英彦山、大己貴と天忍穂耳、高木神、鷹羽紋、阿蘇氏

December 2018 編集されました カテゴリ: 九州
image英彦山、大己貴と天忍穂耳、高木神、鷹羽紋、阿蘇氏

英彦山の祭神は「天忍穂耳尊」。「忍骨耳尊」(おしほねみみ)とも 英彦山修験道の縁起の原文の抜粋 『鎮西彦山縁起…

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コメント

  • 高木氏の有力氏族に於保氏があり、系譜は宗家の甥の於保次郎宗益から始まるとされるが、於保の地名も筑後にあって御原郡於保村(現小郡市北部の大保)ではないかとみられる。大保の東隣の井上に因むとみられる井上氏も、草野支流に見える。なお、於保次郎宗益の弟・尻河六郎宗康の子に平野次郎宗季が見える。
     
    さて、草野も北野も筑後国御井郡の地名であり、とくに草野氏は筑後の在庁官人で在国司・押領使職を世襲した有力な武家であって、系図に宗家の従兄弟と見える草野次郎大夫永平は、『東鑑』文治二年閏七月条にも見える。草野氏はその先祖を天智天皇御宇の草野常門と伝えるから(「草野系図」)、古代から草野を氏としていたことが知られる。他の地の例から見ると、草野は草壁すなわち日下部に通じることが多く、例えば豊前国仲津郡の蒭野(くさの)郷が平安期には草野荘(福岡県行橋市の草野一帯)となり、この地に日下部氏の有力者が居住していた。このことは『本朝世紀』長保元年(999)三月七日条に見えており、記事には蒭野荘の前検校と見える早部信理(法名寂性)は「日下部信理」の誤記と分かる。筑紫では、筑前国には嘉麻郡に草壁郷、筑後国にも山門郡に草壁郷があって、ともに日下部の居住地であったとみられる。
    筑後にも筑紫国造一族の日下部君が居たから、草野氏の本姓は日下部(姓は君か宿祢)だったと推せられる。

    日下部氏は筑紫の有力氏族であったから、大宰府の官人にも見える。

    寛弘八年(1011)十二月の根岸文書に「権少監日下部」、長和三年(1014)の尊勝院文書に「権掾日下部」、永承七年(1052)の大宰府官連署に「大監日下部」と見えるほか、大宰府の観音寺の牒には、寛弘三年(1006)に「検校少弐藤原、別当大監藤原、少典日下部」とあり、長和元年(1012)八月の文書にも「権少監日下部是高」と見える(『観世音寺古文書』)

  • 髪長媛(かみながひめ)は、『古事記』 の所伝では、波多毘能大郎子(はたぴのおおいらつこ)またの名を大日下王(おおくさかのみこと)、波多昆能若郎女(はたぴのわかいらつめ)またの名を若日下部命(わかくさかへのみこと)の二人を生んだと記され、また後述するように、『日本書紀』においても、大草香皇子(おおくさかのみこ)と幡梭皇女(はたぴのひめみこ)を生んだとあります。そしてこの大日下王および若日下部命の名代部(なしろへ)として「日下部氏:くさかへ」が登場してきます。この部族は西日本全般に、古文献の上で散見されますが、髪長媛の出自国である日向は、その源流の地であったのかもしれないと思われます。なお、この日下部氏は日向にたいへん関係が深い氏族です。
  • 日子坐王(ひこいますのみこ) 9代開化天皇と意祁都比売命の子。 春日建国勝戸売(かすがのたけくにかつとめ)の娘、沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)を娶って、11代垂仁天皇皇后の沙本毘売命、沙本毘古王など、息長水依比売を娶って丹波道主命、水穂之真若王など、叔母にあたる袁祁都比売命を娶って、山代之大筒木真若王などの父となった。
    ■和邇氏を始め、日下部氏、息長氏の遠祖という。

    日下部氏は、9代開化天皇の皇子・彦坐命の子、狭穂彦命の後(日下部連・甲斐国造)とも、吉備氏の大吉備津彦命の子の大屋田根子命の後とも、16代仁徳天皇の皇子、大草香・若草香王の御名代部ともいわれ、各地に存在するのだが、実態のつかめない謎の氏族である。しかし、天皇位を狙える立場という共通点からも、吉備氏と同族という可能性は高い。また、大屋田根子命の兄に、吉備氏系の日奉部氏(火葦北国造家)の祖の三井根子命がおり、同じ「日」を奉斎するという意味からも、「部」という名からも、天皇家と同等の家に奉仕する部曲かと思われる。 また、但馬国造の日下部君の祖とされるのは、沙穂彦・沙穂姫の異母弟、山代之筒木真若王の子で、船穂足尼(ふなほ?のすくね)。その甥っ子の息長宿禰王の娘が、仲哀天皇の皇后・息長帯比売(神功皇后)である。但馬というのは、神功皇后の母方の祖先、天之日矛を祀る出石神社(兵庫県出石郡)があり、興味深い
  • 彦坐王は美濃を領地として、子の八瓜入日子王(やつりいりひこのおう)とともに治山治水開発に努めたとも伝えられていますが、その後裔氏族は美濃のみならず、常陸・甲斐・三河・伊勢・近江・息長氏・山城・河内・大和・但馬・播磨・丹波・吉備・若狭・因幡など広汎に分布しています。  時代は下りますが、戦国時代に大名となった越前朝倉氏は本姓日下部氏で、彦坐王の子である神功皇后の曽祖父・但馬国造の祖 山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)の子孫と称する但馬国造家の流れを汲んでいます。  大阪府堺市西区草部(くさべ)にある日部神社(くさべじんじゃ)の祭神で、日下部首氏はこの一帯を拠点としていた豪族で、一族には浦島太郎もいたといいます。この他、岐阜市岩田の伊波乃西神社でも祀られており、同社の近くには日子坐命の墓(宮内庁が管理)とされる巨岩があります
  • 浦島伝説のある場所、京都の宇良(浦嶋)神社、網野神社、嶋児神社。香川県三島詫間町、岐阜県中津川市、各務原市の市杵島神社、長野県上松町「寝覚の床」神奈川県横浜市の観福寺、慶雲寺など。 浦島伝説のルーツは「丹後国風土記逸文」にあるという。丹後半島にいた日下部首の子孫ということになっていたという。この浦島の祖先の日下部氏は、農耕技術、養蚕織物、稲作に欠かせない鉄の文化を導入したとされる
  • 朝廷別王を穂別の祖とする三河穂国の三河国一宮砥鹿神社の世襲神主は砥鹿氏を名乗る。穂国にも配置された日下部を朝廷別王の子孫が管理し、日下部は日下戸、草鹿砥と表記が変わり砥鹿氏になったのではないかとされる 日下部氏はどのようにして三河穂国へ東遷したというのか。『日本書紀』の景行紀に祟神の子の豊城命の孫狭嶋王を東山道十五国の都督に就けたとある。「国造本紀」に狭嶋王を上毛国造に封したとある。一方、祟神の四代前の孝霊の子に彦狭嶋命という狭嶋王と似た名のある。『記紀』の双方に系譜の混乱があるものの、彦狭嶋命の兄弟の多くは吉備氏や播磨国に出ている。 越智氏の系図は駿河国清見崎の庵原に着き、三島明神になったという。現在の三島大社のことで、伊予国越智郡の大山祇神社(大三島神社)と同じ大山積大神を祭神とする。 三島明神は伊豆国造が奉祭していた。『続日本紀』天平十四年(742)四月十日の条に、日下部直益人が伊豆国造・伊豆直の姓を賜るという記事がある。伊豆国造伊豆宿禰系図によると、伊豆氏の先祖は物部氏らしいが、途中から日下部氏になっているから、物部氏の男が日下部氏の女に生ませた子が継いだとみなせる。 三島明神の縁起によると、三島明神が最初に鎮座したのは三宅島の富賀神社とする。庵原の西隣の清水市清水原に砥鹿神社があり、三河穂国一宮砥鹿神社と同名である。穂国の砥鹿神社神主砥鹿氏=日下部は、このようにして東遷したという。
  • 日向の諸県というのも、諸県舞の諸県であり、草香も日下部氏の日下であるので、海人と無関係ではないだろう

    大草香皇子は、尾張氏系の16代仁徳天皇と日向の諸県君牛諸の娘・髪長比売の皇子で、別名を波多毘能大郎子(はたびのおおいらつこ)という。母の髪長媛は「紀」には、日向の諸県の君牛諸井の娘とあり、最初、父の15代応神天皇が日向国に国中での美人がいると聞いて呼び寄せたのを、当時皇子だった仁徳が横恋慕して、平和的に譲り受けた姫である。髪長媛というのは、聖武天皇の母となった藤原宮子の別名でもあり、海女の象徴的な名前といえる
  • 球磨川をさかのぼったあさぎり市免田からは多くの免田式土器が出土。 ここからは中国江南王朝が歴代の国司に配布していた金象眼入り鉄鏡が出ている 大分県日田市東寺だんわら古墳出土の金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡と同種のものと考えられることから、宮崎県西都、大分県日田、熊本北部山鹿、そしてここ人吉は、応神王朝に全国に置かれた国司の一族である日下部氏の駐在した土地か??
  • 日下部連使主(くさかべのむらじおみ)
    息長氏系21代雄略天皇が、近江国蚊帳野で、17代履中天皇の子、市辺押磐皇子を騙し討ちにした時、その子の弘計王(後の顕宗天皇)と億計王(後の仁賢天皇)を護って、息子の吾田彦と共に、丹波国与謝に逃げ、更に播磨国縮見山に逃れた。そして追手に分からないよう、そこで全ての証拠を隠滅し、自殺する。息子の吾田彦は、顕宗・仁賢兄弟に長く仕えたという。

    息子の吾田彦の「吾田」は、「吾田の笠沙」の吾田である。つまり久米氏(隼人)と関係があるということだ。
  • 邑阿自(おほあじ)
    「豊後国風土記」の日田の郡、靫編の郷の段で、29代欽明天皇の世に、日下部君らの祖、邑阿自が靫部として仕え、ここに家宅を造って住んでいたとある。
    「播磨国風土記」の揖保の郡・日下部の里は人の姓によって名付けたとあるので、ここにも日下部(氏)が住んでいたことが分かる。
  •  山部は九州の山地にひろく存在した。『日本書紀』によると、景行帝は巡狩の途次、肥の国の熊県に立ち寄っている。熊県は『和名抄』の肥後国球磨郡である。そこに熊津彦という兄弟がいて、兄は天皇に従ったが、弟は出頭しなかったので殺したとある。それから海路で葦北の小島にとどまって食事をしたが、そのとき山部阿珂古を召してつめたい水を奉らせた。そこが水嶋であると云う。水島は球磨川の河口にあり、今は八代市に含まれ陸つづきとなっている。
     この話に出てくる山部阿弭古はおそらく球磨川上流の球磨地方と関係があった人物と思われる。これは山部が九州の山岳地帯にいたことのたしかな例である。この山人集団について、喜田貞吉は「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」と述べているが、久米部は南九州の、肥人であって、『魂志倭人伝』の狗奴国の地域がこの久米部の本拠であろう。ここから太古の山人集団の存在が浮び上がる。太田亮はこれに同調して、「久米族の山部連は山部の総領的伴造」であると云う。太田亮は南九州の山岳地帯に住んでいた久米部は、山部の総領的な管理者だったとするのである。
       
    久米族の変遷のあとを辿ってみると、『和名抄』に肥後国球磨郡久米郷がある。多良木町やあさぎり町須恵に含まれる地域である。球磨郡久米郷は久米部と関係がある。鹿児島県の薩摩半島にある南さつま市の上加世田遺跡から奈良時代の土師器椀が出土しているが、それに「久米」という墨書のあるものが混じっていた(『加世田市史』)。これはその地方に久米族のいた動かぬ証拠である。そこは南さつま市の北隣にある金峰町阿多から数キロしか離れていない。阿多は知る通り阿多隼人の本拠である。こうして久米族が阿多隼人と同じ地域に居住し、両者が密接な関係をもっていたことはまちがいない。
  • 記紀では、「顕宗紀」の即位前記に履中天皇の御子市辺押羽皇子が皇統争いから雄略天皇に殺されることになった時、弘計王(顕宗23)※と億計王(仁賢24)を連れて丹波国余社郡に避難した日下部連使主と吾田彦(使主の子)の記事が日下部の初見である。日下部連使主の子とされる吾田彦の名から、吾田(隼人)族と日下部氏の関わりが想起される。また、『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”と記載があることは注目に値する。
    伊予来目部小楯、山部連となる(日本書紀 顕宗記): 弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を難より逃れさせたのは日下部連使主-吾田彦親子の功績であったが、播磨国に逃れ名を変え身を隠していた二皇子を見出し救い出したのは伊予来目部小楯であった。後に小楯はその功績によって顕宗天皇より山官の役職を貰い、姓を改め山部連となった。

    二王子発見にかかわった播磨国司小楯がその後も二王子に仕え、小楯は山守部を管掌する山部連の姓を与えられたとある。『古事記』には来目部小楯は播磨国山部連となってい
  • 播磨国に派遣された官吏の伊予来目部小楯が二王子を発見したということを述べたが、彼は伊予の出身で久米部であり、しかも山部連の先祖ということになっている。これはどうしたことか。久米部の居住地のなかで九州にもっとも近いのは伊予国久米郡である。そこは『和名抄』に記載された古代伊予国十四郡の一つで、松山平野の東部に位置している。『国造本紀』に「久味国造ノ軽島豊明朝(応神朝)神魂尊十三世孫伊予主命定賜国造」とあるから、伊予主命は伊予久米部の先祖であろうと『地名辞書』は云っている

    松山市南久米町の東隣の鷹子町に浄土寺がある。幕末に編纂された『愛媛面影』によると、久米の浄土寺の辺に播磨塚という古墳があったという。昔は石室があったが、今は野原にその残欠があるだけといわれている。伝承によると、この播磨塚は、清寧天皇の御世に伊予国人来目部小楯という人物が、播磨守として任地に赴き、役目をおえて伊予に帰り、館をつくって住んだとされるところで、播磨塚と称したという。久米部が久味国造となってからは、このあたりは国造の治所であったらしいことから、石室は国造家一族の墳墓であったと推定される
  • 日田郡の日下部君等祖、邑阿自  伊藤常足著 『太宰管内志』 豊後國三巻日田郡より  もどる
    「風土記」 日田郡靫編郷、欽明天皇の御世、日下部君等祖、邑阿自、靫部に奉仕し、此村に宅を造り、之に住む、斯に因み、靫負村、後人改めて曰く、靫編村云々。「姓氏録」に日下部は開化天皇9皇子彦坐命ノ子狭穂彦命後(☆「開化記」サホ彦とサホ姫は日子坐王とサホノオオクラミトメ【その母は春日建国勝戸売】の間に生まれたとしている。)に出ず。日田郡石井郷に昔、日下部春里という富豪の者あるは、蓋し、その後かとあり。
    「姓氏録」に天孫ににぎの命が日向高千穂峯に降臨する際、天押日命、大来目部が背に天磐靫を負い手に天杷弓・天羽羽矢をとり、天孫の前に立って降りていった。以、大来目部を靫負部となす云々
  • 草部吉見神社

    草部が「日下部」に通ずる地名であることから、この南郷谷の草部は日下部一族の居住地ではなかったか、と推定する。「日下部」というのは、雄略天皇の后妃※の部民が置かれたところで、重要な軍事的拠点とされていた。阿蘇の草部も、日向の延岡から五ケ瀬川をさかのぼり、高千穂を通って阿蘇に入る重要ルートに位置しており、また一方、阿蘇から熊本平野に下る途中(合志郡)にも日下部の一族が配置されていたようだ【肥後国合志郡擬大領 日下部辰吉 白亀を献ず、三代実録廿九巻※】という。
  • 日向国から仁徳天皇の后妃として入内(じゅだい)した髪長媛(かみながひめ)は、『古事記』 の所伝では、波多毘能大郎子(はたぴのおおいらつこ)またの名を大日下王(おおくさかのみこと)、波多昆能若郎女(はたぴのわかいらつめ)またの名を若日下部命(わかくさかへのみこと)の二人を生んだと記され、また後述するように、『日本書紀』においても、大草香皇子(おおくさかのみこ)と幡梭皇女(はたぴのひめみこ)を生んだとあります。そしてこの大日下王および若日下部命の名代部(なしろへ)として「日下部氏:くさかへ」が登場してきます

    『日本書紀』によると、応神天皇は、筑紫の蚊田に生まれたとあります。この記載からも天皇が九州にゆかりの深い天皇であることがうかがわれます。さらに天皇は、日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)を皇妃とし、大葉枝皇子(おおばえのみこ)、小葉枝皇子(おばえのみこ)が生まれています。『古事記』にも、日向の泉長比責を召して生みませる御子大羽江王、次に小羽江王と記され、「記・紀」ともに同一の記事がみえるのです。后妃の髪長媛にしても最初に召されたのは応神天皇であったことも、日向地方と深い縁が結ばれていたことが察知できます
  • 日向国から仁徳天皇の后妃として入内(じゅだい)した髪長媛(かみながひめ)は、『古事記』 の所伝では、波多毘能大郎子(はたぴのおおいらつこ)またの名を大日下王(おおくさかのみこと)、波多昆能若郎女(はたぴのわかいらつめ)またの名を若日下部命(わかくさかへのみこと)の二人を生んだと記され、また後述するように、『日本書紀』においても、大草香皇子(おおくさかのみこ)と幡梭皇女(はたぴのひめみこ)を生んだとあります。そしてこの大日下王および若日下部命の名代部(なしろへ)として「日下部氏:くさかへ」が登場してきます

    『日本書紀』によると、応神天皇は、筑紫の蚊田に生まれたとあります。この記載からも天皇が九州にゆかりの深い天皇であることがうかがわれます。さらに天皇は、日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)を皇妃とし、大葉枝皇子(おおばえのみこ)、小葉枝皇子(おばえのみこ)が生まれています。『古事記』にも、日向の泉長比責を召して生みませる御子大羽江王、次に小羽江王と記され、「記・紀」ともに同一の記事がみえるのです。后妃の髪長媛にしても最初に召されたのは応神天皇であったことも、日向地方と深い縁が結ばれていたことが察知できます
  •  国津神のコノハナサクヤ姫(神阿田津姫)を祭神とする式内都萬神社が西都市妻地区に鎮座している。この都萬神社に奉祀してきた有力な氏族として日下部氏があり、妻地方に居住する末裔には『日下部姓之系図』が伝わっている。この日下部氏は仁徳天皇皇后妃、髪長媛の御子に対する名代部として現れている。
  • 草壁吉士(くさかべのきし)

    この氏族は阿倍氏と同祖と伝えられますが、実体は河内国草香邑(くさかのむら)(東大阪市日下町)を地盤にした、新羅からの渡来系氏族でした。そこは母の鸕野(うの)皇女(持統天皇)が育てられた鸕野邑(むら)のすぐ南です。草壁皇子がそこで生まれたか、養育地だった背景は十分に考えられます。
  • 三河の一宮 砥鹿神社

    穂の国の國造とされる朝廷別王は有力な神といえる。

    「朝廷別王」を祭神とする神社は三河宝飯(小坂井町)の多美河津神社、「朝廷別王命」を祭神とする神社は三河宝飯(形原町)の形原神社、それぞれ一社づつの様である。

    『日本の神々10』
    「社伝によると、当社の世襲神主家草鹿砥氏は穂別命の後裔であるという。この一族は穂別命と同族の日下部連の後裔と考えられており、当社は穂国造が奉祭したものと推定されている。」 としている。

    草鹿砥氏は三川の穂別の祖である穂別命(=朝廷別王)の後裔。草鹿砥氏は日下部氏で日下部氏は草壁皇子の養育氏族

    第9代・開化天皇―彦坐王―丹波道主命―朝廷別王(三川穂別の祖)

    開化天皇―彦坐王―狭穂彦王(日下部連の祖)

    朝廷別王を祭神とする神社
    三河宝飯(小坂井町)の多美河津神社
    三河宝飯(形原町)の形原神社
  • 東三河には日下部氏(穂別命の末裔と言われる草鹿砥氏)が存在。

    草壁皇子の末裔であり、歴史から消えた氷上川継
    氷上川継は不破内親王(草壁皇子の曾孫)と塩焼王(草壁皇子の甥)とにできた子供であり、まさに天武血統の再現をした人でした。
    しかし父、塩焼王は藤原仲麻呂の乱で天皇に擁立されようとして殺害され、本人も天応2年(782年)に謀反をおこした罪により、大和国葛下郡にて捕縛され、伊豆国に配流されたそうです。その後赦免され晩年伊豆守に任じられたのですが、その後の消息は不明なのです。実は伊豆の国造は初めは伊豆氏なのですが、後に日下部氏となる
  • 『新撰姓氏録』

    山城国皇別 日下部宿禰 - 開化天皇皇子の彦坐命の後。
    大和国皇別 川俣公 - 日下部宿禰同祖。彦坐命の後。
    摂津国皇別 日下部宿禰 - 出自は開化天皇皇子の彦坐命。
    摂津国皇別 依羅宿禰 - 日下部宿禰同祖。彦坐命の後。
    摂津国皇別 鴨君 - 同前氏。
    河内国皇別 日下部連 - 彦坐命子の狭穂彦命の後。
    河内国皇別 川俣公 - 日下部連同祖。彦坐命の後。
    和泉国皇別 日下部首 - 日下部宿禰同祖。彦坐命の後。
    和泉国皇別 日下部 - 日下部首同祖。
  • 高皇産霊神タカミムスビノカミ  
     高天原   高皇産霊神 ― 天思兼神 ― 天表春命 /天下春命
              天太玉神 ― 大宮比売命  
                    天櫛耳命  
                    豊磐窓命  
                    櫛磐窓命  
                    □    ― 天富命  
             天忍日神 ― 天穂津大久米命   
                   道臣命
              天神立命
              栲幡千々姫命
              三穂津姫命
              櫛明玉命
              八尋桙長依日子命
              天津枳値可美高日子命
              綾門日女命
              真玉著玉之邑日女命
              天之降命 ― 菟狭津彦命
                     菟狭津媛命       (旧事本紀、古語拾遺)

       造化の三神の一人にてましまし、神皇産霊神カミムスビノカミと共に、天地の万物を御作りに なった、そして、御子は非常に沢山あって、中にも非常に御怜悧オリカウ(利口)なる思兼 神オモヒカネノカミと云ふのは、かの岩戸神楽以来、高天原の会議の議長となって、諸方面にそ の智能を発揮し給ひ、太玉命フトタマノミコトは玉造り上に於て特殊の技能を示し給ひ、色々の 商工業の祖にならせられたと云ふ、故に此神様の御子達は皆御立派な方々計りである。
  • 松尾神社(朝倉市古賀203)無格社

    祭神 大山咋神 元和の初、肥後国菊池郡貴野村の松尾大明神を勧請せし故に貴野大明神と号す。
    「神社由来によると、醸造の神である京都松尾大社の分霊が大同2年(807)に肥後国に遷座された。」とも。NET地図には「田神社」と表示されているものもあり、これも田神社=タノカンサーの可能性がある。

    「肥後国菊池郡貴野村の松尾大明神を勧請せし故に貴野大明神と号す。」とありますが、この神社こそ、松野鶴平、頼三、頼久…と続く菊池山鹿の松野党の本拠地、山鹿市菊鹿町木野の旧鶴平宅に隣接する松尾神社(坂本宮司)を勧請したもの

    ただ、松尾の神と佐田大神は同神であり、佐田川、旧佐田村の起源は相当に古いものと考えられる
    祭神が大山咋神である以上、この神様の別名は、佐田大神であり松尾大神であり、日吉神社、日枝神社でもあることは確実なのです。だからこそ、東には佐田川が流れているのです。


    金毘羅宮(朝倉市甘木公園朝倉市菩堤寺342)

    旧甘木市の中心地にあるのが甘木公園ですが、その高見に鎮座するのが金毘羅宮です。

    結論を先に申上げますが、この神様の正体は、現在、博多の櫛田神社の主祭神になっている大幡主(オオハタヌシ)と大山祇命の混合神(当方が急造した言葉ですが)であるとされていたようです。

    そ うすると神武のご巡幸をまとめた博多くしだ神社の神様のご一統はたいしたもんだったと私は思います。そのとき櫛田神社の神様に協力なさった方が大幡主と大 山祇、トルコ系とアーリア系ですけれども、縁組によって、全くの兄弟である。鹿児島では、現在、お二人を一つにして田の神様(タノカンサー)という擬神体 となっている。タノカンサーの兄が大幡主、弟が大山祗である。


    高木神社(朝倉市佐田2953)

    高木神社(嘉麻市小野谷1580番)(参考)
    祭 神 高御産巣日神、神武天皇が東遷時ここにやってきて高皇産霊神を祀った。福岡県神社誌には、「本村は往昔、英彦山神社の神領地なりし依て英彦山に於いて は当社を英彦山四十八大行事社の中にして本社はその首班に位せり。各地にある大行事社今は皆高木神社という。」とある。

    以下はその高木神社であろう。

    sp41-18 高木神社田川郡添田町大字津野6717番の1
    高木神社田川郡添田町落合3583番
    高木神社田川郡添田町津野2227
    高木神社田川郡大任町大行事118番
    高木神社田川郡大任町大行事2496-1
    高木神社嘉麻市熊ヶ畑1075番
    高木神社嘉麻市桑野2588番
    高木神社嘉麻市小野谷1580番
    高木神社嘉麻市桑野1399番
    高木神社嘉麻市平217番
    高木神社久留米市田主丸町豊城1088番
    高木神社宮若市黒丸1572番
    高木神社京都郡みやこ町犀川上伊良原字向田308番
    高木神社京都郡みやこ町犀川下伊良原字荒良鬼1594番
    高木神社築上郡築上町船迫字水上1133番
    高木神社筑紫野市大石字上ノ屋敷569番
    高木神社筑紫野市天山字山畑241番
    高木神社朝倉郡東峰村小石原鼓978-8
    高木神社朝倉郡東峰村宝珠山24番
    高木神社朝倉郡東峰村小石原655番
    高木神社朝倉市佐田377番
    高木神社朝倉市黒川1806番
    高木神社朝倉市黒川3328番
    高木神社朝倉市佐田2953番
    高木神社朝倉市江川1201-1
    高木神社朝倉市杷木白木172番
    高木神社朝倉市杷木赤谷744番
    高木神社朝倉市杷木松末2784番
    高木神社朝倉市須川1683番

    高木神社の分布は筑後平野の東側に押しやられた分布

    高樹神社(たかきじんじゃ)(参考) 福岡県久留米市御井町神篭石121 旧筑後国御井郡

    祭神高皇産靈神 式外社 高樹神 久留米市高良山中高樹神社
    由緒 祭神は高皇産霊神(造化の三神の一)。 古くは「高牟礼権現」と称し、高良山の地主神と伝 えられる。この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に名の現れる神社)で、「三代実録」元慶二年(八七八)十一月十三日の条に「筑後国高樹神ニ従五位 ヲ授ク」とあり、やがて正五位下に進んだことが、天慶七年(九四四)の「筑後国内神名帳」によって知られる。
    もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界(区画を定め出入を禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのも、この神の名に因むものである。
  • 阿蘇神社は健磐龍命を主祭神として以下の12神を祀るのであるが、その殆どは草部吉見系の神である。

     一宮 建磐龍命
    *二宮 比売明神
    *三宮 國龍明神(草部吉見神、日子八井命)
    *四宮 比売御子明神
     五宮 彦御子明神
    *六宮 若比売明神
    *七宮 新彦明神
    *八宮 新比売明神
    *九宮 若彦明神
    *十宮 彌比売明神
     十一宮 國造明神(速甕玉命)
     十二宮 金凝明神(綏靖天皇)

    *印が草部吉見系の神
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