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多くの高句麗伝に 「高句麗は遼東の東千里に在り、南に朝鮮、濊貊、東に沃沮、北に扶余と接している」とある。 『三…
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楽浪郡は武帝が置いた。洛陽東北五千里。(中略)列口「列は川の名前で列水は遼東にある」
後漢書光武帝紀:樂浪郡,故朝鮮國也,在遼東
楽浪郡は故朝鮮国であり、遼東にある。
後漢書列傳:長岑縣,屬樂浪郡,其地在遼東
長岑県は楽浪郡に属し、遼東にある
郡國志では西安平、帶方県は遼東郡に属す。
魏志高句麗伝:順、桓之間,復犯遼東,寇新安、居郷,又攻西安平,于道上殺帶方令,略得樂浪太守 妻子
順帝と桓帝の間、度々遼東に侵犯し、新安や居郷で略奪し、西安平を攻めて、帯方令を殺し、 楽浪太守の妻子を誘拐した
帯方郡は公孫度が置いた。列口県(後漢書郡國志によると列水は遼東),長岑県(後漢書列傳によると 長岑は遼東),含資県(魏書地形志によると含資は遼西県属)
宋書百済伝では百済が遼西を支配したある。朝鮮半島南西部にあった百済が遼河の西部を支配 するのは不自然である。
北史百済伝では百済の南、海行三カ月に耽牟羅国(済州島)がある、とある
歴史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されている。墓制に関しては扶余と高句麗の違いは歴然としているものの、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」(臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を夫余の同種とみていたことが判る。なお、夫余は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・濊・百済(王族)など満州南部に広く分布していた。 この夫余系民族はその言語系統から、魏書・列伝八十八、北史・巻九十四ほか高句麗に言及した全ての史書がモンゴル系民族(鮮卑→北魏、契丹→遼)とは区別しており、またツングース系と考えられる粛慎の後裔で女真の祖先とみなされる挹婁は、「夫余と容貌は似ているが言語は異なる」と『後漢書』や『三国志』に記されている。