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平戸島は、古くは志式島(ししきしま)と呼ばれていた。松浦明神の島。 長崎屈指の格式をもつ古社。 志々伎神社は壱…
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『対馬、一支国、末慮(まつろ)国、伊都(いと)国、奴(な)国、不弥(ふみ)国、投馬とうま)国、邪馬台(やまたい)国、狗奴(くな)国あり』と記している
対馬国は千余戸。一支国は壱岐、三千余戸。末慮国は、佐賀県松浦郡名護屋から唐津の一帯、4千余戸。伊都国は、福岡県糸島郡、前原市、千余戸。奴国は、福岡市博多区、2万余戸、57年漢の光武帝から『漢委奴国王』の金印を授かった国で有名。不弥国は、飯塚市。投馬国は吉備地方。邪馬台国は、大和、7万余戸である。狗奴国は東海以北の蝦夷であろうとされている。
『238年6月倭の女王卑弥呼が、大夫難升米たちを派遣して、帯方郡に来て、中国の皇帝に朝貢したいと申し出た。』と記している
『卑弥呼は男生口(せいこう)4人、女生口6人を奉じて以て到る。』とある。また『壱与(卑弥呼の宗女)は20人を遣わして、洛陽に男女生口30人を献上した。』とある。
2世紀末に『倭国大乱』があったと記している。『大乱』とは?
その争いは、小国の王たちが卑弥呼を女王に立てることによって収まったという。これによって邪馬台国の卑弥呼は30の小国の盟主になった。
『官を卑狗(ひこ)といい、副官を卑狗母離(ひなもり)という。』
<穂積臣の祖。孫の矢田稲吉が松浦郡を支配>
出典
http://lunabura.exblog.jp/25136978/
六嶽神社
成務天皇7年には、ここ「室木」(むろき)の里長は「長田彦」(おさだひこ)だったという。長田彦に神勅があって、山上に神籬を営んだ。もともと天文観測所だった六嶽神社だが、長田彦の時代に改めて山頂で祭祀をして神社の形となった ということになる。
長田彦は小狭田彦とも書く。
香月文書の存在は有名だが、現物にはお目に掛かれない。が、鞍手町誌に一部が載っている。
小狭田彦は本名は常盤津彦と言った。
幼少より賢明で、いつも山間の狭い土地を開墾していたから、
小狭田彦と言うようになった。
景行天皇が来て、しばし小狭田彦の居館に留まり、移っていく。
のちにヤマトタケルもやって来て滞在する。小狭田彦の住まいは香月庄。現在杉守神社の所か。あるいは寿福寺か。
小狭田彦は娘の常磐津姫を差し出した。
この近くの金剛山に熊襲が住んでいた。そのクマソとは火国の川上梟師の弟で、江上梟師(たける)と言った。日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、
熊襲の軍を屠ったという。
杉守社伝に日本武尊が
「あな楽し、花の香り月清きところかな。今よりこの地を香月のむらと名づくべし」
と名を賜ったのはこの時だろうか。
小狭田彦は香月氏となった。
ヤマトタケルは剣神社に寄り、鞍手に上陸した。
これを迎えたのは中山(八剣神社)の今朝麿で、彼は百枝(ももえ)の賢木(さかき)を飾って迎え入れ、筑紫の情勢を伝えて喜ばれたという。
そして次なる敵、川上タケルの逃げ込んだ佐賀の真手山へ。(これは先述)これを先導したのも小狭田彦だった。
帰路には今朝麿は行宮を作ってヤマトタケルを守護した。
そして、常磐津姫には男子が生まれた。その名を御剣王という。
御剣王は成長すると父の東征に従って行った。駿河の焼津では特に軍功があり、祖父の景行天皇から武部臣の賞を賜る。
しかし、ヤマトタケルは亡くなった。
御剣王は帰国ののち、とにかく父が慕わしいと言って、尺ノ岳と新北に父尊を祀ったという。
そして、さらにその子の種日子王も父に劣らぬ武勇の人で、神功皇后に従って三韓征伐に向かった。種日子王は帰国後、弟や子供たちに系図のように
各地を治めさせた。
暗崎(黒崎)、高羽(田川)、聞(企救)、穂波、
舞岳(尺岳)、新北、室木、嘉麻碓井。
これが当時の香月氏の勢力図だ。物部氏の名が見える。香月氏は物部氏だった。
この間、いつのことか、小狭田彦は室木の里長となった。家督を子供に譲ったあとかもしれない。そして、神託を受けて六ケ岳山頂に神籬を作って祭祀をした。
「クマソの力を恐れた「朝廷」は「もののべ」を操り、クマソを騙し打ちにする」という星読の託宣。
町誌では、「鋳口」(たたらぐち)という地名が室木にあることから、製鉄が行われていただろうと推定している。
六ケ岳の麓には木花咲耶姫が祀られている。そこもまた、製鉄の地だろうと睨んでいる。
小狭田彦の祖を見ると饒速日が見えることから物部氏と思われるが、一方で田道命も祖だということから、皇家の筋ともなる。
系図から見るとイチキシマ姫の流れとも言える。
しかし、田道命が祖となると香月氏は朝廷方となる。封印した方になるのだ。
鞍手には「月」がつく地名が目立つ。「古月」(ふるつき)「木月」(きつき)
「月守の民」の痕跡は鞍手郡の「月」の地に見られるのではないか。
鞍手町誌は
「縄文時代の末頃にはすでに新延、木月、小牧、猪倉の貝塚の近辺に
住んでいた部族の族長が、それぞれの地区を支配していただろう」
と述べている。
木月の中心の剣神社はヤマトタケルの旧跡であり、それを慕って仲哀天皇や神功皇后が戦勝祈願をした宮だ。
イチキシマ姫が血を流したあと、物述はその姫の子と結ばれて、その地位を奪った。
小狭田彦の孫小磐削こいわけノ御剣王は日本武尊と小狭田彦の娘常磐津姫の間に生れた人である。父君の日本武尊に従って東征し、駿河の焼津では特に軍功があった。その賞として祖父景行天皇より武部ノ臣の称を頂いたほどである。御剣王は帰国の後『兎角に父の尊の慕わしくて、尺ノ岳及び新北尊の戦勝を祈り玉ひし地なりに尊を祭り玉ひ云々』とある。」
「御剣王の御子天ノ磐代武部ノ種日子王は父に劣らぬ武勇の人であったが、『御子磐木那賀ノ王を嘉麻の碓井の邑主となし、御子天賀那川(かながわ)彦ノ王を新北の神主となし、御子津々賀御ノ王を舞岳(尺岳)日本武尊小狭田彦御剣王合祀の神主となし、御子玉御木ノ王を穂波の郡司となし、御子山戸部ノ王を聞(企救)の司となし、御弟羽羽戸部ノ王を高羽(田川)の主とし、御弟八ツ田大戸部ノ王を暗崎(黒崎)の村主となし玉ふ』云々とある。」
奈多集落北側の松林に囲まれた砂丘上にある。
(再び志式神社記より)古は三郎天神と称え後に志々岐三郎天神と称えたのは志々岐の三郎が勧請合祀した故であろう、明治の代に至り志式神社と改称される祭神は火明神、火酢芹神、豊玉姫神、十域別心、稚武王、葉山姫神で火難、盗難、難産を免れ家運を開く神として広く世に知られる。
祭神は火明神・火酢芹神・豊玉姫神・十城別神・稚武王・葉山姫神などの六神で、農業と漁業の神社として信仰されとる
三韓征伐から帰って来た神功皇后は、ここ奈多の「吹上の浜」に社ば建て、神楽ば舞うて無事帰還のお礼をした。
凱旋後に十城別王は平戸に残り、配下の武将の七郎氏広と共に朝鮮半島への警備に当たるが、この地で死んだ。平戸島南端・宮ノ浦の長崎県で一番古かていわれる志々伎神社に祀られる
稚武王(わかたけのみこ) 仲哀天皇の弟の十城別神とは兄弟で、呼子の田島神社は天平年間(729~749)に稚武王を配祀したことで、朝廷から大伴古麻呂が派遣され、田島大明神の御神号ば貰うとんなる。
葉山姫神(はやまひめ) 神功皇后の留守中に、忍熊王(おしくまのみこ)が神功皇后とお腹の中におる(応神天皇)ば殺そうて明石で待ち伏せた。それを知った神功皇后は、迂回して難波の港ば目指した。難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進なくなった。
そこで、兵庫の港に向かい、神意を伺ごうたら託宣があった。「荒魂を皇居の近くに置くとは良うなか。広田国に置くのが良か」 そこで皇后は、山背根子(やましろのねこ)の娘・葉山姫に天照大神の荒魂ば祀らせた。
これが廣田神社(兵庫県)の創建である。これらの神々が何で志式神社に、一緒に、祀られたのかは分からん。
祭神、火酢芹神ともう一柱の祭神火明神とセットで英彦山の高住神社に祀られているという。
三良天神…三柱の天つ神
火明(ホアカリ)の神
火酢芹(ホスセリ)の神
豊玉姫神
志志岐三神…神功皇后の関係者
十域別(トキワケ)の神 (弟)仲哀天皇の兄弟
稚武(ワカタケ)王 (兄)仲哀天皇の兄弟
葉山姫神
十域別(トキワケ)の神 (弟)仲哀天皇の弟
稚武(ワカタケ)王 (兄)仲哀天皇の弟
葉山姫神 山城の国出身
筑前風土記拾遺によると、
奈多の浦の志志岐大明神は下松浦明神である。
仲哀天皇の弟の十域別王の事である。
稚武王も仲哀天皇の弟で、上松浦明神という。
肥前の国松浦郡の田島の神である。
志志岐神社の二人とも、仲哀天皇の弟であり、応神天皇の叔父にあたる。
神功皇后の三韓征伐の時に、武将としてお供した。
葉山大明神は日本紀に言う、摂津の国武庫郡西宮郷、広田大明神である。
天照大神の荒御魂を、山背の根子の娘の葉山姫に祭らせる。
(神功皇后のご神託によって)
『日本書紀』では日本武尊、 『古事記』では,、倭男具那命、倭建命。
『尾張国風土記』と『古語拾遺』では日本武命。
『常陸国風土記』では倭武天皇、『阿波国風土記』では倭健天皇命。
沖ノ神島神社(おきのこうじまじんじゃ)は、長崎県北松浦郡小値賀町野崎郷、野崎島にある神社。沖の神島神社、沖ノ神嶋神社、神島神社、神嶋神社などとも。
近代社格では郷社。境内の奇岩「王位石」で知られる。御朱印の有無は不明。
奈良時代直前の慶雲元年(704年)、小値賀島の地ノ神島神社から分祀して創建された。当社が沖津宮、地ノ神島神社が本宮(辺津宮)とされた。
御祭神は、神島大明神(鴨一速王)・志々伎大明神(十城別王)・七郎大明神(七郎氏広王)。志々伎神社と同様の御祭神。
大宝2年(702年)に南路(五島列島経由)に経路変更して遣唐使が再開されていることから、遣唐使の安全を祈願する意図があったものとされる。
平安時代の嘉祥4年(851年)に正六位下が授与された。中世には、別当寺として萬福寺が創建されたという。
安土桃山時代の文禄5年(1596年)、社殿が再興され、江戸時代初めである寛永2年(1625年)、永代神領として8石が寄進された。
元禄15年(1702年)、船着場が普請され、天明7年(1787年)にあh萬福寺が小値賀島前方郷へ移設された。
明治時代になり、明治4年(1871年)に萬福寺が廃寺となる。
昭和55年(1980年)ごろ、例祭の開催場所が本宮から野崎郷の神官家に変更されたが、平成13年(2001年)には神官家の離島、野崎島が無人島となる。
平成14年(2002年)、小値賀島の笛吹六社神社境内に遥拝所が設置された。
拝殿の後背に王位石(おゑ石、おえいし)がある。盤座で、頂上までの高さ24メートル、両柱の端から端までの幅12メートル、頂上テーブルの広さ5メートル×3メートルという巨大さ。
自然の産物か人の手によるものかその成り立ちは不詳。当社創建以前の古代から原始祭壇として、本来の神島信仰の対象となった巨石ともされ、かつてはこの石の上で神楽が舞われたという。
かつて、8月2日から18日に例祭として、お山まいりが行われていた。今は、六所神社の神島神社遥拝所で、六社神社の宮司が兼務で神事を引き継いでいる。
海からの参道の起点の海岸に肥前型鳥居が建てられている。江戸時代前期の延宝8年(1680年)の建立。社叢は、スダジイを主とする第一次原生林。
小値賀島および周辺の島の自然・旧跡をまとめた「小値賀諸島の文化的景観」として、文化庁より重要文化的景観の指定を受けた。
【ご利益】
水難除け、海上安全、旅行・交通安全
沖ノ神島神社 - 長崎県野崎島に鎮座、奈良期遣唐使の安全祈願、巨大な磐座「王位石」
もと鴨一速王宮殿跡と伝えられる神社。神功皇后伝説から派生した三王伝説があり、日本武尊の第六子、景行天皇の孫、応神天皇の叔父にあたる十城別王が弟の鴨一速王、臣下の七郎氏廣と共に三韓出征した後、小値賀の神島神社に鴨一速王が配され、没後に神に祀られたとのこと。ここには鴨一速王が出征から持ち帰ったという環頭太刀「狛剣」が伝来し、大正七年には国宝に指定されましたが、戦後GHQの武器回収に伴い行方不明。「狛剣」は「高麗剣」であると解釈されています。十城別王命は平戸の志々伎神社、七郎氏廣王は平戸城下の七郎神社に祀られており、いずれにも環頭太刀が伝来していましたが、現在いずれも盗難により行方不明となっています。前方湾を挟んで対面する野崎島の北端には沖の宮があって沖之神島神社といいます。社伝によれば沖之神島神社の分祠は702年であり、702年の遣唐使の五島列島経由ルートへの航路変更と深い関わりがあったという見方もあります。
古伝は有明海を速日別と称したと伝え、島原の小早崎と天草の宮津の間の海は[早崎の瀬戸]と呼ばれ、有明海の奥には[早津江・諫早]の地名もあり、その南面の橘湾には大分の速見と同じ《速の海》を表す[早見]の地名がある。また北松浦郡小値賀町の神島(こうしま)神社の祭神は[鴨一速王]というが、これらの名称が瀬戸内海《速文化》に関わる古名であることは明白で、古代において有明海および五島に至る西方の海は《速の海文化》の分治域《建速》として認識されていたことになる。地名《諫早》も神意によって分割された《ハヤ》を意味し、《建速》と同意となる。したがって《建速須佐之男命》の神名《建》が示す第一の意味は、
1)建日別=熊曾国
2)建依別=土左国
3)建日方別=吉備児島
4)建日向日豐久士比泥別=肥国
などの領域に君臨する《速文化》の正統な継承神名となる。
長崎県北松浦郡小値賀町野崎郷(野崎島)にある神社。境内の奇岩「王位石」で知られる。島内北端、標高305mの山の中腹の斜面(標高200m超)に建てられ、五島列島に所在する神社では最古の1つとされる。旧社格は郷社。
本来は、本社を沖津宮、前方湾を挟んで対岸の小値賀島(本島)前方郷にある地ノ神島神社を本宮(辺津宮)とし、2社を合わせた1社として神島神社(または神島宮)と呼ばれた。
主祭神は神島大明神(鴨分一速王命)で、志自岐大明神(十城別王命)と七郎大明神(七郎氏廣王)を併祭する。なお、十城別王命は、長崎県本土唯一の式内社として高い格式をもっていた志自岐神社(平戸島)の主祭神であり、鴨分一速王命の兄とされる。また、七郎氏廣王は二人の部下と伝える
川島県を割いて長子の稲速別(下道臣の祖)に、 上道県を中子の仲彦(上道臣・香屋臣の祖)に、 三野県と弟彦(三野臣の祖)に、 波区芸県を御友別命の弟・鴨別(笠臣の祖)に、 苑県を御友別命の兄・浦凝別(苑臣の祖)に、 織部を兄媛に賜った。
明治8年(1875)の『神社明細調帳』によると、潮見神社の主祭神は七郎皇子となっていて、「旧藩別段崇敬之社」だったとされています。同資料によると、平戸市域内には他にも「七郎」名を祭神とする神社があります。
○[場所]田助、[社名]鍇尾神社、[主祭神]七郎氏廣公ノ妻神、[相殿]猿田彦命
○[場所]平戸、[社名]七郎神社、[主祭神]七郎氏廣、[相殿]十城別命、鴨一隼戸命
○[場所]大志々伎、[社名]潮見神社、[主祭神]七郎氏廣、[相殿]十城別命、鴨一隼戸命
これらの神社の主祭神の名は「七郎氏廣」となっています。その中で平戸の七郎神社は明治13年(1880)に、松浦氏の祖廟である霊椿山神社、八幡神社、乙宮神社と合祀され、平戸城内の亀岡神社となっていますが、それ以前は宮ノ町の、現在スーパー「メルカド」がある付近にあった平戸の町の中心的な神社で、門前の広小路「宮の前」は戦国時代、異国の商人と日本商人の交易の場(市)となっていました。この神社も「旧藩別段崇敬之社」と記されています。伊万里湾岸にも七郎神を祀る神社が存在します。
○[場所]御厨里村、[社名]七郎神社、[主祭神]七郎氏廣
○[場所]青島、[社名]七郎神社、[主祭神]七郎氏廣
○[場所]福島、[社名]七郎神社、[主祭神]七郎氏廣、十城別命、鴨一隼戸命
このように七郎神は、十城別命、鴨一隼戸命と一緒に祭られる傾向がある事が分かります。七郎神は五島列島北部の神社でも認められますが、主祭神でなく相殿になっています。
○[場所]小値賀島、[社名]神島神社、[主祭神]鴨一隼王(稚武王)、[相殿]十城別王、七郎氏廣公
○[場所]宇久島、[社名]宇久島神社、[主祭神]十城別王、[相殿] 菅丞相、氏廣公
このように見てくると、七郎氏廣が祀られているのは、港、島、海峡付近など海に近い神社である事が分かります。
そもそも、七郎氏廣、十城別王、鴨一隼(稚武王)はどのような経歴の神々なのでしょうか。十城別王と稚武王はともに肥前を巡幸された景行天皇の孫(日本武尊の子)で、兄の稚武王は上松浦明神と称された佐賀県唐津市呼子町の田島神社に屯し、弟の十城別王は下松浦明神と称された平戸島南端の志自岐神社に屯し、そこに祀られたとされます。田島神社は宗像三女神が、志自岐神社は志々伎神が主祭神ですが、どちらも古代海人集団の信仰対象だったと考えられます。皇孫系神を併祀したのは、朝廷権力による海人集団掌握の動きと関係し、併祀の時期は、記録のあり方からすると平安時代初頭以降の事と思われます。七郎氏廣は十城別王の部下とされていますが、平戸松浦氏の首邑であり港市でもあった平戸の中心的な神社の祭神の格付けとしては、やや低い感じは否めません。2013.4
出典
http://www.hira-shin.jp/record2/index.cgi?page=51&field=67
針尾島の南端・西海橋に近く、大村湾に突き出した小さな岬に七郎神社があります。
昭和十八年に建てられた七郎神社の社殿は、海岸近くにあって堂々としています。石灯籠には天保(一八三〇〜)の年号も見えます。祭神は神功皇后の時代(西暦三八〇年代?)、十城別王(ときわけのみこと)に従って平戸入りした別七郎氏広(わけのしちろううじひろ)という伝説の武将です。十城別王は日本武尊の第六子で、神功皇后に「九州西端にいて内外の敵に備えます」といって平戸入りしました。七郎は弟の鴨一隼(かもいちはやと)とともに、その片腕となって活躍しました。七郎は君命で出陣中に没したと言われ、平戸では子供が使いに出て、そのまま忘れてしまうことを「七郎さんの使いのごたる」と今でも言うそうです。七郎は平戸亀岡神社に、弟の鴨一隼は小値賀の野崎島に祀られています。また十城別王は平戸南端の志自岐神社に祀られています。
針尾に伝わる伝説は、七郎の乗っていた舟が漂流して流れ着いたとか、北部の有福・安久の浦に立ち寄られたといい、有福には「七郎坊」という字があります。武将だった七郎にふさわしく、七郎神社では毎年十二月十四日、境内で奉納相撲が催されています。子供相撲三十三番のあと、昔は県下一円から集まった力自慢のしろうと力士が「針尾戸」「若剣」「羽根崎」といったしこ名をつけ、ヤンヤの声援の中で大勝負を展開したそうです。七郎神社は、俵ヶ浦半島突端の七郎鼻をはじめ、県北の各地に祀られ、海上安全や豊漁祈願の神さまとして信仰を集めています。
(平2・12 No.306)
『させぼ歴史散歩』
監修:佐世保市秘書課広報係
編集:芸文堂
ホツマツタエによれば
タジマモリとハナタチバナ姫の娘。タジマモリの死後、オシヤマが養父となる。
ヲトタチバナ姫の名は、ヤマトヲシロワケ(景行天皇)より賜わる。
ヤマトタケの典侍妻。ワカタケヒコ、イナリワケ、アシカミカマミ、タケコカヒ、イキナガタワケ、ヰソメヒコ、イガヒコの七男子を儲ける。
ヤマトタケの東征に先駆け、ホズミテシ(穂積オシヤマ) とサクラネマシ(桜根左近) と共に、サカムの小野の城 (祖父・橘モトヒコの城) に遣わされる。
大磯から上総に向かう船中、暴風を沈めようと海に入る。
十城別命の母は穴戸武媛。 (吉備武彦の娘)
ヤマトタケの内妻。 タケミコ・トキワケの母。
岡山県真備郡真備町妹字諏訪下、穴門山 (アナトヤマ) 神社
稚武彦。稚武彦王。
稚武彦王。ヤマトタケとオトタチバナ姫の第1子。
『旧事』稚武彦王命(わかたけひこのみこのみこと)。尾津君、揮田君、武部君らの祖。
祭神は第十二代景行天皇の孫で、熊襲の首領川上梟師を刺殺した日本武尊の第六子の十城別王で、神功皇后の三韓征伐に軍大将として参加した。
上都宮の石祠がある志々伎山は海抜三百四十七・五メートルあり、ここからの眺めは雄大で、晴天時には五島列島や壱岐対馬まで見え、十城別王はこの山上で眺望中に流れ矢に当たって薨去され、ここが御廟宇という言い伝えもあるという。戦前は女人禁制の地で、男でも「草履脱ぎ場」の標柱からは素足で登るという風習もあったとのことである。
中都宮は一の鳥居から上都宮までの参道のほぼ中間地にあり、以前は「寺屋敷」と呼ばれ、別当寺の「神光寺」や「円満寺」があった所で、昭和三十六年(一九六一)ここに社地を移し新築した。それ以前は約二百メートル程登った所にあり、永禄二年(一五五九)から約四百年間祭祀の中心地であったという。なお、永禄二年以前の古中宮跡は、上都宮の下の西側の平地で、石灯篭が点在しているとのことである。
辺都宮は、景行天皇が土蜘蛛を討伐された時の行宮跡といわれ、その後、十城別王が警備のため駐箚(ちゅうさつ・官吏が職務上その地に滞在すること)された時の武器庫の跡地と伝えられている。
沖都宮は宮ノ浦港内に浮かぶ小島にあり、「御嶋(みしま)」とも呼ばれ、十城別王が居を構え、護国の大任を果たした場所と伝えられている。
(後略)
とある。
子については、『日本書紀』景行天皇51年8月4日条において、娘の吉備穴戸武媛が景行天皇(第12代)の妃となって武卵王(たけかいごのきみ)と十城別王(とおきわけのきみ)の2子を産んだと見える。また『日本書紀』応神天皇22年9月10日条・『日本三代実録』元慶3年(879年)10月22日条では、子として浦凝別(苑臣祖)・御友別(吉備臣祖)・鴨別(笠臣祖)・兄媛(応神天皇妃)らの名が記されている。
また『新撰姓氏録』右京皇別 廬原公条では、景行天皇の時に稚武彦命の孫の「吉備建彦命」は東方に派遣され、毛人を討って「阿倍廬原国」に到ったのち、天皇に復命した日に廬原国を賜ったとする。
ここで、倭建命自身が吉備下道臣の女性を母に持っていることに注目したい。
『古事記』で、12代景行天皇が、吉備臣等の始祖若建吉備津日子(ワカタケキビツヒコ)の娘針間之伊那毘能大郎女(ハリマノイナビノオオイラツメ)を娶って5名の皇子が生まれ、その3番目が倭建命だと記している。
ここに登場する吉備臣等の始祖若建吉備津日子は、『古事記』の「孝霊記」に、「若建日子吉備津日子命は吉備の下道臣と笠臣の始祖」とある、若建日子吉備津日子命と同じ人物であると解釈してよいと思われる。