初めてですか? 参加するには、どちらかのボタンをクリックしてください!
大伴金村は子の狭手彦(さてひこ)を任那(みまな)に派遣して新羅と戦わせている。しかし、筑紫王朝の大臣としての大…
Read the full story here
コメント
また、釣台となった石は、玉島神社前のこの石であると言う。この時皇后はその魚を「めづらしき物」と仰せられ、この故事によりこの地を梅豆羅国(めづらのくに)といい、それが訛って松浦(まつら)になったといいます。
美しい玉という話しは、確か肥前風土記に載っていた。
彼杵の郡名の由来は諸説あるが、「肥前国風土記」では景行天皇が土蜘蛛と称された現地の豪族から得た玉を賞してこの地を「具足玉国(そないたまのくに)」と命名したとの故事を記し、転訛して彼杵と称するようになったとしている。
「具足玉」
熱田は「あつた」とは読んでいない。「にぎた」と読んでいる。これもニギタズか。
長崎港の近くには、道ノ尾温泉が今でも有り、三ッ山町の六枚板にも”金湯”という冷泉の湯治場があった。長崎港の古名が「にぎたづ」その港にある山が「にぎざん」と呼ばれたのだろう。
「にぎ」は「瓊杵」と漢字を替え表記される。「瓊」は、長崎で生産される翡翠のことを指していたという記事より
http://artworks-inter.net/ebook/?p=596 参照
唐津市街の中心、大手口から北へ約200メートルの旧唐津城内三の丸にある。 一の宮に表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神、二の宮に神田五郎宗次(当地方の豪族)を祀る。 旧県社。
創建については伝承が幾つかある。 神社誌要は神功皇后が朝鮮より帰国後、鏡を捧げて住吉神を祀ったがその後衰え、孝謙天皇の時代に神田宗次が霊夢により海上に浮かぶ宝筐から鏡を得てこれを神功皇后の捧げた鏡として奏上、天平勝宝七年(755)九月二九日に唐津大明神の神号を賜った。 文治二年(1186)神田宗次を二の宮として祀ったという。 「松浦古事記」もほぼ同様だが、宗次が宝筐を得て神社に納めた日を九月二九日とし、同じ頃、都で三位蔵人豊胤は観音が宗次に抱かれて西海に赴く夢をみ、のち二人は会ってその不思議を奏上、神号を受けたという。 「松浦拾風土記」は「故老の所伝、一宮は観世音の化現、二宮は慈氏尊の降下なり」といい、「松浦昔鑑」は「物川蔵人・神田五郎広之両人之霊を祝ふ杜也」という。 「松浦記集成」には「宮の記に曰く、一宮、磐土命・赤土命・底土命・大直日神・大綾日神・海原神。二宮、八十任日神・神直日神・大直日神・底津少童神・中津少童神・表津少童・底筒男神・中筒男神・表筒男神。相殿、水神罔象神。御領主御合力米九石」とあり、神功皇后については「別記曰」、宗次夢想縁起については「一説曰」と触れる。
[中略]
また唐津市西寺町大聖院の十一面観音の胎名には 「奉造立観世音形像一体、肥前国松浦西郷唐津社本地堂本尊事、為金輪聖王王徳陽万民豊楽□五穀成就当庄地頭社務源奥源祝沙弥聖心源授源□源弘源栄家内子孫繁昌。 建徳二年八月四日 大領主 幸阿」 とあり、上松浦の松浦党一族の崇敬を受けたことを物語る。
大伴狭手彦と松浦佐用姫の子が祀った猿田彦大神
行橋市
豊日別宮・大伴狭手彦と松浦佐用姫の子が祀った猿田彦大神
朝鮮半島に渡る大伴狭手彦(さでひこ)を見送った松浦佐用姫(さよひめ)は悲しみのあまり、そのまま石になったと言う。
ところが、佐用姫は狭手彦との間に子供を設けている
その子供の一人が豊日別宮の神官になったという。
そこは大伴金村が引退した所という話を拾っていた。
しかし、文献史料が見つからず、前に進めなかった。
大伴金村こそ、筑紫君磐井を死に追いやった黒幕ではないか。
大伴金村と大伴狭手彦は親子に当たる。
松浦佐用姫は大伴家の嫁として迎えられて、
少なくとも三人の子を生んだということになる。
その三男が豊日別神社の神官となった。
名を神牟祢奈里(こう・むねなり)と言う
福岡県神社誌によると、ご祭神は豊日別命だ。
掲示された由緒書からまとめると、
欽明元年532年、猿田彦大神が老翁の姿で現れて
神官の大伴連神牟祢奈里に託宣して、翌日降臨したとある。
猿田彦は天照大神の分神で、豊日別大神を本宮とし、猿田彦を別宮としたという。
なお、別の史料では、
猿田彦大神の託宣があったのは欽明天皇2年としている。
欽明天皇の即位年は諸説あるらしく、ウィキペディアによると、
541年となっているので、社伝の532年とはズレがある。
大伴金村の失脚した年を調べると、540年となっている。
欽明元年(540)、新羅がついに任那を奪ってしまった。
金村は外交政策の失敗を追及されて失脚する。
かつて512年の任那四県割譲事件の責任も問われた。
これをきっかけに大伴氏は凋落していったという。
また、縁起には書かれていなかったが、史料には厩戸皇子が587年に社殿を造営させたとある。
聖徳太子が社殿を建立したのだ。
『日本書紀』などの編年
●宣化2年(537)大伴狭手彦は松浦佐用姫と別れて渡鮮する。
●欽明元年(540)父・大伴金村は失脚する。
●欽明2年(541)大伴狭手彦の三男・神牟祢奈里に猿田彦大神の託宣があった。
●欽明23年(562)大伴狭手彦は再び渡鮮して高麗に勝利。
●用明2年(587)厩戸皇子が豊日別宮の社殿を造営させた。
天中主尊→(中略)→高皇彦霊命→天忍日命→天津彦日中咋命→天津日命→道臣命→味日命→雅日臣命→大日命→角日命→豊日命→健日命
となっており、健日命は、初号武日命で日本武尊東征のときに、吉備武彦と共に従軍している。 「北佐久郡志」では、祭神を武日命・月読命で一説には、武居大伴主神であるとしている。
大伴神社の社地について「北佐久郡志」は、「この神社は、現在は本牧村望月宿の南方、鹿曲川が作った河成段丘上に鎮座している。ここに遷座する前の旧社地は伝説によると、望月の北5町ほどの字『椀の木』という場所で、そこには現在でも古宮、上宮、下宮、宮跡などの地字名が残っているという。」とあり現在の古宮地籍がそれに該当する。
次に信濃における大伴氏と渡来人についてであるが、5世紀後半の飯田市の溝口古墳から衝角付甲(しょうかくつきかぶと)と三角板鋲留短甲(さんかくいたびょうどめたんこう)が出土しているがこれは当時の兜と鎧である。古墳の周辺には馬の埋葬があり機内政権とつながりのある馬の生産に関わった有力者の墓ではないかと言われている。
当時の機内政権は、東国地方を支配するために岐阜県から神坂峠を通り前線基地を飯田地方に設けたと思われる。馬を飼う技術そのものは渡来人の技術といわれ、武具と鉄器そして馬による武装により東国支配は行われた。
「日本書紀」の武烈天皇(499~506)3年11月条に天皇が大伴室屋大連に 「信濃国の男丁を発して、城を水派邑に作れとのたまふ。仍りて城上と日ふ」
とあり大伴氏が信濃国に関係していることが分かる。したがって、当時の指揮官は大伴氏である。甲斐の国一の宮にある浅間神社の宮司の古屋氏の系譜は、近年大伴氏の古系譜と注目されている。その系譜の中の「室屋大連公(大伴室屋大連)」の譜文には、
自遠明日香大宮至飛鳥八釣大宮五朝供奉長谷朝倉大宮朝丁酉年十一月朔為大連 (トホツアスカの大宮から、アスカヤツリの大宮に至る五朝にお仕え申し上げました。) と書かれている。
上記の表から大伴室屋大連は、西暦412年ころから487年ころまでの間仕えたことになる。したがって日本書紀の武烈天皇(499年~506年)の記事は大伴室屋大連ではなく金村大連公が事実ではないかとされている。
この点について「信濃古代史考」も「『日本書紀』の大伴室屋大連については、金村の誤記か雄略紀の記述がまちがって武烈紀にまぎれこんだかのどちらかであろう。」としている。
まるこ 丸子<丸子町>には、かつてこの地に勢力を張った大豪族にちなんだ地名で、その源は古代豪族丸子部氏にまで遡る可能性もあり、上丸子の沢田大塚古墳は同氏に関わるものとも言われる。
とのことで丸子部が存在していたことを匂わせている。
そこで大伴氏との関係であるが、新編姓氏家系辞典(秋田書店)では、 「丸子連相模[大伴氏族]丸子部の首長。大伴氏を称するものが多い。後世丸子部の多くは大伴連の配下に移っている。前數條に見えるように、丸子部で大伴安積連、大伴山田連を賜る族は大伴連配下の丸子部この国の氏人は万葉集廿に、「鎌倉郡上丁丸子連多麻呂」などが見える。」
と書かれており、丸子部の首長が丸子連で大伴氏と関係を有する部族である。現丸子町にいたとされる丸子部が大伴氏と関係する部族という確証はないが後記する小県郡に居た大伴氏の事実を見ると一概に否定できない。
丸子部が丸子町地域に勢力を延ばした時期であるが、一代約25年とみると6世紀以降ということになる。日本霊異記に「大伴連忍勝は、信濃国小県郡嬢里の人なりき。……」ではじまる話がある。
『のちの大宰府の官人や筑前那珂川郷、「裂田の溝(さくたのうなで)」の管理氏族に日下部氏。筑前の嘉麻郡、筑後の山門郡の草壁郷、豊前仲津の蒭野(くさの)郷にも日下部氏族が見える。
日向の「都萬神社」を管掌する日下部氏はのちに日向国守を務めている。』
『肥前、松浦の「日下部君」。肥前風土記にはこの日下部君の祖の「佐用姫(さよひめ)」と、新羅を討った大伴狭手彦との悲恋伝説が記される。』
【万葉集】佐用姫
『佐用姫は鏡山(唐津市)の山頂から領巾(ひれ)を振りながら出兵する大伴狭手彦を見送った(略)船を追いかけて呼子の加部島までたどりついた。佐用姫は 悲しみのあまり石になってしまった』
【肥前国風土記】佐用姫
『悲しみにくれる佐用姫のもとに狭手彦にそっくりの男が通ってくるようになった。不審におもった佐用姫はその男の着物に糸をつけ男が帰った後に侍女とともにその糸を辿った。辿り着いた先は鏡山(唐津市)山頂の沼でそこにいたのは蛇だった
佐用姫は大伴狭手彦の乗る船を追いかけて呼子の加部島までたどりついた。
→加部島の田島神社には、佐用姫の石化と伝えられる望夫石を祀る佐用姫神社がある。
宗像大社の古名は田島神社。
佐用姫=宗像の姫。
(鹿児島、高山、串良、鹿屋附近)
塚崎、唐仁、横瀬古墳群
敏達紀、葦北(肥後佐敷)国造、靱部として大伴氏の幕下にあって朝鮮に赴く。日羅(火の葦北国造、阿利斯等の子)
大伴系肝付家』
大伴金村は平群真鳥を滅ばした。
『大伴氏は、平群氏と同じ秦氏から分れた氏族で、白い狼(白犬、白狐、白虎、白馬)=豊受大神を象徴』
『吉備からきた稚媛(第三妃、第二妃は韓媛)は雄略天皇との間に星川皇子がありました。雄略天皇が後継を決めずに死んだため稚媛は皇子とともに大蔵に入って天皇の位を狙〜吉備一族に権勢を握られる危機と考えた大伴室屋大連らは軍を率いて、反対に皇子と稚媛を焼き殺』
豊日別宮(とよひわけぐう)は、福岡県行橋市南泉にある神社である。別名、草場神社。かつては左留多比古社、官幣宮、官幣大神宮、豊日別国魂宮などとも呼ばれた。
豊日別命を主祭神とする。古記録によれば、欽明天皇の代の創建という。明治3年、豊津藩総鎮守に定められる。 明治4年、豊津県県社に定められる。 明治6年、小倉県郷社に定められる。
草場神社は国分寺跡や国府跡の近くだが、道が分からず近くへ行ってから3度訊いてやっとたどり着いた。
現地案内板より
『 豊日別宮(草場神社)の由緒
欽明天皇即位の年(532)、神が老翁の姿と化して現われ、神官の大伴連神牟祢奈里に「我は猿田彦の大神なり天皇を護り臣民の繁栄と安寧、五穀豊穣、病平癒の神である」と告げた。翌日、大神は豊日別宮に降臨し「猿田彦は天照大神の分神なりこれにより豊日別大神を本宮とし猿田彦を以て別宮となす」と告げたことから社殿を建てて祀ったのが本社の起源とされる。
欽明天皇28年(567)には洪水飢饉などが各地を襲ったが、豊日別大神に祈願し治まったといわれ、その後代々の天皇によって大和の霊跡、西海鎮護の神として尊崇されたという。
養老4年(720)大隅、日向の隼人が反乱したため、朝廷は大軍を派遣するとともに宇佐八幡神に祈願してこれを討伐した。しかし官軍に殺された隼人の祟りでさまざまな病や災いがあったため、宇佐八幡神は隼人の霊を鎮めるため金光明経の教えに基づいて「毎年放生せよ」と託宣した。これにより魚や鳥などを解き放って生を全うさせる仏教儀礼である放生会が行われるようになった。放生会の際に、朝廷の勅使が一旦、豊日別宮に官幣を奉安したことから官幣宮と呼ばれるようになった。
官幣奉安の間、田川郡採銅所では宇佐神宮に奉納する神鏡を鋳造しそれを豊日別大神に併せて祭り、本社の神輿とともに陣列を組んで宇佐への神幸が行われた。
神幸の経路は8月9日草場豊日別宮を発し、国作御所屋敷、徳政若宮を経て11日祓川で禊ぎをし、築上郡湊八幡宮、上毛郡高瀬村、宇佐郡佐野里を経て、13日凶士塚に至り宇佐神宮の神幸を待つ。宇佐八幡の神輿が到着すると並んで和間の浜に向い、浮殿頓宮に宇佐八幡神に官幣と神鏡を奉る。14日後、法会と伝戒があり、15日朝、海に蜷や貝を放流する。
宇佐神宮に対して度々行われる官幣の奉納に際しては、その後も豊日別宮が官幣奉安の宮居となった。
平成19年3月 豊日別宮顕彰会 』
狭手彦は将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、
多数の珍宝・捕虜を獲て帰還したとされます。
狭手彦(さでいでひこ)が日本に連れ帰った高句麗の囚が山城国の狛人の祖となり、
山城町上狛を拠点とした高麗(狛)氏となります。
阿村神社の口碑伝説、
「太古、景行・成務天皇の御代この天草島を統括し給いし皇族建島松命等の御守護神として天照皇太神・神武天皇・八井耳命の三神を同村古墳の所在地近傍に建立し祭られしに其の頃の土民も深く之の神を崇敬したりしが世の変遷とともに隔地なるを一同相議り村の中央(現在位置)に遷座せしといふ又肥後の国土を統括せしめ給いし阿蘇の国造健磐龍命外十二柱の神を同祭神に併合し十五社宮と称現今に祭られると言い伝え来れりこの口碑伝説を察すれば氏神と古墳とは大も密接の関係あると予想するにあり」とあります。(引用・参考文献⑬より引用)
ここで、建島松命とは誰なのか調べると、先代旧事本紀 巻第十 国造本紀には、「志賀の高穴穂の朝の御世に、神祝命の十三世の孫 建嶋松命を国造に定賜ふ」とあります。つまり、景行天皇の御子です第13代 成務天皇の御世(西暦131~190年)2世紀 弥生時代 卑弥呼の頃、天草国造に任命されたカミムスビの命の十三の孫ですと云います。
熊本県天草郡松島町阿村(旧肥後国 天草郡)に鎮座
<御祭神>
天照皇大神(天照大神)
神武天皇
八井耳命(神社により神八井耳命)
「阿村神社」口碑伝説
「景行・成務天皇の御代この天草島を統括し給いし皇族建島松命等の御守護神として天照皇太神・神武天皇・八井耳命の三神を同村古墳の所在地近傍に建立し祭られしに其の頃の土民も深く之の神を崇敬したりしが世の変遷とともに隔地なるを一同相議り村の中央(現在位置)に遷座せしといふ又肥後の国土を統括せしめ給いし阿蘇の国造健磐龍命外十二柱の神を同祭神に併合し十五社宮と称現今に祭られると言い伝え来れりこの口碑伝説を察すれば氏神と古墳とは大も密接の関係あると予想するにあり」
松浦佐用姫は大伴家の嫁として迎えられて、少なくとも三人の子を生んだということになる。
その三男が豊日別神社の神官となった。
名を神牟祢奈里(こう・むねなり)と言う。
豊日別宮(草場神社)
豊前 仲津 福岡県行橋市南泉7-13-11
豐日別命 配 罔象女命、高神
由緒
豊前國風土記には、行橋市一帯を「宮処の郡 子え、天孫ここより発ちて、日向の旧都に天降りましき。蓋し、天照大神の神京なり」としている。
行橋市の川の上遺跡は三世紀の墳墓群であり、後漢から三国時代の道鏡、勾玉、鉄刀などが出土していると云う。 相当な権力の存在を思わせる。
神社の創建はこの社に伝わる古文書では、人皇三十代欽明天皇、(附記欽明天皇は人皇二十九代なり)即位二年秋九月十八日神化老翁之相而現矣託于筑紫日別大神神官大伴連牟彌奈里曰吾和是佐留多毘古乃大神奈利云々(中略)夫猿田彦者天照大神之分神也因之日別大神宮以猿田彦為別宮云々(下略) 即ち、筑紫の日別大神の神官である大伴連牟彌奈里に吾は佐留多毘古乃大神なりと神託があり、豊日別の本宮の為に伊勢神宮並の神宮を建て、猿田彦は別宮としたとある。
猿田彦神を天照大神の分身としてあるい。
どの様な渡来系の権力者が到来しても、喜んで出迎え、道案内を勤める、通過点の旅籠のおやじ見たいな存在であったのだろう。これから見ると豊日別と猿田彦は同一神格と考えられる。 それがこの世を生き抜く術だったと云う事だろう。
ここから3km西の天生田の清地神社の由緒に素盞嗚尊と五十猛命が豊前国を経由した時、豊日別が嚮導したとある。
讃岐の大伴氏 佐伯氏
仲多度郡北村 村社皇美屋社は『『神櫛王』』に随従してきた『大伴武日』を祀ると伝えている。
三代実録に貞観三年十一月十一日に大伴武日の子孫の『倭故連』は、第十九代允恭天皇(412~453)の時、国造に任ぜられたとある。その後裔の佐伯氏から弘法大師が出ている。大伴氏が讃岐に来たのは、日本武尊が東夷を征伐した時の捕虜を讃岐に置き、その長官として三豊郡五郷村海老済に住み、その子孫は、西讃に繁栄した。
天久米命は、日本神話に登場する神である。久米氏の祖神と記される。
『日本書紀』では、天久米命は天忍日命に率いられたことになっている。また、『日本書紀』の神武東征の場面では、天久米命の子孫の久米部は、天忍日命の子孫である道臣命(ミチノオミ)の部下となっている。
大伴氏も久米氏も軍事氏族の一つで、「瓊瓊杵尊を先導して天降った」こちらも猿田彦の要素がある
さらに
八幡神の研究の一人者である中野幡能氏も金富八幡宮や香春研究等を行っていたが最終結論として最後の著書の宇佐宮では、各地の神社がそれぞれ豊日別神事に従っていたようである、かくて、放生会という神事が成立していた。氏の長い苦労の研究の最後のメッセージとなった。
とあります。豊日別が白日別などの指導者であったとあります
行橋市一帯には大伴氏・中臣氏に関係する伝承があり、猿女君・稗田氏に関係すると思われる地名もある
欽明5年正月。再度百済は使いを遣して任那の執事と日本の宮家の執事を呼んだ。それについて「神を祭る時期が来た。祀りが終わったら行きます」という答えであった。この月に百済は又使いを任那、宮家に寄こしたが、任那・日本の宮家は身分の低い者をよこしたので、この話し合いはついに流れて、結局、任那再建の議は一歩も進まなかった。
この年の二月に百済は施徳斯那奴次酒せとくしなのししゅ(しなの、は信濃であって、信濃の豪族などの血筋か)などを任那に使いとして出した。使いは任那の王と日本宮家執事などに言った。
「我が国百済は、紀臣奈卒弥麻沙きのおみなそちみまさ(日本、紀臣の血筋か)・物部連奈卒用奇多もののべなそちようがた(物部氏の血筋か)らを天皇のもとに朝貢せしめた。弥麻沙みまさらは天皇のお言葉を預かって、帰ってきた。その、お言葉には『汝ら百済は、日本宮家とともに速やかに良い計画を立てて、我が望む任那復興を成し遂げよ。いまこそ、それに勤めよ、だまされるでないぞ』とあった。津守連つもりのむらじ(四年十一月に任那在の百済地方官を宮家傘下にせよという天皇の言葉を伝えた者・摂津《現・大阪府摂津市》の豪族)が一緒にやって来て、百済に任那回復の政策を問うた。それで任那、日本の宮家の執事と共に(百済は)任那復興を議そうとしたのだが、招くこと三度に及んだが、汝等は、なお来なかった。今は津守の連を百済に留めて、別に急ぐ使いを出して、現状を天皇に奏上しようと思い、まさに三月十日使を日本に出発させた。この使いがすなわち到達したならば、天皇は必ず汝に問うであろう。汝等、日本の宮家執事、任那の王ら、おのおの使いを発して、百済の使人ともに朝廷に詣もうでて、天皇のお言葉を拝聴するべきである」と。
三島王の後に追ひて和(なぞら)へたまへる松浦佐用嬪面の歌一首
音に聞き 目にはいまだ見ず 佐用嬪が 領巾振りきとふ 君松浦山
(『前賢故実』)
●宣化2年(537)大伴狭手彦は松浦佐用姫と別れて渡鮮する。
●欽明元年(540)父・大伴金村は失脚する。
●欽明2年(541)大伴狭手彦の三男・神牟祢奈里に猿田彦大神の託宣があった。
●欽明23年(562)大伴狭手彦は再び渡鮮して高麗に勝利。
●用明2年(587)厩戸皇子が豊日別宮の社殿を造営させた。
聖徳太子(厩戸皇子)(574~622)が建立した
豊日別宮(草場神社)
大伴狭手彦と松浦佐用姫の子が祀った猿田彦大神
大伴金村と大伴狭手彦は親子に当たる。
松浦佐用姫は大伴家の嫁として迎えられて、少なくとも三人の子を生んだということになる。
その三男が豊日別神社の神官となった。
名を神牟祢奈里(こう・むねなり)と言う。
大伴金村の失脚した年を調べると、540年となっている。
ウィキペディアの通説の年号で
欽明元年(540)、新羅がついに任那を奪ってしまった。
金村は外交政策の失敗を追及されて失脚する。
かつて512年の任那四県割譲事件の責任も問われた。
欽明天皇即位の年(五三二)神が老翁の姿と化して現われ、神官の大伴連神牟祢奈里に「我は猿田彦の大神なり天皇を護り臣民の繁栄と安寧、五穀豊穣、病平癒の神である」と告げた。
翌日、大神は豊日別宮に降臨し「猿田彦は天照大神の分神なりこれにより豊日別大神を本宮とし猿田彦を以て別宮となす」と告げたことから社殿を建てて祀ったのが本社の起源ととされる。
欽明天皇二十八年(五六七)には洪水飢饉などが各地を襲ったが、豊日別大神に祈願し治まったといわれ、その後代々の天皇によって大和の霊跡、西海鎮護の神として尊崇されたという。
養老四年(七二〇)大隅、日向の隼人が反乱したため、朝廷は大軍を派遣するとともに宇佐八幡神に祈願してこれを討伐した。しかし官軍に殺された隼人の祟りでさまざまな病や災いがあったため、宇佐八幡神は隼人の霊を鎮めるため金光明経の教えに基づいて「毎年放生せよ」と託宣した。これにより魚や鳥などを解き放って生を全うさせる仏教儀礼である放生会が行われるようになった。放生会の際に、朝廷の勅使が一旦、豊日別宮に官幣を奉安したことから官幣宮と呼ばれるようになった。
官幣奉安の間、田川郡採銅所では宇佐神宮に奉納する神鏡を鋳造しそれを豊日別大神に併せて祭り、本社の神輿とともに陣列を組んで宇佐への神幸が行なわれた。神幸の経路は八月九日草場豊日別宮を発し、国作御所屋敷、徳政若宮を経て十一日祓川で禊ぎをし、築上郡湊八幡宮、上毛郡高瀬村、宇佐郡佐野里を経て十三日凶士塚に至り宇佐神宮の神幸を待つ。宇佐八幡の神輿が到着すると並んで和間の浜に向い、浮殿頓宮に宇佐八幡神に官幣と神鏡を奉る。十四日夜、法会と伝戒があり、十五日朝、海に蜷や貝を放流する。
宇佐神宮に対して度々行なわれる官幣の奉納に際してはその後も豊日別宮が官幣奉安の宮居となった。
(案内板より)
豊日別神を祀る豊日別宮(福岡県行橋市)の社伝では、欽明天皇2年、筑紫の日別大神の神官・大伴連牟彌奈里に「吾は猿田彦神なり」と神託があり、猿田彦は天照大神の分神であり、 豊日別大神を本宮とし、猿田彦を別宮とするとの記述がある。ここから、豊日別は猿田彦と同一神格と見られている。
高住神社、到津八幡神社、菅原神社、温泉神社(長崎県雲仙市小浜町、別名「四面宮」)などに祀られている
末羅国造とは末羅(松浦)国(現・長崎県松浦、佐賀県唐津市、伊万里市、東松浦郡)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、穂積臣(ほずみのおみ)と同祖で伊香賀色雄(いかがしこお)の子・大水口足尼(おおみなくちのすくね、大水口宿禰)の孫にあたる矢田稲吉(やたいなぎ)を国造に定めたことに始まるとされる。
末羅国は、魏志倭人伝の末廬国と考えられており、古事記・先代旧事本紀などには末羅県・末羅国造等と名が記され、肥前国風土記・延喜式には松浦郡となっている。矢田稲吉は肥前風土記に登場する唐津地方の土蜘蛛を討滅した大屋田子(日下部君の祖)と同一人物とも考えられている。
松津国造 肥前
松津国の所在地は、明らかではない。
松津国造に物部連の祖・伊香色雄命の孫の金連(かねのむらじ)が任じられた。
佐賀県(肥前国)基肄郡(きいぐん)は、明らかではない物部連の祖・伊香色雄命の孫の金連(かねのむらじ)の松津国造の「松津」を 「杵肄」の 誤記と見て肥前国基肄郡にあてる説がある。
・河内国神別(天神) 林宿禰 大伴宿禰同祖 室屋大連公男(子)御物宿禰之後也
(大伴宿禰--左京神別(天神) 高皇産霊尊五世孫天押日命之後也)
・河内国諸蕃(百済) 林連 出自百済国直支王(古記云周王)也
の2氏が見えるが、天押日命(アメノオシヒ・天忍日命とも記す)を祀ることから、古代豪族・大伴氏に連なる氏族である林氏が祖神を祀ったのが当社であろう。ただ、その創建年代は不詳。
大伴氏の本拠地は奈良盆地の東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近。神武2年条に、ミチオミが築坂邑-橿原市鳥屋町付近-を賜ったとある)というが、より古くは難波地方を本拠とし、和泉・紀伊方面まで勢力を張っていたともいわれ、そのなかの一支族として、当地の伴林氏が居たのであろう。
九州で吉備一族の三井根子命後裔と称する国前国造及び葦分国造の関係姓氏があり、景行天皇の九州巡狩等に随行して来住したものか。これらは、多氏族と称する肥国造や宇佐氏族とも密接な関係を有した模様である。国前国造及び葦分国造の関係姓氏をあげると、次の通りであるが、後者は後に南方の薩隅地方に大いに展開した。所伝通り吉備一族としたら、笠臣と同族かとも思われるが、実際には火国造同族という可能性もかなりある。
国前臣(豊後の称紀朝臣姓諸氏は紀長谷雄の族裔と称するが、実際には国前臣の流れの仮冒とみられる。溝部-豊後国国東郡人、紀継雄系と称。横手、立野、富来、長木、柳迫、速見、何松、志手、岐部、櫛来、姫島、曾根崎-溝部同族。生地、紀田-豊後国速見郡若宮四社権現神主、溝部同族。上田-豊前の宇佐神宮御馬所別当で宇佐郡上田村住人、紀諸雄系と称。永松-豊後国国東郡田原八幡神主。野原-同速見郡人。永井、長谷雄〔長谷王〕、足立、小野-上田同族で国東郡等に住。国東郡田原八幡祠官の是松、永吉も同族か。宇佐神官で下毛郡住人の藍原やその同族とみられる朝来野も紀姓で、おそらく同族。宇佐の鷹居社祠官の紀姓鷹居氏も同族か)、国前直(渡辺-豊前国上毛郡の古表八幡神社大宮司家)、日子臣、日子直(日名子〔雛子、日奈古〕-豊前国築城郡人。国前〔国崎〕-豊前宇佐宮貫首。浅田、無佐、由布、芦原田-豊後人。武川〔竹川〕、井関、鷹尾、山嵜、森脇、桂川、鎌谷、高塚-播磨人。柏木-江州柏木人。藤原姓を称する宇佐宮土器長職の高村〔高牟礼〕氏も国崎氏の同族か)。また、豊前国仲津郡の高桑臣も同族か。
葦北君、刑部靱負部、刑部、刑部公、日下部、日下部公、規矩連、日奉部、日奉直、日奉宿祢(横尾-肥後国益城郡人、陸奥下野筑後に分る。那賀、合志-横尾同族。竹崎-同国八代郡人。その同族に野中や筑後国御井郡の三井。また、肥後国玉名郡の大津山は藤原姓を称し、公家日野氏の庶流とか菊池一族合志の初期分岐という所伝もあるが、疑問もある。むしろ筑後国三池郡の日奉宿祢後裔とするのが妥当か。その一族には玉名郡の小野、関、三池、津山があり、同郡の江田も同族か)、
大伴部(出水〔和泉〕、井口、上村、朝岳、知色〔知識〕、給黎、郡山、杉〔椙〕、鯖淵-薩摩国出水郡人。高城-同国高城郡人。武光〔武満〕、高城、寄田-同州薩摩郡人。宮里、高江-同上族、称紀姓。日置、河俣、北郷、息水-薩摩国日置郡人。白坂-日向人。肝付〔肝属〕-大隅国肝付郡人で一族多く、伴朝臣姓で見える文書あるも疑問で本来は葦北国造同族か、一族は大伴氏族を参照のこと)、桧前部(水俣、佐敷、久多羅木、上野、田浦、湯浦、二見、綱木〔津奈木〕-肥後国葦北郡人。篠原、光武、萩崎、白木、牛尾、永里、薗田、中条、岩崎、楢木、桂木、広武、松本、鵜羽、大籠-薩摩国牛屎院人、篠原は日置郡中原の大汝八幡宮大宮司家にもあり。税所-肥後国球磨郡人、大隅国曽於郡の税所と同族と伝う)、他田部、白髪部、真髪部(真上部)、真髪部君(球磨郡白髪社祠官の尾方は族裔か)。また、肥後国葦北郡の家部、八代郡の高分部も同族か。『大同類聚方』には葦北郡の姫島直が見えており、実在したなら葦北国造の族か