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多神社注進状 磯城の地には三輪山の大物主神を祀る三輪氏と、磯城御県坐神社を祀る磯城県主家があった。三輪氏が磯…
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社名の通りであれば弥志理都比古(みしりつひこ)を祀る神社ということになるが、これは神八井耳命のこととされる。神武天皇の長子でありながら弟に皇位を譲ったので、「身を退いた」という意味で「ミシリツヒコ」とも呼ばれる。
古くは春日宮と称し、現在の社領地は約1万m²余を有するが、『大和志料』によると、天文21年(1552年)、当地の領主・十市遠勝より周囲6町四方の土地(約42万m²)を寄進されたとあり、四方に鳥居があったという。
多神社は『多神宮注進状』に旧名春日宮とあって、元は春日神社と言ったらしい。
「多神宮注進状」によると、八井耳命これを創斎し、その母族の従兄弟にあたる春日県主遠祖の大日諸命を祭司とし、崇神朝に十市の太郷に神社を建て、此の社の旧名は春日宮といったが、後に多神社という。
「オホ(多・大・太・意富)」は「イホの臣」の「イホ」であり、「斎き祭る」の意で、これは神八井耳命を指し、そのまま地名・姓になる。
大日諸 (合江守)。
河内の県主。
オホマ、イトオリ姫 (綏靖天皇のココタヘ) 、ヌナタケ姫 (クシネの妻) の父。
ナガスネの反乱の時、大和の層富にタケチノコリと共にナガスネ軍の動きを防ぐ。
神武東征軍は、河内草香のアウヱモロの館で戦備を整え、クサエ坂にてナガスネヒコと初戦を交える。
オシクモ無き後、層富と河内 (河内の枚岡辺りはオシクモの所領だったらしい) を兼ね治める。
ヤマト平定後に春日県主になったらしい。
創建時期ははっきりしませんが、狭野火火見彦命を祭神とする古社です。
紀では神武天皇は神日本磐余彦尊(かむ・やまと・いわれひこ)、
狹野尊(さの)、彦火火出見(ひこほほでみ)と称されています。
狹野尊の名前は神武天皇の幼名に因むものです。
祭神:狭野火火見彦命(神武天皇)
社殿は鮮やかな朱塗りの春日造、檜皮葺で、木像が祀られています。
磯城郡田原本町の多坐弥志理比古神社の木像が、本来は磐余神社の神像であったといわれています。弥志理都比古(みしりつひこ)とは神武天皇の息子・神八井耳のことです。