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美濃王、御野王、三野王、弥努王、美務王 日本書紀に書かれた「みのおう」 天武天皇2年(673年)12月17日に…
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美努王に嫁して。葛城王や牟漏女王らを生んだ後、藤原不比等
との間に、光明子(皇后)を生む。
牟漏女王が、藤原房前の正室となり、生まれたのが袁比良。
孝謙帝とは従姉妹同士で、光明皇后は叔母にあたる。
美努王は、敏達天皇の子、難波皇子から始まる。
難波皇子の母は、春日仲君(和邇氏)の女なので、ここから袁氏
の血が加わっているといえるが、それでは遠すぎるだろう。
美努王の父は栗隈王。
壬申の乱が起きたとき、筑紫太宰。
近江朝から刺客がさしむけられたが、美努王らが剣を持って
両側に立ち、暗殺を防いだと書かれている。
美努王もまた、後に筑紫太宰となる。
美努(みぬ)が、「みぬま」の省略形であるという説に従えば、
栗隈王もしくは美努王と、筑紫の有力者水間君との間に、婚姻
関係があったのかもしれない
楠氏・和田氏の菊水 ・丹下氏の総巻 ・讃岐長尾南家の庵に久文字 ・同北家の庵に州浜
薬師寺氏の橘 ・矢野氏の四つ石
となっていて、薬師寺氏が「橘」紋を用いている以外、すべて橘とは無縁の家紋を用いている。これからも橘紋が橘氏の 代表紋とはいえないことが知られる。