初めてですか? 参加するには、どちらかのボタンをクリックしてください!
菟原郡(うばらぐん) 兵庫県(摂津国)にあった郡であり、神戸市東灘区の全域、灘区の大部分(六甲山町の一部を除く)中央区の一部(生田川以東)である。 菟原郡がはじめて歴史に見えたのは769年(神護景雲3年)である(『続日本紀…
Read the full story here
コメント
その荘園の範囲は、東は現在の明石市二見町付近と推定され、西は大きな湖の尻にあたります。
この湖は河であり、大河の河尻、つまり加古川の川尻をさしたものでしよう。
北の大路は、古代山陽道付近。「阿閉荘」があらわれる確実な記録は、鎌倉時代に書かれた「住吉神領年紀」(正嘉元年・1257)です。
「阿閉荘が摂津国住吉大社領であり、加古郡の二子・野添・経田・古向・宮北・東中野・本庄・宮西・古宮(以上播磨町)・西脇・八反田・中野・山上・二俣・一色・古宮・別府(以上加古川市)の18ヶ村を阿閉荘という」とあります。
ともかく、阿閉神社は、住吉大社の荘園(阿閉荘)としての経営の中心としての役割を果たしていたのでしょう。
「日本書紀」神功皇后摂政前紀に、於是 從軍神表筒男 中筒男 底筒男 三神誨皇后曰 我荒魂 令祭於穴門山田邑也 時穴門直之祖踐立 津守連之祖田裳見宿禰 啓于皇后曰 神欲居之地 必宜奉定 則以踐立 爲祭荒魂之神主 仍祠立於穴門山田邑、とあり、津守連之祖田裳見宿禰は神功皇后の新羅討伐に従軍していたのか。その根拠地としては、
1.「住吉大社神代記」に、大神重宣。吾欲住居地。渟名椋長岡玉出峡(「日本書紀」では大津渟名倉長峡)。時皇后勅。誰人知此地。今令問賜地。手槎足尼(「日本書紀」では田裳見宿禰)居住地也、とあって、渟名椋長岡玉出峡に住まいがあったように書かれているが、この渟名椋長岡玉出峡(大津渟名倉長峡)には二説あって今の「本住吉神社」の地なのか「住吉大社」の地なのかはっきりしない
摂津国津守宿禰は、
「摂津国 神別 天孫 津守宿祢」
「摂津国 神別 天孫 六人部(むとべ)連」
「摂津国 神別 天孫 石作連」と
和泉国津守連は、
「和泉国 神別 天孫 石作連」
「和泉国 神別 天孫 津守連」
摂津国住吉郡
摂津国兎原郡住吉郷
播磨国明石郡住吉郷
播磨国賀古郡住吉郷
播磨国賀茂郡住吉郷
長門国阿武郡住吉郷
とあるが、摂津国住吉郡と摂津国兎原郡住吉郷を除いては住吉大社の社領や神戸のあるところだという
大伴氏が住吉郡にいたのはほんの僅かの期間で、すぐに大和国へ引っ越したようである。大伴氏は住吉郡には一族もいなければ管理すべき物件もなかったようである。
大伴金村が引退後「住吉宅」に住んだではないかと言う人がいるかも知れないが、一説によると当時の中央政府は住吉の開発に力を注ぎ、多くの貴族が当地に別荘を持っていた、と言う見解もある。従って、住吉の地が特段大伴氏の支配地でもなく、大伴金村が引退後別荘を建てたのかも知れない。帝塚山古墳(4世紀末~5世紀初頭)は大伴金村父子の墓説があるが、時代的には大伴武以の墓が妥当とする見解があるようだ。大伴氏も武日(移転を敢行した本人か)、武以の頃までは住吉郡に在住していたのか。
一方、津守氏はと言えば百舌鳥古墳群(4世紀末ないし5世紀初頭から6世紀後半頃)の築造が一段落するまでは古墳築造に専念し、その後、大伴氏も完全に大和国に引っ越して、住吉大社の神主業に専念したのではないか。そもそも、津守氏は自前の神社《大海神社(延喜式神名帳に「大海神社 二座 元名津守氏人神」とある)》がありながら、大社とは言えあまり関係がなさそうな「住吉大社」を祀っている意味が分からない。元領主の神社と言ってしまえばそれまでだが、「記紀」では神功皇后に押しつけられ、「私見」では景行天皇に押しつけられて祀ることになったのではないかと思われる。従って、住吉郡に引っ越してきた頃には両氏は進む道を異にし疎遠になったのではないかと思われる。
新撰姓氏録」によると津守氏は火明命を同祖とするが、大きく分けて摂津国の津守宿禰(大御日足尼之後也)と和泉国の津守連(天香山命之後也)がいたようである。大伴氏と同様に摂津国と和泉国に勢力があったか。ただ、少し気になるのは、
摂津国津守宿禰は、
「摂津国 神別 天孫 津守宿祢」
「摂津国 神別 天孫 六人部(むとべ)連」
「摂津国 神別 天孫 石作連」とあり、
和泉国津守連は、
「和泉国 神別 天孫 石作連」
「和泉国 神別 天孫 津守連」とあり、
いずれも津守氏と石作氏がセットで出てきていることである。
石作氏は石工のことであり、津守氏は言われているような「港の管理者」ではなく、「土盛(つちもり)」の「ち」が欠落したものではないか。即ち、津守氏は土工のことを言ったものか。端的に言うと、津守氏と石作氏は古墳築造の現場監督(伴造)とも言うべき人たちで、摂津国津守宿禰は摂津国の古墳(例、西求女塚古墳等)築造に関わり、和泉国津守連は和泉国の古墳(例、百舌鳥古墳群)築造に関わったのではないか。
船木氏が代々この杣山を直接管理・領有する氏族だったことは、ほぼ間違いありません。今でも加東郡を流れる東条川の上流に、「椅鹿谷」(加東郡東条町)という地名が残ります。その下流付近の小野市には「船木町」(=明治十年までは船木村)の地名もあります。これをみると船木氏の根拠地が、この東条川流域にあった可能性はかなり高いといえます。近辺の住民を動員して多くの材木を伐採するとともに、それを加古川水系の舟運を利用して各地に運搬し、船舶の建造などに結びつけていたと思われます。なお十世紀にできた行政マニュアル『延喜式』の巻十には、賀茂郡内の式内社として「住吉神社」がでてきます。これを北条町内の「住吉酒見社」と同一視する見方があります。またこれとは別の加東郡内の住吉神社とみる見解もあり、すぐに結論は下せません
船木連氏の活動拠点は、当地のみに限られていませんでした。『神代記』には、前述の宇麻呂ら三人が、明石郡の船木村・黒田村・辟田村(いずれも所在地は不明)のうち合計二十五戸を、封戸として住吉大社へ寄進したと出てきます。明石郡には住吉大社ともつながりのある、式内社の「海神社」が垂水郷に鎮座します。またその近くには「住吉郷」という村もありました。船木氏はこの明石郡にも基盤をもち、住吉大社や津守氏に仕えていたようです。それではここでどのような活動を行っていたのでしょうか。
兵庫(ひょうご)の名は、中世に見えて来るが、吉田東伍(よしだとうご、1864~1918、歴史地理学者)は、阪神地方の古称、武庫(むこ)に由来するといい、古事記、播磨風土記等により古代から開けたことが知られています
武庫地方というのは、大阪湾の北岸一帯をの地方を指し、古代の中心は武庫川の河口付近でした。しかし、奈良時代以後、その中心は、むしろ今の兵庫地方で、これを務古(むこ)の水門(すいもん)、武庫(むこ)の泊(とまり)、大輪田(おおわだ)の泊(とまり)等と呼びました。
ということで、武庫地方の中心が武庫川の河口から、今の神戸市兵庫の地に移動したために、そこが武庫の湊(みなと)となり、転じて兵庫の湊(みなと)となった、という。
神戸(こうべ)の港は古く、大輪田の泊(おおわだのとまり)と呼び、畿内の西の要衝(ようしょう)であったため、源平、南北朝などの争乱の地となりました。
神戸(こうべ)の名については、和名抄諸国郡鄕考によれば、八田部郡生田の社の近境の鄕名に神戸(かんべ)があり、神社に所属してその経済を支えた封戸(ふこ)のことでした。延喜式に生田の神部をして造酒させたことがのっており、これは灘酒の起こりであって由緒は正しいという。
神戸の垂水神社
海神社(わたつみじんじゃ)は兵庫県神戸市垂水区宮本町に鎮座する神社である。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣中社。伊和神社、粒坐天照神社とともに播磨三大社とされる。
「綿津見神社」とも表記され、「かいじんじゃ」とも読まれる。古くは、あまじんじゃ・たるみじんじゃ、日向大明神、衣財田大明神。「ワタツミ」の読みは本居宣長の説に基づき明治4年(1871年)に採用したものである。『播磨国官幣中社海神社史』では「古例の通りアマもしくはタルミと読むべきである」としている。「タルミ」の読みは、祭神の本来の名称が垂水神であったことによるものである。「アマ」は、当社が海直(あまのあたい)の氏神であったことによる。
社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、当地の海上で暴風雨が起こって船が進めなくなったので、皇后が綿津見三神を祀ると暴風雨が治まり、その縁でこの地に綿津見三神を祀る社殿を建てたのが始まりという。『日本書紀』に記される広田神社・生田神社・長田神社・住吉大社創建の記述とほぼ同様であるが、『日本書紀』の当該箇所に海神社に関する記述はない。文献に現れる最も古い記述は、大同元年(806年)の『新抄格勅符抄』にある播磨明石垂水神に神封戸10戸を寄進するという記述である。当所は海上交通の要地であることから。古くから海上鎮護の神として崇敬を受けた。『延喜式神名帳』では「播磨国明石郡 海神社三座」と記載され、名神大社に列している
旧官幣中社・海神社〔わたつみじんじゃ〕は神戸市垂水区(旧・播磨国明石郡垂水郷)に鎮座する。JR・山陽電鉄の垂水駅を出てすぐの場所である。
境内は国道2号線(旧山陽道)に面している。その先には垂水漁港があり、昭和32年(1957)に建てられた高さ約12メートルという朱塗りの浜大鳥居がそびえている。
御朱印
御祭神は底津綿津見神〔そこつわたつみのかみ〕・中津綿津見神〔なかつわたつみのかみ〕・上津綿津見神〔うわつわたつみのかみ〕の綿津見三神で、大日孁貴尊〔おおひるめむちのみこと〕を配祀する。
神社の縁起によれば、神功皇后〔じんぐうこうごう〕が三韓征伐よりの帰られる途中、この地の海上で暴風雨が起こって、御座船が進めなくなった。そこで皇后が斎戒して綿津見三神を祀ったところ、たちまち風雨は治まり、無事に帰ることができた。そこで、この地に社殿を建てたのが御鎮座の由来という。『日本書紀』に見える廣田神社・生田神社・長田神社・住吉大社の鎮座伝承と関わりが深い。
現在では御祭神の名により社名を「ワタツミ神社」と訓むが、古くは「アマ神社」あるいは「タルミ神社」と訓んだ。現在、一般には「カイ神社」と呼ばれることが多い。かつては日向大明神、衣財田〔えたからだ〕大明神とも呼ばれていた。
播磨にいたりて山陵を赤石にたつ。よりて船をあみて淡路嶋にわたして、その嶋の石をはこびてつくるとある。
この古墳が五色塚古墳であるというのだ。上二段に貼られた黒い人頭大の石は、分析の結果、淡路島東海岸で産出するものであることが明らかになっている。
昭和40年代から10年かかりで復元工事にあたったそうだ。その際、主体部の石室、石棺の調査は控えたらしい。そのためくわしい年代や被葬者像はあきらかではない。だが、目の前の海峡、淡路島の葺き石、そして200㍍の古墳を築造できる人物像はかぎられる。それは、播磨の海の王者であろうか。
垂水駅から海側の森に古風なやしろが見えた。時間もあったので参拝することにした。海神社である。古名はあま神社、わたつみ神社またはたるみ神社、現在はかい神社でとおっているという。立派な式内社であった。祭神は底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三柱。いずれも海に住む神々だ。
、
その神社の由来によると、神功皇后が三韓征伐をおえて帰還の折、嵐にあって綿津見三神を祭ったところイメージ 3、風波がやんで都にかえることができた。その地がここ海神社であったというのだ。江戸時代は日向大明神といわれていたそうだ。明治4年、国弊中社となり、その際に海神社と称するようになったという。
宮司は阿曇氏が代々務めてきたが、2009年に宮司の阿曇磯和氏(58)が亡くなり、今は太宰府天満宮宮司の西高辻信良(にしたかつじ のぶよし)氏が代務者として志賀海神社を守っている。
志賀海神社の20km南に鎮座する太宰府天満宮の境内に志賀社(重要文化財)が鎮座、祭神は志賀海神社と同じ綿津見三神です。志賀海神社と太宰府天満宮は大変強い繋がりで結ばれている。
西暦57年に奴国王が後漢の光武帝から受けた「漢委奴国王」金印が志賀島から出土した。奴国王の後継者である卑弥呼は、西暦239年に魏の皇帝より「親魏倭王」の金印を受けたので、「漢委奴国王」金印を綿津見神のもとに返納することとし、聖地である志賀島に埋納した。
『住吉大社神代記』には住吉大神の部類神として、「明石郡垂水明神」とあるのが、多分当社のこと。『新称格勅符抄』によれば、大同元年(806)神封十戸が寄せられている。 『日本の神々2』で、黒田義隆氏は、江戸時代初期の頃には日向大明神と呼ばれたのは、大日霊命が配祀されており、ともに日向で化生していることからと推測されている。しかし加古川の日岡大明神と混同、または対抗上の名であったかも知れない。
畿内と畿外との境に鎮座しており、大阪湾へ「禍つ日」の侵入を防ぐ役目を負っていたと同氏は書く。
三輪山山頂の高宮神社(こうのみや)の祭神が「日向御子神」である点から、「第6代大物主の櫛甕玉命」は、「櫻井市三輪字御子ノ森」にお住まいになられてのち、山頂において「日向御子神」として祭られた可能性がある。
あくまでも『秀真伝(ほつまつたゑ)』を主流においた解釈である。
「日本書紀」神功皇后摂政前紀に、於是 從軍神表筒男 中筒男 底筒男 三神誨皇后曰 我荒魂 令祭於穴門山田邑也 時穴門直之祖踐立 津守連之祖田裳見宿禰 啓于皇后曰 神欲居之地 必宜奉定 則以踐立 爲祭荒魂之神主 仍祠立於穴門山田邑、とあり、津守連之祖田裳見宿禰は神功皇后の新羅討伐に従軍していたのか。その根拠地としては、
1.「住吉大社神代記」に、大神重宣。吾欲住居地。渟名椋長岡玉出峡(「日本書紀」では大津渟名倉長峡)。時皇后勅。誰人知此地。今令問賜地。手槎足尼(「日本書紀」では田裳見宿禰)居住地也、とあって、渟名椋長岡玉出峡に住まいがあったように書かれているが、この渟名椋長岡玉出峡(大津渟名倉長峡)には二説あって今の「本住吉神社」の地なのか「住吉大社」の地なのかはっきりしない
問題の三古墳は、副葬品や墳形などからみて、前方後方墳二基が若干早いかほぼ同時期に築造されたとみられ(実際の築造時期はそれぞれ異なるとして、その場合には西求女塚が最古で、次が処女塚とされるようだが、あまり差がないか)、六甲山南麓の住吉川及び石屋川の河口部に近い要港(武庫港)を押さえた瀬戸内海の海上交通に影響をもつ首長の墳墓だとみる見解が多い
仁徳朝になって住吉郡墨江に港津が定められたが(仁徳記)、そのときに今の住吉大社の地(大阪市住吉区住吉町)に住吉神社が遷座し、津守氏が住吉神主となって代々奉斎したことが知られている(『姓氏家系大辞典』など)。住吉神社の旧地には、住吉宮町遺跡のなかに本住吉神社がある。同社が明治の旧県社であったものの、延喜の式内社ではなかったこともあって、上記「渟中倉の長峡」(『摂津国風土記』逸文の住吉条には「沼名椋の長岡の前」)を現在の住吉大社の地とみる説がやや多数のようであるが、神社の沿革や船舶監視の地理事情からみても、宣長説が妥当だとみられる。東北近隣の東灘区本山には式内社の保久良神社があり、こちらは神武東征の際に神戸の和田岬あたりから難波への海上先導にあたったと伝える椎根津彦(珍彦)を主神とし、その後裔の倭国造一族の倉人氏(後に大和連を賜姓)が奉斎したとみられるが、津守氏の同族の海神族であった。
菟原処女の話は伝承だから、まず史実ではなさそうであるが、それに関わる前期古墳が三基残されるというのは興味深い。古墳の規模は、現在墳形が崩れているものもあるが、西求女塚(全長九八M超)、東求女塚(全長約八〇Mと推定)、処女塚(全長約七〇M)の順
「 葦屋に菟原処女という美しい娘がいて、多くの若者から思慕され、中でも同じ郡の菟原壮士(うないおとこ)と和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ。血沼壮士、信太壮士)という二人の男が彼女を深く愛して求婚し、激しく争った。処女が悩み悲しんで、「私のために立派な男たちが争うのを見ると、求婚に応じることなどできません、いっそあの世で待ちます」と母に語り、海に入水して自ら命を絶った。茅渟壮士はその夜、彼女の夢を見て、後を追い、残された菟原壮士も負けるものかと後を追って死んだ。その親族たちは、この話しを長く語り継ごうと、娘の墓を中央にして、二人の男の墓を両側に作ったという」
『万葉集』では高橋虫麻呂(巻第九、歌番1809~1811)、田辺福麻呂(芦屋処女。巻第九、歌番1801~1803)、大伴家持(巻第十九、歌番4211・4212)の三人が莵原処女伝説を歌い、平安時代の『大和物語』(一四七段)ではこの伝説が脚色されて、舞台が生田川となり、謡曲『求塚』(観阿弥または世阿弥の作)では女が川に投身したので男たちは刺し違えて死んだ、とされる。森鴎外はこの伝説を題材として戯曲『生田川』を書いた。関東でも下総国葛飾郡の真間(現市川市辺り)の手児奈(娘子の意)の伝説が、同様に多くの男に求婚されて自害したこととなっていて、これも高橋虫麻呂が歌(巻第九、歌番1807,1808)をよんでいる
平安時代中期の「大和物語」の「処女塚伝説」はこの塚が舞台となっている。昔々、このあたりに一人の美しい乙女・菟原処女(うないおとめ)が住んでおり、二人の若者が求婚し、生田川の水鳥を弓矢で射抜く勝負をするも決着がつかず、思い悩んだ乙女がとうとう生田川に身を投げた。それを知った二人の若者も後を追ったという哀しい話である。
若くはかない三人の死をあわれんだ親族が、菟原処女の墓をつくった。それが処女塚であり、その墓をはさむように東西2kmの地点に2つの求女塚(もとめづか)をつくった。 西求女塚古墳と東求女塚古墳である。
古代、九州に筑紫王朝(九州王朝)があった時代に、筑紫国を統治していた筑紫君が祖神を祀ったとも考えられる。
五郎丸古墳の被葬者と関連づけて考える説もあるらしい。
祭神を筑紫の神といい、筑紫の国魂である。奈良時代の筑後国風土記の神話によると、「筑前と筑後の境となる山に荒ぶる神いて、峠を行きかう人を多く取り殺していた。その神は命尽(イノチツクス)の神と呼ばれた。後にこの神を祀って筑紫の神と呼ぶようになった。」とされ、奈良時代以前から当社は在ったと推察される。筑紫の語源は、当社の神号から起った。
筑紫の神が白日別神(しろひわけのかみ)・五十猛命(いそたけるのみこと)という説もあるが、断定はできていない。
後世に玉依姫命(竈門神社から勧請)、坂上田村麿を祭祀した。当社は延喜式神名帳(927)に名神大とあり、朝廷より尊崇されていた。
大屋田子ー田道氏ーー>日下部氏、筑紫氏へ
兵庫県明石市魚住町中尾にある神社である。旧社格は県社。明石市市内には数社の住吉神社があるが、その代表とされるのが当社である。
底筒男命・中筒男命・表筒男命と気長足姫命を祀る。
伝承によれば、神功皇后の三韓征伐の際、播磨灘で暴風雨が起こったため、魚住に避難し住吉大神に祈願をすると暴風雨がおさまったという。凱旋後、神功皇后により住吉大神は摂津国住吉に祀られた。大阪の住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』によれば、住吉大神より「播磨国に渡り住みたい。藤の枝の流れ着く所に祀れ」との託宣があり、藤の枝を海に浮かべると、魚住に流れ着いた。そこで、雄略天皇8年(464年)に当地に住吉大神を勧請したのが当社の創建と伝える。正応5年(1292年)に現在地に遷座した。海上守護、産業、和歌文学の祖神と仰がれ、交通安全、商工業、学業の守護神となっている。また、謡曲「高砂」に住吉、高砂の松の相生にしたとして住吉明神の神徳を称えており、夫婦円満の神でもある。
雀の松原(すずめのまつばら)とは兵庫県神戸市東灘区の魚崎西町にかつて存在した松林である。布引の滝・御影の松と共に古くより景勝地として知られたが現在は石碑が名残を残すだけである
竹内宿祢の子孫である雀部朝臣という豪族が鷦鷯(ささき、ささい)部の民を率いてこの地方に住んでいた様である。鷦鷯は雀とも書いた(『古事記』)ので「ささい」の松原と呼ぶべきところを「すずめ」の松原と俗称するに至ったと考えられる。また、摂津皇別佐々貴山君がこの地に居住していたため、この地方を「ささき」の郷と呼んだ。その後「ささき」が「ささい」(佐才)となり、雀の字を当ててこの海岸一帯の松原を雀の松原と呼ぶようになったという説もある。この地の旧家に「佐々木」「雀部」などの姓があるのも無縁とは限らない。Wikiより抜粋
『新撰姓氏録』によれば今の住吉川以西の地は雀の松原を中心として900年頃には「佐才郷」と呼ばれ、人家も多くあったが、住吉川の大洪水により住民が川東に移り今の魚崎へと発展した。大洪水後川西は松原となり「佐才松原」と呼ばれていたが、正平6年(1351年)頃には既に「雀の松原」となっていた。
近世魚崎の松尾綾平なる人は摂津国の皇別佐々貴山君の住んだ地として正しくは「ささいの松原」と読むべきだとし、更に『古事記』と『日本書紀』での仁徳天皇の名に含まれる「ササキ」の用字が雀と鷦鷯が通じて用いられ、その「ササキ」が「ササイ」に音便変化する事を挙げてこの説を補強している
遺構概要
市報・3次(古墳初-円形周溝墓2+方形周溝墓1+壺棺2/奈良-水田17/平安-耕作)。 県年報(集落。弥生末〜古墳初-円形周溝墓2+方形周溝墓1+壺棺+土坑+ピット/古墳末〜奈良前半-水田/平安前期-耕作地)。 市年報、第3次(弥生末〜古墳初-円形周溝墓+方形周溝墓+壺棺2+土坑+ピット/中世-耕作地)。
古代の葦屋郷は圧倒的に芦屋川右岸が中心であった。 現在の神戸市東灘区東部は芦屋郷の中心であるだけでなく兎原郡全体を統括していたようである。 東灘区深江北町遺跡は古代山陽道芦屋駅家の最有力候補になりつつある。
・法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(天平19年(747)2月11日)に「摂津国雄伴郡」
・「摂津国風土記」逸文(釈日本紀)に「雄伴郡、夢野あり」「雄伴郡、波比具利岡」
・「住吉大社神代記」に「兎原郡元名雄伴国」
などがある。
なお、摂津国に大伴や雄伴という地名の痕跡はあるが「新撰姓氏録」には大伴氏は見当たらない。
「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長」と言う見解は、「記紀」の説くところでは大阪湾北側にかかわらず大阪湾沿岸は綿津見(阿曇氏)系海人族が跋扈していたようであり、天よりの天降り神話を始め国生み神話等はこの海人族から採取したもののようである。しかし、現実には大阪湾岸には同じ海人族の住吉系海人もいたのであり、例えば、住吉大社と摂社・大海神社(おおわたつみじんじゃ)との関係のように住吉系の方が上位にあったのではないか。もっとも、大海神社は津守氏一族の神社だったようで津守氏は綿津見系で住吉系に取り込まれてしまったようだ。
「日本書紀」仁徳天皇
「六十二年夏五月 遠江國司表上言 有大樹 自大井河流之 停于河曲 其大十圍 本壹以末兩 時遣倭直吾子籠令造船 而自南海運之 將來于難波津 以充御船也」とか、
「続日本紀」巻第廿九〈起神護景雲二年正月、尽三年六月。〉
「《神護景雲三年(七六九)六月癸卯【七】》○癸卯。摂津国菟原郡人正八位下倉人水守等十八人賜姓大和連。播磨国明石郡人外従八位下海直溝長等十九人大和赤石連」とかで補強する見解もある。
前者は倭直吾子籠(あごこ)が造船技術者であったと言うのであろう。後者は倉人水守や海直溝長が椎根津彦命の子孫であるというのか。倉人水守は保久良神社由緒書に「椎根津彦命の子孫たる倉人水守等が祖先を祭祀し奉る」とある由。
兵庫県神戸市垂水区に海神社(わたつみじんじゃ。古くはあま、たるみ)があり、祭神は「中津綿津見神、底津綿津見神、上津綿津見神」で、神功皇后帰還時創建と言う。祭神については「豊玉彦・豊玉姫・椎根津彦」とする説がある、と言うのが唯一椎根津彦にまつわるものである
多田満仲公は古代から多田郷に住み着いていた大神氏(おおみわし)を滅ぼして、多田庄を開いた。そして、大神氏の氏神であった「多太神社」を廃して京師から「平野大明神」を遷座した。ところが、満仲公の長男である満正公が突然早世した。満仲公は滅ぼした大神氏の祟りではないかと恐れて、多田庄の其処かしこに大神氏の鎮魂のために「九頭社」を建立したものと考えられる。大神氏は大田田根子命(大国主命の末裔)を祀り、大蛇(オロチ)に例えられる。一方長年、大神氏は能勢三草山の、「岐尼神社」を氏神とする龍女(みぬめのかみ)と対立しており、満仲公は大蛇を滅ぼして、この龍女から龍馬を授かったと言う話が『前太平記』に載っている。
源満仲公の龍馬伝説ともう一つの九頭の大蛇退治伝説
『満仲五代記』によれば、「満仲公が能勢付近へ狩りに出かけられた時の事、夢の中に美しい龍女が現れ、龍女は河下に住む大蛇と何年間も争っているが、とうとうその大蛇に住む所を奪われた、見ると貴方には龍宮天宮の相が備わっているので、その大蛇を退治して欲しいと云います。そしてその龍女は天駆ける馬を一頭引いて来て満仲公に与えた。満仲公が夢から覚めると不思議なことにそこに一頭の馬がいました。満仲公は住吉大神の御加護により大蛇を退治したあと、その狩場に行ってみると滝があり、龍ヶ滝と名付けられました。」(現代語訳多田五代記)
万葉ゆかりの地
たまもかる 敏馬をすぎて なつくさの 野島のさき江 舟ちかづきぬ 人麻呂
一方、為奈部首は、『新撰姓氏録・摂津国諸蛮』の項に「為奈部首。百済国の人、中津波手自り出づ。」とあります。此の為奈部首は木工技術者集団で、『日本書紀』応神天皇三十一年八月に「即引之及于聚船、而多船見焚、由是、責新羅人、新羅王聞之、讋然大驚、乃貢能匠者、是猪名部等之始祖也」とあり、「昔、船溜まりに停泊していた多くの船が燃えてしまい、新羅人がその責めを負わされた。新羅王は之を聞いて驚愕し、能匠者を貢いだ。彼等が猪名部の始祖となった・・」とある。美奴賣神は敏馬神とも書き、「本は能勢郡に居りき」とある。『能勢の昔と今』によれば、
「三草山の古名は美奴賣山と云い・・、能勢郡南西部にそびえ立つ五六四㍍の山で、美奴賣神は、ここ三草山に住んでいた・・。三草山西麓を越えるサイノカミ峠から南を望むと、右手六甲山から・・武庫・敏馬浦を航行する船の姿まで見られる」(能勢の昔と今)
その後、三草山と呼ばれるようになったのは、
「三草山には剣尾山と同じく日羅上人が開創した清山寺があって、・・天空から白髪の老翁が三草を持って現れ、これを上人に授け給うた。上人はこの三草を拝すると千手観音と不動明王と毘沙門天に変化したことから、山号を三草山とした」(能勢の昔と今)
敏馬神社(みぬめじんじゃ)は、神戸市灘区岩屋中町にある神社