三野王、美務王

April 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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美濃王、御野王、三野王、弥努王、美務王 日本書紀に書かれた「みのおう」 天武天皇2年(673年)12月17日に…

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コメント

  • 三野王は、壬申の乱で活躍した美濃王と混同(日本書紀も混同)されることが多いので明確にしておく。天武2年12月、天武4年4月には「小紫美濃王」と天武11年3月に「小紫三野王」と登場するのが美濃王で、その冠位は「小紫」であり、大宝律令の官位で言えば「従三位」の高官である。持統8年に筑紫大宰率に就任した三野王の冠位は「浄広肆」で大宝律令の官位で言えば「従五位下」で、「小紫」より8階級低い。なお、天武10年3月の「帝紀」と「上古諸事」を記録し定める詔を受けた竹田王は持統3年に、廣瀬王は持統6年に「浄広肆」の冠位を授かっている。これからして、竹田王・廣瀬王と一緒に詔を受けた三野王は、持統天皇8年9月に「浄広肆」の冠位を授かり筑紫大宰率に就任した三野王であると言える。
  • 県犬養美千代。
    美努王に嫁して。葛城王や牟漏女王らを生んだ後、藤原不比等
    との間に、光明子(皇后)を生む。

    牟漏女王が、藤原房前の正室となり、生まれたのが袁比良。
    孝謙帝とは従姉妹同士で、光明皇后は叔母にあたる。

    美努王は、敏達天皇の子、難波皇子から始まる。
    難波皇子の母は、春日仲君(和邇氏)の女なので、ここから袁氏
    の血が加わっているといえるが、それでは遠すぎるだろう。

    美努王の父は栗隈王。
    壬申の乱が起きたとき、筑紫太宰。
    近江朝から刺客がさしむけられたが、美努王らが剣を持って
    両側に立ち、暗殺を防いだと書かれている。
    美努王もまた、後に筑紫太宰となる。

    美努(みぬ)が、「みぬま」の省略形であるという説に従えば、
    栗隈王もしくは美努王と、筑紫の有力者水間君との間に、婚姻
    関係があったのかもしれない
  • 室町時代の武家の紋を記した史料として『見聞諸家紋(東山殿御紋帳)」が有名だが、そのなかに 明確に橘姓と記された武家として楠・和田(楠同姓)・丹下・讃岐長尾(南と北)・薬師寺・矢野の諸氏が 記載されている。それぞれの家紋はといえば、
    楠氏・和田氏の菊水 ・丹下氏の総巻 ・讃岐長尾南家の庵に久文字 ・同北家の庵に州浜
    薬師寺氏の橘 ・矢野氏の四つ石

    となっていて、薬師寺氏が「橘」紋を用いている以外、すべて橘とは無縁の家紋を用いている。これからも橘紋が橘氏の 代表紋とはいえないことが知られる。
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