初めてですか? 参加するには、どちらかのボタンをクリックしてください!
関東、印旛の宗像神社 印旛沼・手賀沼・利根川・牛久沼・霞ヶ浦等この一帯がまだ内海であった頃、印旛沼・手賀沼沿岸…
Read the full story here
コメント
そのニギハヤヒを祀る神社が手賀沼から印旛沼にかけてだけに多数存在するのは大きな謎です。しかも、旧・沼南町の布施にある香取鳥見神社の碑には、「手賀とは蝦夷語で鷲の意味」と書かれている
千葉県成田市台方にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。印旛郡市に18社ある「麻賀多十八社」の総本社である。
社伝によれば、景行天皇42年6月晦日、東征中の日本建尊が当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源であるという。応神天皇20年、神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命が現在の成田市船形に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命を祀った。また、伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として和久産巣日神を併せ祀った。この2神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれた。推古天皇16年、伊都許利命の8世の子孫の広鋤手黒彦命が、神命により現在の成田市台方に和久産巣日神を遷座し、それまでの社殿を奥宮とした。
延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真」が三種の神器の一つと同名であるとして、一字取って「真賀多神社」に改称した。後に、一帯が麻の産地であることから麻賀多神社に社名を改めた。
麻賀多神社 (佐倉市鏑木町)
麻賀多神社 (酒々井町酒々井)
その昔 日本武尊 ご東征の折 大木の虚に鏡をかけ 根本に七つ の玉を埋めて 伊勢神宮に祈願さ れました 命は「この鏡をあがめ 祀れば永く豊作が続く」との教を きゝ その鏡をご神体として この 地に稚日霊命を(手里神社)祀り その後 ご霊示によって 七つの 玉を掘り出して稚産霊命(台方神 社)を祀り 共に麻賀多眞大神と して 里人の崇敬を指導されてか ら 益々豊年と楽土が続きました
なお 佐倉藩磯部昌言氏の記す 佐倉風土記を始め塚上の古建碑等 によって治績が広く知られ 又明 治四十四年大正三年の二回に亘っ て古墳が保存され 近年成田市の 史跡に選ばれました
御墳墓は土砂が少しけづられて いる様子ですが 周囲一二〇米 高 さ七米の 方形墳で 南の麓に は 広さ約五平方米の岩屋と 西 麓には 直刀 金環 鎧片等を納 めた石棺と その出土品が現存し ています
伊都許利神社々務所
-墳墓前案内板より-
式内社・麻賀多神社
麻賀多神社は、平安時代に編修された『延喜式』の「神名帳」に記載されて いる由緒ある神社で、市内台方区稷山と、ここ船形区手黒の二社あります。台 方神社は稚産霊神を、船形社は奥の宮で稚日霊神をお祭りしています。
古代豪族物部氏の先祖を祀る
鳥見神社の祭神は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)、御炊屋姫命(ミカシキヤヒメノミコト)、宇麻志麻治命(ウマシマジノミコト)である(一部では御炊屋姫命、宇麻志麻治命を祀るのを忘れた?神社もあるらしいが) 。
饒速日命は「古事記」によれば「天つ神の御子が天降りなされたとお聞きし、後を追って天より下ってきた」という神である。彼は登美に住む、豪勇をもって知られる長脛彦(ナガスネヒコ、のちトミビコ)の妹トミヤビメを妻とし、生まれた子が宇麻志麻治命である。
この「トミヤビメ」こそ誰あろう、御炊屋姫命の別の名である。「鳥見神社」は「トミヤビメ」の名を起源とするトミ一族の神社であったのである。古代豪族「物部氏」の先祖である。
鳥見の丘は何処か
和銅年間(七〇八~七一四)に書かれた「常陸国風土記」に次のような記載がある。
古き伝えに曰へらく、大足日子の天皇、下総の国の印波の鳥見の丘に登りまして留連り遥望み給ひ、東を顧みて侍臣に勅り給ひしく、海は青波浩く行き陸は丹霞空に朦き、国、その中に在りて朕が目に見ゆ、と宣り給ひき。時の人、是に由りて霞の里といひき。
大足日子(景行天皇)が鳥見の丘に行幸されたことを述べている。ことの真偽はおくとして、古来、ここに述べられている「鳥見の丘」は何処か、について多くの議論がなされてきた。「霞の里」(霞が浦)を東に望見することの出来る「鳥見の丘」は中根、小林の鳥見神社に絞られた。
「麻賀多神社」古代出雲文字発見 」
麻賀多神社は印波国造一族の守護神として、また当地方(『和名抄』に記載される印旛郡八代郷)開墾の神として祀ったものであろう。その後一族が分散するにともない、その土地にも麻賀多神社を分祀したのであり、現在の麻賀多神社の分布地は古代における印波国造一族の掌握圏内にあったと考えられる。そして麻賀多神社が印旛沼を渡った北岸には一社も存在しないことから、印波国といっても沼の北側(現在の印西町、本埜村、印旛村など)は、国造の強い支配が及んでいなかったといえよう。
印旛沼周辺の神社と古代氏族 より
鎮座している千葉県は古来、麻の産地であり「総国・ふさのくに」の総は麻を表しております。その中にある印旛地方は下総国成立以前は印旛国であり、朝廷よ り国造(くにのみやつこ)が派遣されておりました。その国造に多一族の伊都許利命が就任してたとの記録が先代舊事本紀に記載されております。その国造が代 々祀ってきたのが当社であり、「麻の国で多氏が賀す神の社」と訓読みすることが出来ます
祭神が不明になっている神社が多い。謎です。
大和国城上郡鳥見白庭山の鳥見大明神を勧請したとも言われ祭神には物部氏の祖神を祀る。八世紀初めに成立した「常陸国風土記」に景行天皇が下総国印旛郡の鳥見の丘より霞の郷を望んだとの古伝がある。・・・和泉鳥見神社社務所の張り紙より
鳥見神社を祀る村落は、白井市神々廻・富塚・名内・橋本・平塚・復、印西市大森・浦部・小倉・和泉・小林・平岡、印旛村萩原、本埜村中根・笠神・萩原・長門屋、沼南町泉・布施・金山の村々である。古代の印旛地方では、宗像一三社、麻賀多一八社と拮抗する。
和銅年間(七〇八~七一四)に書かれた「常陸国風土記」に次のような記載がある。
古き伝えに曰へらく、大足日子の天皇、下総の国の印波の鳥見の丘に登りまして留連り遥望み給ひ、東を顧みて侍臣に勅り給ひしく、海は青波浩く行き陸は丹霞空に朦き、国、その中に在りて朕が目に見ゆ、と宣り給ひき。時の人、是に由りて霞の里といひき。
ーーー
印西市平岡の鳥見神社に伝わる古文書。(印西市教育委員会所蔵)
鳥見社神語 鳥見社(朱印)
以下の説明ある
http://www14.plala.or.jp/nikorobin/komonjyo.html
「鳥見社神語」のベースにあるものは、古事記でも日本書紀でも、また旧事本紀でも無く神皇正統記であった事は驚きである。序文及び結び文を除いた饒速日命の成立から神武天皇の東征及び霊畤の建立までは、ほぼ神皇正統記からの転記と考えてよい。本来、饒速日命とその子孫の説明に付いては特別の事情が無い限り旧事本紀をベースにすると考えるのが一般的だからだ。
神皇正統記は北畠親房が延元3年(1338年)9月初旬、大湊から出港したが暴風雨のため常陸国東条浦(茨城県稲敷市桜川)に漂着、神宮寺城に入る。その後、阿波崎城、筑波郡小田城と転々としたがその小田城で神皇正統記は完成する。しかし、その間に後醍醐天皇は崩御し後村上天皇に神皇正統記を奉る。興国元年(1340年)、次男である北畠顕信の関東下向により写しが関東に戻ってきた。その後、南朝方武士に書写されて広まり、興国4年に修訂となるがその序文に(其後不能再見已及五稔。不図有展転書写輩云々。」とあり誤写誤記が多かったようでもある。
印西市文化研究所の「郷土の文化財」には以下の記述がある。「平岡鳥見神社に伝わる獅子頭と獅子舞は嘗ては大森の鳥見神社に伝わるものだったと言う。延元3年(1338年)南朝方の北畠顕家の軍が和泉の国で北軍に敗れた際に南朝方の落人によってもたらされたと言う。」と。
千葉県(下総国)印旛郡には、元宗像村(現印旛村西部)と言う村があり、ここには6社(師戸・吉田・造谷・岩戸・大廻・鎌苅)の宗像神社が鎮座し、いづれも三女神を奉斎する。この村にはこれらの宗像神社の他には他の神を奉祀していない。この宗像神社の影響を受け隣村の六合村(現印旛村東部)には4社(瀬戸・山田・平賀・吉高)がある。同白井町(市)清戸には、元村社宗像神社(由緒不明)があり、印西市船尾・戸神に2社の以上13社が存在する。一郡内に分祀13社の鎮座する所は他にその比を見ないところである。神社明細帳によってその由緒を窺うに鎮座を古代に係わり付けているものもあるが、印旛沼開拓・治水の神として奉祀されたのであろうことは、いづれの社にも同じであろうとと考えられる。(宗像神社史)
旧記を失い確証となすべきものなし。当社を宗像神社と称する故は、三柱姫の神を鎮祭するが故なり。この宗像神社は大和国春日神社に鎮祭する鹿島香取平岡の神に府座と言うも、鹿島香取は神名式の大社にして実に神代の鎮座なり。この姫神の本社は筑前国なれども鹿島香取の神に府座せる故に、当地に鎮際祭せられたり。と言うのもこの印西の土地たる印旛沼の西方に位置して沼の東方を左とし南方面とし西方を右として半島をなしたり。この神を鎮祭するに最も適した土地なるが宮所をこの地に相(招)したりと見えて、東南西に位置して沼水を展望する村落に皆この神を祀られたり。この神に仕える神家は皆、香取を姓として社伝にも古代先祖は香取から来れりと云う。今は寒郷の村落なれども古代は名神大社の香取に府座する実にやんごとなき郷分社に座しける
入口の鳥居は、道路に面して南向きに建つ。境内に入り、参道を歩くと、右手に古墳。
古墳の南側には岩屋らしき穴があり、西側には石棺。古墳上には、「伊都許利命墳墓」の石碑が立っている。
社伝によると、日本武尊東征の折、大木の虚に鏡をかけ、根本に七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願。
応神天皇の御代、伊都許利命が、印旛国造として当地に来たおりに、
夢の告げにより、稚日霊命の霊示をうけ、大木の根本から玉を掘り出して霊代として、麻賀多神を奉斎したのが創祀。
後、推古天皇十六年(608)に、伊都許利命八世の孫・広鋤手黒彦が、稷山(台方)に社殿を造営した。
よって、当社(船形)は、麻賀多神社の奥宮(あるいは元社)にあたり、台方の麻賀多神社を大宮という。
これらの古墳群は、5世紀後半から7世紀に築造されたもので、武器、武具などの副葬品が多く出土し、被葬者の武人的性格が表されている古墳が多いのが、この地域の特色である。
手賀沼南岸の沼南町片山地区には、オッコシ古墳群、片山古墳群、北ノ作古墳群などがあり、特に北ノ作古墳群はこの地域最古の前期の古墳として注目されている。
印旛沼は、干拓が進み、もとの半分以下になったが、今も県内最大の湖沼であり、その周りには古くから人々が生活していた多くの痕跡が認められる。
特に北東岸の栄町から成田市の一部におよぶ範囲には、千葉県を代表する大古墳群である龍角寺古墳群や上福田古墳群がある。その大部分は房総風土記の丘の古墳公園として保存されている。
古墳時代終末期(7世紀前半)に築造された岩屋古墳、みそ岩屋古墳など全国を代表する大型方墳と横穴式石室に使われている貝化石を含む軟砂岩の石材などはこの地域の特徴といえる。また、埴輪列の復元された龍角寺101号墳は、印旛沼をのぞむ古墳の立地と古代の雰囲気を想像するのに最適である。
印旛沼南岸の佐倉市の鹿島川流域には、佐倉第三工業団地造成に伴って調査された岩富古墳群と、やや上流に飯塚古墳群があり、その下流域の印旛沼を見下ろす台地上には市内最大の山崎ひょうたん塚古墳がある。
手繰川流域には、古墳出現前夜の方形周溝墓と周溝を共有した古墳時代前期の前方後方墳、方墳が調査され、弥生時代の墓制である方形周溝墓から古墳への移り変わりをよく示してくれる飯郷作古墳群がある。
『国造本紀』によると応神天皇の世に、伊都許利命を初代の国造に定めたとあり、今の印旛郡、東葛地区北部周辺を支配していたと思われる。
いずれにしても、印波国では古墳時代前期から終末期までの全時期を通じた国造につながる首長層の古墳を造り続けた地域がないのが特徴といえる
前方部の一部が崩壊しているため本来の全長は不明とのこと。
未調査で内部施設や副葬品は不明だが、前方部高さ4m、後円部高さ8mと高さの差が大きいことからの時代推定。
柏市の北ノ作1・2号墳
北ノ作1・2号墳全景 北ノ作1号墳は、1959(昭和34)年に墳頂部が調査され、粘土・木炭を使用した埋葬施設が発見され、刀などの副葬品や土器群が出土しました。
次いで2号墳の墳頂部の調査が1960(昭和35)年に実施され、粘土を使用した2基の埋葬施設と管玉などの副葬品が発見されました。
さらに、1992(平成4年)には古墳の形を知る目的で、測量・確認調査が行われ、1・2号墳とも前方後方墳であることが明らかとなりました。北の作1・2号墳測量図 1号墳は、前方部が発達途上で方墳に近いタイプですが、2号墳は前方後方墳という名称にふさわしい形です。
このような前方後方形の古墳は出現期古墳・前期古墳に多く、九州から東北まで広域に且つ拠点的に認められています。 これら古墳の造られた年代は、根拠とされる事例の確実性が乏しいため、実年代を述べることが難しいのですが、あえて提示するならば 土器や副葬品の編年などから1号墳が3世紀後葉から4世紀前葉、2号墳が4世紀前葉と想定されている。
(財団法人千葉県史料研究財団『千葉県の歴史』資料編 考古2<弥生・古墳時代>2003)
戸張一番割遺跡(柏市戸張)
戸張一番割遺跡は手賀沼に注ぎ込む大津川左岸の台地縁辺部(文京柏学園・柏日体高付近)に広がる遺跡です。発掘調査の結果、古墳時代出現期(3世紀代)の竪穴建物126棟とそれを取り囲む環濠、前方後方墳1基、方墳4基などを確認しました。竪穴建物からは東海系・北陸系などの遠方の土器が大量に出土したほか、青銅製の鏃・鏡が出土しています。前方後方墳は全長17.4mで、埋葬が行われた主体部は削られており、残念ながら周溝しか確認できませんでした。手賀沼南岸の北ノ作1・2号墳とならんで手賀沼周辺で最も早い古墳として注目できます。
印旛沼物語 白鳥孝治(著) 印旛沼流域水循環健全化会議・千葉県
http://inba-numa.com/html/file/torikumi/mitameshiseika/inbanumamonogatari_03.pdf
古墳時代(4~7 世紀頃)になると、千葉県北部地域の中核と思われる立派な遺跡が数多 く見られるようになります。その一例は、麻賀多神社(18 社)、埴生神社 (3 社)、宗像神社(13 社)、鳥見神社(18 社)、の四つの神社が、印旛沼をとり巻くよう にして互いに混じることなく独立した神社圏を作って分布していることです。小倉7)は、 この四神社圏は、古代氏族の勢力圏を示すといっています。
このうち、麻賀多神社 18 社は、成田市台方に本社があり、それに程近い同市船形に奥宮があって、ここに大きな前方後円墳があります。麻賀多神社は、全国的にみてもここ以外 に見当たりません。また、祭神は初代印旛 国造の伊都許利尊に関係のある神々です。 そんなことから、この神社圏は、印旛国造に任命されたこの地方の豪族の勢力圏と思われます。
埴生神社 3 社の分布する地域は、昔、埴生郡と言われていた地域にあたり、土を司る神の埴山姫命を祀り、ご神体は 土師器です。この地域内から勾玉などを作る工房跡も出土しています。多分、この神社圏は、土器や埴輪・勾玉などを作る技術者集団の居住する地域
だったろうと思われます。
宗像神社 13 社は、いずれも印旛沼北岸の台地南側にあり、沼または沼に注ぐ小河川沿いに鎮座しています。宗像氏は、航海術
にたけた氏族ですので、入り江のような当時の印旛沼の風景に魅せられて、ここに港を造
って居を構えたような連想が生まれます。
鳥見神社 18 社は、印旛沼の北、利根川に近いところに分布し、本社・分社の区別はありません。いずれも古代の大和国城上郡の鳥見山にある鳥見大明神(現在の奈良県桜井市に ある等弥神社)を勧請したとされ、祭神は物部氏の祖 速日 命 らであり、この地域は大 和の大豪族物部氏の支配地と思われます。
伊都許利命は、神武天皇皇子神八井耳命の子孫でその系統は多氏(オオシ)と呼ばれる氏族である。最も古い皇別氏族で伊都許利命の子孫が多姓を賜る。
『安房志』によると「天日鷲尊の神霊が,天下に異変がある時は,金色の鷲となって現れるので,その霊験を畏敬して小鷹の神と称した」とあり、印旛沼の由来は「忌部沼」が訛ったもの。
勝浦市浜勝浦の 遠見岬神社 の宮司歴代の墓碑には「勝占忌部」と書かれている、阿波忌部の後裔。
安房郡白浜町の式内社 下立松原神社 の由緒には 「天富命が天日鷲命の孫由布津主命,その他の神々と当地方開拓に上陸し,のち由布津主命が祖神の天日鷲命を祀った社」 と記されている。
館山市相浜にある 楫取(かんどり)神社 の祭神は 宇豆彦命(ウズヒコノミコト)で天富命に従ってこの地に渡り,漁業を主として指導したといわれる。
この楫取名は徳島県の吉野川で使用された川舟である楫取舟と関係すると思われる。
阿波忌部が上陸した地・館山市布良の 布良崎神社 (祭神:天富命)周辺に「神余」(かなまる)という地名があり,これは安房神社に奉仕する忌部神戸が増えてあふれた人達が新しく開拓したことに由来する。「安房神戸(あわかんべ)」という地名もある。