吉野の国神、吉野首、井光

April 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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古事記より  その八咫烏の後より幸行(い)でませば、吉野河の河尻に到りましき。時に筌(うへ)を作りて魚(な)を…

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コメント

  • 長尾神社
    祭神;水光姫命、白雲別命 摂社;厳嶋神社(市杵嶋姫命・配祀 天児屋根命)

     新撰姓氏録では「吉野氏の祖先で、天白雲別命の娘・豊御富登であ り、水光姫の名は神武天皇が授づけられたもの」としている
     社伝では「水光姫命が、応神天皇の御代に当麻町竹内の三角岩に降臨され、子孫の加彌比加 尼に命じて長尾に祀らされたものでお姿は白蛇であつて、今、神社の東北に藤をもつて覆われている御陰井の藤の花はそれである」とあります
  • 長尾神社
    葛城市長尾
     【伝説】
     むかし、大和に大きな蛇が住み、三輪山を三重にとりまき、その尾は長尾までとどいた
     三輪明神(桜井市)が頭で、長尾神社はその尾にあたると言われている
     また、竜が住んでいたともされ 竜王社(大和高田市)が竜の頭であり、長尾神社は竜の尾にあたるとされている
  • 葛木出石姫と云う名が見える。
    丹後の天火明命の家系と葛木の剣根命との間から尾張連が出ている。高尾張邑に居た賀奈良知姫の子孫が尾張国へ移住したものと思える。

    天村雲命と伊加里姫との間に葛木出石姫が誕生しています。葛木出石姫の出石は但馬の出石でしょう。かの出石神社には天日矛命の将来した八前の神宝が祭られています。
    神主家は大和から神宝の検収におもむいた長尾市の子孫で現在も長尾家です。
    出石から葛城にやって来た長尾市の子孫が葛城の長尾氏となり、この家の娘が葛木出石姫といえそうです。
  • 市磯長尾市宿禰
    父:御物宿禰 母:不明
    子供:五十野宿禰・矢代宿禰(明石国造・吉備海部氏ら祖)
    (宇豆毘古(椎根津彦)の7世孫)

    崇神紀6年7年記事:大和大国魂神を渟名城入姫命に託して祀らせた。髪が抜け体が痩せて祀ることが出来なくなった。その後夢占いによって、太田田禰古を大物主の祭主とし、市磯の長尾市を倭大国魂神の祭主にしたら必ず天下太平となる、となった。

    垂仁紀7年記事:倭直祖長尾市を出雲に派遣した記事。
    垂仁紀25年記事:一書にいうで、上記崇神紀6年記事と同一の記事あり。
    垂仁朝に倭大国魂神を大和神社(大和坐大国魂神社)に祀って創始。

    10代崇神天皇と尾張大海媛の間の皇女である渟名城入姫命は、疫病が流行した原因が天照大神と倭大国魂神を宮中に合祀していることにあるとして二神が別けられた時、倭大国魂神を託されたが、髪が抜け身体が痩せて祀ることが出来なかった。そこで、神託により新たに祭祀を任されたのが、この長尾市宿禰である。
  • 押分之子(いわおしのわくのこ)

    古事記に記載のある男性、あるいは神(国つ神)。

    初代神武天皇が東遷において、熊野の危機を脱し、高木神(タカミムスヒノカミ)が派遣してくれた八咫烏のおかげで、熊野から吉野に達し、イヒカにあった後、さらにまた山に分け入っていくと、また尻尾のある人に出会った。なぜか石を押し分けて。

    名を問うたところ、返ってきた回答が「イハオシワクノコ」とのこと。

    その前までに会ったニヘモツノコ、イヒカと違い、このイハオシワクノコは「天の神の御子がおいでになると聞いたので馳せ参じた」と答えている。

    イハオシワクノコは吉野の国栖の祖とされている。

    この後、神武天皇一行は、神武天皇に従わず反抗するエウカシと、その弟であるオトウカシと遭遇することになる。

  • 『新撰姓氏録』吉野連の項には、「加弥比加尼(かみひかね)の裔(すえ)で神武天皇が吉野で召して問い給うた白雲別神(しらくもわけのかみ)の女(むすめ)である。名は豊御富(とよみほ)と申していたが天皇は水光姫(みひかひめ)と名付けられた。今の吉野連が祭る水光神(みひかのかみ)これである」というようなことが記されている。
  • 日本書紀
    天武十二年の記事
    「冬十月乙卯朔己未。三宅吉士。草壁吉士。伯耆造。船史。壹伎史。娑羅羅馬飼造。菟野馬飼造。吉野首。紀酒人直。釆女造。阿直史。高市縣主。磯城縣主。鏡作造。并十四氏。賜姓曰連。」


    『新撰姓氏録』
    吉野連の記事
    「加弥比加尼之後也。謚神武天皇行幸吉野。到神瀬。遣人汲水。使者還曰。有光井女。天皇召問之。汝誰人。答曰。妾是自天降来白雲別神之女也。名曰豊御富。天皇即名水光姫。今吉野連所祭水光神是也。」
  • 地元の記録文献、『日雄寺継統記』には、井光の後裔で井依の末孫、角乗が天武天皇から日雄殿を賜ったこと。角乗の長子角範を吉野首とし、日雄連の姓を賜ったこと。それに、役小角との関係が記されている。『大塔宮之吉野城』を著した中岡清一は、その著書の中で「当時井光は吉野を中心とした地方一帯の先住豪族であったことは疑いのないところである。」と言っている。

    井光の後裔が吉野首になりました。この井氏は後に井氏と角氏に分家し、この井氏から井頭(井藤、伊藤)が出て、角氏は後代に加藤と改めたと云われます。この吉野首・井氏から丹生氏なる者が出たのでしょうか。もちろん井氏の元の生業は真朱と云われる「丹」の採取であった。
  • 『海部氏の倭宿禰は、神武が大和王権を樹立した時、大和に赴き神宝を献じて神武に仕えたとする。大和に居たとき娶ったのが、白雲別の娘、豊水富または豊御富である。』


    『そして『勘注系図』の注記は、豊水富の亦の名を井比鹿(いひか)とする。これは『日本書紀』神武記で、神武が吉野で名を問 うた時答えた「井光(いひか)」と同じである。』


    『記紀の神武天皇の段で、天皇が吉野に巡幸された時に出会った「井光・井氷鹿(いひか)」という吉野首の祖を思い出す。現在も吉野郡川上村に「井光」の地名が残っているが、まさにそここそ、丹生川上神社上社の鎮座地なのである。』

  •  天村雲命-天忍人命
       |    |-------天忍男命
       |    |         |----世襲足姫
       |--角屋姫(葛木出石姫)  |----澳津世襲命(尾張連祖)
       |--倭宿禰命(天御蔭命)  |
     伊加里姫             |
     土神剣根命----------賀奈良知姫

     ここに葛木出石姫と云う名が見える。これについては後述することになる。丹後の天火明命の家系と葛木の剣根命との間から尾張連が出ている。高尾張邑に居た賀奈良知姫の子孫が尾張国へ移住したものと思える。

     土神剣根命の「土神」とは葛木に棲む国栖の民、土蜘蛛の民の頭領を云うのだろう。
     「土」は朝鮮語で「ヒキ」らしい。日置という地が御所市に残るのも示唆的。
     とにかくも、彼は相当な勢力を持っていたようだ。葛城の大国主のような存在感を示している。 」」7.26

    葛木出石姫と伊加里姫

     天村雲命に娶られた伊加里姫は井氷鹿の名で『神武記』に登場します。
     「吉野河の河尻・・より幸行せば尾生ひたる人、井より出で来たりき。その井に光ありき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は井氷鹿(ヰヒカ)と謂ふ」と答へ白しき。こは吉野首等の祖なり。」とあります。吉野には井光神社(イカリ)が鎮座しています

    http://www.kamnavi.net/ny/ikari.htm
  • 井光姫

    この神が當麻の長尾神社の祭神。長尾街道は吉野・壺坂から当地をで竹内街道と交差、更に北上してから西に折れ、堺につながる街道です。このことから吉野への関心からの勧請と云う説があります。

    イカリの神は丹後ににに鎮座していました。、「伊加里姫社」の祭神だそうです。http://www.dai3gen.net/tango.htm
    現在は舞鶴市公文名の笠水神社となっているようです。


    天村雲命と伊加里姫との間に葛木出石姫が誕生しています。この姫の名は日本海から葛城への流れを現す神と思われます。葛木出石姫の出石は但馬の出石でしょう。かの出石神社には天日矛命の将来した八前の神宝が祭られています。神主家は大和から神宝の検収におもむいた長尾市の子孫です。現在も長尾家です。 出石から葛城にやって来た長尾市の子孫が葛城の長尾氏となり、この家の娘が葛木出石姫といえそうです。

  • 丹後風土記残欠の一部である。
    『笠水訓字宇介美都 (笠水をウケミズと読む)一名、真名井、白雲山の北郊にあり(中略)傍に、祠が二つある。東は、伊加里姫命、或いは豊水富神と 称す。西は、笠水神即ち、笠水彦命笠水姫命、の二神。これは、即ち 海部直たちの斎きまつる祖神である』

    笠水彦(倭宿禰の子)と母の伊加里姫と妻の豊水富を祀る神社

    笠水神社は京都府舞鶴市公文名にある笠水神社、伊加里姫社は舞鶴市京田の伊加里姫社と思われる。祭神は笠水神社が倭宿禰の子、笠水彦。伊加里姫社が母、伊加里姫と妻豊水富である。
    また『勘注系図』の注記にみる、丹波道主が倭宿禰の別名である天御蔭命を祭ったとされる彌加宜社(みかげじんじゃ)は、舞鶴市森の彌加宜社である。祭神は倭宿禰のもう一つの別名でもある、志楽別(しらくわけ)である。更に舞鶴市には志楽という地名が残る。
    このことから倭宿禰は京都府舞鶴市あたりと深い関係にある。

    『勘注系図』が、倭宿禰の妻を、白雲別神の娘、豊水富(とよみずほ)命とする
    豊水富を白雲別の娘という伝承は『新撰姓氏録』にもある。
    『神武天皇、吉野に行幸(い)でまして、神瀬(かみのせ)に到りて、人を遣して、水を汲ましめたまひしに、使者還りていはく、「井に光る女あり」といふ。 天皇、召して問ひたまはく、「汝は誰人ぞ」とのたまふ。答へてもうさく、「妾(わらわ)はこれ天より降り来つる白雲別神(しらくもわけのかみ)の女(むす め)なり。名を豊御富(とよみほ)といふ」とまうす。天皇、即ち水光姫(みひかひめ)と名づけたまひき。今の吉野連が祭れる水光神これなり。
    笠水彦命(四世孫) 母豊水富命、亦名井比鹿也
    神渟名川天皇【綏靖】御宇、以天御蔭之鏡爲神寶、以奉仕矣、此命娶笠水女命、亦名與志美別、生笠津彦命矣、(笠訓宇介、)
    御蔭之神事、今俗稱葵神事
    笠水彦命は、母は豊水富命、またの名は井比鹿なり。
    綏靖天皇の時代に、天御蔭之鏡を神宝と為して、もって奉仕する
    この命が、笠水女命(またの名を與志美別)を娶り、笠津彦命を産んだ。(笠はウケとよむ)
    御蔭の神事を、今、俗に葵神事と称す。
  • 『元伊勢籠神社御由緒略記』には、およそ、つぎのように記されている。
    「神代の昔から、今の奥宮の地の真名井原に匏宮(よさのみや)といって、豊受大神[伊勢神宮の外宮(げぐう)の祭神]が鎮座していたが、崇神天皇の時代に、天照大神が、大和の国の笠縫邑から遷座し、豊受大神とともに祭った。天照大神は、与佐の宮に、四年間鎮座し、つぎの垂仁天皇の時代に、伊勢の国の五十鈴川川上に遷宮した。豊受大神は、第21代雄略天皇の22年に、伊勢の国度会(わたらい)郡の山田原に遷った。」

    伊勢神宮の外宮(げくう)の旧鎮座地が、丹後の国を分出する以前の丹波の国であったことは、早くから諸書にみえる。古くは、延暦23年(804)の『止由気太神宮儀式帳(とよけだいじんぐうぎしきちょう)』に、雄略天皇の時代に、天照大神の託宣によって、「丹波国比治乃真奈井爾坐我御饌都神(たんばのくにひじのまないにますのがみけつかみ)[豊受大神のこと]」を、伊勢の山田原に遷宮し、天照大神の朝夕の御饌(みけ)[食事]の神としたとある。鎌倉時代に成立した『神道五部書(しんとうごぶしょ)』以来の伊勢神道は、伊勢外宮の旧地を、丹波の国与佐宮とする。
    また、建武2年(1335)7月日付の「大谷寺衆徒勅願寺訴状」(『成相寺旧記』所引)に、「所謂豊受太神宮之本宮籠宮大明神(いわゆるとようけだいじんぐうのもとみやこのみやだいみょうじん)」とある。
    天照大神が、与謝の宮に鎮座したことについては、神社に蔵されている「籠大明神縁起秘伝(このだいみょうじんえんぎひでん)」(天和年間[1681~1684]写)に、「夫当社籠大明神(それとうしゃこのだいみょうじん)ハ即豊受大神也(すなわちとようけのおおみかみなり)」とし、「人王(にんのう)十代崇神天皇ノ御宇(ぎょう)天照大神幸子与謝宮(よさのみやにいでます)、与謝宮ハ則是籠大明神也(すなわちこれこのだいみょうじんなり)」とある。
  • 元伊勢籠神社の神主家は、元初から、海部直(あまべのあたい)であり、同氏は、大化改新以前は、丹波の国の国造家であった。
    この神社の祭神については、諸説あるが、現在は、天照大神・豊受大神・天水分神(あめのみくまりのかみ)で、海部氏の祖の彦火明(ひこほあかり)の神と氏神の住吉神とをあわせまつっている。
    この神社は、貞観13年(871)から元慶(がんぎょう)元年(877)のあいだに記された日本最古の系図の、「海部氏系図(本系図)」一巻のあることで著名である。「海部氏系図」は、それに付属する江戸時代初期に書写された「海部氏勘注系図」一巻とともに、国宝に指定されている。

    ■海部(あまべ)氏系図と伝世の鏡
    元伊勢籠神社の神主家は、元初から、海部直(あまべのあたい)であり、同氏は、大化改新以前は、丹波の国の国造家であった。
    この神社の祭神については、諸説あるが、現在は、天照大神・豊受大神・天水分神(あめのみくまりのかみ)で、海部氏の祖の彦火明(ひこほあかり)の神と氏神の住吉神とをあわせまつっている。
    この神社は、貞観13年(871)から元慶(がんぎょう)元年(877)のあいだに記された日本最古の系図の、「海部氏系図(本系図)」一巻のあることで著名である。「海部氏系図」は、それに付属する江戸時代初期に書写された「海部氏勘注系図」一巻とともに、国宝に指定されている。

    昭和62年(1987)10月31日に、突如この神社に伝世されている二つの鏡が発表された。(写真参照)

    この二つの鏡は、海部直の神殿の奥深くに神宝として安置されており、82代にわたって伝世されてきたものとされる。

    このうち、息津(おきつ)鏡[直径17.5センチ 内区に「長」「宜」「子」などの文字が読みとれる。]は、後漢から三国時代のものである。辺津(へつ)鏡[直径9.5センチ「日而月内而」「明而光」などの文字が読みとれる。]は前漢時代のものである。
    そして、この神宝の由緒が、国宝の「海部氏勘注系図」に、天祖からこれらの鏡をさずかったと書かれており、また、当主の代がわりごとに、口伝をもって、伝世されたものである。

    息津鏡、辺津鏡は、ともに内行花文鏡である。息津鏡は雲雷文「長宜子孫」銘の内行花文鏡である。 辺津鏡は、内行花文昭明鏡、または内行花文明光鏡で、佐賀県の椛島山(かばしまやま)遺跡出土のものにやや近い。
  • 『日本の神々 神社と聖地7 山陰』(谷川健一編、白水社刊)

    「出石神社(兵庫県出石郡出石町宮内字芝地)」の項に

    「豊岡市・出石町を中心とする北但馬の地域には、新羅の王子天日槍とその一族および従神を祀る古社が分布する。当社はその中核に位置し、式内名神大社、但馬一の宮として古代から崇敬を集めてきた。『延喜式』神名帳の但馬国出石郡二十三座(大社九座・小社十四座)の筆頭に『伊豆志坐(いづしにます)神社八座並名神大』とあり、天日槍が将来したという八種(やくさ)の神宝(かんだから)[『古事記』のいう珠二貫(たまふたつら)・振浪比礼(なみふるひれ)・切浪比礼(なみきるひれ)・振風比礼(かぜふるひれ)・切風比礼(かぜきるひれ)・奥津鏡・辺津鏡。ただし『日本書紀』本文は羽太玉(はふとのたま)一個・足高(あしたか)玉一個・鵜鹿鹿赤石(「うかかのあかし)玉一個・出石小刀(いづしのかたな)一口・出石鉾(いづしのほこ)一枝・日鏡(ひのかがみ)一面・熊野籬(くまのひもろき)の七種とし、一(ある)に云(いわ)くとして葉細珠(はほそのたま)・足高(あしたか)玉・鵜鹿鹿赤石珠・出石刀子・出石槍・日鏡・熊野籬・胆狭浅大刀(いささのたち)の八種とする]を祭神『出石八前(やまえ)大神』とし、天日槍の御霊(みたま)を併せ祀っている。」

    このように、この神社の祭神は、天の日槍と八種の神宝である。
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