宗像とは

December 2018 編集されました カテゴリ: 九州
『日本書紀』の宇気比の所に宗像三神は胸肩君等が祭る神、一書第二では「此築紫の水沼君等が祭る神、是なり。」とある。

コメント

  • 「旧事本記」に「水間君の祖、物部阿遅古連あじこのむらじ」
    とある。

    日本書紀には 『即ち日神の生(あ)れませる三(みはしら)の女神(ひめかみ)を以ては、葦原中國の宇佐嶋に隆(あまくだ)り居(ま)さしむ。今、海の北の道の中に在(ま)す。號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰(まう)す。此筑紫の水沼君等の祭(いつきまつ)る神、是なり』 とある。
  •  水間君の本拠地は筑後国三潴みつま郡。三潴郡には宗像神が多く祭られている。
    「日本書紀」一書の三、筑紫の水沼君は三女神を奉祭した。
    「旧事本記」水間君の祖、物部阿遅古連あじこのむらじ。物部阿遅古連は大連物部麁鹿火あらかいの弟。
    「日本書紀」物部麁鹿火は磐井と戦った将軍。
    「肥前国風土記」基肄郡きいぐん姫社ひめこそ郷の条、筑前国宗像郡の人、珂是古かぜこは、通行の妨害をする神を鎮めるためにこの地に社を造り女神を祀ったのでこの地を姫社という。
  • 継体天皇は磐井征伐に物部麁鹿火あらかいを派遣した。
    天皇は、「将軍の印綬を大連に授け、長門より東は自分が治め、筑紫より西はお前が統治し、賞罰は思いのまま行い、報告する必要はない。」といわれた。
    筑紫の磐井の乱は、継体22(528)年、物部麁鹿火の勝利、筑紫の敗戦で終わった。
  •  「日本書紀」継体21年、
    是、筑紫国造磐井、陰に叛逆を謨る。新羅、是を知って、密に貨賂まいないを磐井の所にやって、毛野臣を防ぎ遏とどめなさいと勧めた。是、磐井、火と豊の二国に拠る。外には海路を邀むかえて、高句麗・百済・新羅・任那らの国の年ごとの貢ぎ職の船を誘致する。内には任那に遣わされた毛野臣の軍を遮り、曰く「昔は吾が伴として肩や肘を触れながら共に器で同じく食した。」
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