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その後、238年司馬懿の討伐を受けて滅亡する。
帯方郡は、公孫氏に続き、魏、晋の支配を受け、313年に滅亡する。
これは、晋の滅亡と同時期である。
しかし、この魏書に書かれている韓は3世紀のことで、この頃の帯方郡は魏の一地方組織であった。
魏書韓伝にある韓の説明
「韓は帯方の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。
四千里四方。一は馬韓、二は辰韓、三は弁韓という。辰韓は古の辰国である」
馬韓
五十五国の名前が列挙してあるが、煩雑なのでこれを略す。
この内の伯済国が後の百済になったと言われている。
「五十余国よりなり、大国は万余家、小国は数千家、総数十万余戸。
辰王は月支国で統治している」
「魏の部従事の呉林は、本は楽浪郡が韓国を統治していたので、辰韓八国を分割して楽浪郡に与えたので韓の臣らは帯方郡の崎離営を攻めた」
「時の太守弓遵と楽浪太守劉茂はこれを討伐し、弓遵は戦死したが韓を滅ぼした」
「辰韓は馬韓の東にある。その古老世に伝える。古の亡人、秦の労役を避けて韓国に来て、馬韓がその東の地を割いて与えたのだと自ら言っていた」
「城柵がある。その言語は馬韓と同じではない」
以下略
「お互いを相呼ぶ時は徒という。秦人に似ていて、燕や斉のものではない。楽浪人を阿残と呼ぶ。東方人は我が名を阿という故、阿残とは、我残りたるものの意、つまり、楽浪人は、本は自分たちと同じで楽浪に残った人の意味である。今、この国を秦韓という者もいる」
「始めは六国あり、稍分かれて十二国となる」
「弁辰また十二国あり。また、小村落あり、その長を臣智、その次を險側、次に樊濊あり、
次に殺渓、次、邑借あり」
次に各小国の名前が列挙してあるが煩雑なので省略する。但し、このなかの斯盧國が後の新羅であると言われている。
「弁、辰、併せて二十四国、大国は四、五千家、小国は六、七百家、総じて四、五万戸。その十二国は辰王に属す。辰王は常に馬韓人を用いてこれを作り代々受け継いでいる。辰王は自立して王とはなれない」
「土地はよく肥え、五穀や稲に適す。養蚕を行い、絹布を作る」
「牛馬に乗り車を引かせる」
以下略。
「弁辰と辰韓は雑居していて、又、城郭がある」
「衣服、居処は辰韓と同じ、言語、法俗も相似たり、祭祀鬼神は異なる」
以下、略。
「その瀆盧国は倭と境界を接す」
「十二の国には王がいる」
以下略。
以上は魏志韓伝
「国には鉄が出て韓、濊、倭、皆従ってこれを取る。諸市、中国で銭を用いるがごとく鉄を用いて買っている。又、楽浪、帯方郡にも鉄を供給している」
以下略。
「男女は倭人に近く、又、文身をしている」
「歩いて戦い、兵器は馬韓と同じである」
以下、略。
新羅も百済もその中の小国にすぎなかった。
馬韓、辰韓、弁韓ともに強力な支配者はいない。楽浪、帯方郡のような魏の直轄地でもない。
四千里四方。一は馬韓、二は辰韓、三は弁韓という。辰韓は古の辰国である」
『史記』よりもはるか後世に書かれた『三国志』には「辰韓者古之辰国也」とあり、3世紀の辰韓は辰国の後身とされている。
これに対し、『三国志』よりもさらに新しい『後漢書』では「韓有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韩(略)凡七十八国(略)皆古之辰国也」とあり、三韓の地すべてが昔の辰国であるとしていて『三国志』とは異説となっている
初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。準後滅絶、馬韓人復自立為辰王。
初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を撃ち破り、韓王として自立した。準の後裔は滅絶し、馬韓人が再び辰王になった。
これは、燕国から千余の兵士を連れて朝鮮に逃亡してきた満(衛満)によって国家を簒奪された朝鮮王準の後事を記したもの。具体的な年は不明だが、紀元前195年に燕王が匈奴に亡命しており、同時期に衛満も燕国を脱出いるはず。そこから朝鮮の王権を奪取するまでに何年を要したかだが、10年前後のことではないかと想像する。
いずれにせよ、紀元前二世紀には辰国が存在していたことだけは確実である。
『三国志魏書』馬韓伝
魏略曰:初,右渠未破時,朝鮮相歴谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘戸,亦與朝鮮貢蕃不相往來。
魏略には、初め、右渠がまだ破れていない時、朝鮮の宰相である歴谿卿が右渠に諌言をしたが用いられず、東の辰国に亡命した。そのとき朝鮮の民も二千余戸が彼に従って出国し、辰国に移住した。朝鮮の属国とも往来をしなかった。
衛氏朝鮮の重臣が、国王の右渠に叛いて辰国に亡命した記述の一節だが、衛氏朝鮮も半島南部(漢江流域)にまでは支配力が届いていなかったようだ。衛氏朝鮮が辰国の朝貢を妨げたことが朝鮮討伐の名目とされ、紀元前108年に衛氏朝鮮は滅ぼされるが、その支配領域に設置された楽浪郡など朝鮮四郡のどこにも辰国は帰属していない。
韓有三種:一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁辰。馬韓在西,有五十四國,其北與樂浪,南與倭接。辰韓在東,十有二國,其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南,亦十有二國,其南亦與倭接。凡七十八國,伯濟是其一國焉。大者萬餘戸,小者數千家,各在山海閒,地合方四千餘里,東西以海為限,皆古之辰國也。馬韓最大,共立其種為辰王,都目支國,盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。
韓に三種あり、一に馬韓,二に辰韓,三に弁辰(弁韓)。馬韓は西に在り,五十四カ国。その北に楽浪,南に倭と接する。辰韓は東に在り,十二カ国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十二カ国、その南に倭と接する。およそ七十八カ国。伯済は、その一国なり。大領主は万余戸,小領主は数千家を支配する。各々に山海の間に在り、土地は合わせて方形四千余里、東西は海が限界をなしている。いずれも昔の辰国である。馬韓が最大で馬韓人から辰王を共立し、都は目支国(月支国),三韓の地の大王とする。その諸王の先祖は皆、馬韓の族人なり。
後9年、韓王の国はすでに滅んでいる。
(後漢書の馬韓人は、後9年から都慕大王となり、はじめて目支国となった。箕準は目支国ではない)