょうりゅうじの恵果和尚けいかかしょうにめぐり合いました。恵果和尚は初対面の空海を見るなり「我先より汝の来る事を知って、相待つ事久し。報命尽きなんとして付法に人なし・・・・・」と言い、無名の僧である空海に自分の正嫡せいちゃくの弟子として教えのすべてを授けました。
それからまもなく、12月15日に恵果和尚は遷化せんげされたのです。翌年正月17日、和尚の葬送もすませ弟子を代表して碑文を撰した後、和尚の教えを守り33歳の秋無事帰朝されました。
帰国した空海は大同元年(806)10月、九州に到着し、苦心して集めてきた経論の整理をされ、帰朝上表きちょうじょうひょうを朝廷に奉進ほうしんしました。大同2(807)朝命によって、筑紫の観世音寺に住すると、大同4年(809)上京の勅宣ちょくせんをこうむって、京都高雄山寺たかおさんじに入られました。
高雄山寺から高野山へ
嵯峨天皇の思し召しによって高雄山寺に入った空海は、ここで真言密教を流布し国家安泰の祈祷を修しました。そして、碩学せきがく空海のもとには多くの学僧が集まり、最澄さいちょう(伝教大師でんぎょうだいし)さえもが高雄山寺に上って、伝法灌頂でんぼうかんじょうを受けられたほどでした。
空海は歴代天皇の厚い帰依のもと、円満な人柄で真言宗の存在を広く仏教界に認めさせ、一宗の根本道場として東寺を賜わり、43歳の弘仁7年(816)には嵯峨天皇より賜わった高野山こうやさんに入住する事になり、45歳の弘仁9年(818)から4年間余を、主として高野山にこもって修法や著述などをして過ごされました。
A(哀荘王三年、八〇二)冬十二月、均貞に大阿 [冫食]を授け、仮の王子と為す。以て倭国に質せんと欲す。均貞、之を辞す。
B(哀荘王四年、八〇三)秋七月、日本国と聘を交わし、好を結ぶ。
C(哀荘王五年、八〇四)夏五月、日本国、使を遣わして黄金三百両を進ず。
(『三国史記』新羅本紀第十、哀荘王)
大阿 [冫食]の [冫食]は、二水編に食。JIS第4水準、ユニコード98E1
空海が帰国した時期とまったく同時期に、隣国の新羅では、倭国と日本国とを区別して対応しているのだ。古田武彦氏は『失われた九州王朝』において『三国史記』のこの記事を引用し、ここに記された倭国を九州王朝の残映あるいは後裔と表現されたが、本稿の一連の論証からすれば、むしろ近畿天皇家に従属状態とは言え、国家としての「実像」が九世紀においても存在していたのではあるまいか。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin13/kukaikog.html
僧が守るべき道徳規範や集団規則を「戒律」といい、これを受ける儀式を経て、僧尼と認められました。
戒律は、聖武天皇に招請され来日した唐僧・鑑真によって伝えられました。鑑真は失明しつつも、6度目の渡航でようやく日本へ渡りました。そして、京に向かう途中、観世音寺を訪れ、753年12月に日本で初めての授戒を行ったのです。
761年、観世音寺に戒壇院が、西海道(九州)の授戒の場として設けられます。東大寺(奈良)、下野薬師寺(栃木)の戒壇院とともに、「天下の三戒壇」と呼ばれました。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin13/kukaikog.html より
済暹による『弘法大師御人定勘決記』には、筑紫は日本国であるから「大同二年を以て我が本国に帰る」は「大同元年」の誤りであると主張していることは、逆の面から問題の本質を提起したものであった。済暹の時代、十一~十二世紀には九州王朝は跡形もなく滅び、誰もが九州は日本国の一部であることを疑ってはいない時代に入っていたのだ。したがって、『御遺告』が後世の偽作であれば「大同二年を以て我が本国に帰る」とは絶対に書けなかったはずである。
ひとたび、こうした観点に立てば、『続日本後紀』空海崩伝に帰国年次が記されていないことにも説明がつこう。
正史たる『続日本後紀』の編者であれば、九州も大義名分においては日本国なのであり、当然のこととして空海の帰国年は筑紫に着岸した大同元年とすべきものであった。しかし、『続日本後紀』よりも三十年以上早く成立した『御遺告』、あるいは『空海僧都伝』にある大同二年帰国説が動かしがたい既成「真実」として朝野に流布していたため、苦肉の策として帰国年未記載という不様な体裁を取らざるを得なかったのではなかろうか。
同様の配慮が当の空海自身の上表文にも表われている。『新請来経等目録』にある「彼の鯨海を越えて平らかに聖境に達す」という部分だ。空海は筑紫に帰着したことを「帰国」とせず、「聖境に達す」という表現にしたのだった。
筑紫は日本国ではないが、近畿天皇家の勢力範囲、すなわち聖なる力が及ぶ境の内側であった。そうした九世紀当時の日本列島の政治的状況を、空海ならではの正確な表現で著わしたもの、それがこの上表文の内実であったのである。
八世紀の終わり、南都六宗では経典暗誦よりもその解釈を極めることが重要視され、その結果、経典の釈義に長けていた法相宗が他宗を圧倒するようになりました。当時、法相宗のリーダー格であった善珠は、朝廷とも深い関わりを持ち、皇太子安殿親王の厚い信頼を受けていただけでなく、殉死した早良親王とも交流がありました。また、秋篠寺を開基し、そこでは後世において法相宗と真言宗が兼学されることになります。
この善珠こそ、法相宗法脈の頂点に立った玄昉の愛弟子であり、しかも玄昉が護身を勤めた藤原宮子との間にできた子とも言われています。そして善珠の卒伝には「法師俗姓安都宿禰」、玄昉も「玄昉姓阿刀氏」と書いていることから、ともに阿刀氏の出であることが伺えます。さらに「東大寺要録」を参照すると、玄昉の師である義淵(ぎえん)も阿刀氏なのです。つまり義淵から玄昉、そして善珠と引き継がれてきた法相宗の法脈は、まぎれもなく阿刀氏によって継承され、奈良から平安時代初期にかけて、その宗教政治力は頂点を極めました。
法相宗の流れをくむ学者の一人が、空海の母方の伯父である、阿刀大足です。彼は朝廷において桓武天皇の子である伊予親王の侍講を勤めただけでなく、空海にも教えていました
「あじま」とはとても読めない難読地名です。庄内川を渡った名鉄小牧線「味鋺駅」から10分余り行ったところに「味鋺(あぢまりの)神社」という神社がありますが、この神社に由来するということになっています。この神社の御祭神は次の二柱の神様です。
宇麻志麻治命(うましまぢのみこと)
味饒田命(まじにぎたのみこと)
この二神は親子であるということです
由緒書にはこう書いてあります。
尾張の国春日部郡、味鋺神社と記載されている古社である。物部氏(もののべし)の祖となる宇麻志麻治命は、我が子、味饒田命と共に、物部一族を率いて皇城の守護にあたり大政に参加する。
その子孫が、美濃・尾張・三河地方に発展し、ことに尾張地方の勢力は大きく、一族の遺跡と称されるものも少なくない。
要するに、この二柱の神様は皇城の守護に当たって世の政治に大いに貢献したが、その子孫が尾張に来て大きな勢力を握ったというのです。
歴史の教科書では、587年、用明天皇の御世、仏教を受容するかしないかで豪族たちが対立し、物部守屋(もののべもりや)は仏教を受容しようとする蘇我馬子(そがのうまこ)と戦い、滅ぼされたと書かれています。
つまり、当時もたらされたばかりの仏教を巡って物部氏は安易に受容すべきではないと考え、蘇我氏は聖徳太子の支援も受けて仏教を受容しようと考えていたのです。
物部氏はもともと大和朝廷の軍事を司る根っからの豪族で、その祖は饒速日尊(にぎはやひのみこと)とされています。現在の天皇家のルーツが神武天皇であることは多くの人が知っていることですが、記紀によれば、この神武天皇は即位する以前は日向国におり、大和に東征しようとした際、河内国の日下(くさか)まで来たところで、現地にいた長髄彦(ながすねひこ)の攻撃を受けていったん退き、南紀から熊野を超えて大和入りしたという話になっています。
この長髄彦は饒速日尊の子孫に当たり、その饒速日尊の祖がこの味鋺神社の御祭神になっている宇麻志麻治命だということになります。ということは大和の歴史よりずっと古い歴史がこの尾張にあったということになるのです。
「宇摩志麻遅命」、『先代旧事本紀』では「味間見命(うましまみのみこと)」と表記する。饒速日命が長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って生んだ子で、天香山命(尾張氏の祖)が異母兄であるとする伝えがある(『旧事本紀』)。彦湯支命の父。
「筑紫連。饒速日の命の男(こ)、味真治(うましまぢ)の命の後(すえ)なり。(『新撰姓氏録』「山城国神別」
筑紫連氏の一族の人名は、他の史料にみえない。栗田寛は『旧事紀の天神本紀に、饒速日命五部の内に、筑紫弦田(つるた)物部等天津赤星(あまつあかほし)、また二十五物部の内に、筑紫聞(きく)物部贄田(にえた)物部あり、之をもて思ふに、筑紫連は、この筑紫の物部を掌る長なりと見ゆ』と述べているが、栗田の指摘のように、筑紫連氏は、『旧事紀』天神本紀の『副五部人為従天降供奉』条にみえる筑紫弦田物部、あるいは『天物部等二十五部人。同帯兵杖天降供奉』条にみえる筑紫聞物部・筑紫贄田物部の伴造氏族であったかもしれない。」
味真治命『古事記』は宇摩志麻遅命に作り、神武天皇段に「故、邇芸速日命、娶登美毘古之妹、登美夜毘売生子、宇摩志麻遅命。<此者物部連、穂積臣、婇臣(うねのおみ)祖也。>」とみえる。」(佐伯有清編『新撰姓氏録の研究』[考証編第三]吉川弘文館 1982年刊)
讃岐の佐伯直氏は、六国史を見ると、平安前期に空海(贈大僧正)のほか、その実弟の真雅(法師大和尚)や道雅(少僧都)、真然(僧正)、守寵(伝灯大法師)、実恵(大法師)、道雄(大法師)などの当時高名な僧を輩出しており、他の系統の佐伯氏とは大きな差異があります。讃岐僧の玄海(法相宗)については、これまで管見に入っておりませんが、上記の僧侶たちに先立つもので、出身地の伝承からいえば、讃岐の佐伯直氏の出としてよいものと考えられます。
何故に変更????
姫路市白国にある佐伯(さえき)神社
増位山の麓の白国二丁目
讃岐出身の円珍の祖が佐伯氏である
播磨別(はりまわけ)の祖といわれる稲背入彦命(国別(くにわけ)明神)の孫阿曽武命(白国家の祖)の子阿良津命が播磨国の初代国造となり、佐伯直の姓を賜り佐伯氏となったという。
三井寺の宗祖・智証大師・円珍の生誕地の讃岐国と播磨地方とは家島諸島などを介して陸続きのような位置にある。
神社と由緒
「佐伯神社由来」
「佐伯神社由来・御祭神・阿良津命・当佐伯神社の御祭神・阿良津命はこの地の遠い御先祖であらせられ、佐伯直の姓を応神天皇より御受けになられました。
佐伯神社と大木 / 佐伯神社入口と社殿孝謙天皇の御代天平宝字二年(七五八)命の子孫の佐伯宿祢芸胡多というお方が出月岡という地に祖先の阿良津命をお祀りになられたのが、佐伯神社の創立であり、佐伯大明神として崇め奉りました。天皇の思し召しにより、佐伯姓を白国姓に改め、白国宿祢と申し上げる事になりました。
阿良津命は白国の地を開かれた国造・稲背入彦命の曽孫にあたらせられる。
この由緒書によれば、この神社の祭神は白国宿禰である。
「神社の由緒」については、白国郷土史愛好会「ふるさと白国」に
「第四十六代考謙天皇の時、始祖稲背入彦命(景行天皇の孫で讃岐の国造・神櫛皇子の弟で播磨別の先祖)から二十四佐伯神社由緒書代目の子孫佐伯芸胡多が 天皇の命によって、初代の国造であった阿良津命(始祖より四代目の祖)を祀って佐伯神社を建てた時に、新羅訓の字を白国に改められたといわれ、それが今日に至っておるのである」としている。
姫路市教育委員会「文化財シリーズ7・増位山を訪ねて」には、「「播磨鑑(はりまかがみ)」に佐伯神社の略縁起がのっている。それによると、この付近は古い時代から佐伯氏―白国氏の社域であったようである。亨保十九年(一七三四)当時は、「野狐禽獣の栖(やこきんじゅうのすみか)」になっていたのを、子孫の白国宗得(むねとく)が社壇を建立して佐伯社を再興したと見えている」と記載されている。案内板によれば、当社の神事は、一月一日新年祈願祭、五月八日花まつり、九月一日は八朔まつり、十月九日例祭とある。
「開化記」には針間の阿宗君(あそのきみ)の祖は息長日子王(おきながひこのおほきみ)であるとしているので、開化天皇の時代に既に針間国は存在していたことを示す記述がある。そして「景行記」には景行天皇が吉備臣等(きびのおみら)の祖(おや)、若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の女(むすめ)、名は針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)を娶り生ませる御子、櫛角別王(くしつぬわけのおほきみ)、次に…小碓命(をうすのみこと)、亦の名倭男具那命(やまとおぐなの)…次に神櫛王(かみくしのおほきみ)…とあることも既に針間国(播磨国)の存在を示すものである。更に、「姓氏録逸文」には景行天皇の子の稲背入彦の後。孫の阿良都別命(あらつわけのみこと)男・豊島は孝徳天皇の御世(六四五~六五四)に佐伯直の姓を賜る…との記載がある。阿良津命(あらつのみこと)は白国神社の祭神・阿曽武命(あそたけるのみこと)の子で、応神天皇の時に父を祭神に加えている。阿良都別命は阿良津命の後であろうか。その子の豊島の時に佐伯直となったとしている。佐伯直は「姓氏録(右京皇別)」に記載があり、概略は「景行天皇の皇子稲背入彦命の後なり佐伯直の男・御諸別命が成務天皇の御代に針間国の中を分けて之を賜った。之により針間別と名づけられた。さらに、男・阿良都命(あつらのみこと)、一名を伊許自別という―は応神天皇が国堺を定める為に、針間国・神崎郡に巡行の折に、岡部川の上流に住む日本武尊が東国平定の折に俘にした蝦夷の後裔が居住していたことを知り、この国を針間別(後に佐伯直と為す)に賜り、針間のほか、安芸、阿波、讃岐、伊予も同時に賜った」と記載されている
なお、この神社に関係して、和歌山県伊都郡かつらぎ町の三谷というところにある「丹生酒殿神社」には興味深い伝承が残っています。この神社の境内社である「鎌八宮」は、かつて熊手八幡宮とも称され、その御神体は神功皇后が三韓出兵のとき用いたという幟と熊手で、それは讃岐国屏風浦の熊手八幡宮に祀られていたものだといいます。空海が高野山を開いた時、そのご神体が空海の後をついてきたので、櫟(イチイ)の木をその証の代わりとして祀ったということです。和歌山の奥に多度津の白方にある神社の話しが残っているのは不思議なことです。
その創建は古く、奈良時代末の天平勝宝元年(749)の頃まで遡るといわれています。当時、多度津は和気氏という豪族の支配する地で、かつて、この寺の付近は一大桑園だったといいます。この桑園の中で、和気道隆が自分を育ててくれた乳母を怪物と見誤って弓で射殺する、という事件が起きます。道隆はそのことを大いに悔やみ、乳母の供養のために桑の大樹を切って薬師如来の小像を作り、それを小堂を建てて中に安置しました。それが道隆寺の始まりで、弘法大師空海が薬師の大像を作り、道隆公の小像をその胸の中に納めて本尊としたといわれています。
その後、道隆の子孫である二代住職朝祐が弘法大師より授戒を受けて、和気氏の田園財宝のすべてを注ぎ込んで薬師堂をはじめとする七堂伽藍を建立し、和気道隆の名をとって寺名を道隆寺としたということです。以降、この寺は和気氏の氏寺として現在に至っています。
空海が生まれたのは、奈良時代の末期宝亀5年(774)6月15日だといわれていますから、年代の順番だけから考えるとこの話は辻褄が合っています。乳母射殺事件の真偽はともかく、和気道隆という人物が存在し、その名をとって寺名としたのは事実のように思われ、善通寺も、空海が佐伯善通(よしみち)という自分の父の名をとってつけたといわれています。
道隆寺境内の北東隅には、妙見社(みょうけんしゃ)という社があります。
しかし、多度津の西白方の海岸寺のある辺りも屏風ヶ浦と呼ばれ、空海の母である玉依御前の里だったといわれています。玉依御前がこの地に産屋を設けて空海を出産し、その後空海がこの産屋跡に聖観音菩薩像を刻んで安置したのが海岸寺の始まりといわれており、奥の院には産湯の井というものが残っています。海岸寺は、四国八十八ヵ所の別格18番札所です。
司馬遼太郎は、「空海の風景」の中で、「空海がうまれたのは、善通寺からはずっと海岸のほうの、いま海岸寺といわれる寺の所在地がそうだともいわれているが、出産のとき海岸に産屋でも設けられたのがそういう伝承になったのかもしれない」と書いています。
また、海岸寺より東に行ったところに仏母院という寺がありますが、この寺は玉依御前の屋敷跡に建てられたものだといわれており、境内の近くには、大師のヘソの緒を埋めた胞衣塚や、大師が子供のころ泥で仏像を作って遊んだという童塚が残っています。なお、この寺は「八幡山三角寺」といい、かつては三角屋敷・御住屋敷と呼ばれ、すぐ西にある熊手八幡宮の別当寺でした。明治時代までは熊手八幡宮にあった五重石塔がこの寺にはあり、石塔には「嘉暦元年丙寅、施入八幡」という文字が刻まれています。
「嘉暦元年」は鎌倉時代末期の1326年のことで、この辺りの古さを垣間見ることができます。
宗派 真言宗醍醐派
本尊 正観音(本坊)
弘法大師誕生仏(奥の院)
創建年 (伝)大同2年(807年)
開基 (伝)空海(弘法大師)
正式名 経納山 迦毘羅衛院 海岸寺
わだつみの岸のお寺の産盥(うぶだらい)すすいでかける湯手掛の松(奥の院)
奥の院には山門、大師堂、弘法大師産湯の井戸、大塔、文殊堂、御盥山不動坊、そしてミニ八十八カ所等がある。
寺伝によれば、ここは空海(弘法大師)の母親である玉依御前の出身地とされる。更に空海は奈良時代後期の宝亀5年(774年)に当寺奥の院で生まれたとされており、弘法大師出化初因縁(しゅっけしょいんねん)の霊跡と言われる。
平安時代初期の大同2年(807年)空海が弥勒菩薩を刻み、堂宇を構えたのが当寺院の開創と伝えられている。弘仁6年(816年)には空海が自身の像を刻み、大師堂を建てたことにより奥の院が開かれたとされる。
空海の母方・阿刀氏の別荘があったといわれるところで、玉依はここに産屋を設けて空海を産んだとつたえる。大同二年(八〇七)というから唐より帰国した翌年にあたるが、空海がここに小堂を建立し、自分できざんだ聖観音像を安置したのが寺の起原とされている。誕生寺としては別に善通寺があり、文化年中(一八〇四〜一八)両寺のあいだに本家あらそいがおこったが、海岸寺は大師因縁の霊跡、誕生地は善通寺とするということで和解が成立したという
文化八年(一八一一)に、多度津市白方にある海岸寺側が当時の領主多度津候に、白方付近の海岸を屏風浦といい大師の誕生地は当寺の方です、と主張し始めた。それをきいて、善通寺側も再三、領主丸亀候に、あくまで弘法大師の誕生所は善通寺なる旨反論した。互いに平行線のままで色々なやりとりがあったが結局、六年後の、文化十三年(一八一六)八月十四日、嵯峨御所から御理解書というものが下って解決したという。御理解書によると――善通寺は、大師の父田公の邸宅地であり、海岸寺は母玉依の別荘である。よって、善通寺は父の本居なるを以って降誕の所に相違なく、海岸寺は産屋の所に相違なしというものであった。
この峠を越えて屏風浦というところに下りた。
薄墨隈どる霞ひきわたす
屏風浦の春の景色
それより弘法大師が誕生されたといふ、垂迹の御堂を過ぎて、十四津橋を渡り、多度津の御城下に至る。
「讃陽綱目」 中川吉益 宝暦七年
弘法大師出生ノ地ナリ、京都ヨリ古郷ニ帰リ給ヒ、此所ヲ屏風浦ト號シ給フト、
「屏風浦めぐり案内」 宮武福太郎 屏風浦案内社 昭和11年発行
此自動車の終点は、之れが名高き海岸寺。大師に最も縁深く、今でも屏風浦てふは、此所と計りに思はれて、四国巡拝する人は、必ず此お寺に詣でられ、尚霊験もあらたにて、躄が立ちて歩き出し、唖がもの云ひ目が開き、不思議と云ふも有難き、経納山伽毘羅院で御座います。(現在では使用しない言葉もありますが、歴史的事実に正確を期すため、そのまま引用してあります。ご了承ください)
伯今毛人(719-790)ー 佐伯金山と佐伯三野(?-779)
天武天皇4年(675年)佐伯広足
美濃王とともに竜田の立野(現在の奈良県生駒郡三郷町立野)に遣わされて、風神を祭った(この時の冠位は小錦下)
天武天皇10年(681年)佐伯広足は遣高麗大使に任ぜられ、小使・小墾田麻呂とともに高句麗に派遣される。翌天武天皇11年(682年)使節の役目を果たして帰国する
天武10年
秋7月1日。朱雀(アカスズメ)を見ました。
7月4日。小錦下の采女臣竹羅を大使として、当摩公楯を小使(副大使)として、新羅国に派遣しました。この日、小錦下の佐伯連広足を大使とし、小墾田臣麻呂を小使として高麗国に派遣しました。
7月10日。広瀬・竜田の神を祭りました。
7月30日。天下に令して、すべての大解除(オオハラエ=穢れを祓う儀式)をしました。この時に当たり、国造たちはそれぞれに祓柱(ハラツモノ=供物)として奴婢(ヤッコ=奴隷)を1口を出して解除(ハライ)をしました。
閏7月15日。皇后は誓願して大斎をして、お経を京内の諸々の寺に説かせました。
天武天皇13年(684年) 佐伯連から佐伯宿禰
12月2日:連姓から宿禰姓に改姓
持統元年の新羅への遣使について
持統元年春正月甲申(きのえさる十九日)、持統は直広肆田中朝臣法麻呂と直広肆田中朝臣法麻呂等を新羅に遣わし、以下のE記事のとおり、天武の喪を告げた。
(E)持統天皇元年(六八七年)
元年春正月丙寅朔(中略)甲申、使直広肆田中朝臣法麻呂與追大弐守君苅田等、使於新羅、赴天皇喪。
この新羅への遣使に記事に関して、同じ持統紀のなかに不思議な記事がある。
E記事では、遣使は明確に「持統元年」とされているのに対し、持統三年の次に掲げるF記事では、遣使は二年のことだとされている。
(F)持統三年(六八九年)、
五月癸丑朔甲戌(きのえいぬ二十二日)、命土師宿祢根麻呂、詔新羅弔使級・餐*金道那等曰、太政官卿等、奉勅奉宣、二年、遣田中朝臣法麻呂等、相告大行天皇喪。
餐*は餐の別字。二水編に食。JIS第4水準ユニコード98E1
この点で、岩波の解説は
「元年正月十九日の条に見えるので、元年と意改した写本もあるが、田中朝臣法麻の出発は遅れ、二年に新羅に通告したのであろう」
と推測している。しかし、そんな論が通用するなら、書紀に年号の記された遣隋使も遣唐使も、いや全ての遣使が「実際はいつ出発したのか判らない」ことになる。「持統元年に新羅に遣わして、天皇の喪を赴げしむ」とあるからには「持統元年」である。また、根拠の無い意改=原文改定はすべきではないこと勿論だ。
大宝2年(702年)佐伯百足をは持統天皇の葬儀にあたって作殯宮司を務める(この時の位階は従五位下)。慶雲4年(707年)の文武天皇の葬儀でも殯宮の行事に供奉している(この時の位階は従五位上)
天平3年(731年)佐伯人足
外従五位下・右衛士督に叙任される。その後、内位の従五位下に叙せられた。
宝亀3年(772年) 佐伯真守
正月3日:正五位下。9月29日:兵部少輔。11月1日:兵部大輔、造東寺次官
延暦4年(785年) 正月15日:造東寺長官
延暦10年(791年) 7月4日:大蔵卿
天平14年(742年)佐伯今毛人
聖武天皇が近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営すると、紫香楽宮造営司主典に任ぜられて造営に携わる。翌天平15年(743年)聖武天皇が東大寺の建立を発願し、人民を徴発して造営を始めると、今毛人は領催検となって造営の管理推進と検閲を担当し、非常に巧みな方法で人民を督励・使役した。今毛人はその才能と決断力により聖武天皇の覚えめでたく、特別に信任して用いられた
天平宝字7年(763年) 正月9日:造東大寺長官
天平神護元年(765年) 日付不詳:大宰大弐。3月10日:築怡土城専知官
神護景雲元年(767年) 2月28日:造西大寺長官。8月29日:左大弁、造西大寺長官如故
神護景雲3年(769年) 3月10日:兼因幡守。4月24日:従四位上
宝亀元年(770年) 6月13日:兼播磨守。日付不詳:造東大寺長官
延暦4年(785年) 6月18日:正三位。7月6日:兼民部卿
延暦5年(786年) 4月11日:大宰帥
佐伯三野
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱が発生すると、三野は従五位上に叙爵されて孝謙上皇方として活動する。近江国高島郡三尾埼で三野は大野真本らとともに恵美押勝(藤原仲麻呂)軍と交戦し、これを多数殺傷している。
天平神護元年(765年)左衛士佐に任じられ、翌天平神護2年(766年)には乱での功労により功田20町を与えられる。天平神護2年(767年)には下野守に任ぜられ地方官に転じた。
宝亀元年(770年)光仁天皇の即位に伴って正五位下に昇叙される。宝亀2年(771年)従四位下に叙されるとともに、陸奥守兼鎮守将軍に任官するが、蝦夷征討へ向けた大規模な軍事活動の実行には至らず、翌宝亀3年(772年)には早くも右京大夫に任ぜられ京官に復す。
扶余陥落による百済崩壊は660年、白村江の大敗は663年
672年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)のため筑紫国に遣わされたが任務に失敗した。
壬申の年(672年)の6月下旬、大海人皇子(天武天皇)の挙兵を知った近江宮の朝廷は、各地に使者を派遣して鎮圧のための軍を興させた。佐伯連男はこのとき筑紫大宰の栗隈王に遣わされた。出兵を命じたものの、栗隈王が以前大海人皇子に従っていたことから、彼もまた背くかもしれないと大友皇子は疑っていた。「従わない様子があったら殺せ」というのが、佐伯男が受けた指示であった。
符(命令書)を受けとった栗隈王は、出兵を断った。筑紫国の務めは国外への備えであり、守りを空けたときに変事があったら国が傾くというのが、栗隈王が述べた理由であった。このとき、栗隈王の二人の子、三野王(美努王)と武家王が剣を佩いて側に立っていた。佐伯男は剣を握って前に出ようとしたが、かえって自分が殺されるかもしれないと考え、断念してそのまま帰った。
帰還後の活動については記録がない。乱の後に赦されたと考えられる。
佐伯連は、天武天皇13年(684年)12月2日に宿禰の姓を与えられた。
和銅元年(708年)3月13日、従五位下の佐伯宿祢男は大倭守(大和国の守)に任命された。翌2年(709年)9月2日に、従五位下から従五位上に昇進した。このときも大倭守であった。
しかし、大伴健日連が讃岐国を賜ったことは事実ではなく、室屋大連は允恭~雄略・顕宗朝の重臣であり、その子の御物宿祢は佐伯連・林連の祖となったものの、讃岐の佐伯直とは無関係であって、允恭天皇の御世の人とされる倭胡連とは年代が逆転しています。ここには明らかに系譜仮冒があるわけで、倭胡「連」についても疑問です。
讃岐の佐伯直は播磨の佐伯直の分岐ですが、これについては、『姓氏録』右京皇別の佐伯直条の記事が参考になります。同書によると、景行天皇の皇子、稲背入彦命の後であり、「男・御諸別命」が稚足彦天皇(謚は成務)の御代に、針間(播磨)国を中ばに分けて給わったので、針間別と号づけられ、さらに「男・阿良都命(訓はアラツ。一名は伊許自別)」が、誉田(応神)天皇に命じられ日本武尊の東国平定の際に俘(とりこ)にした蝦夷の後裔(佐伯)の管掌者となって氏を針間別佐伯直と賜ったと記されます。佐伯は針間のほか、安芸や阿波・讃岐・伊予の五国に分散して配置されたとありますので、播磨の支族が四国各地の佐伯を管掌したことが考えられます。播磨国内では、印南・揖保郡等に佐伯直の分布が見えますが、河内皇別の佐伯直も稲背入彦命の後と『姓氏録』に記されます。
鎌八幡宮
丹生酒殿神社 境内社
鎮座地
和歌山県伊都郡かつらぎ町三谷
もと兄井村の産土神であったが、明治四十二年に(1909)現かつらぎ町三谷の丹生酒殿神社に合祀された。元熊手八幡宮とも称された。社殿はなく、イチイの大樹を神体としていた。天保六年(1835)三月の仁井田好古撰「三谷荘兄居村鎌八幡記」によると、当社の神体は神功皇后が三韓出兵のとき用いたという幟と熊手で、讃岐国屏風浦(現香川県多度津町)に祀られていたが、空海が高野山を開いた時、ついてきたため、イチイの木を憑り代として祀ったという。
鎌八幡の名称について「続風土記」に「祈願の者 鎌を櫟<イチイ>樹に打入れ是を神に献すといふ。祈願成就すへきは其鎌樹に入ること次第に深く 叶はさる者は落つといふ、根より上二丈許の処鎌を打つこと簑のことく寸地の空隙なし、鎌の深く入るものは樹中を貫きて芒刃外に出る事一寸余もあり、実に奇といふへし、其鎌は大小好に従ひ社前に売ものあり、祈願の者或は一時に千挺も打者あり、然るに其木鬱蒼として繁茂す」 と記す。
江戸時代は高野山から鎌八幡宮神酒料として大豆六斗が給された。神体の幟と熊手は永く高野山に祀られていたが、明治二年当社に遷座し、同四十二年丹生酒殿神社に合祀された際、同社に納められた。「三谷荘兄居村鎌八幡記」を刻んだ石碑も丹生酒殿神社の社前に移されている。
讃岐の国から高野山へ、空海さんの後をついて来たという幟と熊手(鎌)が丹生酒殿神社に納められているという話も奇譚であるが、憑代のイチイの木に鎌を打ち入れるという祈願の方法もまた奇譚である。
『雄略紀九年』 「又汝大伴卿。與紀卿等。同國近隣之人。由來尚矣。」 紀国内で紀氏と大伴氏は隣接。
淡輪古墳群は紀氏の船が住吉津・難波津・瀬戸内海に航行するにあたり、勇敢な祖先の墳墓を望める場所。
紀伊国での大伴氏の分布は領域的であり、畿内の拠点的とは違う。本源の地。
6世紀に畿内に移住していく。一部は残る。
隅田八幡神社の人物画像鏡は青銅製で径19.9cm。近世の地誌類にもこの鏡についての記載がある[2]ことから、古い時代に出土したものであることは確かだが、正確な出土年代や出土地は定かでない。鏡背は円形の鈕を中心に、内区には古代中国の伝説上の人物である東王父・西王母(とうおうふ・せいおうぼ)など9名の人物を表し、その周囲には半円形と方形からなる文様帯、その外側には鋸歯文(きょしもん)を表し、周縁部には漢字48字からなる銘を左回りに鋳出する。
この鏡の原鏡(母鏡)となった画像鏡は、大阪府八尾市の郡川車塚古墳、同藤井寺市の長持山古墳、京都府京田辺市のトツカ古墳、福井県若狭町の西塚古墳、東京都狛江市の亀塚古墳などで、同型鏡または踏み返し鏡が知られている。しかし、手本となった鏡と本鏡とでは、東王父、西王母を中心として描かれた文様がすべてが逆に鋳造されている
「大王」の「大」、「男弟王」の「男」など、必ずしも釈読の定まらない文字が多く、銘文の内容についても異説が多い。また「癸未年」がいつに当たるかについては多くの説があるが、西暦443年とする説、503年とする説が有力である。いずれも、斯麻(しま)、開中費直(かわちのあたい、河内直、『百済本記』云、加不至(カフチ))、今州利はそれぞれ人名と解釈されている。
443年説
倭王済が宋に使いを遣わして「安東将軍倭国王」の称号を得た年であるから、大王は、允恭天皇を指すものと解釈する。また、意柴沙加宮(おしさかのみや))は皇后・忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ、雄略天皇母)の宮処となる。この場合、男弟王は誰であるまだ分かっていない。
「日十」が「草」の簡体字であることからこれを「日下」と読み、日下大王、即ち大草香皇子(454年没)のことではないかとの説もある(森浩一)。
ちなみに古事記、上宮記によれば忍坂大中姫に意富富杼王(おおほどのおおきみ)という兄弟がいるとされる。
503年説
諱に「斯麻」を持つ百済の武寧王(在位:502年 - 523年)とする解釈が有力である。百済は当時倭国と緊密な外交関係をもち、大陸の文物を大量に輸出しており、鏡の作者「斯麻」を武寧王と推定する。
男弟王を(おおと、継体天皇)と解釈する。しかし、『日本書紀』に見える「磐余玉穂宮」(526年遷宮)の前に「忍坂宮」のある大和国に入っていたこととなり記述と矛盾する。
『古事記』の「袁本杼」は「ヲホド」であり、ハ行転呼以前の「男弟(オオト/オオド)」とは一致しないので継体天皇とは別人物であるとする説もある。
武烈6年(504)百済国が麻那王を遣わして、調を奉った。天皇は百済は永く貢物を持ってこなかったことを思って、王を留めておいて帰さなかった
武烈7年(505)百済王が斯我君を遣わして、調を奉って「前に調を奉った使の麻那は、百済の国王の一族ではありません。ゆえに謹んで斯我を遣わして朝廷にお仕えさせます」という。
その後、子が生れて法師君という。これが「倭君(やまときみ)」の先祖である。
注
この時代日本も大和朝廷も天皇も存在しなかった。それぞれ日本列島、倭国王権、倭の大王と読み替えることにする。
注
平野邦雄著「帰化人と古代国家」より
平野氏は、百済より渡来した帰化人のうち特殊な地位を占めたものの一つとして、大和高市郡を本拠として「和(やまと)氏」をあげて、
和氏は姓氏録や日本書紀によると、
6,7世紀にはなんの見るべきものはないが、和新笠が光仁天皇の夫人となり、桓武天皇を生んでから、急速に台頭する。一族の家麻呂は帝の外戚との理由で、中納言に抜きん出られ、日本後紀はわざわざ「蕃人(外国人)相府に入るはこれより始まる」と注記しているほどである
と述べている。
書記によれば、
武寧王は倭の王権に使を送って貢物を納めさせた。倭王とすれば、百済王都陥落後、先代の東城王を倭国から送り込み、また武寧王も筑紫生まれで倭国とかかわりが深い人物である。
急に倭国王権に頭を下げて人質と贈り物を差し出してきたというのはその見返りに何かをねだろうとしているということだろう。
そのおねだりについては次の継体王権で明らかになる。
507年継体王朝成立(書紀の紀年による)
508年継体2年12月条に、
「南海中の耽羅(済州島)人、初めて百済国に通ず」とある。
注
継体と何の関係もない記事も挿入されている。百済が半島の南端まで勢力を伸ばしたとも受け取れる。
509年継体3年条に、
天皇は使を百済に遣わす。(百済本記に云う、久羅麻致支彌日本より来る)
任那の日本の県邑にある百済の人民の逃亡してきたもの、戸籍のなくなったものを三世・四世にまで遡って調べ、百済に送り返し、百済の戸籍に戻した
その後入定信仰は貴族から民衆に至るまで広く信仰を集め、高野山は現世の浄土とされました。布教の原動力となったのは、「高野聖」と呼ばれる念仏僧たちです。彼らは諸国を巡り、津々浦々で弘法大師の奇跡を語りました。同時に、高野山への納骨を勧め、伽藍再建のための寄進を求めました(勧進)。高野聖たちが伝えた数々の弘法大師伝説は、今も全国各地に語り継がれています。
空海自身がそうだったように、彼ら自身も土木や医療などの最新技術を伝え、それが人々の目には奇跡とうつり、民衆の心をつかんだとも考えられます。
平安末期には白河上皇や鳥羽上皇も高野山に参詣しました。12世紀中盤には平清盛が根本大塔を再建。その際に、自らの血を絵の具に混ぜた「両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず、別名・血曼荼羅)」を寄進したと伝わっています。