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帯方郡の太守 (三国志・魏書・馬韓伝) 「景初中明帝密遣帶方太守劉昕樂浪太守鮮于嗣越海定二郡諸韓國臣…
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楽浪郡は武帝が置いた。洛陽東北五千里。(中略)列口「列は川の名前で列水は遼東にある」
後漢書光武帝紀:樂浪郡,故朝鮮國也,在遼東
楽浪郡は故朝鮮国であり、遼東にある。
後漢書列傳:長岑縣,屬樂浪郡,其地在遼東
長岑県は楽浪郡に属し、遼東にある。
後漢書列傳夫餘:安帝永初五年,夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏民,後復歸附。
安帝の永初5年(111年)、夫余王は歩騎7、8千人を率いて楽浪郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、 間もなく再び帰附した。(注:満州北方にいた夫余が平壌を攻めるのは不可解であり、楽浪郡は遼東にあった?)
中国史書が示す帯方郡の場所
後漢書高句麗伝:「郡國志西安平、 帶方,縣,並屬遼東郡」
郡國志では西安平、帶方県は遼東郡に属す。
魏志高句麗伝:順、桓之間,復犯遼東,寇新安、居郷,又攻西安平,于道上殺帶方令,略得樂浪太守 妻子
順帝と桓帝の間、度々遼東に侵犯し、新安や居郷で略奪し、西安平を攻めて、帯方令を殺し、 楽浪太守の妻子を誘拐した。
晋書地理誌:帶方郡公孫度置。列口,長岑, 含資
帯方郡は公孫度が置いた。列口県(後漢書郡國志によると列水は遼東),長岑県(後漢書列傳によると 長岑は遼東),含資県(魏書地形志によると含資は遼西県属)
魏志倭人伝:郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは 東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。
帯方郡は狗邪韓國から7千余里(約700km)となる位置は遼東近辺である。
帯方郡を置いた公孫度は黄巾の乱以来の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立し、 遼東王を自称した人物である。公孫度には遼東王の地位の確立が重要で、はるか南方のソウル地方は支配できなかった。
「長老説くに『異面の人有り、日の出ずる所に近し』と」
とあり、これが倭人の「鯨面げいめん」の風俗を指していた。
『漢書』司馬相如伝、子虚賦しきょふ
烏有先生が斉の山海を讃美する。
斉地(せいち 山東半島付近)とその周辺の海(渤海ぼっかい・黄海など)を中心の視点において、東北の海の彼方にある粛慎国も隣みたいなものだ、と、斉の国の讃美者たる「烏有うゆう先生」(司馬相如の作中人物)が、いささか“大風呂敷”をひろげている
「且(かつ)、斉(せい)。東、鉅海(きょかい)に偖*(しょ)し、南に琅邪(ろうや)有り。成山に観じ、之罘(しふ)に射、勃[水解](ぼっかい)に浮び、孟諸(もうしょ)に游ぶ。邪(なな)めに粛慎(しゅくしん)と鄰を為し、右に湯谷(ようこく)を以て界と為す。秋は青丘(せいきゅう)に田(でん =狩)し、海外に彷徨(ほうこう)す」
偖*(しょ)は、人編の代わりに阜偏。
ここにはたくさん地名などの固有名詞が出てきます。全部で九つ。その中で具体的な地名・国名などを指しているもの七つを一覧しましょう。
琅邪ーー 山東省諸城県の東南。
成山ーー 山東省栄城県の東。海中に突入し、一小半島をなす。
之罘ーー 山東省福山県の東北。俗に之罘島と称するが、実は半島。
勃[水解]ーー 渤海。
孟諸ーーーー 河南省商丘県の東北。沢の名。
粛慎ーーーー [才邑]婁(ゆうろう)に対する春秋戦国時代の呼び名。
青丘ーーーー (1)山東省広饒(こうじょう)県の北。
(2)海東三百里(朝鮮半島)。
勃[水解]の[水解]は、三水編に解。JIS第4水準ユニコード6FA5
[才邑]婁(ゆうろう)の[才邑](ゆう)は、手偏に邑。JIS第3水準ユニコード6339
冒頭に「鉅海」と言っているのは、もちろん黄海のことです。斉の山東半島の東、朝鮮半島との間にひろがっている海です。
粛慎の地と「ななめに隣している」と言っていますが、これはどこから見ての話でしょうか。渤海や黄海を中にして、西の斉地、東の朝鮮半島。いわゆる、わたしの言う中国海・内海文明圏の北半部。その領域(海陸)を中心視点としての発言なのではないでしょうか。「斉地はそのようなすばらしい中心領域にあるのだ」。鳥有先生はこう言って、洛陽(らくよう)や長安中心主義者、また洞庭(どうてい)湖などの楚の讃美者に“抵抗”して、大いに気を吐いている。
「湯谷。日の出ずる所なり。許慎云う。『熱して湯の如きなり』と」(顔師古)
と注されているように、ここは東の果て、日の出る所ですね。
司馬相如は前漢末、武帝のときの人です。武帝といえば、
「倭は韓の東南大海の中に在り。山島に依って居を為(な)す。凡(おおよそ)百余国あり。武帝、朝鮮を滅してより、使訳漢に通ずる者、三十許国なり」(後漢書倭伝)
とあるように、明白に倭人の約三十国から貢献をうけています。
相如がはでやかな字面を使って「湯谷ようこく」と表出したところ、それはやはりわたしたちの国の西北隅を指していたのです。
中国の古典における、「湯谷」出現の歴史はかなり古いようです。
「(黒歯国)下に湯谷有り。湯谷の上に扶桑有り。十日浴する所」(山海経、海外東経)
「湯谷より出で、蒙[水巳](もうし)に次ぐ。〈注〉言う、日は東方湯谷の中に出で、暮は西極の蒙水の涯に入るなり」(楚辞、天問)
「扶木、陽州に在り。日の[日費](かがや)く所」(淮南子えなんじ巻四)
蒙[水巳](もうし)の[水巳](し)は、三水偏に巳。JIS第3水準ユニコード6C5C
これらの「湯谷」や「陽州」が具体的にどのような地域としてイメージされているか。それは必ずしも朋瞭(めいりょう)ではありませんが、倭の地域に見える。
温泉であろう
「湯谷、其の後に湧(わ)き、[水育]水(いくすい)、其の[匈/月](きょう)に盪(とう)す」(張衡、南都賦)
「温泉水、北山の阜(ふ)に出ず。七源奇発、炎熱特に甚(はなはだ)し、郎の南都賦の謂(い)う所の湯谷・其の後に湧く者なり」(水経、[口蚩]水注)
[匈/月](きょう)は、匈の下に月。
[口蚩]は、口編に蚩。
「王[斤頁](おうき 魏人)、別に遣わして宮(きゆう 人名。高句麗王)を追討し、其の東界を尽す。其の耆老(きろう)に問う。『海東に復(また)人有りや不(いな)や』と。
(一)耆老(きろう)言う。『国人嘗(かつ)て船乗りて魚を捕う。風に遭い、吹かるること数十日。東に一島を得(う)。上に人有り。言語、相暁(あいさと)らず。其の俗、常に七月を以て童女取りて海に沈む』と。
(二)又言う。『一国有り。亦海中に在り。純(ただ)女にして男無し』
(三)又説くに『一布衣を得(う)。海中より浮び出で、其の身、中国人の衣の如し。其の両袖(そで)、長さ三丈』と。
(四)又『一破船を得。波に随いて出(い)でて海岸の辺に在り。一人有り。項(うなじ)中、復(また)、面有り。生きて之を得(う)。与(とも)に語、相通ぜず。食わずして死す』と。
其の域、皆、沃沮(よくそ)の東の大海の中に在り」
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東…北與挹婁、夫餘,南與濊貊接」東沃沮は、北は挹婁、南は濊に接していると書かれている。「濊南與辰韓,北與高句麗、沃沮接,東窮大海」濊の北は、高句麗と沃沮に接していると書かれている。「挹婁在夫餘東北千餘里,濱大海,南與北沃沮接」 挹婁の南は、北沃沮に接していると書かれている
北沃沮一名置溝婁,去南沃沮八百餘里,其俗南北皆同,與挹婁接
とある。 高句麗は、毌丘倹に攻撃され、東隣の沃沮に亡命した。
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。其地形東北狹、西南長、可千里
であるから、「可千里」は東沃沮の西南長の長さだ。
蓋馬、縣名、屬玄菟郡。
楽浪郡の設置
紀元前108年、朝鮮国の旧領に楽浪郡を設置した。
『三国志魏書』穢伝
自單單大山領以西屬樂浪、自領以東七縣、都尉主之、皆以濊為民。後省都尉、封其渠帥為侯、今不耐濊皆其種也。漢末更屬句麗。
単々大山領(馬息嶺山脈)より以西は楽浪郡に属す、領(単々大山領)より以東の七県は都尉がこれを統べる、そこは皆、濊を以て民となす。後に都尉を省き、そこの渠師を諸侯として封じた、今の不耐濊侯は皆、その類である。漢末には高句麗に属した。
楽浪郡の統括範囲は「単々大山領より以西は楽浪郡に属す」とあるが、張鳳台(清朝末の学者)は單單大山領を、次のように比定している。
「単々は、満語の珊延に音近し、即ち長白山である。七県を分かち、楽浪東部都尉を置く。漢時の楽浪は奉天省城の東北二千余里に在り。府治は奉天からわずか千五百里。それ漢時の楽浪郡たること疑いなし」
だが、上記の穢伝では「山領より以東の七県は皆、濊を民となす」とあり、東部都尉の官府は「濊」の王城の「不耐城」に置かれており、長白山の東では「沃沮」の居住領域となり不合理である。筆者は、濊と朝鮮の境界だったと思われる馬息嶺山脈だと考える。
二郡の廃止
紀元前82年、真番郡と臨屯郡が廃止され、楽浪郡と玄菟郡に併合された。
『後漢書』東夷伝濊条
始元五年(紀元前82年)、臨屯と真番を廃止し、楽浪と玄菟に併せる。
後漢書高句麗伝:「郡國志西安平、 帶方,縣,並屬遼東郡」
郡國志では西安平、帶方県は遼東郡に属す。
魏志高句麗伝:順、桓之間,復犯遼東,寇新安、居鄉,又攻西安平,于道上殺帶方令,略得樂浪太守妻子
順帝と桓帝の間、度々遼東に侵犯し、新安や居郷で略奪し、西安平を攻めて、帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を誘拐した。
晋書地理誌:帶方郡公孫度置。列口, 長岑, 含資
帯方郡は公孫度が置いた。列口県(後漢書郡國志によると列水は遼東), 長岑県(後漢書列傳によると長岑は遼東), 含資県(魏書地形志によると含資は遼西県属)
帯方郡を置いた公孫度は黄巾の乱以来の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立し、遼東王を自称した人物である
劉宋孝武帝の大明八年(464年)の揚州の戸籍数が143,296戸(口数は1,455,685人)ということで西晋代からは半減しています。
その一方で揚州の北部に設置された僑州である南徐州が72,472戸(420,640人)、南兗州が31,115戸(159,362人)、南豫州が37,602戸(219,500人)という戸数が計上されていますのでこれらを合計すれば戸数は西晋代に匹敵する284,485戸(2,255,187人)となります。
口数は西晋代の推定数より大きくなる可能性もあります。
土断されたと思われる僑州の戸籍数が約14万戸、人口で約80万人という数になっておりますが、これらの大部分を黄籍(正規の戸籍)に登録しないで白籍として扱っていた場合、これはかなりの(表現は不適切でしょうが)地下労働力や兵力になったものと考えられます。
あるいは劉宋代においてさえ土断されることなく有力士族たちの荘園や対北魏防備のための軍団兵として管理されていた人口が存在していた可能性すらあります。
しかし税制面で優遇されていた白籍の民衆をどうやって土断したのかっつーのはかなりの謎ですね。
六朝の精華は眩く、東晋の闇は深い。
出典:http://tombstonedriver.blog.fc2.com/blog-category-1.html
『魏志倭人伝』の「歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」は「韓国に入って南行東行を繰り返して邪馬壹國の北岸の狗邪韓國に到る」としか読めないのだが、なぜ船で海岸沿いを南下し、済州島と朝鮮半島の間を東行したように解釈されているのか。
『隋書』東夷伝俀国条には「有阿蘇山」とあり、わざわざ阿蘇山に触れているが、阿蘇は富士山などのように遠くからでも見ることができる山ではない。それが王朝に近しい場所にあるから特に注記したのではないか。
やはり『隋書』東夷伝俀国条で、小徳の「阿輩臺」を(竹斯國に)遣わしてその十日後に都の郊外で大禮の「哥多毗」が出迎えたとあることから、裴世清一行は九州を出ていないことがわかる。
やがて魏は「晋」に代わり、、「晋書」地理誌によれば、楽浪郡6県3,700戸、帯方郡7県4,900戸とその規模は漢代に比べると激減している。そして西晋王朝も異民族の侵入(301年の「八王の乱」(はちおうのらん)が始まり)で解体し、楽浪郡も高句麗の攻撃を受けて313年に滅亡し、420年余りに及ぶその長い歴史を閉じたのである。楽浪難民の中には渡来人として倭へ渡ってきた者も多い。
やがて魏は「晋」に代わり、、「晋書」地理誌によれば、楽浪郡6県3,700戸、帯方郡7県4,900戸とその規模は漢代に比べると激減している。そして西晋王朝も異民族の侵入(301年の「八王の乱」(はちおうのらん)が始まり)で解体し、楽浪郡も高句麗の攻撃を受けて313年に滅亡し、420年余りに及ぶその長い歴史を閉じたのである。楽浪難民の中には渡来人として倭へ渡ってきた者も多い。