葛城襲津彦、沙至比跪、貴国

December 2018 編集されました カテゴリ: 応神ー武烈
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神功皇后 摂政元年(辛巳年) 354年か? ―摂政前紀(仲哀天皇9年)― 神がかりになり「住吉三神」「アマサカ…

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  •  孝元天皇━彦太忍信命━屋主忍男武雄心命┳武内宿禰━━┓
                        ┗甘美内宿禰 ┃
                               ┃
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
     ┃
     ┣波多八代宿禰
     ┣巨勢雄柄(小柄)宿禰
     ┣蘇我石川(石河)宿禰
     ┣平群木菟(都久)宿禰
     ┣紀角宿禰
     ┣久米能摩伊刀比売
     ┣怒能伊呂比売
     ┣葛城長江曾津毘古(襲津彦)┳葦田宿禰┳玉田宿禰━円━━韓媛
     ┃             ┃    ┣蟻臣━━━夷媛
     ┃             ┃    ┗黒媛
     ┃             ┗磐之媛
     ┗若子宿禰
  •  『古代豪族系図集覧』によれば、剣根命の系譜は以下の通り。

    高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命-剣根命-夜麻都俾命-久多美命(葛城直祖)

    また陶津耳命の女に活玉依比売がいて、大物主命との間に鴨朝臣の祖である太田田根子をもうけるとある。
  • 天村雲命と伊加里姫との間に葛木出石姫が誕生しています。この姫の名は日本海から葛城への流れを現す神と思われます。葛木出石姫の出石は但馬の出石でしょう。かの出石神社には天日矛命の将来した八前の神宝が祭られています。神主家は大和から神宝の検収におもむいた長尾市の子孫です。現在も長尾家です。 出石から葛城にやって来た長尾市の子孫が葛城の長尾氏となり、この家の娘が葛木出石姫といえそうです。
  • 葛城での実在人物第一号と見なされている葛城襲津彦が連れ還った渡来人達は高鴨神社のある鴨神を挟むように佐味と高宮とに配置されています。(他に忍海、桑原。)
  • 倭の将軍「于道朱君」なる人物

    倭王の命を受けて新羅を攻め、于老を火あぶりの刑に処したと『三国史記』(以下、『史記』とも記す)に見える

    昔于老(せき・うろう)とは
     第10代とされる新羅王奈解尼師今の子であり、その子が第16代王の訖解尼師今(以下、新羅の王は「尼師今」も「王」と記す)であって、当時の新羅の兵馬を握る人物。

    西暦三七〇、八〇年代の仲哀朝において、武内宿祢・葛城襲津彦親子が韓地で活動するのは肯ける。従って、両者を「于道朱君・葛那古」に比定する見解は説得力が大きい

  • 『肥前国風土記』(藤津の郡の条)
    景行天皇が行幸した時、「土蜘蛛が砦を作って降伏しなかったので、侍臣の紀直の祖の穉日子(わかひこ)を派遣して誅殺させようとした。」と言う話がある。

    『国造本紀』「成務朝に紀直同祖の大名草彦命の児若彦命を葛津国造に定め給う。」とある。
    奥野正男著『耶馬台国の東遷』に、武内宿禰の子とされる氏族名の郡・郷名が北九州に分布している事を指摘されている。
  • 波多の八代宿禰
     佐賀県鳥栖市幡崎町
     福岡県糸島市波多江 潤神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/maebaru1.htm

    許勢の小柄宿禰
     肥前国佐嘉郡巨勢郷
     佐賀市巨勢町    大町八幡神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/sagaoma8.htm

    蘇賀の石河宿禰
     筑前国早良郡曾我郷
     福岡市西区吉武   飯盛神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/iimori.htm

    平群の都久宿禰
     筑前国早良郡平群郷
     福岡市西区戸切   山越で白木神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/oumaru.htm

    基肄 木の角宿禰
     肥前国基肄郡基肄郷
     佐賀県三養基郡基山町 荒穂神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/araho.htm

    杵島 肥前国杵島郡杵島郷 稲佐神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/inasa.htm  
    佐賀県鹿島市大町町 妻山神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/tumayama.htm

    葛城の長江曾都毘古
     肥前国三根郡葛木郷
     佐賀県三養基郡三根町

  • 「推古朝こそ原帝紀成立期」池田定道p13近代文藝社

    《神功62年(262)にも『百済記』を引用して、加羅が滅亡し、いったん百済に亡命した加羅王族が来日するが、その時、加羅王妹の既殿至(こでんち)が、沙至比跪(さちひく)を、新羅の美女を納れて裏切ったので加羅が亡びたと激しく非難して天皇に訴えたという記事がある。
    ところが、この既殿至という名は、継体七年十一月条に出てくる「伴跛既殿奚」(はへこでんけい)や欽明二年四月、同五年十一月条の「加羅上首位古殿奚」と実によく似ているではないか。・・・・》

    262年にも加羅が亡びていますが、その300年後の562年にも任那(加羅)が亡びています。
  • 稲佐神社 杵島郡白石町辺田 JP竜王駅 西側

    祭神 天神(てんじん)、女神、五十猛神、大屋津比賣之神 配 聖王神、阿佐神

    由緒
     式外社。大同二(807)年創祀。三代実録に貞観三(861)年従五位下とある。
     西国寺社奉行伊豆藤内の『稲佐大明神、神者人王三十代欽明天皇之朝、附国百済聖明王、為明王為新羅之冦所殺也、其世子余晶並弟恵等数十人率妻子従族而来、于我朝』(肥前国誌)とある。
     余晶が父の遺骨を稲佐山(杵島)山の山頂に葬り、帰化して稲佐大明神として祀ったという。
     上記由緒は、配祀の神の説明である。

     さて、未確認情報だが、『消された覇王』(小椋一葉:河出書房新社)に五十猛が半島から帰国時着岸した海岸が、稲佐山麓八艘帆ヶ崎(はすぽ)と記されている。この言い伝えが実際にあったとすると当地は五十猛命の上陸伝承の地と言うことになる。 (上陸した事実があったこととは別であることは言を待たない。)
     一方、ごく近くの妻山神社がどうやら豊前国辺りからの勧請らしいのに、この稲佐神社が勧請社ではなく、五十猛命の上陸伝説地というのは腑に落ちない所である。

     佐賀県神社誌(縣社 稲佐神社)から
     古来、杵島郡の東部白石諸郷の鎮守にして、杵島山中の一峰稲佐山の半腹にあり、往古は同山南の尾向横平山に在しと傳ふるも、鎮座年代久遠にして之を詳にせず。社伝に曰く、鎮座大神は天地剖判の代草木言語の時、天降りまして、国家を造立し給ひし天神及び五十猛命の神霊にして、後世推古天皇の御宇、百済国の王子阿佐来朝し此地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。其の後、里人阿佐の霊を合祀して稲佐三社と云へり。 大同年中(806~)釈氏空海、神託を蒙りて当山を再興すと伝え、又、推古天皇十五年聖徳太子の命を奉し、大連秦河勝、当国を巡察し、田畑を開拓すること、十萬、大いに稲佐神社を尊崇す、又聖徳太子は聖明王の佛教伝来の功を追誉せられ、河勝に命じて同父子の霊を稲佐神社に合祀せしめ、大明神の尊号を授けられたりとも伝う。

     徐福が不老不死の薬草を探しに来たとの伝承が残る。(角川歴史地名辞典)

     杵島山は佐賀藩の御猟場となり、里人の立ち入りが許されず、杵島山についての古伝承は殆ど失われたが、五十猛神がこの山に樹木の種をまいて繁茂させ、「木の山」と呼ばれたと云う話は伝えられて来た。(平凡社 地名辞典)
  • 神功皇后
    《神功皇后摂政六二年(庚午二五〇)二月》六十二年。新羅不朝。即年遣襲津彦撃新羅。〈 百済記云。壬午年。新羅不奉貴国。貴国遣沙至比跪令討之。新羅人莊飾美女二人。迎誘於津。沙至比跪受其美女。反伐加羅国。

    神功皇后摂政六二年(庚午二五〇)の(庚午二五〇)は(壬午二六二)の間違いと思われます。
    その前の行が
    《神功皇后摂政五六年(丙子二五六)》五十六年。百済王子貴須立為王。》ですから
  •  『古事記』孝元天皇記に「建内宿禰の子に葛城の長江の曽都毘古」と出て来ます。実在の人物のように記されているのは、多分『百済記』に沙至比跪と云う人物のお話があり、『日本書紀』では同一人物として紹介されているからでしょう。

     葛城の長江の曽都毘古の長江は長柄のことで、姫宮と呼ばれた長柄神社が鎮座する地です。葛城山麓沿いの名柄街道と水越街道が交差する、古来よりの交通の要所に当たります。葛城の雄、曽都毘古の拠点とするのには相応しい立地と言えるのでしょう。

     『日本書紀』神功皇后紀五年に、「葛城曽津彦は故在って新羅に渡り、草羅城(さわらのさし)を攻め落として捕虜を連れ還った。捕虜達は、桑原、佐糜、高宮、忍海などの四つの村の漢人らの先祖である。」と記されています。
     場所探しですが、桑原は南郷、佐糜は鴨神の南の佐味、高宮は一言主神社の近辺、忍海は新庄町の同名地とするのが有力な説です。

     葛城襲津彦はその後も新羅を討つべく派遣されました。この後のことは『百済記』の記事が引用されています。即ち、新羅の美女の誘惑で助けるべき加羅を討ったりして、応神天皇の怒りを蒙り、ひそかに帰国したものの岩穴へ入って死んだとされています。所が『紀』ではまた生き返り、弓月の君を半島から大和へ導くべく派遣されています。

     葛城襲津彦は神として祀られています。『平成データ』では5社、その内高知県に2社あります。

     多気・坂本神社 高知県安芸郡奈半利町 http://www.genbu.net/data/tosa/takesakamoto_title.htm
     葛木男神社 高知県高知市 ここには妃神であろう葛城襲津妃神も合祀されています。http://www.genbu.net/data/tosa/katuragio_title.htm
  • 葛城襲津彦が千熊長彦と同一人物であるとすると、襲津彦の朝鮮半島への渡航は4回となる。
    351年(神功 5年)[神功 5年]:新羅討伐、この年帰国
    367年(応神14年)[神47・応14]:加羅に派遣、3年(or4年)後に帰国
    371年(応神18年)[神功51年]:百済に派遣、翌年帰国
    382年(仁徳 2年)[神功62年]:新羅討伐、密かに帰国(百済記)

    382年の襲津彦の朝鮮半島への最後の渡航は、神功62年(書紀編年262年)を120年戻した編年となっている。『日本書紀』はこの記事の後に『百済記』からの引用を載せている。「百済記に云う、壬午の年に新羅が貴国(倭国)に朝貢しなかったので、貴国は沙至比跪(さちひこ)を遣わして討たせた。沙至比跪は新羅の差出した美女を受け取り、反対に加羅を討った。加羅の王は百済に逃げ倭国に来て、その事を訴えた。天皇は大いに怒られ、木羅斤資を加羅に遣わして、国を回復させたという。一説には、沙至比跪は天皇の怒りを知り、ひそかに帰国し隠れていた。皇宮に仕えている妹に、天皇の怒りが解けたかどうか探らせた。妹は『今日の夢に沙至比跪を見ました』と天皇に申し上げた。天皇は「沙至比跪はなぜ来たのか」と怒られた。妹は天皇の言葉を伝えた。沙至比跪は許されないと知り、石穴に入って死んだ。」
  • 葛城襲津彦の娘・磐之媛は、仁徳天皇の浮気に耐えかねて、399年に灘波の宮を出て山城の筒城(綴喜)に宮室を造り住まわれた。そのとき、奈良山を越え葛城を望んで詠んだ歌。
    「つぎねふ 山城川を 宮上り 我が上れば 青丹よし 奈良を過ぎ小楯 大和を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家のあたり」(山城川を遡ると、奈良を過ぎ、大和を過ぎ、私のみたいと思う国は、葛城の高宮の我が家のあたりです。)
  • http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku7/okisim42.html
    第二章 隠された島 古田武彦

     わたしは昨年(一九七八年)の七月、博多へ行き、各所を歴訪した。その一夜、博多井尻の西俣康さんのお宅で現地の古代史愛好の方々に囲まれて話をし、話を聞いた。当地の方々だけに鋭い質問や知見にみち、教えられるところが多かった。中でも、一人の方(兼川晋さん。テレビ西日本勤務)が語られたお話は、わたしを打った。
     “先日、太宰府町の視聴者から、テレビがうまく映うつらないと苦情が寄せられた。調べてみると、山蔭になっているためだったが、そこは石穴という字あざ。そこでハッと気づいた”というのだ。それはーー 。わたしが第二書『失われた九州王朝』で書いた葛城襲津彦の話。『書紀』の神功紀に出てくる。そこでは「百済記」の沙至比跪(さしひき サチヒコか)の話を彼(葛城襲津彦)と等号で結んで(同一人物として)『日本書紀』は扱っている。ところが、実際は両者は別人だ。なぜなら、

     (一) 沙至比跪の上位者たる「天皇」は、沙至比跪の妹を寵愛しているから、当然男だ。ところが、この説話の挿入されている神功紀末年(摂政六十二年)は、「神功摂政」であって、「男の天皇」などいないはずだ(十四代仲哀すでに死し、十五代応神いまだ即位せず)。
     (二) 沙至比跪は、次にのべるように、天皇の譴責(けんせき)を受け、窮死しているのに、葛城襲津彦は、その後も永く活躍し、子孫も栄えている。つまり、両者は別人だ。

     右の問題はすでに第二書に書いていた。
    その話が兼川さんの頭にパッとひらめいた。というのは、「百済記」の伝える沙至比跪の最後は、次のようだったからだ。
     沙至比跪は、天皇から新羅国攻撃の命を受けていたのに、新羅側から美女二名を贈られたために、鋒を転じて加羅国を攻撃した。天皇は加羅国王の妹、既殿至(きでんし)からこの事情を聞き、激怒した。そこで、
       一に云く、「沙至比跪、天皇の怒を知りて、敢へて公あらはに還らず。乃すなはち自みずから竄伏かくる。其の妹、皇宮に幸せらるる者有り。比跪、密ひそかに使人を遣はして、天皇の怒解けぬるや不いなやを問はしむ。妹、乃すなはち夢に託して言ふ。『今夜の夢に沙至比跪を見たり』と。天皇、大きに怒りて云はく、『此跪、何ぞ敢あへて来きたる」と。妹、皇言を以て報ず。比跪、免ゆるされざることを知りて、石穴に入りて死ぬなり」と。(神功紀、六十二年)

    ところが、「百済記」が九州王朝と百済との交渉を書いた本だとした場合、倭都は当然博多湾岸、太宰府を中心とする領域だ。ここで「石穴」と言えば、黙っていても、こ太宰府町の「石穴」を思い浮かべる。それが筑紫の著者と筑紫の読者との間の了解事項だ(今は「字あざ」として残っているが、当然実在の「石穴」をバックに出来た「字」名が遺存したものと思われる。第58図参照)。
     「それに」と兼川さんは言われる。「あの『書紀』の物語を見ると、天皇の後宮と沙至比跪の潜伏賜所と石穴と、この三点は、いずれもそんなに遠くはなれていない。他(ひと)に頼んだら、すぐ連絡がとれる。そういう土地関係にある、そういったふうに見えますね」と。わたしはうなずいた。
  • 肖古王
    肖古王が死に、王子の貴須が王となります。これは百済14代王の近仇首王と見て間違いありません。629年に成立した中国の歴史書の「梁書」には近仇首王を「須」と書いてあるので、合致します。
    たらしこまれるソツヒコ
    葛城襲津彥というと、「神功皇后(二十六)微叱許智は病気になって死にそうです」で新羅にいっぱい喰わされた経緯があるのです。それに新羅外交の専門家、だと思うのですが、美女には弱かったか。
    天皇
    ここでの天皇が神功皇后なのか?はなんとも。物語で読めば神功皇后となります。

    百済記からの引用となっている前文は百済から見た物語なので「ソツヒコ」が「サチヒコ」と書かれています。百済と日本が言語が違い、発音の齟齬があったということであり、同時に百済記は「実在」すると考えるべきものであり、また日本書紀が結構、厳密に書かれたという証拠だと思われます。
    原文

    五十五年、百濟肖古王薨。

    五十六年、百濟王子貴須、立爲王。

    六十二年、新羅不朝。卽年、遣襲津彥擊新羅。

    百濟記云、壬午年、新羅不奉貴國。貴國遣沙至比跪令討之。新羅人莊飾美女二人、迎誘於津。沙至比跪、受其美女、反伐加羅國。加羅國王己本旱岐・及兒百久至・阿首至・國沙利・伊羅麻酒・爾汶至等、將其人民、來奔百濟。百濟厚遇之。加羅國王妹既殿至、向大倭啓云「天皇遣沙至比跪、以討新羅。而納新羅美女、捨而不討、反滅我國。兄弟人民、皆爲流沈、不任憂思。故、以來啓。」天皇大怒、卽遣木羅斤資、領兵衆來集加羅、復其社稷。

    一云、沙至比跪、知天皇怒、不敢公還、乃自竄伏。其妹有幸於皇宮者、比跪密遣使人問天皇怒解不、妹乃託夢言「今夜夢見沙至比跪。」天皇大怒云「比跪何敢來。」妹、以皇言報之。比跪、知不兔、入石穴而死也。
  • May 2018 編集されました
    『紀氏家牒』によれば、襲津彦は「大倭国葛城県長柄里(ながらのさと。現在の御所市名柄)」に居住したといい、この地と周辺が彼の本拠であったと思われる。

    長江のサチヒコか


    志紀長吉神社のご由緒

    ご鎮座になったのは今から一二〇〇年前の平安初期頃(七九四年)であり、第六十九代後朱雀・第七十代後冷泉天皇の祭りの場となった場所である。天皇即位の祭・大祭の時に当社の東の飛び境内地(宝田)(現在の長原東二丁目六番)より全ての者に罪・穢れがつかないよう祓うものとして日蔭の蔓を供え、平安朝第五十一代平城天皇(八〇九年)より日蔭大明神の位を授けられ、神紋と定められた。

    長江襲津彦(ながえそつひこの)命(みこと) 
    長江襲津彦命は、葛城襲津彦命とも称し第八代孝元天皇の孫にあたり武内宿禰の六子として生誕され、第十五代応神天皇・第十六代仁徳天皇にお仕えし三韓征伐の際に海上・道中の安全を守護されました。長江襲津彦命は、もと大和地方を支配した葛城氏の祖先で、この長吉の地に居住し又住吉の墨江の名より長江へと変わり鎮座されました。地名の通り長吉は、長江から変わりました

    襲津彦の伝承は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀・応神天皇紀・仁徳天皇紀に記される。何れも将軍・使人として朝鮮半島に派遣された内容であるが、中でも特に留意されるのは、襲津彦の新羅征討を記す神功皇后摂政62年条であろう。本文はわずかだが、その分注には『百済記』を引用し、壬午年に新羅征討に遣わされた「沙至比跪(さちひく)」なる人物が美女に心を奪われ、誤って加羅を滅ぼすという逸話が紹介される。従来、この「沙至比跪」と襲津彦を同一人とし、『書紀』紀年を修正して干支2運繰り下げて、壬午年を382年と解釈すると、襲津彦は4世紀末に実在した人物であり、朝鮮から俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている可能性などが指摘されてきた
  • May 2018 編集されました
    雄略天皇によって滅亡????

    安康天皇3年(456年)8月、天皇が暗殺され、円大臣がその下手人である眉輪王を自宅に匿う事件が起きた。大泊瀬皇子(後の雄略)の軍によって宅を包囲された大臣は、王の引き渡しを拒否し、娘と「葛城の宅七区」(記に「五処の屯宅」)とを献上して贖罪を請うたが、皇子はこれを許さず、宅に火を放って円大臣・眉輪王らを焼殺した。大王家とも比肩し得る雄であった葛城氏は、雄略とその配下の軍事力の前に、完全に潰え去ることとなったのである

    ウィキペディアに
    葛城氏2系統論を支持する研究者の中には、一連の政変で滅びたのは玉田宿禰系のみであって、葦田宿禰系は5世紀末までしばらく勢力を存続させていたと主張する議論もみられるが、それを示唆するような政治活動が記紀に一切記されていないため、蟻臣などもやはり外戚の押磐皇子と運命をともにしたのではないかと思われる。

    芦田系

    市辺天皇命(いちのへのすめらみこと、『播磨国風土記』)とも。履中天皇の第1皇子で、母は葛城葦田宿禰(あしたのすくね)の女・黒媛である。また、顕宗天皇・仁賢天皇(・飯豊青皇女)の父、安康天皇・雄略天皇の従兄弟に当たる。
    押歯(八重歯)で、『古事記』では歯の先端が3つに割れていたことから、この名があるという。 安康天皇3年8月、安康天皇が眉輪王によって暗殺されたが、天皇は生前、押磐皇子に王位を継承させ、後事を託そうとしていた。かねてからこのことを恨んでいた大泊瀬皇子(後の雄略)は、10月に押磐皇子を近江の蚊屋野(かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)へ狩猟に誘い出し、「猪がいる」と偽って皇子を射殺した。さらに、遺骸を抱いて嘆き悲しんだ舎人(とねり)の佐伯部仲子(さえきべのなかちこ)をも殺して、皇子とともに同じ穴に埋め、陵を築かせなかったという。子の億計・弘計(後の仁賢・顕宗)兄弟は難が及ぶのを恐れ、舎人とともに丹波国を経て播磨国赤石に逃れ、名を隠して縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に仕えた。
  • May 2018 編集されました
    継体天皇によって芦田系が復活したか

    支援したのは、

    市辺押磐皇子は、記紀・『風土記』に伝えられる5世紀頃の皇族(王族)。磐坂皇子(ー・磐坂市辺押羽皇子・天万国万押磐尊(以上『日本書紀』)・市辺之忍歯王・市辺忍歯別王(以上『古事記』)・市辺天皇命(いちのへのすめらみこと、『播磨国風土記』)とも。

    履中天皇の第1皇子で、母は葛城葦田宿禰の女・黒媛である。また、顕宗天皇・仁賢天皇(・飯豊青皇女)の父、安康天皇・雄略天皇の従兄弟に当たる。
  • 葛城は、雄略天皇によって滅亡したのが定説ウィキペディアにある。

    しかしながら市辺押磐皇子は葛城芦田系で、子の億計・弘計(後の仁賢・顕宗)兄弟は難が及ぶのを恐れ、舎人とともに丹波国を経て播磨国赤石に逃れ、名を隠して縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に仕えた。

    安康(あんこう)天皇の死後,雄略(ゆうりゃく)天皇によって殺害された市辺押磐皇子(いちのべのおしはのおうじ)の子億計(おけ)(のち仁賢天皇)と弘計(おけ)(のち顕宗天皇)の兄弟は,播磨国縮見屯倉の首(おびと)忍海部造細目(おしぬみべのみやつこほそめ)のもとに身を隠していた。だが播磨国の司(みこともち)山部連(やまべのむらじ)の先祖伊予来目部小楯(いよのくめべのおたて)によって新室(にいむろ)の宴で見つけ出されたとある。《播磨国風土記》

    こちらが、正しいと思う。



    市辺押磐皇子は、履中天皇の第1皇子で、母は葛城葦田宿禰(あしたのすくね)の女・黒媛である。また、顕宗天皇・仁賢天皇(・飯豊青皇女)の父、安康天皇・雄略天皇の従兄弟に当たる。


    筑紫の君磐井の子 葛は母系が安曇で葛城一族


  • 記紀には熊縣(現在の球磨・人吉地方)の熊津彦と言う方の記述に「山部氏」の記述があります。
    日本書紀景行天皇18年紀 山部阿弭古と水嶋
    原文
    夏四月壬戌朔甲子、到熊縣。其處有熊津彦者、兄弟二人。天皇、先使徵兄熊、則從使詣之。因徵弟熊、而不來、故遣兵誅之。壬申、自海路泊於葦北小嶋而進食、時召山部阿弭古之祖小左、令進冷水。適是時、嶋中無水、不知所爲、則仰之祈于天神地祗、忽寒泉從崖傍涌出、乃酌以獻焉。故號其嶋曰水嶋也、其泉猶今在水嶋崖也。
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