大矢口宿禰と大水口宿禰の兄弟

April 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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大矢口宿禰については、記紀に登場しませんが、天孫本紀が出石心大臣の子で、孝霊天皇に仕えたと記します。・(東)楽…

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  • 近江国甲賀郡 水口神社
    創祀年代は不詳。
    中世には山王新宮とも称され、近世には大宮大明神とも称された神社。

    社伝によると、主祭神・大水口宿禰は
    饒速日命六世の孫である出石心大臣命の御子。
    出石心大臣命の母・淡海川枯姫は、
    川枯首阿目加伎袁四世の孫である阿自夷沙比止命の後で、川枯神社の祭神。
    大水口宿禰は、その縁により当地に居住し、
    土地開拓の祖神として人々に崇敬されたという。

    式内社・水口神社に比定されている古社。
    当社境内は、往古は東西三十町南北二十五町に及び広大であったが
    永禄年間、その大半を没収され、天正年間には社領を失い
    わずか五六間四方のみとなったという。
    寛文三年六月代官小堀仁右衛門が水口に赴任し、当社を再建
  • 倭大国魂神はこの時、大水口宿禰に神懸かりしたという。大水口宿禰は大王氏の一族ではなく、古事記によれば穂積の祖欝色雄の子であり、書紀では物部の祖伊香色雄の子である

    この垂仁紀二六年条、市磯長尾市を大国魂神の祭司とした由緒は、他に類をみない特徴的な記事であった。すなわち「倭大神」が「穂積臣の遠祖大水口宿禰に著って」こういったという。

     「太初之時、期(ちぎ)りて曰く『天照大神は悉に天原を治さむ。皇御孫尊(大王)は葦原中国の八十魂神を治さむ。我は親(みずか)ら大地司を治さむ』とのたまふ。言すでに訖(おわ)りぬ。然るに先皇御間城天皇、神祇を祭祀りたまふと雖も、微細しくは未だ其の源根を探りたまはずして、粗に枝葉に留めたまへり。故、其の天皇命短し。ここを以って、今汝御孫尊、先皇の不及を悔いて慎み祭ひまつりたまはば、汝尊の寿命延長く、また天下太平がむ」
  •  椎根津彦は速吸門から神武に従った「海導人」であった。それでも文脈からすると、椎根津彦が単なる海導人であったとは思えない。神武あるいは五瀬が吉備から発って、大和を目ざしたのには、むしろ椎根津彦の存在があったからではないかと思える。神武が椎根津彦に出あったとき、その様は尋常ではなかった。
     古事記は「亀の甲に乗り、釣りしつつ羽挙き来る人、速吸門に偶いき」と語っている。 

     「汝は誰ぞ」と問ひたまえば、「僕は国つ神ぞ」と答へ曰しき。また「汝は海道を知れりや」と問ひたまへば、「能く知れり」と答へ曰しき。また「従に仕へ奉らむや」と問ひたまえば、「仕へ奉らむ」と答へ曰しき。
  • 采女 (うねめ)

    臣姓と造姓、天武十三年十一月以降は朝臣姓がある。地方豪族から貢進される采女の統括にあたった伴造氏。令制下にも采女司の采部の負名氏だった。
    「記」神武段に宇摩志麻遅命の後裔として、物部連・穂積臣とともに記され、数多い物部氏族のなかでも代表的なものとして知られていた。
    氏人に、采女臣摩礼志(舒明即位前紀)、采女臣使主麻呂(「紀」大化五年三月)、采女臣竹羅(天武紀十年七月など)、采女朝臣枚夫(続紀慶雲元年正月など)、采女朝臣首名(続紀天平十一年正月)、采女臣阿古女(続紀延暦八年正月)、采女朝臣若(続紀天平十一年正月)、采女朝臣人(続紀天平十八年四月など)、采女朝臣浄庭(続紀天平宝字元年八月など)、采女朝臣宅守(続紀宝亀十年正月など)、采女朝臣枚麻呂(後紀弘仁元年十月)などが知られる。
    天平神護元年二月に、摂津国島下郡の人、采女臣家麻呂・采女臣家足らに朝臣姓を賜ったことがみえ、摂津国などに住んだものもあった。常陸国風土記は、筑波国の国号は采女臣の同族筑簟命が国造だったことにちなむとする伝承を載せる。また、伊勢国三重郡、三河国碧海郡に采女郷がある。


    石上朝臣に同祖。神饒速日命の六世孫・大水口宿祢の後裔。(「録」右京神別上)
    神饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。(「録」和泉国神別)

    宇摩志麻治命の四世孫・大水口宿祢の後裔。(「旧」天孫本紀)
  • 水口神社 天理市渋谷町
     渋谷と言うバス停を200m程南に歩くと、多分伝景行天皇陵の倍塚であろう上の山古墳が道の東側に見えてくる。その東側で、神社が横から見える。水がたまっていなければ直接行くことができる。江戸時代には天王社と呼ばれていたようで、牛頭天王も祭神。
     『崇神天皇紀』に、倭迹速神浅茅原目妙姫、穂積臣の遠祖大水口宿禰、伊勢麻績君の三人の夢に、神々を祀るに適した人名を教える話があるが、この大水口宿禰が祭神ではとの見方がある。 当時、大和大国魂神を祀らせた淳名城入姫が淳名城入姫神社に、また引き継いで祀った市磯長尾市命は大和神社の摂社の増御子神社に、有名な豊鋤入姫は豊鍬入姫宮に祀られているように、神祭りの人が神として祀られる、呪術の時代、神と人との共同社会であったようだ。

    大水口宿禰は饒速日尊四世孫。
  • 大水上神社
    大水上神社由緒略記
    香川県三豊郡高瀬町大字羽方
    御祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神
    延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一にして、一宮田村神社に次ぎ第二の社として「讃岐二宮」の称がある。 三代実録によれば、貞観七年十月従五位上より正五位下に次いで同十七年五月正五位上とある。景行天皇の御孫子武殻王当社を尊信し三野、豊田両郡を社領とし給い、延暦二十三年弘法大師入唐の際、参篭祈願し後小松天皇、後花園天皇、称光天皇より勅書を給わり、又源平屋島の戦に両氏戦捷を祈願せり。 皇室を初め武門武将並国中の崇敬篤く「建久九年二宮社領目録」によれば、二百町歩を有し一大荘園として勢力あり、古く恒例臨時の造営用途等公武官司の正税を以て之を弁す。建長年中の大造営に次ぎ、応永末年社殿大破したる時、朝旨により讃岐一円に人別銭を、永享年間に於いては国中の用脚を以て再建し、江戸時代に至っても累代藩主の崇敬深く、京極氏は社領三十石を寄せ奉る。
  • 大矢口根大臣命

    「天孫本紀」に大矢口宿祢命と見え、出石心大臣命の弟とされたり、子とされたりして諸伝があるが、穂積臣の祖・大水口宿祢の弟とするのが活動時期や古代特有の命名法からみて妥当か(この場合、内志許男の子か)。 大矢口宿祢は、「天孫本紀」では第四世孫の世代に大水口宿祢の弟としておかれ、穂積臣系統以外のすべての物部氏の祖とされて重視されていることに留意され るが、一方、華族諸家の宮内省呈譜史料や鈴木真年史料では、傍系の祖で「榎井部の祖」としてしか記されないという大きな差異がある。
     この者は吉備津彦等とともに崇神朝に出雲討伐に活躍し、子孫には因幡国造・伊福部臣らを出したと「伊福部家譜」に見える武牟口命や宇倍神社の祭神の武内宿祢にあたるとみられる。佐伯有清氏は、伊福部臣が穂積・釆女のように臣姓の氏族と親近の関係にあったものとみており(『古代氏族の系図』)、この見方と符合する。武牟口命は、「伊冨頭久媛」を妻としたと同家譜に見えるが、この姫は名前の類似・対応から見て、和珥臣の祖で崇神紀に見える彦国葺命の兄弟、伊冨都久命(『録』左京皇別の丸部の祖)の姉妹とみられるから、武牟口夫妻は崇神朝頃の人とみてよかろう。従って、第四世孫という位置づけには疑問があることになる。
  • 物部氏から分岐発生した氏族

    母(ひいては外祖父)の名前や氏族に由来するものがかなり多くみられる。

    ①出雲色大臣の母が出雲色多利姫であり、
    ②高屋阿波良姫から生まれた伊香色男の子孫に高屋連(『姓氏録』河内神別では伊己止足尼の後裔)があり、
    ③額田毘道男命の子の新河小楯姫が生んだ子の穂積臣祖大水口宿祢の同族に額田臣(同、山城神別では伊香我色雄命の後裔)があり、
    ④日下部氏の女から生まれた大祢命の後裔とみられる日下部(同、河内神別では比古由支命の後裔)があり、
    ⑤志紀県主の女から生まれた大売布命の子孫に物部系の志紀県主がでる

    などの例がある。
  • 大矢口根大臣命
    「天孫本紀」に大矢口宿祢命と見え、出石心大臣命の弟とされたり、子とされたりして諸伝があるが、穂積臣の祖・大水口宿祢の弟とするのが活動時期や古代特有の命名法からみて妥当か
    (この場合、内志許男の子か)。

    大矢口宿祢は、「天孫本紀」では第四世孫の世代に大水口宿祢の弟としておかれ、穂積臣系統以外のすべての物部氏の祖とされて重視されていることに留意され るが、一方、華族諸家の宮内省呈譜史料や鈴木真年史料では、傍系の祖で「榎井部の祖」としてしか記されないという大きな差異がある。
     この者は吉備津彦等とともに崇神朝に出雲討伐に活躍し、子孫には因幡国造・伊福部臣らを出したと「伊福部家譜」に見える武牟口命や宇倍神社の祭神の武内宿祢にあたるとみられる。佐伯有清氏は、伊福部臣が穂積・釆女のように臣姓の氏族と親近の関係にあったものとみており(『古代氏族の系図』)、この見方と符合する。武牟口命は、「伊冨頭久媛」を妻としたと同家譜に見えるが、この姫は名前の類似・対応から見て、和珥臣の祖で崇神紀に見える彦国葺命の兄弟、伊冨都久命(『録』左京皇別の丸部の祖)の姉妹とみられるから、武牟口夫妻は崇神朝頃の人とみてよかろう。従って、第四世孫という位置づけには疑問があることになる。
    出典
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/monobekz/monobek1.htm
  • イナバ(稲葉、因幡、印旛、印葉、稲羽)の固有名詞は、山陰道の因幡国造、同国法美郡の稲羽郷・稲葉山のほか、美濃国厚見郡の稲葉山(三野後国造の中心領域で、式内社物部神社も鎮座)、や「天孫本紀」の印葉という者(武諸隅の孫とされる)、「国造本紀」の久努国造の祖・印播足尼(伊香色男命の孫とされる)などに見え、これらは皆、物部氏の同一系統に関係すると考えられる。それが、みな大矢口宿祢の系統だとみられるということである
  •   旧縣社
    樂樂福神社(ささふくじんじゃ) 由緒略記

    人皇第七代孝霊天皇を主神とし、皇后をはじめ后妃や皇子など、其の御一族を祀る旧縣社。
    創建は千百年以上の昔と伝わる屈指の古社で、古くは鉄生産の守護神として崇敬された日野郡開拓鎮護の総氏神です。孝霊天皇が当地を巡幸された折に鬼林山に蟠踞する邪鬼が里人を悩ます由を聞し召され、御一族を従えて彼の邪鬼を退治された伝説が伝わっています。
    爾来、開運招福・願望成就の福の神として人々の崇敬を集めています。
    かつては日野川を隔てて対岸に(西)樂樂福神社が鎮座され本社と共に二社一対の祭祀が続けられて居りましたが平成16年11月3日に当社に合祀され一社となりました。

    鳥取県日野郡日南町宮内1065番地
    ご祭神

    大日本根子彦太瓊尊 第七代孝霊天皇

    細媛命 皇后(くわしひめのみこと こうごう) 通称 ほそひめ・ほそ媛さん
     孝霊天皇の皇后にして第八代「孝元天皇」の御母神。

    若建吉備津彦命 皇子(わかたけきびつこのみこと こうし)
     兄皇子の大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)と共に四道将軍として吉備の国を平定された

    福媛命 后妃(ふくひめのみこと こうひ)
     孝霊天皇の皇女とする説もあり。日南町印賀に鎮座の「樂樂福神社」は主祭神の皇女「媛姫命」(ひめのみこと)を此の福媛と同一のお方として奉斎する。

    彦狭嶋命 皇子(ひこさしまのみこと こうし) 別名 歯黒皇子(はぐろおうじ)

    摂社 若宮神社ご祭神
       磯城縣主大目命(しきあがたぬしおおめのみこと・細媛命の御父神)
       欝色雄命(うつしこおのみこと)
       大矢口宿禰命(おおやくちすくねのみこと)  
       大水口宿禰命(おおみなくちすくねのみこと)
    孝霊天皇に随従され当地方の開拓に功績を残された大神達。
  • 越智氏族略系図

    饒速日命──宇摩志麻治命──彦湯支命──出石心大臣──大矢口宿禰──大綜杵命──伊香色雄命──大新川命──大小千連──乎致命〔越智氏族之祖〕──天狭介──粟鹿──三並──熊武──伊但島──喜多守──高縄〔現大濱八幡大神社創建者〕
  •  大濱八幡大神社は「天智天皇の祖神門島神を遷座し饒速日命・天道日女命を合祀」と明記し、天照大神の名を自社祭祀から削除・不表示としています。記紀神話を盲信するかぎり、天皇の祖神は天照大神となりますが、大濱八幡大神社は、その祖神を「饒速日命・天道日女命」と語っています。

    壬申の乱(六七二年)のあと
    饒速日命を、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という最大賛辞の神名で語っていたのは、越智氏同族物部氏の文書(『先代旧事本紀』)でした。
  • 徳島県吉野川市(旧麻植郡)鴨島町麻植塚字堂の本鎮座の五所神社の祭神は、物部の五世孫の欝色謎命と同世代の物部の大麻綜杵命(おおへつきのみこと)。大麻綜杵命を祀る神社は全国でここ一社。麻の字のない大綜杵命は尾張国葉栗郡の高田波蘇伎神社にも祀られている。名前から麻を除き、忌部との関連を消したとの説もある。その妃が高屋阿波良姫。「高屋」からは讃岐(香川県坂出市高屋町)が思い浮かぶ。高家神社が鎮座。観音寺市高屋町には式内高屋神社が鎮座、強く四国が意識される。「阿波良」姫の名からはまさに阿波が想像される。

    大麻綜杵命と高屋阿波良姫の間の子が伊香色謎命・伊香色雄命で、伊香色謎命は崇神天皇の生みの親となる。
    不思議なことに高屋阿波良姫と伊香色謎命を祀る神社が丹波国船井郡の住頭神社(すみどじんじゃ)である。
  • 伊香色謎命(いかがしこめのみこと、生年不詳 – 崇神天皇元年1月13日以降)は、孝元天皇の妃、開化天皇の皇后。古事記には伊迦賀色許売命(読み方同じ)とある。父は大綜麻杵命で、母は高屋阿波良姫。同母兄に伊香色雄命がいる。彦太忍信命(父は孝元天皇。武内宿禰の祖父(記では父)。磐之媛命の高祖父(記では曾祖父))・崇神天皇(父は開化天皇)の母

    「因幡国伊福部臣古志」 伊福部氏の系図

    出雲色雄命は、彦湯支命の子。母は出雲臣の祖、髪長姫と曰ふ。

    髪長姫が母!!

    書紀・古事記以外では、旧事本紀が欝色雄を饒速日五世の孫とし、大綜麻杵を欝色雄・欝色謎の弟としてなおかつ伊香色雄を物部氏の祖としているから、書紀は物部氏寄り、古事記は穂積氏寄りにこの系譜を記載してことになる。しかしながらこの系譜は、そもそも欝色謎と伊香色謎の「色謎」という表記が同一であるために、直接的であるばかりでなく兄弟姉妹の血縁をみるべきが当然である。類似の名前はほぼ兄弟姉妹または従兄弟姉妹のそれである。あるいは夫妻のそれである。
  • 京都市の古代、出雲郷

    平安京ができる前(飛鳥時代、奈良時代)、京極学区を中心とする一帯は出雲郷と呼ばれ、出雲氏が住んでいました。出雲氏は、出雲国から移住して来た氏族で、出雲大社と関係があったと考えられています。しかし、断片的な記録しかなく、その実態は謎に包まれています。ただ、出雲路の地名、上御霊神社(出雲寺の後身)、出雲路幸神社などが存在することから、京極学区の辺りが出雲郷の中心だったことは間違いがありませ
  • 京都市の中心部で、飛鳥時代の集落が発見されたのは初めてです。当時は、塔之段から御霊神社にかけての一帯に、写真のような竪穴式住居の村が広がっていたものと思われます。
    http://annai.demachi.jp/uno/page053.html

    愛宕郡(おたぎのこおり・おたぎぐん)は山城国・京都府にかつて存在した郡である。古代に隣接する葛野郡とともに郡域の一部が平安京となり、現在では京都市北区・左京区の大半に相当する。
    蓼倉郷 (多天久良)
    栗野郷 (久留須乃)
    上粟田郷 (阿波多)
    大野郷
    下粟田郷
    小野郷 (乎乃)
    錦部郷 (尓之古利)
    八坂郷 (也佐加)
    鳥戸郷 (止利倍)
    愛宕郷 (於多木)
    出雲郷 (以都毛)(在上下) - 郷内に雲上里と雲下里があったことが知られる。
    賀茂郷

    出雲井於(いのうえ)神社と出雲高野神社は,出雲氏の氏神で「延喜式」神名帳にも記載されています。現在はそれぞれ下鴨神社と崇道神社(京都市左京区)の境内末社となっています。古くは,氏寺である出雲寺(上出雲寺・下出雲寺)も出雲郷に存在し,早くから仏教文化を受入れていたといわれています。

    また,出雲氏は一定の教養や技能を身に着けていたとみられ,下級官人として活躍していました。紙漉きなど優れた手工業の技術を持っていたとされています。
    2004年の発掘調査で,出雲氏が居住していたであろう竪穴住居の遺構と,鉄を鍛える際に飛び散った鉄くずや道具が見つかり,鉄製品を生産していたことも明らかになりました。
  • 現在下鴨神社に祀られている出雲井於(いのへの)神社も、出雲氏の祖神として信仰されたものです。

    出雲井於神社(いずもいのへ)のご祭神は、出雲の神、須佐乃男(すさのお)で、本殿よりも先に鎮座していた下鴨で最も古い神社です。
    井於(いのへ)とは、賀茂川のほとりのことで、出雲郷の賀茂川のほとりの神社という意味です。
  • 辰巳和弘同志社大学歴史資料館教授によれば、
    『さて飛鳥・奈良時代、この古代村落が営まれた地域は山城国愛宕郡出雲郷として行政区画され、いまも鞍馬口通の賀茂川に架かる出雲路橋や、その周辺の賀茂川右岸の「出雲路」という地名にその名残がみられる。出雲路神楽町などというバス停の名を見かけた人もあろう。』

    『しかし古代、その版図はもっとひろく、『延喜式』神名帳には「出雲高野神社」があって、賀茂川を越えて左京区高野付近まで及んでいたらしい。もちろん同志社大学や相国寺一帯も出雲郷に含まれる。この出雲郷は上と下に分かれ、賀茂川を挟んで左岸が上出雲郷、右岸(同志社側)は下出雲郷に比定される。』

    正倉院に残る古文書のなかに神亀3年(726)の山背国愛宕郡出雲郷の雲上里と雲下里の計帳断簡がある。この里名は出雲郷の上と下のことであり、雲下里は下出雲郷にあたる。計帳は毎年作成される租税徴収のための基本台帳。それによると出雲郷一帯には出雲臣氏がひろく居住し、かつて出雲臣に隷属していた出雲部という氏名もみえる。』

    『この出雲臣氏は祖先を天穂日命という。天穂日命は出雲国造の祖神であることからも、彼らがかつて出雲から移住してきた集団とわかり、従来の調査成果とあわせ、彼らがこの地に定住したのは7世紀中頃とみられる。』

    『同志社今出川キャンパスとその周辺は、出雲臣安麻呂の故郷である。』
    ・・・と結んでおられます。
  • 大物主(母は活玉依毘売) ー櫛御方命(亦は天日方奇日方命)と韛五十鈴姫命

    崇神天皇の時

    是の時に、神明倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)に憑りて曰はく、「天皇、何ぞ国の治らざることを憂ふる。若し能く我を敬ひ祭らば、必ず当に自平ぎなむ」とのたまふ。天皇問ひて曰はく、「如此教ふは誰の神ぞ」とのたまふ。答へて曰はく、「我は是倭国の域の内に所居る神、名を大物主神と為ふ」とのたまふ
    ー中略ー
    大田田根子に問ひて曰はく、「汝は其れ誰が子ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「父をば大物主大神と曰す。母をば活玉依媛と曰す。陶津耳の女なり」とまうす。亦云はく、「奇日方天日方武茅渟祇の女なり」といふ。

    古事記によると、大物主神は陶津耳命の娘・活玉依毘売と結婚して、櫛御方命をもうけられた。 この櫛御方命の子が飯肩巣見命。、その子が建甕槌命(鹿島神宮祭神の建甕槌命とは別神)。 その子が意富多多泥古、『日本書紀』では大田田根子である。

    三輪叢書所載の『系譜三輪高宮家系』に、天事代籤入彦命(事代主神)と大陶祇命の女、活玉依比売命の子、 天日方奇日方命(一名、武日方命、櫛御方命、阿田都久志尼命、鴨主命)とあり、 神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の兄で、 『姓氏録』大和国神別に大神朝臣・賀茂朝臣の祖、石辺公の祖ともされている。

    櫛御方命の妹が五十鈴姫
    韛五十鈴姫命(たたらいすずひめのみこと)は、神武天皇の皇后になり、即神渟名河耳天皇(かむぬなかわみみ:綏靖天皇)と彦八井耳命(ひこやいのみこと)のふたりの皇子を産んだ。綏靖天皇は、韛五十鈴姫命の異母姉妹、五十鈴依姫命と結婚し皇子をひとり産んだ。この皇子が磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみ:安寧天皇)である。
  • 大矢口宿祢は、出雲討伐につながる出雲との交渉役として崇神紀六〇年条に見える矢田部造の祖・武諸隅にも当たるとみるのが年代的に自然である。ここでも、異名同人の例が見られるが、『書紀』の記事は「天孫本紀」の記事と無関係に朝廷のなかで伝えられたとみられ、「武諸隅」の記事を簡単には否定できない事情がある(武諸隅を大新河命の子とする「天孫本紀」の記事は、両者の活動時期からみて疑問。ここに、父子の世代逆転がある。また、武諸隅の娘を、垂仁朝頃の十市根が妻としたという所伝も「天孫本紀」に見える)。
     大矢口宿祢は吉備津彦らとともに出雲討伐に活躍したと伝え、その子孫は中世の入沢氏(伯耆国日野郡の楽々福神社祠官)、 名沢氏などであって、伯耆西部の日野川流域を中心に美作・因幡など周辺各地に分布が見られる。日野郡あたりの地域の平定には孝霊天皇が吉備津彦とともに活 躍したとも伝え、いまも日野川東岸に孝霊山の名が残るが、この「孝霊」が大矢口宿祢に置き換えられるとしたら、伊予の越智国造(大新河の後裔氏族)が孝霊天皇の御子とする伊予皇子(実名を「彦狭島命」とするが、これはともに行動した吉備氏の稚武彦〔桃太郎伝説〕に当たり、誤伝)の子孫と称することと符合する。吉備系の楽々福神社が古層の製鉄神信仰として存在したという指摘(坂田友宏氏)もある。
    出典: http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/monobekz/monobek1.htm
  • 大矢口根大臣命の位置づけ。
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/monobekz/monobek1.htm
    によれば

    「天孫本紀」に大矢口宿祢命と見え、出石心大臣命の弟とされたり、子とされたりして諸伝があるが、穂積臣の祖・大水口宿祢の弟とするのが活動時期や古代特有の命名法からみて妥当か(この場合、内志許男の子か)。 大矢口宿祢は、「天孫本紀」では第四世孫の世代に大水口宿祢の弟としておかれ、穂積臣系統以外のすべての物部氏の祖とされて重視されていることに留意され るが、一方、華族諸家の宮内省呈譜史料や鈴木真年史料では、傍系の祖で「榎井部の祖」としてしか記されないという大きな差異がある。
     この者は吉備津彦等とともに崇神朝に出雲討伐に活躍し、子孫には因幡国造・伊福部臣らを出したと「伊福部家譜」に見える武牟口命や宇倍神社の祭神の武内宿祢にあたるとみられる。佐伯有清氏は、伊福部臣が穂積・釆女のように臣姓の氏族と親近の関係にあったものとみており(『古代氏族の系図』)、この見方と符合する。武牟口命は、「伊冨頭久媛」を妻としたと同家譜に見えるが、この姫は名前の類似・対応から見て、和珥臣の祖で崇神紀に見える彦国葺命の兄弟、伊冨都久命(『録』左京皇別の丸部の祖)の姉妹とみられるから、武牟口夫妻は崇神朝頃の人とみてよかろう。従って、第四世孫という位置づけには疑問があることになる。
  • 水口神社
    JR草津線貴生川駅北東2km、乗り換え近江鉄道水口城南駅南すぐ

    祭神 大水口宿禰 配 大己貴命、素盞嗚尊、稻田姫命
    摂社 玉津米神社「玉留産靈命」、武雄神社「武甕槌神」、日枝神社「大山咋命 配 徳川家康」、他

    由緒 大水口宿禰は饒速日命の3世の孫、出石心大臣の御子で、郷土開拓の祖神とされている。系譜を記すと、饒速日命-宇麻志麻治命-出雲色多利姫-出石心大臣命-大水口宿禰とつながる。 また、別の異説があり、『姓氏録』では穂積朝臣の祖と言われ、伊香色雄命の子とされる。この伊香色雄命は近江伊香郡を本拠とするとの見方がある。 伊香郡には物部の地名がのこり、大新河、建新河、大水口、安毛建彦など近江の地名を負った物部系豪族が出ている。 物部氏の匂いのする近江である。

     水口神社の創始は平安時代初期と見られている。 しかし、一つの社伝によれば、垂仁天皇の時稲田姫命が天照大神を奉じて近江国に到り、族長の矢田部宿禰蔵田麿に神鏡の鎮座すべき地を問うと、蔵田麿は甲可日雲宮地が最もふさわしい旨を伝えた。そこで甲可川(野洲川)を遡って現社地に到り、四年間の奉斉の後、大己貴命を神鏡守護神として祀ったのが草創であるという。 これは『倭姫命世記』(鎌倉時代の創作)を本にしたもので、とるに足らないし、水口神社も主張はしていない。
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