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百済の言語についてはじめて記した史書は『梁書』である。 今言語服章略與高麗同 梁書(りょうじょ)に「百済は遼西…
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雄略天皇20年(476年)に高句麗が百済を滅ぼした
同21年(477年)3月に雄略天皇が久麻那利(こむなり、熊津を指す)を百済の汶洲王に下賜して国の復興をさせた
とある。
汶洲王は蓋鹵王の母の弟である。
日本旧記に云うには、久麻那利を末多王に賜ったという。しかしこれは誤りである。久麻那利は任那国の 下哆呼利県あるしたこりのこおりの別れの邑である。
【日本書紀 雄略天皇二十一年三月条】
百済が高句麗に破れたために、雄略天皇が久麻那利の地を汶洲王に与えた、という記事です。
そして、久麻那利は「任那国下哆呼利県之別邑」となっていますが、これは確かにおかしいです。
久麻那利が公州(コンジュ)だとすると、任那はそこまで領地だったことになります。
475年に高句麗の長寿王が百済の国都・漢城(現在のソウル特別市)を陥落させ、百済の蓋鹵王を処刑すると、南方に逃れていた(あるいは新羅に救援を求めに行っていた)文周王が即位し、首都を熊津に移した。後に聖王が538年に、さらに南方の泗沘(現在の忠清南道扶余郡)へ遷都するまでの63年間、百済の首都であった。新羅の統一の後、熊川州→熊州という名称を経て、高麗時代に公州に改称された。
現在も公州市には熊津洞という地名が残る。
辰韓から韓民族軍人がクーデターを起こして建国したのが新羅というが、、。ツングース系と新羅は民族が異なる?
●375 百済・近肖古王没 ◎375 肖古王没
●384 百済・近仇首王没、枕流王即位 ◎384 貴須(仇首)王没、枕流王即位
●391 百済・泰和四年銘刀を倭王に贈る ◎372 百済王七支刀を神功皇后に贈る
●392 百済・辰斯王没、阿?王即位 ◎392 辰斯王を殺し、阿花王即位
●402 新羅・未斯欣を人質にする ◎320 新羅の微叱己知波珍千岐を人質とする
●403 新羅・倭の使者を厚遇する ◎370 使者の千熊長彦ら百済から帰る
●405 新羅・倭兵、明活城を攻める ◎325 人質の微許智伐早を新羅に返す
●405 百済・阿?王没、腆支王即位 ◎397 直支王の記事
●420 百済・腆支王没、久爾辛王即位 ◎414 直支王没、久爾辛王即位
宋書百済伝では百済国、本は高句麗とともに遼東の東に千余里に在ったとされる。朝鮮半島南西部と考えるのはおかしくないか?
宋書百済伝では百済が遼西を支配したある。朝鮮半島南西部にあった百済が遼河の西部を支配するのは不自然ではないか?
北史百済伝では「東は新羅、北は高句麗、西南は大海、小海の南に暮らす」とある。朝鮮半島南西部とすると「小海」とはどこか? ちなみに、同じ北史には高句麗の南には「小海」があると書いてあり、当時の高句麗は遼東や遼西をも支配していた。
北史百済伝では百済の南、海行三カ月に耽牟羅国(済州島)がある、とあるが朝鮮半島南西部から三ケ月というのは長すぎないか?
南斉書では北魏が数十万騎で百済を攻めたとあるが、渡海作戦を行ったような記述は無い。百済が朝鮮半島南西部にあったとすると陸路でも海路でもかなり困難な作戦だ。そればかりでなく、北魏と百済の間には高句麗が有り、高句麗の向こう側に数十万騎を送るのは不可能ではないか?
魏書勿吉伝では勿吉が百済と共謀して水路から高句麗を攻撃する計画を立てたが、北魏はこの計画を了承しなかったとある。百済が朝鮮半島南西部にあったとすると、不自然な計画ではないか?
史記夏本紀では「百済国西南渤海中に大島15有り、皆百済に属す」とある。百済は渤海に面していたのではないか?
出典:http://lelang.sites-hosting.com/naklang/rakurou.html