夫余の伝承、高句麗、朱蒙、金蛙王

December 2018 編集されました カテゴリ: 韓半島
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建国論衡(『後漢書東夷伝』『魏略』)「昔、北夷の索離国があり、王は侍女が妊娠したので殺そうとした。侍女は「以前…

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コメント

  • 3世紀における「高句麗・夫余」の2国と沃沮・東濊の2部族は、すべて前漢代の「濊貊」の後裔である。日本では「高麗」と書いても「貊(狛)」と書いても「こま」と読む

    濊貊(わいはく、かいはく)とは、中国の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省東部から北朝鮮東部にかけて、北西~南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族。同種の近縁である濊と貊の二種族を連称したもの。周代以降の記録に濊・貊の名が見えるが、漢代に入り濊貊と記されるケースが増える
  • 濊貊系とみられる集団は、他に沃沮・部類(符類、附類)・高夷・東濊などと、貊と同音または近似音の貉・北發・白民などがある。史書には、夫余の出自が濊とみられる記述があり、また貊を高句麗の別名または別種と記す。部類と夫余の上古音が同じ(Pĭwa ʎĭa)とする説もある、晋の孔晁は高句麗を高夷の子孫としている。

    『後漢書』では、濊・沃沮・高句麗は元々朝鮮(衛氏朝鮮)の地に居たと記す。

  • 紀元前284年、燕は自国内に郡制を設け上谷から遼東までを5郡とし、東胡を防ぐためその北に東西二千里の長城を築いたが、『史記』によれば、この頃(燕の全盛期)、朝鮮は燕の配下に入っていた(朝鮮と真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地には砦を築き官吏を駐在させた)。また、中国商人の権益を保護していた。秦代(燕が秦に滅ぼされて後)は秦の属領となり、燕の時代に築かれた朝鮮・真番の砦は二つだけ残して廃されたが、遼東郡の保護下にあった。秦末(紀元前209年)、陳勝呉広の乱が起こると中国全土は大混乱となり、燕国は韓広を王として再び独立を成し遂げた。紀元前206年、秦が滅ぶと、天下の覇権を握った項羽によって臧荼が燕王に立てられ韓広は遼東王に左遷された。ここで燕は遼河を挟んで東西二つの国に分かれたことになる。その年の内に臧荼は韓広を攻め遼東を併合して燕全体の王となった

  • 『史記』によれば、前漢の高祖の時代の紀元前202年、燕王臧荼は反乱を起こして処刑され、代わって盧綰を燕王に封じたが、紀元前197年に盧綰が漢に背いて匈奴に亡命すると、劉建を形式的な燕王に封じたが実態は遼東郡を含む燕の旧領を直轄化した。その際、燕人の衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降)も亡命し、清川江を南にこえ、千人余りの徒党と共に朝鮮に入り、中国人(燕・斉の亡命者)と原住民の連合政権を樹立、王険城(平壌)を首都として王位に就いた。その時が恵帝高后時だ。


    異説として、後世に書かれた『三国志』『魏略』及び『後漢書』には、前漢建国当時の朝鮮は箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていた(→箕子朝鮮)が、後に朝鮮王を僭称するようになったこと、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われたこと、箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略し、そこで韓王となったという記述がある。
  • 三伝して孫の衛右渠に至る。右渠は漢の意のままにはならなかったため武帝は朝鮮を帰服させようとし(実は匈奴を牽制するためともいう)、紀元前109年-紀元前108年、遠征を行い、衛氏朝鮮は滅ぼされた。その故地には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ漢の領土となった。

  • 紀元前195 - 紀元前2世紀 衛満(衛という姓は後世の記述)
    紀元前2世紀 - 紀元前108 衛右渠([史記]年表では「張路」)

    衛氏朝鮮
    衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)は、その実在について論争のない朝鮮半島の最初の国家である。中国の燕に出自を持つ中国人亡命者である衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは『三国志』以降)が今の朝鮮半島北部に立てたとされる

    滅亡
    右渠は漢の意のままにはならなかったため武帝は朝鮮を帰服させようとし(実は匈奴を牽制するためともいう)、紀元前109年-紀元前108年、遠征を行い、衛氏朝鮮は滅ぼされた。その故地には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ漢の領土となった
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