香取神宮、鹿島神宮

April 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市香取にある神社。式内社(名神大社)、下総国一宮。旧社格は官幣大社で、…

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コメント

  • 香取連と麻
    香取連の先祖に苗益(苗加。ともに「なえます」と訓)という名前(称号)が見えるのも、麻の苗を殖やすという意味か。

    麻・衣服関係の地名と共に、麻植神たる天日鷲翔矢命を祭神とする神社が上記地域には多く分布する。安房の下立松原神社 (白浜町)、下総国葛飾郡や下野国都賀郡の鷲宮神社や多くの鷲神社・大鳥神社・大鷲神社がある。
  • 香取、匝瑳と麻

    匝瑳の由来は、
    平安時代前期の歴史書「続日本後紀(しょくにほんこうき)」によれば、大化の改新(645年)の100年以上前、5世紀の終わり頃から6世紀のはじめにかけて、畿内(現在の近畿地方)の豪族であった物部小事(もののべのおごと)という人物が、坂東(ばんどう・現在の関
    東地方)を征した勲功によって、朝廷から下総国の一部を与えられ、匝瑳郡(そうさごおり)とし、小事の子孫が物部匝瑳(もののべそうさ)氏を名乗ったと伝えられています。

    匝瑳の語源については諸説あって定まっていませんが、
    930年代に編纂された漢和(百科)辞典である「倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)、略して倭名抄(わみょうしょう)」には狭布佐(さふさ)と書かれています。「狭」は美しい、「布佐」は麻の意で”美しい麻のとれる土地”であったことから、狭布佐(さふさ)が転じて匝瑳(そうさ)か
  • 『石上布留神宮略抄 下』、「神主布瑠宿禰略系譜」に

    「第三十六代皇極天皇ノ御世ニ、大臣蘇我蝦夷宿禰(俗云ニ武蔵大臣-)、母ハ太媛ト申、物部弓削大連ノ妹也、弓削大連ノ滅亡ノ後ニ、太媛斎主首ニ補、…(後略)」という記述発見。

    布都姫=太姫⁇

    物部蝦夷の母が太媛ならば、太媛は馬子の妻である。馬子の娘には聖徳太子の妃の一人である刀自古郎女(とじこいつらめ)がいる。
  • 杜本神社 明神大社

    祭神
    經津主命、經津主姫命の夫婦(神社)
    事代主命と經津主命とする説もある。(『大阪府神社明細帳』)
    山神、水神(『河内志』)
    百済宿祢永継、その祖先の飛鳥戸氏(社頭の羽曳野市掲示板)

    創建年代は不詳だが醍醐天皇延喜の制に式内名神大社に列し、祈年、月次、新嘗の案上幣帛に預かった有数の名社である文徳天皇仁寿三年内臧寮幣使によって杜本勅願祭を執り行われ、清和天皇貞観元年の正月甲申從五位下より正四位下に特進せられ、仝七月丁夘良峯朝臣経を使いとして神宝を奉幣された。又、延喜の制と共に四月十一日の上申の日を祭日と定められた内臧寮属一人を差しつかわされて幣帛と共に馬寮走馬十匹を賜った。一説によると十代崇神天皇の頃香取明神(経津主神)十四世神孫伊波別命が此の地の祖神をおまつりされたのが此の杜本神社のはじまりである。又後醍醐天皇の時代に社領を寄進されたが、天正十年間織田信長が高屋城を攻めた時、その兵火によって社殿、宝物を失い豊臣氏の頃、社領を没収され一時衰微した。
     以上
  • 香取神宮:経津主命
    菱沼勇・梅田義彦『房総の古社』によると社伝では経津主命の御子の朝彦命となっていて、弘化二年(1845)に書かれた『下総国旧事考』では朝彦ノ命の別名として苗加(ナヘマス)ノ命とも云うとあるといい、朝彦といい苗加といい、いずれも小事の別名であると思われるとするが、もしかしたら朝彦は大麻比古命の麻比古命のことかもしれない。『日本書紀』の一書の二に天太玉命をして「御手代にして、此の神(大物主神)を祭らしむるは、始めて此より起これり。」とあり、天太玉命は出雲神族の神を斎き祭る存在だったともいえ、鹿島神宮・香取神宮の神が出雲神族の神であったとするなら、香取神宮の祭神の斎主神は天太玉命あるいは天日鷲命かその子が大麻比古命ということもありえるわけである。もっとも、物部小事以来の物部氏の本拠地で、物部氏と関係ない神を祭るのも変な話であるが、物部氏が入り込む以前に香取神宮と安房忌部氏が深い関係にあり、房総の物部氏としてはそれが無視できないほどの影響力をもつものであったとするなら、忌部氏系との神との習合も図られたということなのかもしれない。天苗加命は苗益命ともいい、経津主神の兄とも子ともいわれているらしいが、どちらにしても香取氏の祖先とされ、摂社又見神社(若御児神社)に祭られている。


    安房神社の極めて近くに、香取神社(梶取神社)が大正5年までは存在していたが、その祭神は経津主神ではなく、天富命に従ってこの地に来たと言われる宇豆毘古(槁根津日子)だったという。
    「国造本紀」に、神武が粟の忌部首の祖・天日鷲を見に行かせところ、名は推根津彦というので、召して聞くと、彦火火出見尊の孫と名乗ったとある
  • 匝瑳郡の老尾神社
    経津主命の御子神の阿佐比古命を主祭神として、磐筒男命・磐筒女命・国常立命が祀られている

    匝瑳村大字生尾字加知内にあり、延喜式内の神社なり、祭神は経津主の神の御子阿佐比古命なりと云う。崇神邸の御宇神田を附し恒例の祭祀はこの時より始まる。後村上天皇の正平年間に千葉氏より神田の寄付あり、又、足利晴氏、千葉胤富に状を下して本社の大禰宜を匝海二郡社々人の長たるべきを沙汰せられたり。氏子は匝瑳郡全体なり。
    一説に云う、本社は物部小事大連を祀れり、續紀に承和二年三月辛酉下総国人陸奥鎮守外從五位下勲六等物部匝瑳連熊猪、改連賜宿禰という條に昔物部小事大連、錫節天朝、出征坂東、凱旋帰報、藉此功勲令得於下総国、始建匝瑳郡、仍以為氏、是則熊猪等祖也とあれば、小事大連は本郡の祖神として永く奉祀せられるべきものにして本神社は即ち是なりと、然れども本社の伝えと異なるを以て記して疑を存す。本社は明治六年十月を以て郷社に列せられ、幣饌料供進指定の神社たり、境内百六十二坪
  • 香取神宮の摂社は奥宮・鹿島新宮・匝瑳神社・側高神社・又見神社・津の東西社(忍男神社・膽男神社)、大戸神社・返田神社ですが・・・古くは、さらに神崎神社・高房神社・切手神社・東大社・木内神社などがあったようです
  •  又伊勢の国飯野、多気、安房の国安房、下総の国香取、常陸の国鹿島、出雲の国意宇、紀伊の国名草、筑前の国宗形など神郡にする。
     常陸風土記に云う。孝徳天皇の世、大化5年巳酉、大乙の上 中臣の□子、大乙下 中臣部鬼子らが、惣領 高向大夫に請願して、下総の海上の国造の領内の軽野より南の一里とか・・・これにちなんで郡の名が付いた。
  • 香取郷
    名義、香取は(かとり・ケン)であって、糸にちなむものである。近くに麻績という郷がある。今は小見という。これもその関係であるとの説は、よくできているように思えるが、却ってそうではないであろう。やはり香取は楫取の事であろう。旧事紀の天神本紀によれば、天照太神は、豊葦原の瑞穂の国は、我が御子に・・・と言って命令を発した。高皇産霊尊が三十二人に命じて、葦原の中国を平定して治めるように。天孫と共に供奉して降りるようにの項目の中に(意を取って文を程よくした)、船長が同じく、梶をとる人たちを率いて、天降りお仕えしたということがある。これが証明している。海夫、船子という村も、楫取の多義であろう。大禰宜家の分家に、かいとりと云う祠人あり、文字を楫取と書くという話である。これらも、因みあることであろう。亀甲山は、亀が四足を伸ばしているような形なので、名付けられたというが、これは、近江の国の香取の地に亀の岡云う字がある。これから取った名であろう。亀の岡は即ち神の岡の意味であろう。万葉集の神の岳も即ち神の岡に違いない。
    清宮秀堅纂 香取新誌 明治12年8月刊行
  • 香取浦
     人丸の歌に大船の云々、これは真淵の説の如く下総の事であろう。光俊の歌、浪あらき云々、古くは渺漫たる大江であって、渡ることが困難なことを考えるように。古本今昔物語に、源の信頼、平の忠常を討する条に、この香取浦のといって、衣川の末とある。昔は利根川の末ではなかったことがわかる。

    衣川は鬼怒川です。現在は利根川の支流ですが、昔は、江戸川に流れていた。江戸時代から本格的に物流のために東遷事業が行われます。で江戸川への分水を減らして銚子の方へと、その結果鬼怒川も小貝川も利根川の支流へとなって行きます
  • 経津主神は香取神宮の神であり、春日社では斎主神として祭られても、これは国譲り交渉の際の縁由からきたもので、主に物部一族が奉斎した神です。

    神道大辞典もいうように、「武甕槌神と経津主神とは同神とする説があるが、なほ別々の二神の名と見る方が妥当であらう」という
  • 多臣とは
    神武天皇-神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫でこれは奈良に神武天皇と一緒に祭られているのだ。またこの氏は吉備津彦神社の神官を勤めている多氏とも同族である。
    このオウ氏は古代出雲、越の国、吉備と大勢力を持った一族である。
    出雲は下加耶(あらかや)であり「オウナムチ」とはオウの国とアラカヤの国を治める人の意という。このオウ族が装飾古墳をもたらした。福岡の珍敷塚の船の絵など。船の操作にたけた一族だった。

    それが常陸から磐城から浜通りそいに密集してある

    このオオ氏の勢力が装飾古墳をもたらしたとするとこれも加耶と関係してくるし実際、真野の入江にこの装飾古墳の痕跡があり横穴古墳があるとす
  • 香取神宮の鎮座する場所は亀甲山とよばれる。また、富家の伝承ではトミノナガスネ彦は神武に反撃したが抗しきれず、出雲に退きそこで他界したが、その時天孫族は出雲神族の分散という和平条件を持ち出し、出雲神族は遠く関東から東北にまで追われたという。東国に出雲系の国造や神社が多いのはこういうことにより、国造は24人中11名、神社は全体の34%にものぼり、特に下野国の約64%、武蔵国の約45%が群を抜いているという。『伊勢国風土記』に伊勢津彦が東に去ったとも、信濃に住まわせたともあるのは、この出雲神族の伝承に対応するものであろう。大和周辺の出雲神族はまず諏訪に行き、そこから関東や東北へと流れていったのかもしれない。

    菱沼勇・梅田義彦『房総の古社』に『常陸風土記』の信太郡の項に「天より降り来たれる神。名は普都大神と号す。」とあり、香島郡の項に「其処にいませる天の大神の社。坂戸の社。沼尾の社。三処を合せて惣べて香島の大神と称う。」とある
  • 『先代旧事本紀』には香取神を斎主とする『日本書紀』一書の二と同じ文章が書かれており、そこではやはり斎主を「今東国楫取地に在す。」と記してあり、香取神宮の祭神としてフツヌシだけを認めてイハヒヌヒを認めていないというわけではない。
    菱沼勇・梅田義彦『房総の古社』によれば、斎主とは神を斎い祭る人の義で、祭祀を主宰する人のことであって、香取神宮の祭神は、本来他のどなたかの神に対する祭祀を司った人を神格化したもの、その死後において、神として祀られたものと解するのが妥当で、死んで香取神宮の祭神となった斎主は物部小事の母親だったのではないかとする。

  •  『新撰姓氏録』の大和皇別の布留宿祢の条に、「大鷦鷯天皇御世。達倭賀布都努斯神社於石上御布瑠村高庭之地」とあるが、布留宿祢は物部氏ではなく天足彦国押人命七世孫米餅搗大使主命之後で春日臣や小野氏・大和和邇氏と同族とされ、天足彦国押人命は古事記によれば孝安天皇とともに孝昭天皇と尾張連の祖奥津余曾の妹余曾多本毘賣の間に生まれた子で、布留宿祢も物部氏より尾張氏・海部氏・和邇氏に近い氏族である。
    経津主は物部氏というよりは尾張氏・海部氏・和邇氏と関係する神とすべきかもしれない
  • 香取郡の南、現在の山武郡あたりといういわれる武社国造が、和邇臣の祖、彦意祁都命の孫、彦忍人命とされているが、この武社国造の勢力が香取神宮に影響力をもっていた時代があったこともありえる。

    富當雄氏は向上官(むかいのじょうがん)出雲臣財(たからの)富當雄というのが正式な名称で、向は弾圧が厳しい時には富ではなく向を名乗ったということであり、上官は出雲大社の祭祀にたずさわる上官家=上席上宮家で、富と日御碕の二家があり、財は出雲の王家の血脈を引き、王者の象徴である勾玉を身に付けることを許された財筋であることを示すという。天皇の象徴である三種の神器のうち、剣は尾張氏系の王権、勾玉は出雲神族系の王権を引き継いだことをあらわしているのではないだろうか
  •  経津主神もクナトノ大神と関係の深い神ということはいえる。『日本書紀』の一書の二に、経津主神が岐神をクニの導きとして各地をめぐり歩き平定し、従わない者を斬り殺し、帰順するものには褒美をあたえ、この時に帰順したのが大物主神と事代主神であるとあり、同じ内容が『先代旧事本紀』にもある。この岐神を猿田彦とするものもあるが、その前段に大己貴神が自分に代わって仕える者として、経津主と武甕槌に岐神を勧めているから、あきらかにこの岐神は出雲神族のクナトノ大神のことである。
     経津主・武甕槌両神は天太玉命の孫又は曾孫とする説もあるらしい。香取神宮第一の摂社とされる側高神社の祭神は古来明らかではないというが、一説に忌部氏系の天日鷲命も祭神の一人というから、この説も無視できないものがある。鹿島神宮でも末社の祝詞社に太玉命、鷲宮に天日鷲命が祭られている
  • 出羽物部氏
    所謂「古史古伝」のひとつである物部文書に拠ると出羽物部氏は物部守屋の子孫と称し、扶桑略記、陸奥話記などには物部長頼が陸奥大目となったことが記載されている。
    しかし、出羽物部氏が本当に守屋の子孫かどうか確実な証拠はない。
    六国史に散見する俘囚への賜姓例の中には、吉弥候氏が物部斯波連を賜ったという記録も見える。

    下総国物部氏
    また、下総国匝瑳郡に本拠を持つ物部匝瑳連の祖先伝承に、布都久留 の子で木蓮子の弟の物部小事が坂東に進出したというものがある。
    これについては常陸国信太郡との関連を指摘する説があり、香取神宮と物部氏の関連も指摘されている。
  • Wikipediaの内容では、古事記には登場せずに日本書紀にのみ登場するフツヌシ・タケミカズチは、「まつろわぬ鬼神」などをことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の「カガセオ」だけは服従しなかったので、シトリガミ・タケハズチを使わし懐柔したとしています。
    第二の一章では天津神となっており、フツヌシ・タケミカズチがまず高天原にいるアメノカガセオ・別名を天津甕星という悪い神を誅してから天原中津国を平定したとなっています。
    天津甕星を制する祭主をする神を「斎の大人」と言い、この神は東国の「香取の地」においでになるということなんです。香取って、香取神宮の場所に、天孫族からみれば鬼神とされた星の神様がいらっしゃったという意味????

  • 『常陸国風土記』香島部の条には、七世紀の第三十六代孝徳天皇の時代、中臣民らに命じ、下総国の北側を割かせ、「神の郡」を置かせた、とある。そしてこの地域の三つの社を合わせて、香島の天の大神と称した、という。この香島の天の大神は何者かというと、天孫降臨に先んじて送り込まれた神で、天の住まいを日の香島の宮といい、また、地の住まいを豊香島の宮と名づけたとある。
  • 徳島県阿波市市場町香美郷社本に鎮座する、建布都神社
    『延喜式』神名帳に阿波国阿波郡の「建布都神社」があり、ここはその論社のひとつです。

    祭神は、建布都神、経津主命、大山祇命、事代主命。
    建布都神については、『古事記』に武御雷之男神の別名であることが見え、『旧事本紀』によれば石上神宮の神とも同神であるようです。
  • 岡山県赤磐市石上に鎮座する、石上布都魂神社
    岡山市の吉備津彦神社と並び備前国一の宮と称され、崇敬を集める古社です。

    『延喜式』神名帳の備前国赤坂郡に「石上布都之魂神社」がみえ、備前国神名帳には「従四位下 布津明神」がみえます。

    『日本書紀』の巻第一第八段の第二の一書は、素盞嗚命が八岐大蛇を斬ったという剣「蛇の麁正」について、「此は今石上に在す」といい、同じく第三の一書はこの剣を「韓鋤の剣」と呼び、「其の素盞嗚尊の蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部の許に在り」とします。

    これらの記述を、当社と関係していると見る説が有力です。

    祭神は素盞嗚尊です。

    『特撰神名帳』は布都之魂神、『神社明細帳』は十握剣をあてています。明治の郷社列格のころ、本来の剣神を祭神とすることがタブー視され、素盞嗚尊へ変更されたともいいます。

    奈良県の石上神宮に祀られる武甕槌神の佩剣・布都御魂神と、素盞嗚命の断蛇の剣とは混同されることも多いようです。

    『新撰姓氏録』大和国皇別の布留宿禰条には、米餅搗大使主の孫の市川臣が、仁徳朝に布都努斯神を大和国の石上の布瑠高庭の地へ持ち込み、祀ったことが見えます。
    どこから、ということが問題になりますが、やはりこの神社からというのが妥当ではないでしょうか。

    姓氏録の所伝は、石上神宮に布都御魂神・布瑠御魂神とともに祀られる布都斯魂神の鎮座伝承であり、また和珥氏族布留宿禰(物部首)の祖先伝承でもあります
  • 愛媛県西条市石延に鎮座する布都神社

    『延喜式』神名帳の伊予国桑村郡に「布都神社」が見え、『日本三代実録』天安二年十月二十二日には伊予国の正六位上布都神に、従五位下の神階を授けたことが見えます。

    当地は『和名抄』に見える、桑村郡津宮郷の中にあり、津宮とは布都宮のことを指すとする説もあるようです。

    祭神は、主神の布都主神のほか、武布都蛇麁正剣、武甕槌神、天照皇大神、神日本磐余彦命、倭武命、高倉下命を配祀します。
    社伝には八神を祀るといい、境内の案内板によると、残る一柱は「秘密祭神」とのこと。
  • 神八井耳命の子孫、建借間命の軍勢が、 故郷杵島山の歌『杵島唱曲(きしまのう たぶり)』を七日七夜歌い、賊を油断さ せ、いっきに滅ぼしたと【常陸国風土記】 にあります。

    この故郷杵島山とは肥前(佐賀県杵島 郡)の杵島山のことともいわれています が、肥前も肥後も同じ火の国です。水俣 出身の民族学者、谷川健一氏はこの記事 について、神八井耳命を祖とする多氏の 一族が九州の地から常陸国鹿島へと遠 征・移住した痕跡をしめす伝承であると 述べています。
  • 諸県君牛は 海人族の首長で鹿をトーテムとしていた のではないかと想像されます。例えば、 福岡の志賀島は海人族の阿曇(あづみ) 氏が本拠地としていたところですが、志 賀海(しかうみ)神社に祖神「綿津見(わ たつみ)神」が祭られています。ここに は鹿の角を一万本以上奉納した鹿角堂があります。
  • 雷=蛇=鍛冶の集団である伊福部氏、あるいは多氏と多氏の同族である小子部ではなかったろうか。
    これまでみたように雷と蛇とはおなじ神とみなすのが日本のみならず古代世界の考え方であつた。

    多氏は蛇神にまつわる三輪山型説話をもち、他方、小子部栖軽(すがる)は雷神制圧の名人である。そればかりでなく、多氏と小子部連はともに神八井耳命を祖とする同族である。
  • 「天孫本紀」には物部一族として香取連をあげないことにもかなりの気懸かりがあり、老尾神社の「老尾」がいまの鎮座地・匝瑳市生尾に通じ、祭神を朝彦命あるいは阿佐比古命(いずれにせよ、麻比古で、安房忌部の祖・大麻比古に当たるか)とすることから、原義は「生ひ麻(おひを)」とみられ、匝嵯も「狭布佐(さふさ。細い麻の義)」とみられます。しかも、老尾神社の祭神が朝彦命または苗加(なへます)命というと『下総国旧事考』に見えます。「苗加命」とは香取連の系図に見える「苗益命」に当たります。そうすると、香取連は安房忌部や矢作連と同系であって※、その奉斎神は、本来の由布津主命(上記香取連系図の「忌経津主命」あるいは「□経津主命」に当たるか)が後になって入ってきた同族の物部の祖神経津主神と緊密に融合した

    香取神社の創祀問題
    その創祀が社伝にいう神武朝ではなく、また志賀剛氏がいう五、六世紀頃の物部小事によるものではなく、景行朝頃の安房忌部の東国進出の時期が考えられる。安房忌部の系図「斎部宿祢本系帳」では、景行天皇の東国巡狩のときに先祖の伊津比古命が安房の浮島宮行宮で新稲を進めたとあって、この随行で東国に至り定着したとみられる。

    香取神社という名の神社が香取から利根川・鬼怒川流域の柏・野田から古河・結城あたりまでの地域(とくに下総国葛飾郡を中心とする地域)に広くかつ濃密に分布する事情も、遥か古代からの勢力圏を考えたほうがよかろう。猿島郡(現坂東市、旧岩井市)下矢作には香取神社が鎮座する事情もある。
    香取連の系図では、「楫取太山命-国貴太楫取命」と二代(実際には同人か)続けるのが「楫取」すなわち香取の初見であり、国貴太楫取命には「神功皇后大祭香取社」と註記するから、四世紀後半頃の成務朝(神功皇后は成務天皇〔景行の子〕の皇后であることに注意)の頃に香取社が創祀されたことが示される。国貴太楫取命の孫の位置におく者(実際には子か)も伊豆矛足命という名であって、香取連の「伊豆」との関連深さが示される。
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/mononobe2.htm
  • 崇神天皇の御代、行方郡の「東の垂の荒ぶる賊を平けむと為て、建借間命を遣しき。軍士を引率て、凶猾を略け、、安婆島に頓宿りて」とあり、そしてその後、そこにいた原住民である国栖を策略を用いて、焼き殺す、という記事があります。
     ・ 大化五(649)年に、古老の話として、「大乙上 中臣☓子、大乙下中臣部兎子等、惣領高向の大夫に請ひて、下総の国、海上の国造の部内、軽野より南の一里、那賀の国造の部内、寒田より以北五里とを割きて、別きて神の郡を置きき」とあり、そして、「其処に有す天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社の三処を合せて、惣べて香島の天の大神と称ふ」とあります。
     ・ 天智天皇の御世(668-672年) に「初めて使人を遣して、神の宮を造らしめき」

    鹿島神宮は比較的新しいということです。
  • May 2016 編集されました
    神八井耳命の弟、神沼河耳(贈綏靖天皇)の子がタケミカヅチ

    大井神社
    水戸市飯富町、那珂川の河岸段丘に鎮座する式内社、大井神社
    由緒書にあるように、仲国造、建借馬命は熊本の意富臣(オフノオミ)ですから、意富(イトミ)が飯 富(イイトミ)になったのでしょう。風土記編纂時には地名を好い字二文字で表すよう指示がでている。
    祭神は、多くの史料では建借馬命とあるが、度会延佳『神名帳考証』では、神八井戸耳命とあ
    る。
    式内・大井神社の論社である、笠間市の大井神社祭神も、神八井耳命。
    『大日本神名辞書』では、建借馬命は、神八井耳命の後裔とも。(玄松子さんHPから引用)
    奈良時代に宇治部氏が建借馬命を奉祭した。 江戸時代には光圀(黄門様)が香取大明神にしてしまっていたようですよ。 


    祭神は伝承としては天照大神という。現地は3回目の遷という。現地に700年以前はこの山の下。東北3社(鹿島・香取・しず)の元宮である。宮司は豊城入彦の補佐として九州(佐賀)より呼び出された。台地の上の社。叢林深い。

    建借馬命は、崇神天皇の御代、夷賊を退治した功績により、那珂国国造となった。

     本殿の中にあった額。大井神社、金刀比羅神社、天照皇大神宮の三社が見える。

    本殿にも井形に大の神紋

    神沼河耳(贈綏靖天皇)の子タケミカヅチ
    (九州では、草部吉見のほうがわかりやすいですかね)は高木神の娘栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)に婿入りし、次第勢力を増していきました。そして阿蘇家の基本を作り、後年 の中臣鎌足、藤原氏につながっていくわけです。
    大日本史を編纂させた光圀が何を思って鹿島から香取に変えたのか?
  • 大井神社
    鎮座地:茨城県水戸市飯富町3475


    社伝によると、第10代崇神天皇の御世に、皇子・豊城入彦命の命を奉じて建借馬命が当地に至った。そして長者山に館を構え、北東の当地に神社を建てて天照大神を祀ったのが創祀という。
    その後奈良時代には、那賀郡(那珂郡)の郡領・宇治部氏が建借馬命を奉斎したという。

    平安時代中期の『延喜式神名帳』では「常陸国那賀郡 大井神社」と記載され、式内社に列している。ただし、笠間市の大井神社も式内社の論社とされている。承平年間(931年-938年)、平繁盛と意富臣の族の松本家秀が大宮司を務めたという。
    応永末年には兵火で社殿を焼失、永正年間(1504年-1521年)に再建したが、天正16年(1588年)の兵火で類焼した。
    江戸時代、寛文8年(1668年)に徳川光圀の命で社殿を修営した。そのときの社名は「香取大明神」であったが、寛政年間(1789年-1801年)に元の「大井神社」に復した。安政年間(1854年-1859年)、徳川斉昭の命で現在の拝殿が造営された。
    明治に入り、近代社格制度では村社に列した。
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