日本武尊の系譜、景行天皇の皇子

December 2018 編集されました カテゴリ: ヤマトタケル
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日本武尊は、軍事を担当し、東奔西走し能褒野で悲運な死を遂げた。 何故、このような運命となったか? 一族の系譜を…

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コメント

  • 宮簀媛は尾張の国造乎止与命の娘とされ、日本書記では宮簀媛、古事記では美夜受比売と記され、尾張では卑弥呼のような女王のような存在だったと伝えられてます。日本武尊が東征の帰路に尾張に滞在の際に娶られたとされます。姉子神社の名前の由来は日本武尊が媛を恋しのんで歌った歌が「尾張国熱田大神宮縁起」に記されておりそこで武命が媛を姉子と呼んだことに由来いてます。又日本武命かなくなったのち日本武命より預かった草薙の剣を奉斎鎮守のため熱田大社を建立したとつたえられてます。
    宮簀媛の墓は熱田球場の横の断夫山古墳と伝えられてます。

    氷上姉子神社
    仲哀天皇4年、天火明命の子孫で尾張国造だった乎止与命(おとよのみこと)の館趾の地に創建されたと伝えられる。持統天皇4年(690年)に火上山の麓の現在地に遷座。旧社地には元宮社が鎮祭されたという。

    かつてこの地は「火高火上(ほだかひかみ)」と称しており、『延喜式』には「火上姉子(ほのかみあねこ)神社」と記されている。この地域に火災が度々起き、永徳3年(1382年)には火上姉子神社が被害を受けた事から「火高」を「大高」に、「火上」を「氷上」と改めたとも伝わるが、当社の由緒書には「貞治3年(1364年)の『尾張国内神名牒』には「従一位上氷上姉子天神」と記されていた」ともあり、この部分は若干混乱している。また、後に地名は「火上山」に復して現在に至る。
  • 真清田神社は天火明命の後胤・尾張氏による創建。
    そして尾張氏が葛城の高尾張邑から大高火上の地に移ったのは
    天火明命11世孫の乎止与命の時代の時。
    それを10代崇神天皇~11代垂仁天皇の時代と比定すると、
    3世紀後半~4世紀初頭の移住と考えられます。
    その居住跡の石碑が氷上姉子神社の元宮・火上山に建っています。
  • 乎止与命が尾張に移住した時、
    犬山扇状地を治めていたのは邇波氏の大荒田命。
    そして乎止与命の子・建稲種命と、
    大荒田命の娘・玉姫命が結婚。
    尾張氏は尾張北東部を手中に治めますが、
    建稲種命は日本武尊の東征に従軍してその岐路謎の水死。

    建稲種命の妹・宮簀媛は日本武尊の妻となるも、
    日本武尊は伊吹山の神に敗れ能褒野で崩御。
    宮簀媛が日本武尊の忘れ形見・草薙の剣を祀る為に、
    年魚市潟に熱田の宮を創建したのは4世紀中葉頃と推定されます。(創祀1900年とは謳ってはいますが)
    火上山も熱田神宮も当時は海に面し、舟で行き来していました。


    真清田神社の宮司職を代々継いだという真神田氏は大和の大神氏と同族です。
    とすると真清田神社の祭神は大物主命という事になります。
    だが真清田神社の近くには大物主命を祀る大神神社が別にあり、
    その大神神社の社伝では真清田神社と大神神社の二つを合わせて尾張国一宮としたとあります。
  • 都波只知上神社 (鳥取市)
    つばしちがみじんじゃ
    鳥取県鳥取市河原町佐貫511

    一、 延喜式内社 旧村社、祭神は大帯日子淤斯呂和氣尊(景行天皇) ・日本武尊の二 神を祀る(その後明治以降いく度か近郷の氏神 が合祀され現在二十六座が祀られている)。当社 は佐貫村の谷隘の山麓に北面して鎮 座、(往古は一、二メートル許り奥の宮谷にあったが 氏子の参詣に不便なため、いつのころか現在地佐貫 字林の谷に遷られたと伝えられる)当社の創立 年代は不詳であるが凡そ千七百年以 前に建てられたものである。
    二、 由緒-伝説によれば昔人皇十二代景行 天皇の朝に蜘蛛谷と云う処(大皿谷)に、 土蜘蛛が住み、悪行甚しく人々を苦し めたので、帝は皇子日本武尊に武内 宿弥を添え、海石榴樹で作った椎で 山を穿ち退治された(日本書紀巻第七 記事による)。其時の功を推崇して祭り 「都波只知上神社」と稱して氏神と した。神号「都波只知」は「海石榴市」 の假名書である。(文化五年-一八〇八-社号を それまで市大明神或は大地大明神-大智とも書く -と称されていたが現号に復称されている)
    三、 祭神
    大帯日子淤斯呂和氣尊。日本武尊。

    天穗日尊。大己貴尊。八上比賣尊。 三穗津姫尊。天太玉尊。素盞嗚尊。 櫛名田比賣尊。彦火火出見尊。 景行天皇。鹽土老翁尊。猿田彦尊。 事代主尊。意富伊我都命。伊弉諾尊。 伊弉册尊。浅﨑尊。十握劍。保食神。 罔象女神。倉稲魂尊。誉田別尊。 級長戸邊尊。帯中津彦尊。気長足姫尊
    四、 神階-仁寿元年(八五一)冬十月従五位下を授く (文徳実録)。大正五年十一月三日神饌幣帛料供進 神社に指定される。
  • 日本武尊の後裔
    (犬上君、建部君、讃岐綾君、伊勢の別、登袁の別、麻佐首、
               宮首の別、鎌倉の別、小津、石代の別、漁田の別の祖=古事記)
      犬上朝臣――――景行皇子、日本武尊より出る――――――――――左京皇別上
      建部公―――――犬上朝臣同祖、日本武尊の後――――――――――右京皇別下
      別公――――――建部公同氏――――――――――――――――――右京皇別下
      和気公―――――犬上朝臣同祖、倭建尊の後―――――――――――和泉国皇別
      県主――――――和気公同祖、日本武尊の後―――――――――――和泉国皇別
      聟木――――――倭建尊三世孫大荒田別命の後――――――――――和泉国皇別
      阿刀部―――――山都多祁流比女命四世孫毛能志乃和気命の後―――未定雑姓大和国
     五十香足彦命(神櫛王は木国の酒部阿比古、宇多酒部の祖=古事記)
           (神櫛皇子は讃岐国造の始祖=日本書紀)
      讃岐公―――――大足彦忍代別天皇皇子、五十香足彦命の後――――右京皇別下
      酒部公―――――同皇子三世孫、足彦大兄王の後―――――――――右京皇別下
      酒部公―――――讃岐公同祖、神櫛別命の後―――――――――――和泉国皇別
     五百木入彦命
      高篠連―――――景行天皇皇子、五百木入彦命の後――――――――右京皇別下
     稲背入彦命(播磨別の始祖=日本書紀)
      佐伯直―――――景行天皇皇子、稲背入彦命の後―――――――――右京皇別下
      佐伯直―――――大足彦忍代別天皇皇子、稲背入彦命の後―――――河内国皇別
     息長彦人大兄瑞城命
      茨田勝―――――景行天皇皇子、息長彦人大兄瑞城命の後―――――山城国皇別
  • 九州での熊襲征討を終え、倭建命は東国をも平定して科野(しなの)に入る。

     科野、伊那谷の「大御食神社」の古代文字で書かれた社伝に、倭建命を伊那谷に迎えた「押姫」の答(いらえ)歌が伝わる。
     「愛しけやし、我が大君の御手に捲く、珠持つ日根子忘られず、珠持つ日根子忘れられず、吾夫を占め延む、吾夫を占め延む。」という歌。
     押姫は倭建命を「日根子(ひねこ)」、根の日子という尊称で呼んでいる。ここで倭建命の実体が浮き彫りになる。

     倭建命こと、小碓尊の母は「伊那毘能大郎女(いなばのおいらつめ)」とも。「伊那毘(いなば)」とは大国主命の「因幡」。小碓尊の母は出雲の媛であるか???
     「根の国」は異界。古事記では「根堅州(ねのかたす)国」、「底根(そこつね)国」とされ、黄泉の国と同一視される。祝詞において、罪穢れは「根の国」に押し流すとされ、悪霊邪鬼の根源とされる。
     が、素戔嗚尊が根の国を「妣(はは)の国」と呼び、大国主命は王権の印となる刀、弓矢、琴を「根の国」から持ち帰っている。根の国は「出雲」であるとも。 「日根子」、根の国の日子と呼ばれた「倭建命」は出雲神ではないか??
  • 播磨国風土記では天火明命を大国主命の子とする。尾張の総社「尾張大国霊神社」は大国主命を祀る。尾張氏は出雲神の裔でもあった?

    伊那谷の「大御食神社(おおみけじんじゃ)」の祭神は「倭建命」。由緒では倭建命が東征の帰途、里長、赤須彦の饗を受け、三夜を同地に過ごし、赤須彦に「御食津彦」の名を賜ったという。命の死後、「大御食の社」と称した。
  • 「倭根子」の称号を持つ天皇

    大倭根子日子賦斗邇命の和風諡号をもつ第7代「孝霊天皇」
    大倭根子日子国玖琉命の第8代「孝元天皇」、
    若倭根子日子大毘々命の第9代「開化天皇」。
  • 応神天皇の祖先は、宇佐国造一族の支流で、火(肥)国造からでて四国に渡り、伊予・讃岐→播磨と遷って畿内に入ったことが推されます。
    この一族とみられる大江王(彦人大兄)が生んだ大中比売命(大中姫)が仲哀天皇に嫁して香坂王・忍熊王を生んだことも記紀に記されております。大江王は仲哀の「叔父」だと仲哀紀に見えますが、それが父・倭建命の弟という位置づけだと、景行紀に景行の皇子とされる稲背入彦命に重なりあいます。この者の別名を息長彦人大兄水城命とも咋俣長日子命(くいまたながひこ)ともいい、息長田別命(武貝児命)の子であって、息長君の祖・稚渟毛二俣命の父に位置づけられます
  • 景行の皇子のなかにあげる神櫛別命、櫛角別命や、倭建命の子にあげる綾県主の祖・武卵王(たけかいこのみこ)は同人です。景行記に、神櫛王は宇陀酒部等の祖とあることで、宇陀の御杖君につながります。神櫛王や武卵王は伝説上の讃留霊王(さるれいおう)にも当たる人物であり、讃岐国造は『百家系図』巻9等に系図が見えますが、神櫛命の子にあげる千摩大別命の子孫として記載されます。また、五十河彦命は、神櫛王か千摩大別命とに重複する者とみられます
  • 景行天皇の最初の皇子が、双子の「大碓(おおうす)」と「小碓(おうす)」で、後者はのちの「日本武尊」です。 在位4年に、天皇は美濃泳宮に赴き、先の八坂入姫を娶っていますが、この時、美濃国造「神骨」の、 二人の娘も娶ろうとしました。 そして、皇子大碓を遣わたのですが、彼はこの二人と密通し、子を成して復命しなかったとあります。 「記」では、そのため食事の場に出席せず、父から教え諭すように言われた小碓によって、簀巻きにされ殺されています。 「紀」の方にこの記事は無く、東国征伐の将軍の候補にされ、恐れおののいたので弟に替えられ、 美濃を任されたとあります。 この惰情な兄に関係の深いのが美濃国で、勇敢な弟に関係の深いのが尾張国なのです。 大碓と、美濃国造の娘の間に産まれた子が、「牟宜都(むげつ)君」という、武芸郡の豪族の祖なのです。 見方を変えれば、大碓は丹波系の三野前国造家に婿入りして、その一部の領主になったということでしょう。 しかし武儀郡には、彼を祀った神社が見当たらないのです。 ところが隣の三河国で、大碓は豊田市にある「猿投神社」の祭神とされ、墓もその近くにあるのです。 その理由は、彼がこの山で蝮に咬まれ亡くなったからです。
  • 鞍手町史によると、「新北神話は宗像三女神の六ヶ岳降臨とも結びつくが、主体は日本武尊伝説である。

    亀甲の熱田神社の古宮や新延の剣神社及び鎧塚伝説等は、すべて日本武尊に関連づけられている。このことは中山の八剣神社、木月及び古門の剣神社伝説も同様である。その意味では新北神話は即ち鞍手神話ともいえる。(中略)

    香月文書によると畑城主香月氏の神話伝説に次のようにある。

    小狭田彦の孫小磐削こいわけノ御剣王は日本武尊と小狭田彦の娘常磐津姫の間に生れた人である。父君の日本武尊に従って東征し、駿河の焼津では特に軍功があった。その賞として祖父景行天皇より武部ノ臣の称を頂いたほどである。御剣王は帰国の後『兎角に父の尊の慕わしくて、尺ノ岳及び新北尊の戦勝を祈り玉ひし地なりに尊を祭り玉ひ云々』とある。」

    「御剣王の御子天ノ磐代武部ノ種日子王は父に劣らぬ武勇の人であったが、『御子磐木那賀ノ王を嘉麻の碓井の邑主となし、御子天賀那川かながわ彦ノ王を新北の神主となし、御子津々賀御ノ王を舞岳(尺岳)日本武尊小狭田彦御剣王合祀の神主となし、御子玉御木ノ王を穂波の郡司となし、御子山戸部ノ王を聞(企救)の司となし、御弟羽羽戸部ノ王を高羽(田川)の主とし、御弟八ツ田大戸部ノ王を暗崎(黒崎)の村主となし玉ふ』云々とある。」

    右 の香月文書の中に、日本武尊の孫「賀那川彦王」が「新北の神主」となったという、記紀には見えない現地伝承のあることは重要この上ない。なぜなら、「新北 村剣大明神縁起」が熱田神社に伝わり、この宮の宮司こそ「金川」氏であるからだ。ちょうど、筑後の風浪宮の宮司が「安曇」氏であるのと同様だ。熱田神社の 祭神は、美夜受比売。尾張の熱田神宮と同じだ
    参照
    http://trakl.exblog.jp/17598728/
  • 香月文書と新北神話(鞍手神話)
    www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line/mate/on.../frtnws893.htm

    香月氏は、神功紀に出て来る葛城襲津彦の末裔でもある

    ニギハヤヒは天照国照彦火明櫛玉饒速日尊と天神本紀にあり、天照大神とはどうやら彼のことのようである。その名も天照宮が、鞍手郡宮田町磯光 にあり、祭神が天照国照彦火明櫛玉饒速日尊で、記紀に拠っていない。この宮は、元は笠置(木)山の頂上にあった。

    鞍手の地には神話時代から古墳時代にかけて、記紀や旧事本紀と関連して重要な神や人物が登場する。宗像三女神、饒速日にぎはやひ命、倭建やまとたける命、そして、神功皇后、鞍橋くらじ君等である。


    鞍手町史から「贄田物部と古墳群」

    新延の剣神社境内の鎧塚古墳はすでに県文化財の指定をうけた貴重なものであるが、側に祭る剣神社は鎧塚の祭祀に起因して創建したものであろうといわれている。

    同じく県指定の新延の大塚古墳もその規模の大きさや出土品の豪華さから、大首長の墳墓ということができよう。

    ましてや八尋の銀冠塚古墳は銀の冠を用いた首長が眠っていた。彼の用いた銀冠が聖徳太子の定めた冠位十二階に先行する古冠とすると、時代的にも古く、一そう貴重なものと考えられる。」

    例の竹原古墳も鞍手郡若宮町にあることを考え合わせると、鞍手には古い遺蹟が伝承と共に濃密に分布しているのである。
  • 倭建命(やまとたけるのみこと)は、第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父。

    『日本書紀』では日本武尊、 『古事記』では,、倭男具那命、倭建命。
    『尾張国風土記』と『古語拾遺』では日本武命。
    『常陸国風土記』では倭武天皇、『阿波国風土記』では倭健天皇命。

    倭建命の弟に当たる神櫛皇子(かむくしのみこ)は、讃岐公(讃岐国造)・酒部公の祖となっています。
  • 9代開化天皇(没年177年)の宮は、春日率川宮 (春日之伊邪河宮)、推定地は奈良県奈良市本子守町
    10代崇神天皇(没年211年)の宮は、磯城瑞籬宮 (師木水垣宮)、推定地は奈良県桜井市大字金屋
    11代垂仁天皇(没年261年)の宮は、纒向珠城宮 (師木玉垣宮)、推定地は奈良県桜井市大字穴師
    12代景行天皇(没年291年)の宮は、纒向日代宮、推定地は奈良県桜井市大字穴師
    13代成務天皇(没年321年)の宮は、志賀高穴穂宮、推定地は滋賀県大津市穴太1丁目
    です。
    つまり10代崇神天皇から12代景行天皇の3世紀代のみ纏向遺跡内と考えられるわけです。この期間を、図の赤矢印で示しました。
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