和邇氏、菟道稚郎子皇子、山背国

December 2018 編集されました カテゴリ: 応神ー武烈
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天足彦国押人命。  5代孝昭天皇と その内宮ヨソタリ姫の第1子。 斎名:オシキネ。  オシ姫、チチハヤの父。 …

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コメント

  •  記紀の記すところによると、太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は阿直岐(あちき)を師として経典を学んでいたが、天皇がある時、阿直岐に「汝より優れた博士がいるか」と訊ねると、彼は王仁の名を挙げた。そこで天皇は上毛野君の荒田別、巫別(かんなぎわけ)を百済に遣わして、王仁を召した。それに応じて王仁は来朝し、論語十巻、千字本一巻を貢進し、菟道稚郎子の師となったと云う。彼の子孫は西文(かわちのふみ)氏と称し、文、武生、桜野、古志(こし)などの諸氏となって広まった。
     延暦十年四月の文忌寸(ふみのいみき)最弟の上表によると、漢の高祖の子、鸞の後裔である王狗が百済に移り住み、王狗の孫に当たる王仁が仇首王の時に招かれて本朝に渡来したと述べている。
     しかし、これらも総て創作である。第一、千字文と云う書物は六世紀初頃に作られたもので、応神天皇の頃には未だこの世に存在していない。また、記紀が記す王仁の渡来事情なるものは、津連真道の上表文のなかにある辰孫王の渡来事情とほぼ同じものである。
  • 346年9月に百済の王についた近肖古王は、新羅とは和親(羅済同盟)を保ち、高句麗との抗争を続け、倭国に対しても七支刀(作成は369年と考えられている)を贈り、東晋~百済~倭のラインで高句麗に対抗する外交戦略をとった。神功皇后は、369年3月に将軍荒田別及び鹿我別を卓淳国へ派遣し、新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪と沙白・蓋盧らに合流を命じて、新羅を破った。その頃の「日本書記」や「古事記」の記事では、応神天皇が荒田別(上毛野氏の祖)と鹿我別(上毛野氏の祖)を百済に派遣し、近仇首王の孫で辰斯王の息子の辰孫王(菅野氏、葛井氏の祖)、阿直岐(東漢氏の祖)、王仁を日本に招き、『論語』10篇と『千字文』を伝えたと記されている。高麗に時代の1,145年に完成した『三国史記』百済本紀によると、第13代近肖古王時代(346年~375年)に百済に文字がなかったが、百済の歴史を編纂した学者、中国系の高興が漢字を広めたとあります。また、『千字文』は中国の南北朝時代の南朝の梁の武帝(在位502年~549年)が、文官の周興嗣に初学者むけの漢字習得用・習字用のテキストとして作らせた。そのような海外の情報が正しいとしたら、『千字文』が4世紀後半に伝わっていないとしても、その当時のヤマト朝廷が新羅よりも百済と親交を深めていたことは事実です。
    王仁という人が実在の人物であったかどうかは、今のところはっきりとわからない。しかし、江戸時代に立てられた大阪の枚方市藤阪に王仁の墓があり、この大阪の枚方の地には、百済最後の王である義慈王の子である善光の子孫である百済王氏の百済寺跡や百済王神社があります。大阪市北区には一本松稲荷大明神(八坂神社)があり、王仁大明神とも呼ばれ、王仁の墓と伝えられていた。ある説ですが王仁の出身は、斉(中国山東省)の出自といわれ、紀元前170年代に斉の内乱を逃れて楽浪の山中に入植した楽浪王氏だと言われています。
    前漢が紀元前108年に朝鮮半島に置いた楽浪郡の官吏として王氏が多く、313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼすと王氏は百済に亡命している。
  • June 2017 編集されました
    韓国では王仁の記録書物は全く存在しないのですが、日本の記録を元にして「日本に先進文化を伝えてあげた韓国の偉人」として、王仁の記念碑を建てたり、何の手がかりも無いのに、王仁墓を作って自治体の史跡扱いとしているので間違えやすいです。

    「邪」の一字で、元は山東の琅邪郡を指す。琅邪は琅邪王氏の土地でした。邪王氏の系図の中に、「王仁」という名前が見えます。琅邪王氏が書家であるのを踏まえ、時代が合わないが名前が同じ人が一族に居たとなると、「倭に渡来した文人・和邇吉師は琅邪王氏かもしれない」との説もある。

    琅邪王氏の初代は「王吉」で、wan-kichiと読めば和邇吉師(wani-kishi)の名前とそっくりになる。この王吉は後漢時代の政治家で、「論語」など五経を好んで読んでたということです。

    「新撰姓氏録」によれば、王仁の子孫は「出漢高皇帝之後鸞王也」で皇帝だったという。
  • June 2017 編集されました
    金英達は、“善意”な日本人の協力者のもと、歴史の検証なしに韓国人の日本に対する文化優越史観-実際は文化的コンプレックスの裏返し-、韓国人の民族意識をくすぐる韓日友好親善運動に王仁が利用されているとして、こうした歴史イメージの政治的利用・時代的風潮への悪乗りにより、さまざまな歴史の偽造が行われ、具体的には、大阪府枚方市の王仁の墳墓であるとする王仁塚であり、韓国の全羅南道霊岩郡の王仁の生誕地であるとする王仁廟を挙げ、科学的実証性に全く欠けた歴史の捏造であり、伊豆七島の神津島の「ジュリア・おたあ」の墓のでっち上げと韓国キリスト教グループによる「ジュリア祭」の開催、北朝鮮の檀君の遺骨のでっち上げと檀君陵の建設と同様とする。
    「一学者の願望・思いつき・功名心による歴史の捏造」「金昌洙の妄想がきっかけになって、霊岩が生誕地だとされるようになった。その根拠は、霊岩に王仁に関する伝説があるということだけだが、科学的実証性に全く欠けるものである。道銑国師(新羅末の名僧)らの伝説や地元の遺跡を無理矢理にこじつけたもので、枚方の王仁塚をはるかに上回る大々的な歴史の捏造が公然と行われている。
  • June 2017 編集されました
    こんな説もある。

    応神天皇はホムダワケという名前ですが、『古事記』によると彼には似た名前の「ホムヤワケ」というお兄さんがいる。ホンヤワケもホンダワケも、母親は同じ神功皇后である、とされています。
    それが事実ならば、どうしてホムヤワケが兄であるにもかかわらず、弟のホムダワケが大和王朝の大王に即位したのでしょうか?
    仲哀天皇が崩御した時、ホムヤワケはまだ産まれていなかったか。でないと、神功皇后もわざわざすでに自分の子供がいるのに「新しい大王は私の胎内にいる子です!まだ産まれていないけど。」等というわけが、ありません。

    仲哀天皇は302年に亡くなり、その時未亡人の神功皇后のお腹の中には遺児・ホムヤワケがいたのです。そして、330年に誕生した応神天皇の父親はホムヤワケだったのです。この時、ホムヤワケは数えで28歳。
    宇治太郎子の父親である応神天皇が実は仲哀天皇の孫である、という話をしました。応神天皇の本当の父親は、仲哀天皇と神功皇后の間に産まれたホムヤワケという王です。

     このホムヤワケはなぜか大王に即位せず、息子のホムダワケ(応神天皇)が大王に即したのです。

     一方、仲哀天皇には神功皇后以外にも后がいて、子供も二人いました。

     妃の名前は大仲姫で、子供は兄が香坂王、弟が忍熊王です。
  • 日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)。
    皇后:気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后。息長宿禰王の女)
    誉田別命(ほむたわけのみこと、応神天皇)
    妃:大中姫命(おおなかつひめのみこと。彦人大兄の女)
    麛坂皇子(かごさかのみこ、香坂王)
    忍熊皇子(おしくまのみこ)
    妃:弟媛(おとひめ。来熊田造の祖・大酒主の女)
    誉屋別皇子(ほむやわけのみこ、古事記では神功皇后所生)

    誉屋別皇子

    誉屋別の名が出てくるのは一カ所のみで、ほかには未だ見つかりません。
    仲哀天皇紀二年の条に大酒主の娘、弟媛を娶って誉屋別皇子を生む。
    とあるのみです。

    気長足姫(神功皇后)を皇后にする前に、ほかに大中媛との間にカゴ坂皇子、忍熊皇子がありました。

    誉田別皇子

    誉田別の名が出てくるのも大まかに言って三度です。
    神功皇后紀で二度、応神天皇紀で一度です。
    摂政3年の条
      誉田別皇子を皇太子に立てる。
    摂政47年の条 ”百済と新羅がともに朝貢した”記事のなかで
      皇太后と太子誉田別尊がたいへん喜んで曰った 「先王所望国人 今来朝之 痛哉」
      皇太后と誉田別尊が新羅の使者を責めて天神に祈って曰く。 (新羅再征の理由として)

    応神天皇の名”誉田天皇”の由来に対する分注の中でさらに一に曰くとして
      敦賀の笥飯大神と名を入れ替えた。
      しからば元の名を・・・・。見るところなく詳らかでない。

    神功皇后が生んだ子の名前は誉田別ですが、
     応神の名は”誉田の天皇”で名前は別ではないかというのが私の元々の疑問でした。

    ところが誉田天皇の幼名をなぜ誉田別皇子というのかわからないと、分注のさらに”一曰”ですから、
    誉田天皇と誉田別皇子は別人でしょう!

    『三国史記』には312年に倭国の王子と婚姻させるため、急利の娘を送ったとあります。(新羅)
    仲哀の皇子のなかのだれが婚姻相手の皇子でしょうか?
    カゴ坂皇子と忍熊皇子は神功皇太后がヤマトに帰還の際にトラブルを起こしていますから該当しません。
    残りの皇子は誉屋別皇子ただ一人です。
  • 宇佐
    春宮神社でした。 「春宮」と書いて「とうぐう」と読みます。 東宮と言えば、皇太子の住まい。
    その皇太子とは莵道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)でした。

    御祭神  莵道稚郎子命
    応神天皇の御子神で、勉学に励み寵愛されていましたが、兄の大鷦鷯尊(おおさざきみこと)に皇太子の座を譲りました。学問の神としてご守護くださいます。(宇佐神宮HPより)
  • June 2017 編集されました
    乙子神社

    乙子森
    乙子の森というのは志加大神の御子の御塚なり。御乳が少なくて辛苦された。現代で乳汁の出が良くないものは水扱の器を作って祈れば必ず乳が出るという。
    「おとしのもり」と読みます。

    志賀大神と志賀皇神は別。
    志賀大神とは安曇磯良のことですから、その姫の塚だということになります。

    「稚郎子皇子命」と彫られています。
    『日本書紀』では「菟道稚郎子皇子」と書かれている「うぢのわきいらつこのみこ」です。

    応神天皇の皇子。
    近くの山には兄の大山守命が祀られているそうです。ブッシュになって道が無くなっているとか。
  • 許波多神社(こはたじんじゃ)
    京都府宇治市にある神社である。式内社(名神大社)「許波多神社」の比定社であるが、宇治市内には許波多神社という名前の神社が木幡と五ヶ庄の隣接する2つの地区にあり、それぞれ異なる社伝を伝える。旧社格はどちらも郷社。旧称柳大明神。

    延喜式神名帳では名神大社に列する。大海人皇子(後の天武天皇)や坂上田村麻呂が戦勝を祈願したと伝えられ、勝運を授かる神社として信仰されている。どちらの許波多神社も天忍穂耳命が祭神である。式内社で天忍穂耳命を祭神とする神社は許波多神社だけであることから、鎌倉時代の『釈日本紀』には「許波多神社に座す神は宗廟の神として、他と異にして尊崇すべきである」と記されている。永禄12年(1569年)には最高位の正一位の神階を受けた。
  • 星宮神社(ほしのみやじんじゃ)というお宮がございますが、そこには文章学社(もんじょうがくしゃ)というお社が配されています。

    文章学社の祭神は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)です。

    菟道稚郎子は、応神天皇の皇子です。『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅能和紀郎子」、『山城国風土記』では「宇治若郎子」、『播磨国風土記』では「宇治天皇」と様々に表記されます。

    母親は、日触使主(ひふれのおみ)の娘で宮主宅媛(みやぬしやかひめ)という女性です。

    菟道稚郎子は、父である応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられましたが異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位を譲るために自害してしまいます。

    菟道稚郎子は、朝鮮半島から来朝した阿直岐(あちき)や王仁(わに)を師として多くの典籍を学んで通達しました。阿直岐は経書や典籍に博学で、王仁はその阿直岐が推挙した博士です。

    このように典籍に通じていた菟道稚郎子だからこそ、応神天皇28年の高麗からの上表文に「高麗の王、日本国に教ふ」という非礼な文言があるのを見つけ、その使者を責過することが出来たのでしょう。

    菟道稚郎子は、応神天皇40年1月に皇太子となりました。

    その翌年に天皇が崩じましたが、菟道稚郎子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合いました。

    そのような中、異母兄の大山守命 (おおやまもりのみこと)は自らが皇太子になれなかったことを恨み、菟道稚郎子を殺そうと挙兵します。

    大鷦鷯尊はこれを察知して菟道稚郎子に知らせ、大山守皇子は菟道稚郎子の策略で殺されました。

    この後、菟道稚郎子は菟道宮に住み、大鷦鷯尊と皇位を3年にわたって譲り合いました。

    そして、永い天皇の空位が天下の煩いになると思い悩んだ菟道稚郎子は自害して果てたのです。

    大鷦鷯尊は驚いて難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の法を行なったところ、菟道稚郎子は蘇生し、同母妹の八田皇女(やたのひめみこ)をたてまつる旨の遺言をして、再び薨じました。

    亡骸は菟道山上に葬られました。『陵墓要覧』はその所在地を京都府宇治市菟道丸山としています。

    菟道稚郎子が学業成就の神様としてお祀りされておりますのは、経書・典籍に博く通じていた皇子であったということと、天皇位を優秀な兄に譲るために自ら果てたという、その行為によって神様として崇拝されるようになったと考えられます
  • こんな見方もある

    山無媛(やまなしひめ)は『先代旧事本紀』に記される女性で、皇太子・誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)の妃で、皇太子・菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)の母親とされて、この記述が正しい可能性がある。
    和珥(わに)氏出身の日触使主(ひふれのおみ)の娘の宮主宅媛(みやぬしやかひめ)が誉田別尊の妃で、菟道稚郎子皇子の実母だと『日本書紀』に記されていて、『先代旧事本紀』の記述の方が信頼しにくいと普通なら考えるだろう。
    しかし和珥氏と物部氏は共に彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖とする氏族で、『先代旧事本紀』の山無媛の記述を絶対的に否定する根拠がないのも事実で、和珥氏が物部氏と海部(あまべ)氏の人間に当たることが多くあって、宮主宅媛と山無媛が同一人物の可能性が大いにある。
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