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欽明2(541)年 当時、新羅と百済は加羅取りを狙い、高句麗に警戒しつつ倭を利用した。 欽明16年(555年)…
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欽明天皇は任那を倭の「君父の国」として考えていた。
詔の全文は長いのでその後半を、「全現代語訳 日本書紀 下」(講談社学術文庫)から引用する。
「しかるに新羅は長戟(ながきほこ)・強弩(つよきゆみ)で任那を攻め、大きな牙・曲った爪で人民を虐げた肝を割(さ)き足を切り、骨を曝(さら)し屍(しかばねを)を焚(や)き、それでも何とも思わなかった。任那は上下共々、完全に料理された。王土の下、王臣として人の粟(あわ)を食べ、人の水を飲みながら、これをもれ聞いてどうして悼まないことがあろうか。太子(ひつぎのみこ)・大臣らは助け合って、血に泣き怨をしのぶ間柄である。大臣の地位にあれば、その身を苦しめ苦労するものであり、先の帝の徳をうけて、後の世を継いだら、胆(い)や腸を抜きしたたらせる思いをしても奸逆をこらし、天地の苦痛を鎮め、君父の仇を報いることが出来なかったら、死んでも子としての道を尽せなかったことを恨むことになろう」
天皇の、まさに任那滅亡に対する断腸の思いの詔が、日本書紀に記載されている。更に欽明天皇は死ぬときに皇太子を呼び寄せて、「お前は新羅を討って、任那を封じたてよ。またかつてのごとく両者相和する仲となるならば、死んでも思い残すことはない」と言われた、
と日本書紀は記載している。
『渤海国・国書』
渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継承した。わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。
神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の国書を聖武天皇に奉呈した。そこには、日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べ、高句麗と靺鞨で共立した渤海国では、日本の王統を、扶余の王族の末裔とみていたことが示されている。
285年、前燕の慕容廆に侵攻された扶余は、国王の依慮が海に投身自殺したほどの潰滅的な打撃を受け、王族は沃沮に避難するが、翌年、再び慕容廆の侵略を受け、王子の依羅(イリ)が晋王朝(西晋)の援助で扶余国を再建する。
鬼首の荒雄山上には瀬織津姫を祀った荒雄川神社奥宮があり、かつて荒雄川流域には36社もの荒雄川神社が祀られていたとされる。
神奈川県の海老名市に「有鹿(あるか)神社」があり、隣の座間市には「鈴鹿明神社」があるが、「鈴鹿明神社」の説話伝説に次のような記述がある。
『鈴鹿明神社』
由緒には「伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている」
説話伝説として「欽明天皇の御代(539~571年)、伊勢国鈴鹿から座間に移られた鈴鹿神は多くの財宝を持ち、豊かな暮らしを送っていた。当時、相模国勝坂にいた有鹿神(あかる)は、それを横取りしようとしてやってきた。これがもとで争いとなり、急を聞いて駆け付けた諏訪明神と弁財天の応援で鈴鹿神が勝ち、有鹿神を海老名の上郷へ追い払った」
『教訓抄』など、古書に妓楽と書かれている場合もありますが、女性の舞ではありませんので、本来誤りです。
『日本書紀』の推古天皇20(612)年の記事に、「百済人の味摩之(みまし)が帰化した。呉の国に学んで伎楽舞を得た、と言う。そのため、桜井に安置し、少年を集めて伎楽を習わせた。ここにおいて、真野首弟子、新漢済文の2人がこれを習い伝えた。これは今の大市首、辟田首などの祖である。(鳳笛訳)」とあります。
【推古20(612)年5月】
この年、百済から日本を慕ってやってくる者が多かった。その者たちの顔や体に、斑白(まだら)や白癩(しらはた)があり、その異様なことを憎んで、海中の島に置き去りにしようとした。しかしその人が、「もし私の斑皮(まだらかわ)を嫌われるのならば、白斑(しらふ)の牛馬を国の中に飼えないではないか。また私にはいささかな才能があります。築山(つきやま)を造るのが得意です。私を留めて使って下されば、国のためにも利益があるでしょう。海の島に捨てたりして無駄にしなさるな」といった。それでその言葉をきいて捨てないで、須弥山(しゅみせん)の形と、呉風の橋を御所の庭に築くことを命じた。時の人はその人を名づけて路子工(みちこのたくみ)といった。またの名を芝耆摩呂(しきまろ)といった。
【斉明3(657)年7月】 十五日に須弥山を像(かた)どったものを、飛鳥寺の西に造った。また盂蘭盆会を行われた。夕に都貨邏人(とからびと)に饗を賜った。
【斉明5(659)年3月】 十七日、甘橿丘の東の川原に須弥山を造って、陸奥(みちのく)と越(こし)の国の蝦夷(えみし)を饗応された。
【斉明6(660)年5月】 また石上池の辺りに須弥山を造った。高さは寺院の塔ほどあった。粛慎(みしはせ)四十七人に饗応をされた。
〔『日本書紀』(下) 宇治谷 孟 訳、講談社学術文庫〕
與止日女神社の祭神は記紀にも登場しない
與止日女命は佐賀県固有の神
欽明天皇25年(564年)に創祀され、延喜式にその名が見られる。「全国神社名鑑」に収載された神社のうち鎌倉幕府以前に創祀の神社は63社、そのうち與止日女命を祭るものは7社(11%)、平安京遷都前では50社のうち6社(12%)、日本書紀完成前では45社のうち6社(13%)であった。このように年代を遡るほど割合が増えることから、與止日女命が古代佐賀における中心的な神であったことが推測される。
3.肥前国風土記の伝承
『肥前国風土記・佐嘉郡』に、「郡の西に川があって、佐嘉川という。この川上に荒ぶる神がいて、往来する人の半分を生かし、半分を殺す。県主の祖、大荒田が土蜘蛛の大山田女、狭山田女に神意を問うたところ、下田村の土で人形・馬形につくり、神を祭れば必ずやわらぐといい、その通りにするとやわらいだ。川上に石神があり、名を世田姫(よたひめ)という。海の神がいつも流れに逆らって上ってきて、石神のところに来るときに、海の小魚もしたがって来る。人はこの魚を畏めば災いなく、食べれば死ぬことあり、云々」とある。
神社近くの下田山には、17個の巨石が点在し、このうち造化大明神と呼ばれる巨石は與止日女神社の奥宮であるとされ、世田姫が祀られている。與止日女の本来の神体は磐座(神が宿るとされる岩石)であるらしい。
幼 名:勾大兄(まがりのおおえ)
父:継体天皇 母:目子媛
宮:勾金橋宮
継体天皇25年(西暦531年)
春2月に継体天皇崩御。即日、勾大兄が即位し、(安閑)天皇となる。
(注:同じ日本書紀には534年を安閑天皇の即位年としており、矛盾がある。『上宮聖徳法王帝説』では531年は欽明天皇の即位の年とする。欽明天皇が継体天皇の崩御とともに天皇位を奪ったと考えれば、つじつまが合う。)
同月、大伴金村と物部麁鹿火を大連とする。
元年(531)
伊甚屯倉(房総)、小墾田屯倉(大和)、桜井屯倉(同)、難波屯倉(河内)、横渟屯倉、橘花屯倉、多氷屯倉、、倉巣屯倉を置いた
2年(532)
この年の5月には筑紫・豊・火・播磨・備後・婀娜(あな)・阿波・紀・丹波・近江・尾張・上毛野・駿河の13か国に、合計26か所の屯倉を置いた。(※最も多いのは豊国と備後国の5所)
12月に崩御。70歳。御陵は河内国古市高屋丘陵。皇后の春日山田皇女と実妹の神前皇女を同葬した。
(注:皇后と実の妹を同じ墓に入れたとあるのが不審である。殉葬であるとすれば納得できないこともないが、書紀はそうとも書いていない。あるいは殺害されたか?)
宣化天皇・・・和風諡号:武小広国押盾(たけおひろ・くにおしたて)
幼名:記載なし
父:継体天皇 母:目子媛
宮:檜隈廬入野宮
元年(西暦535年)
大伴金村と物部麁鹿火を大連とする。蘇我稲目を大臣とする。
5月、筑紫国の那の津に建設する。
7月、物部麁鹿火の死。
2年(536)
10月、大伴金村の子・磐と狭手彦に命じて任那を救援させる。磐は九州に駐屯し、弟の狭手彦が半島に渡る。
3年(537)
(事績の記載なし)
4年(538)
2月10日に崩御。73歳。御陵は身狭桃花鳥坂之上陵。皇后の橘皇女および孺子(幼児)を同葬した。
(注:皇后と幼児を同じ墓に入れたと書いてあるのが不審である。上記安閑天皇の時もそうだが、他の天皇の御陵に関する記事で、このような書き方がなされた天皇はいない。したがって「追葬」と解釈するのは的を射ていない。上記同様、殺害された可能性が大である。)
遣使の助言でしょうが目的が不明です
神武以前が九州(筑紫城)で以降が大和州と分けていること
欽明11年庚午=南北朝梁元帝 蕭繹元号:552-555)元年壬申に2年のズレがあること(干支確認)
隋書で 多利思北孤が新唐書で目多利思比孤 と改竄されていて用明と同一人物であり且つ崇峻と推古に被せていること
其王姓阿每氏,自言初主號天御中主,至彥瀲,凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。彥瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州。次曰綏靖,次安寧,次懿德,次孝昭,次天安,次孝靈,次孝元,次開化,次崇神,次垂仁,次景行,次成務,次仲哀。仲哀死,以開化曾孫女神功爲王。次應神,次仁德,次履中,次反正,次允恭,次安康,次雄略,次清寧,次顯宗,次仁賢,次武烈,次繼體,次安閒,次宣化,次欽明(539-571)。欽明之十一年(550),直梁承聖(南北朝梁元帝 蕭繹元号:552-555)元年。次海達。次用明(585-587),亦曰目多利思比孤,直隋開皇末(開皇 20年:600),始與中國通。次崇峻(587-592)。崇峻死,欽明之孫女雄古(593-628)立