二つの百済

December 2018 編集されました カテゴリ: 韓半島
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百済の言語についてはじめて記した史書は『梁書』である。 今言語服章略與高麗同 梁書(りょうじょ)に「百済は遼西…

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コメント

  • 『宋書』『梁書』によると、百済建国の当初の頃(建国の直前か直後?)、高句麗が遼東半島を征服した後、百済も遼西地方に進出して百済郡を設置したという。とくに『梁書』は「晋(265年 - 420年)の時」としている
  • 百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。日本の『古事記』では、応神天皇の治世に照古王の名が記されている。
  • 馬韓(ばかん)は、紀元前2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である三韓の一つ。帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰韓(後の新羅)、南方は倭に接していた。後の百済と重なる場所にあった地域
  • 『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民がおり、馬韓人はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせ辰韓人と名づけたという。また、『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたという。
  • 日本書紀では
    雄略天皇20年(476年)に高句麗が百済を滅ぼした
    同21年(477年)3月に雄略天皇が久麻那利(こむなり、熊津を指す)を百済の汶洲王に下賜して国の復興をさせた
    とある。
  • 雄略天皇は百済が高麗のために破れたことを聞いて、 久麻那利こむなりを汶洲王に賜って、その国を救い興した。時の人みながいうには、「百済国の一族は既に亡び、 倉下へすおとに集まって憂えていたが、実に天皇の救いで、またその国を造った」と。
    汶洲王は蓋鹵王の母の弟である。
    日本旧記に云うには、久麻那利を末多王に賜ったという。しかしこれは誤りである。久麻那利は任那国の 下哆呼利県あるしたこりのこおりの別れの邑である。

    【日本書紀 雄略天皇二十一年三月条】
  • 《雄略天皇二一年(丁巳四七七)三月》二十一年春三月。天皇聞百済為高麗所破。以久麻那利賜汶洲王。救興其国。時人皆云。百済国雖属既亡聚夏倉下。実頼於天皇。更造其国。〈汶洲王蓋鹵王母弟也。日本旧記云。以久麻那利、賜末多王。蓋是誤也。久麻那利者任那国下哆呼利県之別邑也。 〉

    百済が高句麗に破れたために、雄略天皇が久麻那利の地を汶洲王に与えた、という記事です。
    そして、久麻那利は「任那国下哆呼利県之別邑」となっていますが、これは確かにおかしいです。
    久麻那利が公州(コンジュ)だとすると、任那はそこまで領地だったことになります。
  • 熊津(ゆうしん・웅진・ウンジン)は、古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり・こむなり)、百済語では古莫那羅(コムナル・곰나루)と表記・呼称される。熊川(錦江)のほとりの都市であり、現在の忠清南道公州市にあたる。

    475年に高句麗の長寿王が百済の国都・漢城(現在のソウル特別市)を陥落させ、百済の蓋鹵王を処刑すると、南方に逃れていた(あるいは新羅に救援を求めに行っていた)文周王が即位し、首都を熊津に移した。後に聖王が538年に、さらに南方の泗沘(現在の忠清南道扶余郡)へ遷都するまでの63年間、百済の首都であった。新羅の統一の後、熊川州→熊州という名称を経て、高麗時代に公州に改称された。
    現在も公州市には熊津洞という地名が残る。
  • 馬韓に臣下の礼をとっていた、ツングース族の温祚百済が、馬韓の要所であった目支国を打ち破ったと謂れている。豊富な農作物・水産物・鉄を背景に温祚百済は勢力を伸ばしたのです。劣勢の沸流百済から仇台百済が分家したのもこの頃という。

    辰韓から韓民族軍人がクーデターを起こして建国したのが新羅というが、、。ツングース系と新羅は民族が異なる?
  •  「三国史記」  「三国史記」  「日本書紀」
     ●375 百済・近肖古王没           ◎375 肖古王没
     ●384 百済・近仇首王没、枕流王即位    ◎384 貴須(仇首)王没、枕流王即位
     ●391 百済・泰和四年銘刀を倭王に贈る  ◎372 百済王七支刀を神功皇后に贈る
     ●392 百済・辰斯王没、阿?王即位      ◎392 辰斯王を殺し、阿花王即位
     ●402 新羅・未斯欣を人質にする      ◎320 新羅の微叱己知波珍千岐を人質とする
     ●403 新羅・倭の使者を厚遇する      ◎370 使者の千熊長彦ら百済から帰る
     ●405 新羅・倭兵、明活城を攻める     ◎325 人質の微許智伐早を新羅に返す
     ●405 百済・阿?王没、腆支王即位     ◎397 直支王の記事
     ●420 百済・腆支王没、久爾辛王即位   ◎414 直支王没、久爾辛王即位
  • 後漢書高句麗伝では建光元年(121年)高句麗が馬韓や濊貊と共に玄菟郡へ侵攻し、夫余によって撃退されたとある。馬韓が朝鮮半島南西部とすると、高句麗が楽浪郡の向こう側にあった馬韓と共に遼東にあった玄菟郡に侵攻するのは不可解ではないか?馬韓は玄菟郡の近くにあったのではないか?
    宋書百済伝では百済国、本は高句麗とともに遼東の東に千余里に在ったとされる。朝鮮半島南西部と考えるのはおかしくないか?
    宋書百済伝では百済が遼西を支配したある。朝鮮半島南西部にあった百済が遼河の西部を支配するのは不自然ではないか?
    北史百済伝では「東は新羅、北は高句麗、西南は大海、小海の南に暮らす」とある。朝鮮半島南西部とすると「小海」とはどこか? ちなみに、同じ北史には高句麗の南には「小海」があると書いてあり、当時の高句麗は遼東や遼西をも支配していた。
    北史百済伝では百済の南、海行三カ月に耽牟羅国(済州島)がある、とあるが朝鮮半島南西部から三ケ月というのは長すぎないか?
    南斉書では北魏が数十万騎で百済を攻めたとあるが、渡海作戦を行ったような記述は無い。百済が朝鮮半島南西部にあったとすると陸路でも海路でもかなり困難な作戦だ。そればかりでなく、北魏と百済の間には高句麗が有り、高句麗の向こう側に数十万騎を送るのは不可能ではないか?
    魏書勿吉伝では勿吉が百済と共謀して水路から高句麗を攻撃する計画を立てたが、北魏はこの計画を了承しなかったとある。百済が朝鮮半島南西部にあったとすると、不自然な計画ではないか?
    史記夏本紀では「百済国西南渤海中に大島15有り、皆百済に属す」とある。百済は渤海に面していたのではないか?
    出典:http://lelang.sites-hosting.com/naklang/rakurou.html
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