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日本書紀によると孝元天皇の皇子、彦太忍信命の子、武雄心命は、紀伊国造の女(むすめ)、影媛を妃とし、紀国にて武内…
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黒髪神社
佐賀県武雄市山内町大字宮野1038ー2
黒髪神社は古くは黒髪三所大権現といい黒髪山頂の天童岩に上宮があり山麓に下宮があるそうです。古代の磐座(いはくら)信仰・巨石崇拝が色濃く残っていて、古代祭祀場だったことがわかります。
ご祭神はイザナギ、イザナミ、速玉男命、事解男命です。
黒髪山の大蛇伝説でも有名
大蛇退治は龍封じでもある龍神を祀りながら、封じる
「肥前古跡縁起」に「黒髪山大権現、本地薬師如来の三尊聖徳太子御作也。昔天竺の大王我朝に飛来り・・・・権現と垂跡し給ふ、其鬚髪を 納め御宝殿の所と定め給ひし故に黒髪山という」とある。また、黒髪神社の由緒記にも「伊弉諾尊が黄泉国より遁れ帰られた時、投げ給うた御鬘が此処に止まっ たから黒髪山と名付けた」など様々な伝説がある。(角川日本地名大辞典より)
『肥前国風土記』基肄郡の姫社神社の創祀譚
昔、姫社郡を流れる山道川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分という具合。「筑前の宗像の郡の珂是古に祭らせよ。さすれば凶暴な心はおこすまい」との託宣があった。珂是古は幡を高くあげて風のまにまに放した。その幡は姫社の杜に落ち、夜珂是古の夢に織機類が出てきたので、女神であることを知った。社を建てて神を祭ったところ、災いがおさまった。」と云うお話。
また、関東の大族とされる桓武平氏を称する千葉氏は、多氏の部曲の多部おおべの後裔であるともされる。戦国時代の丹羽氏も多氏の後裔と指摘されている。
神武天皇ー神八井耳命ー彦八井耳命ー彦八井耳命ー武宇都彦命ー武速前命ー敷桁彦命ー武恵賀前命ー武諸本命ー武敷美命ー武裳見足尼臣ー稲見臣ー毛建臣ー石持臣ー豊忍臣ー宇気古臣ー品治ー(安麻呂・道麻呂・宅成・遠建治)
http://okekat.la.coocan.jp/newpage24.html
古事記での貢献を見ても分かるように軍事面ばかりでなく、学問上も大いに貢献したことはよくわかる事である。「弘仁私記序」を書いた孫の多人長によれば安万侶は「日本書紀」の編纂にも加わっていたとの事である。多氏の家は、過去から現在までの出来事を歌い上げる歌謡の役もしていたらしく「琴歌譜」を残している。そんなことから、「古事記」の編纂の役を任されたのかもしれない。「三代実録」によると、右京の人、散位外従五位下自然麻呂(じぜまろ)は、平安時代からの大歌所の大歌師や雅楽の楽人であり、現在に至るも宮内庁学部で雅楽を奉仕する樂家である。
「弘仁私記」を書いたのは、安万侶の孫の多人長であるが、この書は人長の「「日本書紀講義録」でもある。この購読の参加者は、大春日朝臣、藤原朝臣、安部朝臣、島田朝臣、多人長など古代からの家柄の人ばかりである。一時はこうして大いに栄えたのであるが、参議多朝臣入鹿のときに、「薬子の変」に出会い、負けた方の平城天皇に味方して失脚し、国史上からその名を消す事になってしまうのである。薬子の変とは、平城天皇は天皇就任後なぜか病気勝となり、位を弟の嵯峨天皇に譲った。ところが譲ったとたん病気が回復してしまい、皇位の復帰を狙ったが、嵯峨天皇にその気はなく、逆に平城天皇が兵を集める間もなく嵯峨天皇に先手を打たれてしまい、追われてしまった訳である。この時「平城天皇に復位の意図あり」と密告したのは、朝鮮系の上毛野公顕人で、彼はこの功績により「参議茨田宿禰顕人」の賜姓を受けた。「茨田」という姓は自らを神八井系の一族に組み入れるように嵯峨天皇に頼み込んで得た地位である。その上「新撰姓氏録」の撰者にまでなってしまったのである。嵯峨天皇による恩賞人事であった
神八井耳命の直系である大荒田命は成務天皇の時に尾張の悪神退治を命じられて成功し、「嶋田臣」と賜姓されて尾張の県主となって赴任しその地に住み着いた。悪神とは出雲系の事だったのである。この地は出雲系の大国主が開発し、その後宇摩志痲冶が統治してきた場所である。全国統一のためには出雲系も退治の対象であった。それまで住んでいた奈良市から一族挙げてこの地に乗り込んだのだ。
この尾張にはすでに、饒速日命の子である天香語山命の子孫である尾張氏がこの地の国造になって赴任していたが、大荒田命は県主となって赴任したのである。県主というのは天皇家の皇領の管理者の事で、役人としての赴任である。そこに住み着くことによって周辺の土地を開発し皇領を増加する努力をしていくのが役目である。
この大荒田命の娘に玉姫がいた。玉姫は、尾張の連乎止与命の息子、建稲種命に嫁ぎ、二男四女を生んだ。娘の尻調真若刀俾命(しりとまさとべのみこと)が景行天皇の皇子五百木入彦に嫁ぎ、品陀真若王(ほんだまわかおう)を生んだ。この品陀真若王は玉姫のもう一人の娘志理紀斗売(しりきとめ)と結婚をして、高木入姫、仲ツ姫、弟姫を生んだ。この娘達三人が応神天皇の皇后や后になっているのである。応神天皇と仲ツ姫との間に生まれたのが仁徳天皇である。
『孝元』は『下照姫命』の居る師木へ通い、『彦太忍信命』(ひこふつおしのまことみこと)を儲けます。この『彦太忍信命』が『屋主太忍男武雄心命』(やぬしふつおしおたけおごころのみこと)を生み、その子が『武内宿禰』であると日本書紀では述べています。
古事記では、『彦太忍信命』が、木國造の祖、『宇豆比古命』の妹である『山下影姫』を娶り、『武内宿禰』を生んだと述べています。
基国造か?
御祭神 月夜見尊 愛比賣命 神八井耳命 速後上命
愛媛県伊予市にある。伊予横田駅の東2Kmほど。
駅前から東西に走る道路から南へ少し入り、
創祀年月は不詳。
社伝では、太古、神戸郷御谷山に、大山積神によって、天御中主神を祀る古社があり、後に国造によって、山の麓、朝日の面に天照大神を祀り、
夕日の面に、月夜見尊を祀ったのが、弥邑神(伊予村神)の創祀という。
境内に入ると、右手に磐が祀られている。これは、明治43年に境外末社・祇園社を合祀した時に、祇園社の境内から遷したものだそうだ。
同時に石机(ドルメン)も遷したが、その石は本殿の礎になったという。
なお、当社周辺は、銅鉾・石器・三角縁神獣鏡などの弥生遺跡と古墳群の複合遺跡の分布地帯。
「伊予旧蹟抄」
古事記はこの説話の直後に神八井耳命を始祖とする19氏族名を列挙している。「意富臣、小子部連、坂谷部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、
雀部臣、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、道奥の石城国造、
常道の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣等の祖なり」
と分注に記載している
「火君」、「大分君」、「阿蘇君」には皇族の姓である「君」が使われている。
九州王朝の皇族だったことをあらわしているのではないだろうか。
欽明紀十七年正月条に引用されている「百済本紀」には、「筑紫君の児、火中君の弟」が
人質として倭国に来ていた百済王子恵を本国へ送り届けたことが記されている。
常陸国風土記・行方郡(五)には、
建借間命(タケカシマノミコト)が当地を征服した時の様子が描かれている。
建借間命は那賀国造の初祖とある。
神八井耳命子孫氏族の常道の仲国造のことであろう。
建借間命は当地の国栖たちをおびき出すために、
七日七夜杵島唱曲(キシマノウタブリ)を流して歌舞を披露する。
つまり建借間命は杵島唱曲の地=肥国からやってきた勢力であると
風土記に書かれていることになる。
以下 出典は
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-Higo.html
神話の主人公は草部吉見社の祭神・国龍命である。寛政十一年(一七九九) に吉見神社の社司、田上石見草部吉見が著した「草部諺記」を紹介しよう。
神武天皇の第三子、彦八井耳命の子、国龍命(阿蘇十二神の系譜では国龍命は彦八井耳命とする)は日向の国から肥後の国へやってくると、菅萱が茂る清水で衣やはばきをそそいだ。そそぐという字は「雪ぐ」と書くので、この地を雪山と名づけたが、その後、誤って菅山といわれるようになつた。衣を干した場所は懸けほしと伝えられている。
川走谷の水上に、入り口四間余り、横一二間程の岩屋があり、国龍命はそこを住居としたが、ここは端で陰気である、どこか良い場所はないかと探した。中ほどに行くと、窪地に池(吉の池) があり、気に入ってながめていた。まもなく池水が騒がしくなり、風も荒々しく起こり、大蛇が出てきて、明星のように両眼を赤くし、口からは火炎を吹きながら国龍命を襲った。勇猛な命は剣をとり、大蛇を良い場所におびき出して頭から斬り殺した。丈が二十尋あまりあった大蛇の血が大量に流れ出たところは血の原とよばれている。大蛇を焼いた場所は灰原と名づけられた。
国龍命は杉の枝を逆さに地にさして、「われこの里に住み、国家泰平にして栄えるならば、今炎天の時、七月であるが、この杉、よく根を生じて栄よ」と誓った。杉は生長して、「吉見の逆杉」あるいは「垂杉」とよばれている。大蛇が住んでいた跡の池を埋め、池の穢れた水は東の谷すそ、葦原に流して御殿が造られた。この時に龍宮から加勢があり、御殿は一夜のうちに築かれた。屋根も草屋根、壁も草壁だったので、草部と名づけられた。現在の草部吉見社である。
「日本書紀』には、神功皇后が三韓征伐に向かう際、豊浦津で如意宝珠を海中から得たとあるが、阿蘇の神話では、神功皇后に側役として付き従った蒲池媛が持っていた満珠・干珠を投げて、潮を満ち引きさせ、新羅の軍に戦わずして上陸できたとなっている。 「この満珠の方は、蒲池媛を祀った宇土半島の郡浦(こうのうら)神社に、干珠は阿蘇南郷の草部吉見神社にあったとか。あるいは『阿蘇家伝書』には、この珠を阿蘇山に納めたまふ、とも見え、それは、阿蘇山の玉嶽というところらしい
①父:敷桁彦(異説あり)母:不明
②子供:速瓶玉・健稲背 妻:阿蘇都媛(日子八井耳の娘)・会津比売?
③阿蘇神社主祭神
阿蘇大明神・一宮主神。
阿蘇系図では神八井耳の子供(神武の孫)とされている。阿蘇氏の元祖。
④伝説:神武天皇の命を受けて阿蘇山へ来た。鎮西鎮護の任。
⑤阿蘇山の神で皇統譜にどこかの段階で組み込まれたと考えられている。
⑥武五百建とは同一人物説あり。
⑦阿蘇神社・宮崎神社創建伝承あり。
⑧元々山城国宇治から阿蘇に来たとの伝承あり。
叔父の2綏靖天皇の支配する宇治の地を避けて祖父神武の故郷である九州に行き、祖父の兄ミケヌノミコトが支配している高千穂を避け、阿蘇の地に新天地をつくった。草部の豪族「国龍吉見」の助力により阿蘇開拓。立石信仰・火山信仰・自然神信仰の具象化。
⑨系図によっては神八井耳の子供。神武の孫となっている。(阿蘇神社系図)
系図によっては科野国造となっている。この子供が速瓶玉で阿蘇国造である。
⑩系図によってはこの子供の一人に健稲背がおりこの流れから金刺氏が発生している。
⑪伝承では科野国造祖ともある。
⑫景行天皇紀:18年条に「天皇阿蘇国に到るや其国郊原の広遠人の居るを見ず。天皇曰く是の国人ある乎。時に2神ある。阿蘇都彦・阿蘇都媛と曰う。忽ち人に化し、以て遊詣て曰く吾二人在、何ぞ人無けんや故に其の国を号けて阿蘇と曰う」の記事あり。この夫婦こそ健磐龍夫婦だとされている。
不知火宇城の蒲池神社
祭神が『阿蘇国造家の母』と伝承され、後世、広く知られる『高橋氏・吉見氏』が『阿蘇』の『国造神社』に祭られる
『不知火・葦北の国造家』
『伊予、吉備』等の国造家と同系とされ、『伊予』や『奈良』に『香山』の降臨伝説があって、『薩摩』半島に『伊予』の「地名や伝説」が認められ、
『吉備の「温羅・有鬼」伝説』も、吉備の方々が指摘したように『笠沙の岬の「有木」』と縁がある。
南九州に於ける『高橋氏・吉見氏』の歴史は「大伴氏」よりも古い
舞台『阿蘇』での「その奉仕者・御神子」は、「阿蘇市役犬原(やくいんばる)」の『霜宮の火焚き神事の少女』として伝えられ、
岡山市『吉備津神社』では、その『御竈殿の鳴釜神事』に奉仕する『阿蘇女』によって奉仕されたものと考えられる。
『阿蘇と吉備』の関係は
「国造」だけでなく、「吉備の伝説」にある『温羅有鬼(有木)』の霊を弔う「阿曾女」なる「巫女の名称」からも窺われ、「和名抄・吉備国賀陽郡」に『阿曾郷』があり、現総社市の『東阿曾と西阿曾』の地域に比定されるが、
『中世以降「阿曾の鋳物師」の本拠となり、また吉備津神社の釜鳴神事に仕える巫女阿曾女の里としても知られる』(岡山県の地名 674頁)
阿蘇の久米氏
述べてきた『高橋・吉見神の阿蘇』の聖域を守ってきた『神官家』の歴史と、系譜を綿密に載せる「古事記」の記述に、
山部氏は久米氏
文字資料は三つある。
①≪往古より『皆血脈ヲ以テ相續ス』(神道大系 神社編五○ 182頁)と云われる「阿蘇神社の社家」に、『阿蘇氏、草部(くさかべ)吉見氏、山部氏』と共に、阿蘇山上の社である天宮社の祝に『笠朝臣』があり、重要神事には天宮祝は常に座の中央に着座することになっていた≫(古事記に笠沙が載ったわけ 268頁)というもの。
②景行天皇の18年4月条、『海路より葦北の小嶋に泊りて、進食(みをし)す。時に、山部阿弭古(やまべのあびこ)が祖小左を召して、冷き水を進らしむ。』と、日本書紀で初見となる『山部』氏の、その『阿弭古』なる名は「熊本県上天草市松島町『阿』村」を拠点とした『阿多海人族の小左(をさ・長)』を『祖』とし、『阿蘇の高橋氏』や『阿蘇神官家の山部氏』も歴史的背景は同じだったのではと想像できることにある。
雄略天皇没後、子である「清寧天皇」の「2年11月」条には、『播磨国司山部連先祖伊与来目部小楯』(紀上 506頁)との記録がある。
その次の「顕宗天皇元年4月」条には、関連するように『伊与来目部小楯』が『山官(やまのつかさ)』である『山部連』を賜姓された理由(紀上 510頁)まで載せられている。
「理由」と言うのは、
『顕宗天皇』は「雄略天皇」によって『父』を殺された。「顕宗天皇」兄弟は「雄略天皇」を恐れて逃げ回っていたが、兄弟を助けて守り抜いたのが『舎人・日下部連使主と吾田彦』の親子で、雄略帝の死後、『伊与来目部小楯』が「国守」として赴任した「播磨」で、『吾田(あた)彦』が守り抜いていた『顕宗天皇』を発見して「天皇位に就かせた」のであった。
『顕宗天皇』はそれに報いて『来目部の小楯』を『山部連』に任じた、と載せてある。
③次に「系譜」を丹念に記す「古事記」が告げるところを「文字資料」とする。
『神八井耳命は、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫の三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奧の石城国造・常道の仲国造・長狹国造・伊勢の船木直・尾張の丹波臣・嶋田臣等の祖なり』(記 167頁)と載せる部分である。この『神八井耳命』は『神武天皇の長男』である。
ここから『火君・大分君・阿蘇君・伊余国造』は、古くから『同族』とされていたことが分かる。
これら①②③の資料によって、
『葦北の小左(おさ・長)阿弭古(あびこ・阿彦)』と『阿蘇神社の神官家』と『伊予の来目部小楯』は『同族』である
『阿蘇』には『阿多族(笠・うけ・有木、高橋、吉見氏)』が、ある
『伊予』には(和名抄・阿多郡『葛例郷』」の『鹿籠の山』が)『天降りした香山』の伝説があり、『久米』の地名もある。「記紀のかたり」に従えば、これらの人々は『日向の神武天皇系』の「族人」で、『神代の先祖』は正しく『阿多隼人族』とせざるを得ない。
出典
http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage11.html
甲斐国造 古事記開化段、サホヒコ王は、日下部(くさかべ)連、甲斐国造の祖。
後世に、阿蘇大宮司が逃れてきた時に匿うなど、阿蘇氏と甲斐氏は、きわめて近いことは間違いない。
高森町の草部吉見神社周辺における、最多の姓は甲斐氏
草部吉見命は、建久々知(たけくくち)命の子とする系図が、田中卓氏の著作(古代阿蘇氏の一考察、高千穂阿蘇:綜合学術調査報告1960年所収)の冒頭にある
熊本の阿蘇神社では、日子八井命を国龍明神(吉見神)とし、 神八井耳命の子・健磐龍命の妃である阿蘇津姫命の父神となっている。
日子八井命 を祀る神社
草部吉見神社 熊本県阿蘇郡高森町草部2175
阿蘇神社 熊本県阿蘇市一の宮町宮地
日子八井命は、茨田連、手島連の祖。
狗奴国のククチヒコ
3世紀の倭国で邪馬台国の尽きるところである奴国の南に位置する。その名称からも、元は奴国の分国ではないかという説[1]があるが、単に「クの国」(「奴」は「の」という意味に過ぎない)という説もある。
男王卑弥弓呼(一般的には「ひみここ」と読むが「ひこみこ」(彦御子)とする説がある)がおり、官を狗古智卑狗(一般的には「くこちひこ」と読むが「きくちひこ」(菊池彦)「かわちひこ」(河内彦)とする説がある)と言った。邪馬台国の女王卑弥呼と卑弥弓呼は「素より和せず」戦闘状態にあったが、この戦いの最中に卑弥呼が死去したという。
読み下し文・原文
その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。(中略)その八年(正始8年)、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず、倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王 (中略)其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼興狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状」 -- 『魏書』東夷伝
邪馬台国九州説における狗奴国
邪馬台国九州説に立つ論者は狗奴国の位置をだいたい九州内のどこかに置く説が多い。
南九州説
肥後国説。もっともメジャーな説である。熊襲は熊国と襲国の連称であるが、肥後国球磨郡は熊国つまり記紀の熊県(くまのあがた)の遺称地であってこれを狗奴国とし、同国菊池郡を狗古智卑狗と関係付ける[2]。水野佑も同じ説であるが、魏志倭人伝の習俗記事を2ヶ所に分割し、一方にしか南方系習俗が含まれないことから、これを邪馬台国の習俗と狗奴国の習俗が別々に記載されたものであるとし、南方系習俗は狗奴国のものであるとした。
その他の諸説
四国説。本居宣長は伊予国風早郡河野郷に比定している。
出雲地方説
邪馬台国畿内説における狗奴国
邪馬台国畿内説に立つ論者は狗奴国の位置について大きく三つに分かれる。
南九州説。狗奴国の位置に関する限り上記の九州説論者と変わらない。内藤湖南も狗奴国を熊襲に比定した。
熊野地方説。邪馬台国畿内説においては邪馬台国は奈良盆地であることから、その南にある熊野だとする説。
東国説。魏志倭人伝は「東に海を渡る千里また国あり皆倭種」と「狗奴国」を別のものとしているが、後漢書東夷伝が両者を同一視していることから狗奴国を南ではなく東に想定するものであり、文献批判的にはやや弱い。
卑弥呼の死後
中国の史書『晋書』「四夷伝」倭人条には、泰始2年(西暦266年)、邪馬台国が西晋に朝貢したことが記述されている。しかし、それ以降は西晋に朝貢した記録がない。泰始2年は、魏王朝が倒れ司馬氏の晋朝が成立した翌年です。当時、邪馬台国に対抗していたのは狗奴国だけですから、狗奴国が邪馬台国を滅ぼしたと考えるのが自然であるように思えます。
宮地嶽神社の宮司家が阿部(阿部氏は現櫛田神社宮司)であった。
「四道将軍」として北陸を制圧したのが、大彦命(実は第9代開化の腹違いの兄)で、連動して東山道、東北南部を征服したのも大彦命の子である武渟川別(?)であり、実はその武渟川別から東北の阿倍氏が出自しているのです。
また、前九年の役 で敗れた安倍宗任 が太宰府に流されるのですが(「平家物語」)、なぜか宗像氏の配下として筑前大島の統領となり、後の松浦党の一派を形成することになったという話があるのです。
とある。これを見てお解りの通り、皇別氏族は孝元天皇の一〇八家がダントツである。説話も無い、果たして実在かどうかも判らない天皇に出自が集中しているのは何故か。
然るに肥前国風土記には、同じ崇神天皇の御代肥君等が祖健緒組を遣りとあり、叉健緒組を挙げて姓名を賜ひ火君健緒純と曰ふ。とある。
之に由って之を考ふれば遅男江命と健緒組とは同一人で、火君と火国造とは同じ意味に解される。
叉古事記には、神武天皇の皇子神八井耳命が火君、大分君等の祖と書いてある。
然るに前記旧事紀国造本紀には火国造は大分国造同祖志貴多奈彦命児遅男江であるとし、同書の阿蘇国造の條を見ると火国造と同祖神八井耳命の孫、速瓶玉命を国造に定め賜ふたと書いてゐる。
之に由って之を見れば古事記の「君」と言ふのは旧事紀の「国造」を指すことは明瞭である。而して神八井耳命が多くの国造の祖先である事は古事記にも旧事紀にも書いてあるから、火国造の祖志貴多奈彦命も矢張り神八井耳命の後裔であることは間違いない。それが子であるか、孫であるか、叉は何世かの子孫であるかが問題である。旧事紀によると阿蘇国造科野国像が共に崇神の朝で神八井耳命の孫になってゐる。それから印波国造が応神の朝で八世の孫になってゐる。次に伊余国造が成務の朝で印波国造と同祖、敷桁彦命の児である。此の敷桁彦と火国の志貴多奈彦とは訓読相通で同一人であらう。
そこで火国造の祖、志貴多奈彦命は阿蘇や科野の例から推して神八井耳命の子で、その子の遅男江命が即ち孫に当るとするのが最も穏当であらう。併し神武天皇の皇子神八井耳命の孫が崇神の朝に国造になったとすれば其の間略ぼ五百年の隔たりがあって如何かと思はれる。是に於て氏族志には神八井耳命の後裔が志貴多奈彦命で其の子が健緒組であるとしてゐる。蓋し真に近いのではあるまいか。
之を要するに国造に任命せられたものには三種あって、一は皇子、二は功臣、三は土着の酋長である。故に神武の皇子、神八井耳命の後が志貴多奈彦で、其の子が健緒組か若くは遅男江とすれは真に自然である。それは兎も角として日本書紀景行天皇の條に熊襲梟帥の次女市鹿文を以て火国造に賜ふた、とあるから、此等の子孫が永く火国造に土着して繁栄したことであらう。
時に市乾鹿文が天皇に言うには「熊襲が服従しないことを憂えてはなりません。私に良い謀りごとがあるので、一人二人の兵を私にお付け下さい」と。
そして家に帰ると、沢山の酒を準備して父に飲ませた。すると酔って寝た。
市乾鹿文は密かに父の弓弦を断った。そして従ってきた一人の兵が熊襲梟帥を殺した。
http://www.sen2.net/contents/history/rekichi/48179306/厚鹿文
厚鹿文
ヤマトヲシロワケ(12代景行天皇) が討ったクマソの頭のひとり。
セカヤの兄。フカヤとヘカヤの父。
娘フカヤの寝返りによって討たれる。
┌アツカヤ──┬フカヤ
│ │
│ └ヘカヤ
│ ┃
└セカヤ────トリイシカヤ
「鹿屋」はクマソ国の中の「投馬国」に属す。
鹿屋は半島南部の「伽耶」すなわち「弁韓狗邪国」「狗邪韓国」と直結する名称である。後者は3世紀には存在した国々であるが、3世紀の半ば(247,8年ごろ)に起きた大規模な「反魏闘争」により、敗れた弁韓・辰韓のそのような航海民が多数流れ込んだゆえ、「かや」という地名が生まれた可能性がある。
「大宮二座、珍子賢津日靈神尊(読めず)、皇像瓊玉に坐す。天祖聖津日嬖神尊(読めず)、神物圓鏡に坐す。神淳名川耳(かむ・ぬなかわ・みみ=綏靖)天皇の御世、二年辛巳歳、神八井命帝宮より降り、当国春日県に居り大宅を造営し国政を塩梅す。ここに皇祖天神を祭礼し、幣帛を陳し祝詞を啓す。県主遠祖大日諸を祀となし、奉仕せしむるなり。
御間城入彦五十瓊殖(みまき・いりひこ・いにえ=崇神)天皇の御世、七年庚寅歳冬中、卜により八十萬群神を祭らしむるとき、武恵賀別の子にして神八井命五世の孫武恵賀前命(たけ・えがさき?)に詔し、神祠を改めつくり「珍御子命皇御命、新寶天津日瓊玉矛等を奉斎し、社地を号け太郷(おうのさと)という。天社の封を定む。神地の舊名春日宮、今多神社という」
多坐弥志理都比古神社 (おうにます・みしりつひこ・じんじゃ)
奈良県磯城郡田原本町多569
祭神
神武天皇第二皇子神八井耳尊(かむやいみみのみこと)
第三皇子神沼河耳尊(かむぬなかわみみのみこと)
神倭磐余彦尊(かむ やまといわれひこのみこと)=神武
玉依姫(たまよりひめ)
合祀 太安萬侶
弥志理都比古は神八井耳命の別名であると社伝は言い伝えてきた。
『日本書紀』では、神八井耳命について多臣(多氏)の祖と記している。
また『古事記』では、意富臣(多氏)・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣ら19氏の祖とする。
また『古事記』では、意富臣(多氏)・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣ら19氏の祖とする。
そのほか『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
以上参考文献は『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年
左京皇別 多朝臣 - 出自は謚神武の皇子の神八井耳命の後。
左京皇別 小子部宿禰 - 多朝臣同祖。神八井耳の後。
右京皇別 島田臣 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。同条では五世孫に武恵賀前命、七世孫に仲臣子上の名を挙げる。
右京皇別 茨田連 - 多朝臣同祖。神八井耳命男の彦八井耳命の後。
右京皇別 志紀首 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
右京皇別 薗部 - 同氏。
右京皇別 火 - 同氏。
大和国皇別 肥直 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 志紀県主 - 多同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 紺口県主 - 志紀県主同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 志紀首 - 志紀県主同祖。神八井耳命の後。
和泉国皇別 雀部臣 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
和泉国皇別 小子部連 - 同神八井耳命の後。
和泉国皇別 志紀県主 - 雀部臣同祖。
父 孝霊天皇 孝元は太子。
母 細媛命 磯城縣主大目の娘。
皇后 欝色謎命 開化紀に穗積臣遠祖、欝色雄命の妹とある。
子1大彦命 阿倍臣・膳臣・阿閇臣・狹狹城山君・筑紫國造・越國造・伊賀臣七族の始祖
垂仁紀に子の一人崇神天皇皇后、御間城姫とある。
2開化天皇
3倭迹迹姫命 又は、天皇母弟、少彦男心命
妃 伊香色謎命 後に開化皇后 崇神前紀に「物部氏遠祖、大綜麻杵之女也」とある。
崇神紀にて伊香色雄が活躍(旧事紀は弟)
子 彦太忍信命 武内宿禰の祖父。
次妃 埴安媛 河内の青玉繋の娘
子 武埴安彦命(謀反により、後に崇神天皇等に殺される。)
【古事記 孝元天皇系譜】合計5人
娶、 内色許賣命 穂積臣等の祖、内色許男命の妹
子 大毘古命
子 建沼河別命 阿倍臣等の祖
比古伊那許士別命 膳臣之祖
御真津比売命(崇神皇后)崇神記
少名日子建猪心命
開化天皇
又娶、伊迦賀色許賣命 内色許男命の娘、伊迦賀色許男命がいる。(崇神記に記載あり。)
子 比古布都押之信命。
娶、葛城の高千那毘賣 尾張連等の祖、意富那毘の妹
子 味師内宿禰 山代内臣の祖
娶、山下影日賣 木國造の祖、宇豆比古の妹。
子 建内宿禰 合計9人(男7,女2)男子に合計27氏の祖
娶、波邇夜須毘賣 河内青玉の娘
子 建波邇夜須毘古命
綏靖天皇二年、神武天皇皇子神八井耳命が春日の地に住み朝政をみて、皇祖を祀るに磯城彦一族の春日県主遠祖大日諸に司どらせた。
崇神天皇の七年神祠を改めて立て神霊を祀って、社地を太郷と名づけた。
そのため昔春日宮、今多神社という。
日本書紀にも綏靖天皇の后妃の父としてこの春日県主大日諸が登場する。
河内に勢力を誇り志貴縣主神社が祀られている。
十市氏系図もこれに註して、十市県はもと春日県といったが考昭天皇の時代に変更になり、神八井が春日宮(多神社)の神官にあてたという春日県主大日諸命こと十市県主太(大)真稚彦こそ多氏の祖なのであると考え
られる。
崇神天皇の御代に、火国造には大分国造と同祖の志貴多奈彦命(彦八井耳命の孫で、敷桁彦命とも書く)の子の遅男江命を定めたと記されている【国造本紀】。設置の時代は問題であるが、遅男江命の遅男江は、【肥前風土記】に肥(火)君の祖とある健(建)緒組の行書を誤写した可能性が強く、遅男江命は健(建)緒組命と同一人物であろう。さらに健(建)緒組命は、日本書紀景行天皇3年2月の条に「屋主忽男武雄心命(一にいう、武雄心命)……紀直が遠祖菟道彦の女影媛を要りて武内宿禰を生ましむ。」とある屋主忽男武雄心命と同一人物視されたのではないかと思われる。もしもそうであれば、武雄神社の祭神の中の武雄心命・武内宿禰(古事記は建内宿禰と書く)と関係が生じてくる。関係というのは、武雄神社の祭神は本来は火国造らの祖の建緒組命であったものが、それを氏神とする武雄地方の豪族(武雄氏?)によって、武雄心命に改められたのでほないかということである。 武雄市史上巻 昭和56年
その速瓶玉命の奥さん、いや妃神は雨宮媛命と言って、もちろん国造神社では主役の旦那さんに次ぐ二宮として祭られています。しかし不思議なのは、阿蘇神社の中心である健磐龍命の家族が十二宮もまつられているのに、義理の娘にあたる雨宮媛命が阿蘇神社では祭られていないんですね。
雨宮媛命は、宇土の方で祭られている海神の女神(蒲池媛神)と同一神らしいのです。さらに雨という名前からして、どう考えても水神です。
そして、速瓶玉命は阿蘇神社より歴史が古いのではないかと言われる国造神社の主祭神であるのに、阿蘇神社では十一宮、つまりビリから2番目に祭られているにすぎません。ではビリ(十二宮)は誰かというと、綏靖天皇(=金凝神)なのです。
綏靖天皇は、神武天皇の後の2代目天皇で、欠史8代と言われている具体記述のない天皇です。これは、阿蘇神社と天皇家のいわゆる万世一系はつながりがあるのですよというアピールの為に祭られていると言っても、そう的外れではないと思います。
だから速瓶玉命は実質上、阿蘇神社ではビリとして祭られていることになります。
もし、瀬織津姫が封印された神様だというならば、九州のほぼ全域にその名の知られる阿蘇一の宮神社で祭らず、それより歴史の古い土着の神様である国造神社で名前を変えて祭られていると考えるのもありかなと思うわけです。
最近のことですが、国造神社の宮司さんの講演会があり、お話を聞いてきました。その時に頂いた資料のコピーで、雨宮媛命が宇土でも祭られていると知りました。
同時に、国造神社の境内に北宮水神宮があって、そこにミズハノメ(ミツハノメ)の神様が祭られていることも知りました。もう最近は色んな神社を回って、少し記憶があいまいなのですが、確か神社の由緒書きにはミズハノメの名前はなかったと思うのです。