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建部大社 近江一宮 所在地 滋賀県大津市神領一丁目16-1 主祭神 日本武尊 大己貴命 創建 (伝)第12代景…
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当社は醍醐天皇延喜式神名帳所載の名神大社であり、月次新嘗の官幣に預かり、 和泉国の一の宮として、歴代皇室の御尊崇極めて篤く殊に防災雨祈の御祈願社八十 五社の一つであって、しばしば臨時奉幣に預かり、御神階も清和天皇貞観三年七月 には従三位に叙せられ後正一位に御昇階になりました。 御祭神日本武尊様は景行天皇の第二皇子で、その武勇は広く知られているところ でありますが、社伝によりますと日本武尊が東夷御征討の帰途、にわかに病におか かりになり、伊勢国能褒野に於て死去あそばされ、その御屍は白鳥と化して飛び去 り給い、最後に当所に来り留まられましたので、社を建立して尊様をお祀りしたの が当社の起源であって今から約一、八五0有余年前であります。
また、大鳥連祖神様は、この和泉国に栄えた神別であられ大中臣と祖先を一にす る大鳥氏と言う部族の先祖をお祀りしたもので、新撰姓氏録には天児屋根命を祖先 とすると伝えられております。当社は明治四年五月祭神日本武尊として官幣大社に 列格になりましたが、明治九年一月天覧に供しました官社祭神考証においては、祭 神大鳥連祖神とせられ、明治九年以来この説が公のものとせられていたので、以来 当社の歴代宮司は度々御祭神の御変更方を禀請致しましたが、ついに明治二十九年 十月三日付を以て、「上奏相成候官社祭神考証に於て大鳥連祖神と確定相成居候条 左様御承知有度」との時の内務省社寺局長の通達回答がよせられて、当時としては これ以上は神社側の主張を通す方法はなかったのでありましたが、偶々昭和三十二 年六月二十八日付にて、祭神日本武尊増祀の御允許を得ることとなり、ここに御祭 神に関する問題も決裁し日本武尊様を主祭神とする二座の御社となり御神慮に御応 え申すことが出来たのであります。
御祭神の御神徳は文武の神として、累代の武家の崇敬が篤く、平清盛、同重盛父 子が熊野参詣の途次、当社に祈願し、和歌及び名馬を奉献したのを始めとして、織 田、豊臣、徳川の三武将も社領の寄進、社殿の造営等を再度にわたって奉仕してお ります。また、聖武天皇の御宇には、僧行基が勅願を奉じて、この地に勧学院神鳳 寺を建立しましたが、明治維新の神仏分離によって廃寺となりました。
当社はその起源古く古来大鳥大明神と 称せられ延喜式名神大社であり和泉 国一の宮である。
日本武尊は景行天皇の皇子にして勅 を奉じ熊襲並に東国を平定、帰途伊吹 山の賊を平げたとき病を得て伊勢国 熊褒野に薨じ給うたが御屍は白鳥と 化し御陵を出で大和国琴引原、次に 河内国古市にとび最後に此の地に留り 坐したので社を創建、之が当社の起源と伝える。
又、大鳥連祖神は大中臣と元を一に し祖先は天の岩戸開きに功を立てた 天児屋根命である。
聖武天皇の御世には僧行基が勅願により 神宮寺としてこの地に勧学院神鳳寺を 建立したが明治の神仏分離により廃寺と なり当社は明治四年五月官幣大社に列格。
社殿は大鳥造と称して神社建築史上 貴重な様式を今に伝えている。
-参道案内より-
本社を含めて、和泉国式内社の中で、
大鳥と名の付く5社を、大鳥五社明神という。
大鳥神社(本社)、大鳥神社、大鳥美波比神社、大鳥井瀬神社、大鳥濱神社。
社伝では、元々日本武尊一柱であったが、
明治初めの官社祭神考証によって、大鳥連祖神とされてしまったとある。
その後、念願の増祀が叶い、2柱となった。
日本武尊を当社の祭神とし、天照大神と日本武尊の三妃を
大鳥五社明神のそれぞれの祭神とする説だ。
他に、新撰姓氏禄・和泉国神別に、
「宮処朝臣 大中臣朝臣同祖 天児屋根命之後也 大鳥連 同レ上」
とあり、大鳥郡大鳥郷は大鳥連の本貫地と考え、
大鳥連に関連・派生する支族の守護神を、大鳥五社明神にあてる考えもある。
ということで、現在、祭神は日本武尊、大鳥連祖神の二柱である。
境内社・大鳥美波比神社も式内社である。
大鳥五社明神の一。
垂仁天皇28年白鳳の姿に化して蜂峯に降臨し、
北王子村に奉祭されていたが、明治6年、大鳥大社境内の神鳳寺本堂跡へ遷座。
その後、式内社・押別神社などが合祀された。
合祀された押別神社は、別名・別松宮と呼ばれ、祭神は押別命。
古社地は、鳳駅前商店街南であった。
「(大鳥神社)第二宮大鳥美波比神社は、地神第一代天照大日孁貴(アマテル オオヒルメムチ)也。
垂仁天皇26年、天照大神勢州五十鈴河上に降り、同28年、白鳳と化して上野峯〈襲峯・小倉峯。今の鉢峰也〉に始現す。
景行天年24年、託宣に依りて、武内宿禰、天皇の命をうけ神鳥を尋ねて此の国に来る。
ここ下野の森に歳七十余りの一老翁有り。勅使が霊禽の在処を問うに、曰く、我は此処に棲んで120余歳也。是より西に上野という嶺あり、鳳彼の地に下りて久し、と。・・・
勅使、彼に随って上野に詣で、再拝して霊徳を崇い、始めて祠宇を構う」(大意)
とあり、当社の祭神を天照大神、創建を景行天皇24年・上野峯(鉢ヶ峯)としている。
ここでいう最初の鎮座地・上野峯(鉢峰)の確たる場所は不明だが、南区鉢ヶ峯寺にある法道寺近くの小丘と推測されている(南公園墓地付近)。この地は式内・国神社の旧鎮座地といわれ(明治43年、桜井神社-南区片蔵-に合祀)、同神社に残る縁起によれば、
「垂仁8年(28年か)、天照大神が鳳凰と化してこの峰に降り、景行24年、神託により武内宿禰に命じて社殿を造営したが、同55年神鳳が千種森に移った。今の大鳥神社(美波比神社)是なり」(大意)
とあるという(大阪府全志・1922)。
当社の創建を景行24年・上野峯(鉢ヶ峯)とする真偽は不明だが、諸資料によれば、現大鳥神社境内に遷座する以前は、北王子村の農夫久保小太郎宅地(現西区鳳南町4丁、当社の南約1km)にあったという(式内社目六稿-1874)。
それが明治6年(1873)、教部省通達により現大鳥神社境内に遷座することとなり、同12年7月、旧神鳳寺の五重塔趾に遷座し、昭和9年(1934)、現在地(本堂趾)に移ったと伝えられているという(以上、式内社調査報告・1977)。
なお、久保氏敷地内には、元宮司富岡鉄齊筆の“美波比神社旧址”との石碑があるというが、未見。
とある。
この原典とおぼしき大鳥五社大明神并別当神鳳寺縁起帳(849・平安前期、以下大鳥五社縁起という)は、その冒頭に、
「旧記を案ずるに、当社は、則、日本武尊遊化の叢祠、大日孁貴(オオヒルメムチ=アマテラス)降臨の霊地也・・・」
と記し、
同第一宮大鳥神社条には、
「(ヤマトタケル尊は)帰洛の時伊勢国能褒野に崩じ、能褒野陵に葬った。しかし尊は白鳥と化して倭国を指して飛び、倭琴弾原に停ったので陵を造ったが、白鳥は更に飛んで河内旧市(古市)邑に止まったので、また陵を作った。此三陵を白鳥之陵と云ふ。
最後には高く飛翔して天に上り、高天原〈今の社之地〉に止まった。群臣が之を尋ねたが、所在不明のため、衣冠のみを葬った」(大意、なお、オオヒルメムチ云々については別稿の大鳥美波比神社参照)
とあり、これがヤマトタケルを当社祭神とする根拠という。
(今、ヤマトタケル関連の3陵墓として、能褒野陵-三重県亀山市田村町、白鳥陵(琴弾原)-奈良県御所市富田、白鳥陵(古市)-大阪府羽曳野市軽里の3ヶ所が治定されているが、いずれも異論がある)
このヤマトタケルの白鳥伝説は、記紀・景行紀にいうヤマトタケル伝承をうけてのものだが、記紀には、ヤマトタケルの霊が化した白鳥は
「能褒野(伊勢鈴鹿)から倭の琴弾原(コシヒキハラ・奈良県御所市)を経て河内の古市邑(大阪府羽曳野市軽里)に留まり、そこから高く飛んで天に上った。それでただ衣冠だけを葬った。この年は景行天皇43年である」(大意)
とあり(景行紀)、その行き先は記されていない。
その記されていない行き先を高天原とし、そこを当社の鎮座地としたのが上記縁起帳の最後尾に記す注記(今の社之地)といえる。
「社伝によれば、古来より祭神はヤマトタケルであったが、明治9年(1876)の官社祭神考証に依り大鳥連祖神に確定し、明治29年(1896)の内務省社寺局長の通牒以後は、祭神を大鳥連祖神とするが、昭和36年(1961)、ヤマトタケル増祀の許可を得、・・・爾来、ヤマトタケルを主祭神とし、大鳥連祖神と合わせ祭ることとなった」
という。
ヤマトタケルに関係する祭神としては、アマテラスとヤマトタケルの3人の妃があげられている。
摂社のうち大鳥美波比神社の祭神・アマテラスは、その旧鎮座地とされる大野峯(鉢ヶ峯)がアマテラス降臨の地という伝承によるのだろうが、残る大鳥北浜神社・大鳥井瀬神社・大鳥浜神社は、ヤマトタケルの3人の妃、書紀(景行紀)にいう両道入媛(フタジノイリヒメ)・吉備穴戸武媛(キビアナトタケヒメ)・弟橘媛(オトタチバナヒメ)を、延喜式の記載順に割り当てたともいわれ、為に、資料によって異同があり、そこに必然性はない。
また、大鳥美波比神社以下の4社は、大鳥神社が官弊大社に叙せられた明治4年(1871)に当社の摂社とされ、大鳥美波比神社は明治12年(1879)本社境内(旧神鳳寺跡)に遷されている。
布忍(ぬのせ)という地名について
当神社に社名扁額「布忍宮」は高泉性敦 寛永10-元禄8年(1633-95)筆によるもので300年前には布忍という地名が現存していたことが分かります。新撰姓氏録に河内国皇別には「布忍首、的臣同祖、武内之宿禰之後也」とあります。
布忍神社との関係は定かではないが、素直に考えて河内の国、布忍首(おびと)と言うものから考え何らかの関係があったと思われます。
新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)は平安時代の諸氏の系譜集成。弘仁6年(815)成立。京畿の1182氏を、皇別・神別・諸藩の分類し、各系譜を記したものです。
故に815年には布忍という小豪族が居たようであります。
布忍神社の祭神
布忍山東坊縁起には、「人皇52代嵯峨天皇の勅願によって弘仁5年甲丑歳(814)弘法大師再建の伽藍、本堂薬師如来、金堂観自在尊、五重塔大日如来、鎮守牛頭天王(ちんじゅごずてんのう)三宝荒神(さんぽうこうじん)春日大明神(かすがだいみょうじん)を布忍7ヶ村の産土神と崇め奉る」と、あります。
当神社は、明治以前は祇園社として牛頭天王を御祭神としていました。また、本殿の蛙股より薬師如来を表すボン字が在る事からも分かるように神仏混合時代においては、薬師仏も合祀されていたと思われます。
日本書紀に布忍の文字が・・・・・。
この度、驚くべき事に日本書紀巻第7 景行(けいかう)天皇 51年正月-52年5月」の段に、「始め、日本武尊、両道入姫皇女(ふたち゛のいりびめのひめみこ)を娶(め)して妃(みめ)として、稻依別王(いなよりわけのみこ)を生(う)めり。次に足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこ)。次に布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)。次に稚武王(わかたけのみこ)。其の兄(いろえ)稻依別王は、・・・・・・。」と、記されています。
両道入姫皇女は、垂仁天皇の娘であり。足仲彦天皇は仲哀天皇であります。
上記の日本書紀におけることは、私も不勉強のため今日まで分かりませんでした。布忍入姫命は古事記には記載されておらず、定かではありませんが、「ぬのし」が語尾変化して「ぬのせ」と成ったのではと思われます。
妃:綺戸辺(かにはたとべ、弟苅羽田刀弁。山背大国不遅の女)
磐衝別命。三尾氏の祖
両道入姫命(ふたじいりひめのみこと、石衝毘売命)。日本武尊の妃、仲哀天皇の母
妃:苅幡戸辺(かりはたとべ、苅羽田刀弁)。弟苅羽田刀弁の姉
祖別命(おおちわけのみこと、落別王・於知別命・意知別命)。伊賀国造・小槻氏の祖
五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)。石田君らの祖。
胆武別命(伊登志別王)
小月山君(小槻山君) (おつきのやまのきみ)
近江国栗太郡(現・滋賀県草津市・栗東市一帯)を拠点としたとされる豪族。当地には、氏神として小槻神社や小槻大社が残っている。『新撰姓氏録』(815年)にある「小槻臣」もこの一族とされている[2]。史書によれば、873年に拠点を京に移して「阿保朝臣(阿保氏)」のち「小槻宿禰(小槻氏)」と改姓し、官務家として活動した。
三川衣君 (みかわのころものきみ)
三河国賀茂郡挙母郷(現・愛知県豊田市)を拠点としたとされる豪族[2]。当地には児ノ口社が残り、伝承を伝える。関連して、『古事記』では同じく垂仁天皇皇子の大中津日子命の子孫として「許呂母之別(ころものわけ)」の記載が見える。
伊賀国造 (いがのくにのみやつこ)
伊賀国伊賀郡(現・三重県伊賀市一帯)を治めたと見られる国造。「国造本紀」では、第13代成務天皇の代に意知別命三世孫の武伊賀都別命が初代国造に任じられたとする。ただし国造一族の氏姓は、伊賀臣(第8代孝元天皇皇子の大彦命後裔)、阿保君(第11代垂仁天皇皇子の息速別命後裔)などと推定されている。