馬韓

April 2015 編集されました カテゴリ: 倭国・倭人

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馬韓(ばかん)は、紀元前2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である三韓の一つ。帯方郡の南、…

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コメント

  • 魏略に曰く、初め右渠が破れる前、朝鮮の宰相の歴谿卿が右渠を諫めるも用いられず、 東の辰国に亡命したが、彼に随行して脱出した民が二千余戸、また、朝鮮の貢蕃(属国)とは互いに 往来せず。

     辰国は馬韓地方を支配しており、その西側の領地を漢族に分割した。それが辰韓だが、そこには 弁韓も雑居していた。そして、衛氏朝鮮およびその従属国(沃沮や濊貊)とは往来をしなかったとある。

    衛氏朝鮮は韓に興味がなく、全盛期にも馬韓地方を侵略しなかった。従って、馬韓地方は富国 強兵の必要性を感じない無風状態のまま時が過ぎた?
  • 魏志韓伝(馬韓)
    百衲本を使用

    韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千里有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓辰韓者古之辰國也
    「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」

     韓の東西は海ですが、南に海はなかった。倭と接すですから、朝鮮半島南端に倭が存在したことになります。帯方郡の南に韓があるという記述は、次の倭人伝の「従郡至倭循海岸水行歴韓国(帯方郡より倭に至るには海岸に沿って水行し韓国をすぎる)」という記述にも影響し、水行の方向を記していません。韓は南にあることが明らかなので、記す必要がないわけです


    馬韓在西其民土著種植知蠺桑作緜布
    「馬韓は西に在る。その民は土着し、種をまき植える。蚕、桑を知り、絹わたや布を作る。」

     大もとの民族は東胡(アルタイ系言語)につながる遊牧、あるいは狩猟採集民族だったと思われますが、殷の箕氏の移住、呉人の移住、始皇帝が強制労働させた農耕民族の逃亡、燕、斉、趙の住民の移住などにより、定着、農耕、養蚕という中国文化の形に移行したのでしょう。

    各有長帥大者自名爲臣智其次為邑借散在山海間無城郭
    「それぞれ指導者がいて、勢力の大きいものは自ら名乗って臣智(シンチ)と為し、次のものを邑借(ユウセキ)と為す。山や海の間に散らばって住み、町を守る城壁のようなものはない。」

    有爰襄國牟水國桑外國小石索國大石索國優休牟涿國臣濆沽國伯済國速盧不斯國日華國古誕者國古離國怒藍國月支國咨離牟盧國素謂乾國古爰國莫盧國卑離國占離卑國臣釁國支侵國狗盧國卑彌國監奚卑離國古蒲國致利鞠國冉路國兒林國駟盧國内卑離國感奚國萬盧國辟卑離國臼斯烏旦國一離國不彌國支半國狗素國捷盧國牟盧卑離國臣蘇塗國莫盧國古臘國臨素半國臣雲新國如来卑離國楚山塗卑離國一難國狗奚國不雲國不斯濆邪國爰池國乾馬國楚離國凡五十餘國

    「爰襄(ヱンシャウ)国、牟水(ボウスヰ)国、桑外(サウグワイ)国、小石索(セウセキサク国、大石索(タイセキサク)国、優休牟涿(イウキウボウタク)国、臣濆沽(シンフンコ)国、伯済(ハクセイ)国、速盧不斯(ソクロフウシ)国、日華(ジツクワ)国、古誕者(コタンシャ)国、古離(コリ)国、怒藍(ドラン)国、月支(ゲツシ)国、咨離牟盧(シリボウロ)国、素謂乾(ソヰカン)国、古爰(コヱン)国、莫盧(バクロ)国、卑離(ヒリ)国、占離卑(センリヒ)国、臣釁(シンキン)国、支侵(シシン)国、狗盧(コウロ)国、卑彌(ヒビ)国、監奚卑離(カンケイヒリ)国、古蒲(コホ)国、致利鞠(チリキク)国、冉路(ゼンロ)国、兒林(ジリン)国、駟盧(シロ)国、内卑離(ダイヒリ)国、感奚(カンケイ)国、萬盧(バンロ)国、辟卑離(ヘキヒリ)国、臼斯烏旦(キウシヲタン)国、一離(イツリ)国、不彌(フウビ)国、支半(シハン)国、狗素(コウソ)国、捷盧(セフロ)国、牟盧卑離(ボウロヒリ)国、臣蘇塗(シンソト)国、莫盧(バクロ)国、古臘(コラフ)国、臨素半(リンソハン)国、臣雲新(シンウンシン)国、如来卑離(ジョライヒリ)国、楚山塗卑離(ショサントヒリ)国、一難(イツダン)国、狗奚(コウケイ)国、不雲(フウウン)国、不斯濆邪(フウシフンヤ)国、爰池(ヱンチ)国、乾馬(カンバ)国、楚離(ショリ)国がある。およそ五十餘国。」

     魏は北方の国なので、その記録である魏志に記された文字は北方の発音、漢音で読むべきと考えます。カタカナ国名はすべて漢音です。言葉の異なる馬韓の発音を魏の人間が聞き取って漢字表記したものですから、聞き取り誤差、漢字に変換する無理がある。上記のカタカナをそのまま受け取る必要はありません。桑外(サウグヮイ)国はソガ国かもしれないというような違いまで含めて良いでしょう。これは倭人伝でも同じことです。
     伯済国が後の百済(クダラ)の前身。卑彌国、不彌国は倭人伝の卑彌呼、不彌国と同じですから、倭韓共通の単語があったようです。倭人伝の国名と共通する文字が多い。帯方郡は韓と地続きですし、戦ったことも記されています。韓の国名の方が早くから知られていたわけで、倭に渡来した帯方郡使は韓に使用していた見慣れた文字を倭の国名にも適用したのだと思われます。

    大國萬餘家小國数千家揔十餘萬戸辰王治月支國
    「大国は万余戸があり、小国は数千戸。全部で十余万戸。辰王は月支国で統治している。」

     辰韓伝には、辰韓は馬韓人の辰王に属していることが記されていますが、その辰王は月支国に役所を置いていたことになります。倭人伝の一大率が伊都国で統治(常治伊都国)していたのと同じような形ではないか。

    臣智或加優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號其官有魏率善邑君歸義侯中郎将都尉伯長
    「(大指導者の)臣智は、優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉(ユウコシンウンケンシホウアンヤシュクシフンシンリジフレイコウヤシンシレン)の号を加えることもある。その官には、魏率善邑君、帰義侯、中郎将、都尉、伯長がある。」
  • 馬韓
    常に五月に種まきを終わり、鬼神を祭る。
    群衆は昼夜休むことなく、歌って踊り、酒を飲む。
    その舞は数十人で同じように地を高く低く踏んで、手足を合わせて動かし、
    リズムは中国の鐸舞と似ている。
    十月に農作業が終わるとまた同じような事をする。

    鬼神を信じ、国の邑(むら)ごとに、それぞれ一人の祭主がいて、
    天の神を祭り、その人を「天君」と呼ぶ。

    また諸国ごとに特別な邑があって、「蘇塗」という大木を立てて、
    鈴や小銅鐸を懸けて鬼神に仕える。
    その南部は倭に近く、刺青を入れている者もいる。
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