多氏、意富氏、大生神社、多神社、大井神社

April 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image多氏、意富氏、大生神社、多神社、大井神社

多氏 大分君、阿蘇君などと共に神八井耳命を祖と仰ぐ同族 【古事記】多(意富、大生)氏の同族: 意富臣、小子部連…

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  • 多神社

    正倉院文書として残っている天平2年(720)の大倭国主税帳には、多、太、神戸かんべの租稲が、10,690束だったと記されている。また大同元年(806)の神戸かんべ(神社に属して租庸調や雑役を神社に納めた民戸)や神封戸しんふこが、大和の国に10戸、播磨の国に35戸、遠江に15あったという。それほどの神社だったため、延喜式では明神大社に列せられた。現在も正一位勲一等多大明神の扁額が鳥居に掲げられている。
  • 安萬侶の祖父に多臣将敷おおののおみまさしきがいる。661年9月、人質として我が国に逗留していた百済の王子・豊璋を百済に帰国させるとき、中大兄皇子は九州の長津宮で豊璋に倭国最高位の「織冠」を授け,5000人の兵をつけて朝鮮半島の百済遺臣の鬼室福信らのもとへ送り返した。そのとき将敷の妹を娶わせて豊璋の妻としている。すなわち、安萬侶にとって叔母にあたる女性が、王の妻として朝鮮半島に渡っているのである。
  • 大生神社は祭神として武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)を祀っている。元は郷社だったが、創建年代は詳らかでない。伝承によれば、鹿島神宮の本宮と言われ、当神社が鹿島本社に遷座したという。ただし、説明板には、古く大和の国の飯富族が常陸の国に移住した際、氏神として奉遷して祭祀したのに始まるとする説を紹介している。
  • 上総の飯富氏

    上総国望陀郡飯富の庄(現在の千葉県袖ケ浦市飯富)を本貫とした一族である。清和源氏または甲斐源氏の流れをくむ一族とされているが、詳細は分からない。別の説もある。多氏は太、大、意富、飯富、於保とも記され、九州と畿内にも系譜が伝えられている。一族は大和国十市郡に移り、同地の飫富郷に住む。甲斐国、信濃国の飫富氏は、その一族とされている
  • 袖ヶ浦の飽富神社

    飽富神社 は、綏靖天皇元年に皇兄神八井耳命が創始したと伝えられています。祭神は、倉稻魂命など二柱を祀っています。敷地3,217坪の境内には社殿(流造)が建っています。旧称を飫富神社又は飯富神社ともとわれ平安時代の法令集「延喜式」にはすでにその名がみられます。明治5年に県社になりました。末社は東照宮他で小櫃川流域の沃野を眼下に杉の老木が枝を交える荘名厳な神苑の風景は古社であることをしのばせています。社殿は元禄4年(1691年)に再建された権現造りです。祭神の倉稲魂命は農耕の神様です。
  • 神八井耳の後裔

    古事記』では伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造の祖とする。

    『先代旧事本紀』「国造本紀」では、次の国造が後裔として記載されている。

    印波国造 - 軽島豊明朝(応神天皇)の御世に神八井耳命八世孫の伊都許利命を国造に定める。のちの下総国印旛郡印旛郷周辺にあたる。

    科野国造 - 瑞籬朝(崇神天皇)の御世に神八井耳命の孫の建五百建命を国造に定める。のちの信濃国周辺にあたる。

    阿蘇国造 - 瑞籬朝(崇神天皇)の御世に火国造同祖の神八井耳命の孫の速瓶玉命を国造に定める。のちの肥後国阿蘇郡阿蘇郷周辺にあたる[。
  • 印旛

    麻賀多神社(まかたじんじゃ)は、千葉県成田市台方にある神社である
    社伝によれば、景行天皇42年6月晦日、東征中の日本建尊が当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源であるという。応神天皇20年、神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命が現在の成田市船形に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命を祀った。また、伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として和久産巣日神を併せ祀った。この2神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれた。推古天皇16年、伊都許利命の8世の子孫の広鋤手黒彦命が、神命により現在の成田市台方に和久産巣日神を遷座し、それまでの社殿を奥宮とした。
  • 印西市

    印旛沼・手賀沼・利根川・牛久沼・霞ヶ浦等この一帯がまだ内海であった頃、印旛沼・手賀沼沿岸に宗像神社13社、鳥見神社二十社、麻賀多神社17社が、全国的にも類を見ない特異な形態で配祀されました。


    鳥見神社は印旛沼北岸内に集中して分布し、その範囲は古代の言美郷にも比定される。一説に大和国城上郡鳥見白庭山の鳥見大明神を勧請したとも言われ祭神には物部氏の祖神を祀る。八世紀初めに成立した「常陸国風土記」に景行天皇が下総国印旛郡の鳥見の丘より霞の郷を望んだとの古伝がある
  • 応神天皇十二年詔により印旛の地に印旛国造伊都許利命を置く。先ず印東を鎮め公津の地に居す。公津は神津なり。命印西の渡りまず平賀地を開く。平賀は開くの意にして印西の地これより開かんとの旨にて村名となる。この地は四面湖水に望み北端の一角僅かに山田村に接す。年々水難を蒙ること夥しく南端に水神水波女神を祭り土民を安堵せしめる。命治水の功を績みここに宗像神社を鎮める。これ命の功績と共に後世に伝え平賀の二宮と言う所以なり。この地が発するや麻・穀を植え耕作の進歩を計る。ここに麻を数多く作る人を生ずる。命また居家を定め応神天皇を祭り大伯父、神八井耳神を以って鎮祭の禮を行う。今日残る笠井一族は神八井耳神の後裔で、世俗に平賀山田に地は粟または氾海と称す。これ阿波忌部に因みのあるによる。
  • 千葉県(下総国)印旛郡には、元宗像村(現印旛村西部)と言う村があり、ここには6社(師戸・吉田・造谷・岩戸・大廻・鎌苅)の宗像神社が鎮座し、いづれも三女神を奉斎する。この村にはこれらの宗像神社の他には他の神を奉祀していない。この宗像神社の影響を受け隣村の六合村(現印旛村東部)には4社(瀬戸・山田・平賀・吉高)がある。同白井町(市)清戸には、元村社宗像神社(由緒不明)があり、印西市船尾・戸神に2社の以上13社が存在する。一郡内に分祀13社の鎮座する所は他にその比を見ないところである。神社明細帳によってその由緒を窺うに鎮座を古代に係わり付けているものもあるが、印旛沼開拓・治水の神として奉祀されたのであろうことは、いづれの社にも同じであろうとと考えられる。(宗像神社史)
  • 「山城国風土記逸文」によると、桂という地名は、天照大神の命令で月読尊が保食神を調べに天界から降りてきたとき、最初に到着した場所なのだそうだ。そこに桂の木があったので、月読尊はしばし木に寄って休息した。そこでその土地を桂の里と名づけたというのである。

     この話は、ただの伝説だと思われている。
    だが、ここから桂川をさかのぼると保津川に至り、さらに丹波に行き着く。月読尊が保食神に出会って殺したのは、あるいは丹波だったかも知れない。そういえば、出雲大神宮には保食神(宇賀御魂:うかのみたま)を祭る磐座もある。もちろん、出雲大神宮のそばにも月読橋、月神社(月読神社)もあるが、これは必ずしも伝承が正しい証拠にはならない。

    大井神社には、まさにその通りの伝承が残るのを発見した。大宝二年(702年)、月読尊が市杵嶋姫と一緒に亀に乗って桂川をさかのぼって来たが、流れが激しくて進めなくなり、鯉に乗り換えて在元(ありもと)渕まで来た。和銅三年、勅命によりそこに神社を建てたが、のち現在の大井神社に遷したという
  • 亀岡市の大井神社
    月読命 (つきよみのみこと)
    市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)
    木俣命 (きのまたのみこと) - 別名を御井神(みいのかみ)

    鯉伝説
    創建に関わる伝承として、大宝2年(702年)に京都市西京区の松尾大社から月読命と市杵島姫命が亀の背に乗って大堰川を遡上したが、八畳岩辺りから保津の急流で進めなくなったので鯉に乗り換え、亀岡市河原林町勝林島の在元淵にまで至った。それを見た工匠が社を建立したという(河原林町の大井神社)。その後、現在地に遷ったと伝えられる。
    大井の語源
    亀岡盆地は太古は「丹の湖(にのうみ)」と呼ばれる湖であったといわれるが、それが無くなるときに当地に水が乾き残り、旱魃でも枯れない「大いなる井戸」として永く残ったのが「大井」の名の発祥の由来とされる。そしてこの井戸に万一のことがあれば平野が湖に戻るか旱魃地帯になると憂いて、井戸の神である木俣神(御井神)が勧請され祀られることとなった。

    京都の嵯峨の渡月橋の大井神社
    創建は不詳。

    一説として、秦氏が葛野大堰を築き当地を開拓した際に治水神として祀ったのが創祀ともいわれるが、明らかではない]。また『日本三代実録』]に見える「山代大堰神」を当社に比定する説もあるが、これも明らかでない。

    延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国乙訓郡に式内社として「大井神社」の記載があり、当社はその論社とされている。ただし現社地は旧葛野郡に属することから、『式内社調査報告』では当社は式内大井神社ではなく松尾大社末社の堰神であるとし、式内大井神社は廃れたと推測している。
  • 大枝神社の由緒書きによると、大枝神社は、元々、康保四年(967)施行の『延喜式』に記載された、「乙訓郡十九座(大五座 小十四座)」の一つ、「乙訓郡大井神社(おとくにこおりおおいじんじゃ)」ということです。しかし、大井神社については、他に嵐山の大井神社(京都市右京区嵯峨天竜寺造路町)等も比定されていて、実際は不明です。そして、現在の祭神は、高美計(たかみのけ)神で、この地の先住民といわれる大枝氏の祭祀神といわれています。

    由緒書きは、続けて・・創建当初は、聖徳太子の幼児像が祀られていた事から、千児明神(ちごみょうじん)と称していたと記し、現在は大枝神社から東に、前回にブログに採り上げた兒子神社(ちごじんじゃ 京都市西京区大枝塚原町)が祀られているとしています。ただ、両社の創建時期等が不明なため詳細は不明です。


    こ京都市西京区の「大枝(おおえ)」
    古代氏族・土師(はじ)氏の流れを汲む大枝(大江)氏と関係する地名と考えられています。

    土師(はじ)氏は、古代神話の神・天穂日命(あめのほひのみこと)の後裔である野見宿禰(のみのすくね)を始祖とするとも、また、渡来系氏族という説もある古代氏族で、高野新笠(桓武天皇の生母)の母方の家系も土師氏の一派、毛受(もず)の系統に属していたと『続日本紀』は記します。この一族は、山城国乙訓郡大枝郷を本拠としていたようで、桓武天皇は、自身の親族でもあるこの土師氏の一派に、大枝(大江)という姓(かばね)を与えました。

    『続日本紀』によると、延暦九年(790)十二月一日、桓武天皇は勅して、自身の母方の祖父、高野朝臣乙継(たかのあそみ(あそん)おとつぐ)と祖母の土師宿禰真妹(はじのすくねまいも)にそれぞれ正一位を追贈し、祖母の氏の土師氏を改めて「大枝朝臣」とするように命じています。そして、同族の菅原真仲(すがわらのまなか)と土師菅麻呂(はじのすがまろ)らに大枝朝臣が授けられています。
    さらに、同月二十八日、桓武天皇は勅して、正六位上の土師諸上(はじのもろがみ 諸士とも)に大枝朝臣の氏姓を賜っています。そして、天皇の母の中宮高野新笠(桓武天皇の生母)の母、贈正一位大枝朝臣真妹(土師宿禰真妹)の家系の土師氏には、「大枝朝臣」を賜り、その他の土師氏の系統の者には、「秋篠朝臣」や「菅原朝臣」を名乗らせたと記しています。

  • 静岡の富士川周辺
    秦川勝に叱咤された大生部の多(おおうべの・おう)一族が住まっている。「枕草子」に「浦はおほの浦」とあり、中世には於保、「和名抄」に飯宝、飫宝と書いて「おう」とある。静岡県磐田市のことである。

    ここから太平洋を北上すると千葉県袖ヶ浦に飯富(いいとみ)があり、式内飫富(おう。現在は飽富)神社がある。
    さらに北上して茨城県行方(なめかた)郡潮来町に大生原(おおうはら)がある。ここは建貸間(たけかしま)命軍勢が「杵島歌」を歌って国栖(くず)という山賊をおびき出して殺した記録が『常陸国風土記』にある。
    「きしま」は「かしま」であるので茨城県鹿島郡の「かしま」と同じである。その「きしま」は阿蘇山のひとつ杵島岳に由来する地名である。

    また同じ風土記に「ヤマトタケル食事を煮炊きするために小屋を海辺にかまえ、小舟を並べ連ねて橋とし、行宮に通った。そこで大炊(おおい)の意味をとって大生と名づけた」ともある。これらの「おう」地名はすべてが多氏居住の痕跡であると言える。

    大井神社がある。

  • 健磐龍命(たけいわたつのみこと)とは、日本神話に登場する人物で、阿蘇神社の主祭神である。神武天皇の子である神八井耳命の子だが下記の伝説のように、阿蘇山の神としての性格も持つ。子に建稲背命、速瓶玉命(国造大神)、八井耳玉命(甲佐明神)

    異本阿蘇氏系図によると、阿蘇氏は神八井耳命の五世孫の武五百建命(たけいおたけのみこと)が崇神天皇の御世に阿蘇国造となり、日本書紀の景行天皇の親征に見える阿蘇都彦は武五百建命の四世孫の美穂主命であるとする。さらに子孫は阿蘇直を賜ったが、阿蘇直本流はのちに断絶し、傍流の宇治部公(菟道稚郎子皇子の子代部に由来。のちに宇治宿禰を賜姓)が国造職を継承し、現在の阿蘇氏は宇治部公の系統であり、阿蘇氏が阿蘇君に改めたのは江戸時代にまで下る。

  • 武五百建命の第二子健稲背命が科野国造に任じられ、七世の孫金弓君は欽明天皇に仕え金刺舎人の姓を賜り、子孫はそれぞれ諏訪大神大祝、諏訪評督、伊那郡主帳などを世襲し諏訪氏、金刺氏等諏訪神党の祖先となったという。

    武五百建命とは別系統の神八井耳命の六世孫、建諸組命が火国造、その第二子建弥阿久良命が大分国造、建諸組命の弟建川邊命の孫、建後上命が伊余国造を賜ったとされ、さらに系図によれば龍造寺氏がこの後裔であるという。
  • 不思議

    『古事記』に見られるように、諏訪地方を中心に信濃国には上古から諏訪神・建御名方命の後裔と称する氏族・諏訪神族が繁衍していましたが、諏訪神族の入部以前から当地にあった洩矢神の後裔と伝える氏(神長官守矢氏)もあり、これらに加え、崇神朝に信濃北部に入った科野国造一族があって、これら諸氏がみな、諏訪神奉斎に関与し、系譜的にも多くの混淆があったようです。本来、三輪一族の諏訪氏(神氏、神人部宿祢氏)と皇別・多氏族系の科野国造一族という異系統の諸氏族が同じ諏訪神を奉斎するのは不思議か
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/suwasya1.htm
  • 諏訪神・建御名方命の一族は、『古事記』にいう天孫降臨の時ではなく、神武の大和侵攻の時にこれに抗して敗れ信濃の諏訪地方へと遷住したが、その子神たちは多く、名前が様々に伝わるものの異名同人なども判別できず、系譜の世代関係を明確に把握することができない。従って、その子の伊豆早雄命(片倉辺命と同神か。諏訪への東遷の主導者だったか)からその四世孫にあたるとみられる会知速男命までの歴代は不明である。会知速男命の娘は崇神朝に大和から信濃北部に来て科野国造に任じられた武五百建命(多臣の一族)の妻となり、その間の子の健稲背命からは科野国造の一統がつながるが、その後も洲羽(諏訪)・科野(信濃)の両系統の通婚が多く見られる
  • 若麻績部君氏の先祖がどのように上毛野君から分れたのかは不明であり(毛野氏族の系譜の中でどのように位置づけるのかは不明)、諏訪氏や科野国造一族との関係も不明である。ただ、上毛野君氏の実系は、崇神天皇の後裔という皇別ではなく、海神族系の三輪氏族からの分岐であるから、諏訪氏族に通じるものがあり、『善光寺縁起』によると、大和三輪出身の三輪時丸が善光寺に参詣して、そのままこの地に止まったということで、当地を三輪と称したとも伝える事情にもある。
  • July 2016 編集されました
    祇園祭り
    綾戸国中神社
    昔は綾戸宮と國中宮の二社であったが、現在では合祀され、左に綾戸宮が、右に國中宮が鎮座されている。

    御祭神 綾戸宮, 大綾津日神, 大直日神, 神直日神, 國中宮, 素盞鳴神
    例祭日 五月巳日(現在では五月第二日曜)
     社伝によれば、第二十六代継体天皇の御代には大堰川(桂川)七瀬の祓神として大井社と称し第六十二代村上天皇天暦九年(965年)綾戸社に改称され、社号の額は第七十代後冷泉帝の御震筆と伝えられている。

     また、國中社は本来蔵王の杜(現光福寺蔵王堂)に社地があって中世には牛頭天皇社とも呼ばれていた。古くには久世郷全体の郷社であったと推定される。戦国時代、國中社が綾戸社の境内に移され、以来綾戸國中神社と称するようになったのである。

    旧西国(さいごく)街道が西行から南転する地点のほぼ西方に鎮座する。 祭神は大綾津姫(おおあやつひめ)命、大直日(おおなおび)命。 江戸時代まではもっぱら綾戸社の称でよばれていたが、近代になって現社名を名乗る。 合祀する国中社の祭神は素盞鳴(すさのお)命。

  • 江戸時代の国学者平田篤胤(あつざね)は『鬼神新論』で、次のように述べている。

    大禍津日神(オホマガツヒノカミ)とは、またの名を八十枉津日神(ヤソマガツヒノカミ)、大屋毘古神(オオヤビコノカミ)とも称し、穢れを祓う神で、世に穢(きたな)らしい事が起きれば、激しく怒り、凄まじい枉事(まがごと)をもなす大神だが、常には大きな御功徳を授けてくれる、またの名を瀬織津比メ神とも称し、祓戸(はらいど)神であり、世の禍事罪穢れを祓ってくれる、善い神である。

    平田篤胤はスサノオが悪神から善神に急変したのを、アマテラスの和魂(ニギミタマ)と荒魂(アラミタマ)を前提に、スサノオにも和魂と荒魂があり、神も罪穢れを憎むあまり、激怒して荒ぶることもするが、それは荒魂が大禍津日神に同調するからで、その荒ぶる心を鎮めるのは、和魂が直毘神(ナオビノカミ)に同調するからだとする。
    平田篤胤は、禊祓い(みそぎはらい)の神々の筆頭に、八十禍津日神(八十枉津日神)があげられており、後述する『大祓詞』では祓戸神の筆頭に瀬織律姫が登場することが両神を同一神と位置づけたものと思われる。
    大屋毘古神はスサノオの子で、『日本書紀』にのみ登場する五十猛神(イソタケル)と同一神で、大禍津日神とも同一神とされる。また、イザナギが大綾津日神を吹き出したとあり、これが穢れから生まれたとする記述はないが、大綾は大禍と同じ意味であることから、大綾津日神と大禍津日神は同一神と考えられている。
    これらのことから平田篤胤は大禍津日神を核として、八十枉津日神・五十猛神・大屋毘古神・大綾津日神などが瀬織律姫と同一神だとするのだろう。
    しかし、大禍津日神は八十禍津日神の次に誕生しており、別の神である。また、八十枉津日神は「川の神、水神、浄化の神」であることを象意しているが、神々の性別にこだわるのも妙な話だが、明らかに男神である大屋毘古神(大綾津日神・五十猛神)まで加えるのは疑問に思う。
  • 「綾戸」の地名は
    ・群馬県渋川市に綾戸渓谷、綾戸トンネル
    ・岐阜県不破郡垂井町に綾戸(あやど)
    ・滋賀県蒲生郡竜王町に綾戸(あやど)
    ・京都府京都市南区久世上久世町に綾戸国中神社(あやとくなかじんじゃ)
    ・京都府京都市左京区の綾戸小路(あやとのこうじ)

    また、京都市の綾戸小路の名の由来となったのが、左京区南禅寺福地町
    にある臨済宗南禅寺派大本山「南禅寺」の鎮守、「綾戸明神」もあります。

    岐阜県不破郡の綾戸の地名はこの地の古い郷名「文部(あやべ)」に由来
    します。
    「戸」は東北の地名「一戸」や「八戸」などのように(へ)とも読まれますので、
    「綾戸」で(あやべ)とも読める訳です。
    また、(あやべ)の地名は京都府北部の綾部市があり、
    「綾部」は古く「漢部」と記し、大陸からの渡来人漢氏の領地であったこと
    による地名です。
  • 祇園祭り
    何故、綾戸國中神社から八坂神社へと稚児が来るのかと言いますと両神社とも祭神には素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀っているからなんです。綾戸国中神社に祀られているのは『荒御魂(あらみたま・荒々しい勇猛な魂)』で八坂神社に祀られているのは『和御魂(にぎみたま・穏やかな心を持つ魂)』と言います。

    ※荒御魂や和御魂は神様の霊魂の種類の1つです。詳しくは、祇園祭 2011 社参の儀・久世稚児(八坂神社)の記事をご覧ください
    2つの魂が合わさる事で素戔嗚尊がひとつになり神幸祭と還幸祭で四条一帯を巡行出来るようになるんですね

    ※つまり祇園祭は綾戸國中神社の祭でもあるというわけです。
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